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ガジェット ボックス GADGET BOX 蜘蛛の地下鉄

蜘蛛の地下鉄


 その日、ぼくはいつもよりおそい時間の地下鉄にのった。いつもならこの時間は混んでいるのだが、その日は土曜日のせいか車内は意外にすいていて、つり革に手をのばしている人の姿も心もちまばらだった。

 ぼくは扉のわきにかばんをおいて、読みかけの文庫本をひらいた。
 車内アナウンスが単調に駅名を告げる。通勤途上のサラリーマンたちが、せまい車内で新聞や実用書をひろげている。だれもが、いつもどおりの仏頂面や眠たげな顔をしていた。いつもとおなじ駅にとまり、いつものる顔ぶれがのってきた。
 新聞やテレビのニュースとは無関係に、なにもかもが順調に、退屈にくりかえされていた。あるいは、ここにいる人びとのうちの何人かは、ささやかな変事をかかえてこの通勤電車にのりこんでいるのかもしれない。上司との対立の予感や決断をせまられつつある重大な経営危機、ひそかに胸に秘めた禁煙の決意、昨日わたしたラブレターの顛末、提出期限のせまったレポートについて。だが、それは些細な、個人的なできごとだ。
 そう、きわめて些細なできごとだった。
 のりかえ駅が近づいてきたので、ぼくは小説をとじて学生服のポケットにおしこみ、かばんを手にとった。そのとき、それがやけに重いような気がしたのをおぼろげにおぼえている。
 扉がひらき、ぼくはおりる──べつになんでもないことだ。が、変事はこのときおきた。
 ほんのささいな、とるに足りないできごとだ。が、考えてみるとどうにも奇妙に思えてならない。
 一本の蜘蛛の糸が、ぼくの鼻のあたまにひっかかったのだ。
 プラットホームに足をおろしながら、ぼくは反射的に鼻の上にくっついた蜘蛛の糸に手をやっていた。得体のしれない感触。たしかに、まとわりつく不快きわまりないものがあるのに、実体などまるでないかのように手応えがない。まるで顔面の皮膚の上に溶けて同化してしまったようだ。ぼくはしばらくのあいだ、鼻の上をつまんだりこすったりしながらもどかしさに悩まされていたが、階段をのぼっているうちにいつのまにか気にならなくなっていた。べつに異様な体験でもない。蜘蛛の糸にひっかかることも、とれたのか消滅してしまったのかよくわからないうちに気にならなくなっていたことも。
 学校についてからも、とくにかわったことはなかった。日常の平和で平凡なくりかえしに熱中していたせいか、朝のささやかな一件はぼくの頭のなかからきれいにぬぐい去られていた。
 帰途、地下鉄をおりる段になって、やっと朝の不可解なできごとを思い出した。
 地下鉄というのは、何人もの人間が同じドアをのりおりしているものだ。たとえ蜘蛛が明け方に扉のところに巣をはったとしても、そんなものがいつまでも残っているはずがない。事実、ぼくの目の前で何人かの人間がその扉をくぐってのりおりするのをぼくはたしかに目にしている。ぼくの身長だって、人並み程度だ。どう考えても、妙だった。
 あれはなんだったのだろう。ぼくの顔の上にふわりとひっかかって、いつのまにか消えていたあれは。蜘蛛の糸ではなかったのだろうか。
 でも、そんなささやかな疑問も、やはり家へ帰る途中ですっかり雲散霧消してしまい、そのまま何週間かは忘却の彼方にしまいこまれたままだった。
 だが、潜在意識の水底からうかんできた気泡が不意にぱちんと弾けでもしたかのように、ある夜、ぼくは奇妙な夢を見た。
 いつものようにぼくは地下鉄にのっている。
 車内は、しとしととふりそそぐ霧雨にぬれそぼっていた。夢中によくある不整合。傘もなくぼくはずぶぬれになっている。そしてどうしてか、ぼくの頬には雨でないものが流れているのだった。泣いているのをひとに気取られないから、雨がふっているのはとてもありがたいことのような気がしていた。
 電車がとまり、ぼくは扉の前に立つ。おりようとすると、目のまえに雨のしずくをいくつもつけた蜘蛛の巣がはってあった。どうしようかと迷っていると、だれかがぼくの背中をぐいとおした。
 よろめきながらたおれこみ、ぼくは蜘蛛の糸にからめとられてしまった。
 上のほうから、糸にふるえが伝わってくる。見あげると、おおきな赤い色の蜘蛛がぼくのほうにむかっておりてくるのが目にはいった。
 虹色の光を放つ巨大な体躯。
 蜘蛛は八本のながい脚を交互に動かしながら、ゆっくりと近づいてきた。
 頭部にならんだいくつもの複眼が、プラットホームの灯火に照り映えて、キラキラと虹色の輝きを放っていた。
 発車を告げるブザーの音が耳にとどく。どこか遠い、別世界からひびいてくる音のような気がした。
 実際、その音は別世界からの音だった。夢という世界とは別の、現実という世界からの耳ざわりな目覚まし時計の音。
 夢の記憶はしばらくのあいだ頭につきまとって離れなかった。妙になまなましく、それでいて妙にぼんやりとしたつかみどころのない記憶。まるで、あの蜘蛛の糸のように。赤い巨大な蜘蛛の姿と、扉からおりる瞬間にひっかかってきた糸の不快な感触だけが、いつまでたっても鮮明だった。ぼくは気持ちのすっきりしないまま、地下鉄ののりおりをくりかえした。
 そして、暗闇の底でじっと息をころして待ちうけていた異変は、まったく唐突に、そして思いもよらなかった形で、貌をあらわしたのである。
 いつもどおりの運航をつづけていた通勤電車のなかに、耳ざわりな急ブレーキの金属音がひびきわたり、地下鉄ははげしい震動とともにおおきくかたむく。それから、ごつんというにぶい衝撃とともに、横だおしに脱線したのだ。
 ぼくは脱線した車輌の、ちょうど下側にあたる扉の前に立っていた。運の悪いことに、電車が横転すると同時に人群れがぼくの上にどっとのしかかり、そのうえ、巨大なスーツケースがおちてきてぼくの頭を直撃した。
 まるで頭全体が一本の血管と化してしまったように、ずきんずきんと苦痛が脈打つ。反射的に手をやると、どくどくと血が流れ出ていた。そして不意に、なんの脈絡もなく、あの夢の中でふっていた雨のことを思い出した。
 だれかが非常開閉ボタンでもおしたのだろう。コンクリートの壁にもたれかかってたおれている列車の扉が不意にひらき、ぼくはつめたい線路の上に手荒く投げ出された。
 びちゃっと、異様な音がした。
 同時に、いっしょに投げ出された数人の乗客がぼくの背中におり重なる。
 やっとの思いではい出したとき、ぼくは水たまりのようなところにいた。
 そして、見つけた。
 ぼくの頭から流出する血よりも、なおも赤く、毒々しく、そしておどろくほど大量の血が、線路にそってつづいているのを。
 線路は奥のほう、列車の進行方向でおおきくカーブしていて、血の河はそのむこうまでつづいているようだった。そして、カーブのむこうがわからかすかに、ずっ、ずっ、と、なにか重いものをひきずるような音がきこえてきた。
 その時ぼくは、もうろうとした視界の薄幕のかなたに、たしかに、それを見た。
 列車のライトに照らし出された壁に映る、巨大な影。鉄の車輪にふみつぶされて半身をずたずたにされた巨大な蜘蛛のシルエットが、地下鉄の奥の、どこか別世界に通じる深い巣穴にむかって、つぶされていない脚を懸命に使ってはいずり去っていく姿を。


 後日、病院で知ったことだが、この脱線事故では死傷者の数が異常に多く、また脱線転覆の原因はまったくわかっていないらしかった。ただ、大量の血液が線路を汚していたそうで、その血の海の量は死傷者の流したものにしてはあまりにも多すぎるのではないかということが、ある週刊誌に怪奇めいて書かれていた。
 蜘蛛のことについては、当然のごとくどこにも言及されてはいなかった。もちろん、ぼくだってそんなたわ言をひとに話すつもりはない。あれは、もうろうとした意識が創造した単なる幻覚だったのだ。そう思うことにしている。
 その後ぼくは順調に回復して退院し、いつもどおりの通学を再開した。そして、地下鉄をおりるときに蜘蛛の巣にひっかかったり、妙な夢を見たりすることなく、いつもどおりの単調な通学をつづけている。
 ただ、どうにも気になってしかたがないことがひとつだけある。
 最近、どうも鼻のあたまがむずがゆい。
 時々、地下鉄にゆられてぼんやりしていると、鼻骨の内側でなにかがもぞもぞと動きまわっているような気がするのだ。そして、幻覚とも妄想ともつかない異様な光景が、目の前に浮かぶ。虹色の小さな蜘蛛がぼくの頭の内部で孵化し、頭蓋骨の裏側でせっせと巣をあみつづけている光景だ。
 だけど、こんなのは単なる幻覚に決まっている。気にするほどのことじゃない。

(了)


			

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