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ガジェット ボックス GADGET BOX くそったれめが。

くそったれめが。


 動物園わきに自転車をとめてウォークマンをはずすと、怒り狂ったPANTAのヴォーカルの余韻におおいかぶさるようにして、つくつくう゛ぉーしっ、つくつくう゛ぉーしっ、うぃーつっぁっ、うぃーっつぁ、うぃーっつぁ、ういいいいいぃぃぃぃぃぃとツクツクボーシが確信にみちた声音でわめきまくっていた。情緒もくそもありゃしねえ。が、どうも今年の夏も行っちゃうみたい。勝手に。おれになんのことわりもなく。

 ちくしょうめ。
 煙草に火をつけてせわしなくふかしながら、おれは夜の降りそそぐ街を駅へとむかって歩きだした。
 毎度のことだが、道ゆくカップルの姿が今日はひときわなかむつまじく見える。ちくしょう、どっかで喧嘩でもしてねえかな。
 あいもかわらず酔漢のむれがあふれ出してやがる。駅前交通誘導の爺さんがせわしなく笛を吹き鳴らし、背後から接近しつつあるバスの巨体がふおんと威嚇のクラクションを吠えたてるのだが、とうぜん連中、そんなもんはどこ吹く風で肩を組みつつあっちへふらふら、こっちへふらふら、うおううおうと形にならない言葉をけぶる夜天にむけて逆流させてやがらあ。
 おれは肩をすぼめて小走りに、バスと警笛と酔漢と疲れはてたサラリーマンどものわきをすりぬけて南口に急いだ。約束の時間、もう過ぎてる。階段わきでチラシまきが三組ほど、所在なげにつったっている。終わらない今日にうんざりしてるんだろう。そしておれの今日は、始まってさえいない。
 巨大な旅行鞄をところせましと放り出して一群を形成する若い奴らにまじって、時刻表の前におまえは本を開いて立っていた。
「いやあ悪ィ悪ィ」
 声をかけるとおまえは本から顔をあげ、ぼんやりとおれを見かえす。焦点があってるんだかないんだか。
 いいけどさ。
 いつもなら「元気でしたか」とか「元気ないですね」とか出てくる言葉も今日は途切れたままだ。きのうの今日だからな。まあ当然といえば当然だが、そんな気を使える娘だったかなあ。
 ただしもうひとつの定番のセリフ「おなかすいた」は躊躇なく口をついて出た。ほんっ、とにもう、おまえは。子どもみたいにさ。
 ちくしょう。かわいいなあ。
「あれ、眼鏡してるね」
 道々歩きながらおれはふと気づいて言った。近眼は以前からだが、眼鏡のつるを折って以来しばらくのあいだこの娘はコンタクトを代用していた。このまえ会ったときレンズを片方なくしたと言っていたから、折れたつるを直したのかな。
「うん、買ったの」
 とおまえはいう。ふうん。金がないないないないと嘆きまくってるくせに。
 とんかつ屋にしけこんでガソリンを腹につめこむようにして夢中で喰らいまくった。お茶を口にふくみ、ふうと息をつく。「消化に悪いよ」なんて言われたって、猫まんまばっかり食ってきた身にゃひさしぶりのまともな晩飯なんだ、聞く耳もちゃしねえ。
 あいかわらずあんたはもそもそもそもそ食ってるねえ。ちっとはおいしそうな顔しなさいよ。どうしても小学校の給食の時間、思い出しちまう。さあ遊びにいこうか! てな段になってふと気づくと、なんだかトレーの上の給食半分以上も残したまま泣きそうな顔でもそもそもそもそ口ばっか動いてる奴。
 それにしても、今日はいつもよりちょっとばかり口かずが少ないような気がする。ま、あながち気のせいばかりでもなさそうだ。おれだってさすがに何をくっちゃべればいいのやら、見当もつかんわ。
 そうして煙草を喫い、当てのない散策へと足を踏みだした。
「コーヒーでも飲んでいきましょうか」
 おまえ、そういう。あー、いつもどおりの他人行儀。そりゃあんたはいつもそういう喋りかたなんだけどさ。そしておれはおまえを先導し、すこしでも長い時間をおまえと過ごせるよう駅むこうのデパート裏までいざなうんだ。あー、なんだこの店、茶店だとすっかり思いこんでいたが、パブか。うー、しようがねえなあ。んじゃこの店にすっか。
 と、入ってみるとこりゃ……ほほう。
 半地下のシックな店内にほどよい音量のBGMが流れるちょっとばかし本格的な珈琲屋だな。
 入口にいちばん近いカウンターの端に陣どって、わけのわからないメニューから適当に注文してみる。なに? こういう店、好きだって? 趣味があわんなあ。
 おまえは言葉すくなに店内をみわたし、おもむろにおれの書いた小説に目を落とす。今回の分はけっこう量があるってのに、さっきからずいぶん熱心に読んでるねえ。持って帰ってもらってもぜんぜんかまわないのに。
 ……それとも、これを機にしばらく会わないでおきましょう、てな魂胆か? あり得るよなあ。こっぴどくふられた翌日だってのに、おれぜんぜんふられた気分になってないもん。くそ、そんなセリフ、意地でもいわせねえぞ。
「あ、そうだ」
 とふいにおまえは顔をあげ、
「忘れないうちに」
 と封筒をさしだした。
「いやあ、悪いなあ」
 とおれは平身低頭、中身の枚数を数え、カラッポの財布のなかにおしこんだ。ちくしょうめ、情けなくって涙がちょちょぎれらぁ。
 そしてそのままページをめくる音を横手に、会話の欠落した長い時間をおれはただぼんやりと過ごした。
 左半身におまえの存在を強く感じながら、おれの想いはおれのものだと認識し直す作業をつづけた空白の時間だったかもしれない。
 やがてさしだされた感熱紙の束をうけとりながらおれは、
「なかなかタイムリーな内容だったろうが」
 と挑むようにして告げる。
「あ。そうですね。飛行機もこのまえ落ちたばっかだし」
 がく。
 そっちのほうじゃねえってば。
 と主張すると、
「あ、そうなんですか」
 ときた。あーあーあーあーこの人はもうまったくうっ。
 おまえはちょっと考えるふうな空白をおいて宙を見つめる。
「おれはあきらめやしねえんだ」
 しかたがないので補足する。と、
「あきらめてください」
 ふん、やっぱりそうきたか。でもおまえはこうしておれに会いにきてる。
「いやだ」
「そのほうが楽になりますよ」
 楽になりたいから惚れたんじゃねえよ。
「おれはあんたが好きなんだ」
「ありがとう」
「といわれても困る」
 うーん、そうでしょうねと言っておまえは考えこむ。ぼんやりと。真剣に。
 ほんとに。
 不思議なひとだよなあ。
 愛おしさがこみあげて気が狂いそうだ。
 なぜなんだろう。
 なぜ君はこの単純な感覚が理解できないの?
 おれのこの想い。どこにでも転がってる、石ころみたいにありふれたこの世の中で一番たいせつで楽しくて切ないこの感覚が。
「一生つきあいましょうよ。今のままで。そのほうが長くつづくよ」
「明日のことなんぞ知るもんか」とおれは仏頂面でいう。「おれは、今を貪りくらって生きてるんだ」
「しょうがない人だなあ」
 へん。余計なお世話だい。
 しばしの沈黙をおいて、
「今日、学校の先輩から手紙がきてね」」
 とおまえは話題をかえた。
「先生がなんか言ってるってか?」
 機先を制してつっこんでみる。この娘、ずいぶん長いあいだ勉強をほっぽらかしている。教授は学会の権威、しかも相当きびしい御仁らしいので、事情があるとはいえ顔さえ出せず勉強のほうもなかなか思いどおりに進まないことにけっこう煮つまってもいるようだ。
「なんか言ってるに決まってるのよー、でなきゃこんな手紙くるわけないじゃない。読む?」
 い、いや、読む? ときかれても他人宛の手紙を、そりゃ、ちょっと困る。
 ここで、あ、と思いあたった。
「なるほど、それで元気がなかったってわけだ」
 納得いった。昨夜の会話はたしかにヘヴィではあったけど、それだけじゃないような気がしてたんだ。ふう、ほっとしたぜ。
 なら、遠慮するこたねえやな。
 十五分後には『北の家族』で杯をチン、だった。まあ金をかりたうえに酒代まで肩代わりさせるのも情けねえことこの上ないが――いいじゃねえか余計なお世話だ。酒なくしてなんの人生ぞ、呑んで忘れる憂き世のつらさってね。へん。
「いやあ、ほんとひさしぶりだなあ」
 と杯を傾けるおれにおまえはため息とともに、
「つきあいでないお酒の喜びって、わかります?」
 てなもんだ。毎晩のようにつきあわされてるらしいが、おれにしてみりゃ実にうらやましい話なんだがなあ。いやなら断りゃいいのに。
 ま。あんたはあんたで、いろいろあるんだろうけどよ。
 心地よく酔うた時間は瞬く間に過ぎ去り、時計は零時をまわる。最終電車の発車時刻を前に、改札を背にしておまえはすがるような目をして問いかける。
「朝まで飲みません?」
 ふん。
 どうも実際、おれに劣らずヘヴィな毎日と格闘してやがるようだ。冗談まじりだとはわかってた。おれ自身、精神的な疲労で肉体が警鐘を発している。朝まで? 冗談ポイだろう。死ぬぞ。
 だからおれは、そうして悲鳴まじりの警告をくりかえす肉体と精神のつぶやきを圧殺してうなずいた。
「いいよ」
 焦ったのはおれの肉体よりもむしろおまえのほうだったな。顔色悪いよだのちゃんと寝たほうがいいよだの、ずいぶんと心配してくれるじゃねえか。
「いやだ。朝まで飲む」
 だっておれはおまえを好きだから。そして、たとえふられちまっても、こうしておまえはおれに会いにきて、そして「朝まで飲もうよ」とおれをノックするから。
 腹は決まってんだ。一生かけても、口説きつづけてやる。
 手に手にコンビニの袋。中身は酒とつまみの柿のタネ。のきなみシャッターをおろした観光地めく商店街をぬけ、酔ってじゃれあいわめきあげるセーガクの集団のわきをすりぬけて公園への階段を降りる。灯火の間隔はさほど狭くはなくても、ここはまだ目覚めた領域だ。その証拠に花火と酔漢の群れで去りがたいエネルギーが喧騒を園内にまきちらしてやがる。連中にとっちゃ今宵かぎりの騒乱だろうが、近隣の住民にはさぞ迷惑なこったろうな。夏の風物詩とでもあきらめてくれていりゃ、幸いだ。でなきゃ、世の中のおもしろい部分がまたひとつ、否定されてなくなっちまう。
 濃密に肩を体をよせあい、充たされた無言劇を展開する無数のカップルを横目に、おれたちは宴場を開くに恰好の場所をさがして井の頭池沿辺をそぞろ歩いた。
 おまえのコメント。
「ああいう幸せもいいもんですよ」
 おれの返事。
「……」
 わかってるともさ。
 肩をよせあい、唇を重ねて、腰すりあわせて、そして気だるく甘い倦怠の時をただ互いの肉体の暖かさだけに満たされて過ごすんだ。わかってるともさ。
 だから、おれはあんたとああしたいんだってばさ。
「はやくいいこ、見つけてね」
「やだ」とおれは言下に否定し、あからさまに訂正を加える。「もう見つけてる」
「だからあ」
 ホントにしようがないなあとでも言いたげにおまえは笑う。まったくだ。仕様もねえ。お手軽にひろえる恋におぼれられたら、ずいぶん楽になれるだろうさ。でも、感情を制御するすべなんぞ、おれは知らねえ。知りたくもねえ。
「錯覚ですってば」
「かもな」
「そのうち気がかわるって」
「うん。かもしれねえ」実際そうだ。明日のことなんざ知ったこっちゃねえ。だからおれは言う。「でもおれはおれの気持ちといっしょに、いまここにいる。こいつばっかりは、変えようがねえ」
 まるでどこまでいっても平行線だ。そしてその平行線を楽しんでもいるおれとおまえが、どうやらここにいる。
 左横手に噴水をおいて、酒と肴をまんなかにおれたちはベンチのひとつに腰をおろす。柵をへだててさざ波をたてる池面。正面に樹林。右ななめ前方には寺がある。ぼう、ぼう、ぼう、と食用蛙の声がひびき、ちゃぽんと音をたてて魚が跳ね、列をなした水鳥が正面を横ぎっていく。さほど派手でもロマンチックでもないランドスケープだが(そういう場所ってのはすでにアベックに占拠されちまってんだ)、おれたちにゃお似合いかもしれねえ。
 おれはこの街が好きだ。おまえは東京はきらい、と言うけれど。
 この街でおまえと出会えたから。
 反旗と怒りと違和感を、そしてどうしようもない無力感を抱かされつづけてきて、自分がどれだけちっぽけで取るにたりない存在かを思いしらされてきた。そしてそれでもおれは、おれはおれだと心のなかで叫びつづけてきた。二十九年も生きてきて、おれはいまだに迷いつづけ、そして叫びつづけている。
 人間のこと、世界のこと、おれたちのこと、蒸し暑い夜、見えない月、明日のこと、昨日のこと、遠い思い出、遠い未来、ぽつりぽつりと言葉は尽きず、くりかえし、驚き、そして呆れながらおれたちはただ、時をやりすごす。
 たっ、たっ、たっ、たっ、……午前一時のマラソンマンが、背後を通りすぎていった。
「機械のように精密な走り方だったな……」
「……淡々と走ってたね……」
 べつに珍しい光景でもないかもしれない。健康管理か、体力増強か、減量中のボクサー、それとも単に、走るのが好きなだけ? でもおれたちは小さな疑問を謎に拡大して、深夜の公園を淡々と走り抜けるランナーの素性をあれこれ想像してみる。
 たぶん、奴もおれたちと同じように、形にできない想いを胸に抱えこんで、黙々と走りつづけているのだろう。
 おれはおれでいいんじゃないか。そう思えるようになってきたのは、いったいいつからのことだったろう。気がついたら、おまえがそこにいた。おれの腹の底にふれては退がり、背をむけてはふりかえり、無警戒に笑い、頑なに退き、そこにあることを苦しみながら満喫する、ひとりで生きることのできる無邪気で強くて弱っちょろいおまえが、ただそこにいたんだ。
 そして今もここにいる。
 遠い。近い。めくるめく距離感。そしてそんなことはどうだっていい。抱きたい。キスしたい。いつでもそばにいてほしい。そして、そんなことだってどうでもいいんだ。
 おまえがここにいて、おれもここにいる。いつかおれたちの間に越えようのない時間と距離が横たわるだろうけど。いつかおれたちの心の間に越えようのない壁ができてしまうかもしれないけれど。でも今はともに、ここにいるんだ。
 埒もない会話とふけてゆく夜と、届かない肉体と見えないおまえの領域のすべてが、おれの今だ。
 だから道化は承知で、何度でもくりかえしてやる。
 おれはおまえが好きだ。
 今は届かなくても。おまえの光、おまえの闇、実現にほど遠い夢と想いとくりかえしに倦む生活と、倦怠、喜び、笑い、無責任、やさしさに冷たさに弱さと強さ、打算、誤謬、憤り、無力感、愛と自信と甘えに怯え、正直者の、卑怯者の、甘えん坊の意地っぱりの根性なしの半端者。一所懸命生きていて、すこし疲れてもいるし頼るものに飢えてもいる。だからおれは、話せば答えの返る心をもった自動機械に過ぎないんだろう。おれでなくてもいいんだろう。おまえがかつて惚れた男、抑えた想い、愛した人々、世界、時間、くやしいことにおれにはまるでかかわりのないおまえの生きてきた時間。そしてどうにも見えないおまえの傷と、おまえの希望。なにもかもひっくるめて。
 おれはおまえが好きだ。
 だから今も、そしてまだ訪れないいつかも、おれはここにいるよ。
 おまえの心のなかに棲むもうひとりのおれと、現実のおれとの距離がゼロにむかってどんどんどんどん近づいてほしい。そしておれの心のなかのおまえを、現実のおまえに置きかえてみたい。そこにはたぶん、容赦のない幻滅もまた怠惰に寝ころがってるんだろう。けど、だから、くそ、言葉にならねえ、もっと、もっとだ、もっとおれのそばに来い。おれとおまえの距離がゼロになるまで。おれとおまえの距離がゼロになっても。でなきゃどっかへいっちまえ。おれの手がとどかないどこか遠くへ。それでもたぶん、きっと、おまえはおれの心に棲みつづけるだろう。冗談じゃねえ。けど、それはそれでいい。よかねえが、いい。
 へ。
 なに言ってんだか自分でもわかりゃしねえ。
 でももう決めたんだ。
 明日かわるかもしれないおれが真実であるように、いまのおれのこの想いも今の真実だ。
「錯覚だって」
 おまえが言う。わかってる。錯覚だって、本気にゃかわりねえ。おれの想いこみもいつか打ちのめされるだろう。望むところだ。いつでも来やがれ。受けて立ってやる。
 そのとき、おまえにおれのまきぞえをくらわせたくはないが、でもたぶん、そうなるだろう。おまえを傷つけたくはないが、でもたぶんこうした時間を重ねるごとに、おれたちは傷だらけになっていくだろう。世界がずたずたに切り裂かれていく光景を、いくどとなく眼前につきつけられてしまうだろう。
 それが、おれたちの宝石なんだ。そうだろ?
 だからおれはただ、前へ進みつづけるんだ。愚かしく、何度でもつまずいて血を流しながら、増えていくなにもかもを幾度も捨ててはまたはりかえながら。
 おまえも、そうしているんだよ。たぶん、今まで、ずっと。
 そして明日からも。
 たぶん、ずっと。
 だからおれは、敗けてもいい。敗けてもいいから、勝つために歯を食いしばって何度でも叫ぶ。わめく。もがき、はいずりまわる。
 敗けてたまるか。
 そういうことさ。
 ざまあみやがれ。
「そこに弁天さまのホコラかなんかがあってな」
 とおれは闇のなかを適当に指さす。
「うん」
「アベックが通りがかるとやきもち焼いて、別れさすってんだ」
「だいじょうぶですよ」
 ……なにがだいじょうぶなのか。まったく、わかんねえ女だなあ。
 ふと、リズムがおれたちの口をつぐませた。
 たっ、たっ、たっ、たっ、……
 ……今度は、午前二時のマラソンマンだ。
「……二周目ですね」
「……この公園、一周するとかなり広いぞ……」
「息も乱してなかったね……」
「うん……。淡々と走ってたな。あいかわらず……」
 ……うーん。妙な奴もいるもんだ。三周目に遭遇する恐怖を語りあいながら、おれたちは更けていくけぶった夜空を眺めやる。
 遠いね。
 夜の底のおれたちには。どれだけ走りつづけたって、届きゃしないんだろうね。
 だからたぶん、生きていられるんだ。
 だからたぶん……
 夜明け。言葉少なにタクシー乗り場へとつれだち、開いたドアのむこうにすべりこむおまえにおれは声をかける。
「気をつけてな」
 はい、とおまえはうなずき、
「元気だしてくださいね」
 言いそえる。ふん。
「元気だよ、おれは。いつでも」
「うん。でも元気だしてね」
 おまえは重ねて言い、
「あたしが言うのもなんだけど」
 とつけ加えた。
 ……へん。
 くそったれめが。
 カラ元気でも元気は元気さ。
 そしておれは、おまえといるときはいつでも、元気でいたい。
 だからおれは微笑んでみせ、
「じゃあな」と言って背を向けた。
 遠ざかるエンジンの音を背中だけで追いながら、横断歩道をわたって帰る。明けていく世界にむけて、親しみをこめて毒づきながら。
 くそったれめが。

青木無常


			

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