ノックの音がした
ゆっくりと。きっぱりと。三度。
彼女のノックだ。
ぼくはもうろうとした頭をふりながら立ちあがる。うす闇のなかを寝ぼけまなこで移動しながら――かすかな違和感。
扉のノブに手をかける。重い扉。毛足のながいじゅうたん。そう。ここはぼくの部屋じゃない。ホテルの一室。ぼくはここで……。
ひらいた扉のむこうに思考は中断される。
微灯がならぶ無機質な廊下。いくつものドア。彼女の姿はない。ぼくはぼうぜんとそこに立ちつくす。彼女の姿はない。とうぜんだろう。彼女はもう、この世には存在しないのだから。
酔いの底におしこめられていた非現実感がふたたびぼくの頭蓋内部に重く膨張する。
存在しない。彼女はもう。この世のどこにも。
ノックの音。無気力に占拠された重く浅い眠りからぼくをひきずりあげたあのノックの音は、彼女の呼びかけではなかったのか。ただの夢の残滓にすぎなかったのか。
ぼくはなおも、静寂のあふれかえった、だれひとり存在しないうすぐらい廊下に、ぼうぜんとした視線をさまよわせたままながいあいだ、ただたたずんでいた。
やがて、足をひきずりながら扉の前をはなれてせまい無機質な室内へととってかえし、さっきまでつっぷしていたソファ前のサイドテーブル上に乱雑にならぶグラスとボトルに視線を投げる。
酒精はひどくきいたが、すべてを忘れ去るにはあまりにも非力だった。しらじらしい感覚ばかりがにぶく脳裏に増殖し、やりきれなさがもうろうとクローズアップされて眠りのなかにまで侵入し、悪夢となってぼくの思考を占拠していた。
力なく、ぼくはベッドに身を投げだし、蒼白い天井に視線をさまよわせる。
いすわりつづける非現実感。
なぜ彼女は帰ってこなかったのだろう。二年半前、政情不安なエルサレムからは元気に帰ってきたのに。この平和な日本の、それも多少は辺鄙だがなんの変哲もない静かな山あいで。
おさえこんでいた狂おしいかなしみが、また胸の奥底から溶岩のようにあふれかえる。ぼくはひとり、胸を抱えこんでからだをまるめ、かすかにうめきながら夜の底でふるえる。
くりかえしくりかえし、波のようにおとずれてはきりきりと胸をしめつけるこの耐えがたい苦痛。これは幸福なときにひとにおとずれる、切ないまでのあの感覚とおなじ種類のものなのか。この痛みの強さはかつての幸福の量に比例するのか。あれほどしあわせだったことが、ぼくのこの苦痛の伏線にしかすぎなかったということなのか。
かすかにうめくこと。それだけしかできずにぼくは、深夜のホテルの一室でひとり、すがるものもないまま静かに、深く、苦しみつづける。
ハイキングに毛のはえたようなものだったはずだ。ひとりで彼女が出かけたのもいつものことだったし、無事に帰ってこない可能性など毛ほどもうかびはしなかった。
二年半前。そうだ。あのときの不安にくらべれば。
ふたつの宗教の不安定な蜜月がやぶれて暗い明日が垣間みえはじめた世界の聖地を、たよれる相手もなくただひとりでたくましくへめぐっていた彼女が、これほど平和な国でこれほどあっけなく死んでしまう……非現実感。
両肩を抱いてからだをふるわせながら、ぼくはここでなにをしているのだろうと異様な疑問がうかぶ。心不全。まるで意味のない言葉。二十五年間彼女の命を不断にささえつづけてきた器官の、とつぜんの、あっけない反逆と終局。
「かならず帰ってくるから」
エルサレムにたつちょうど一週間前、彼女はぼくにそう約束した。あのころはまだ出会ったばかり、むすばれたばかりでぼくたちはおたがいの心をまさぐりながら、静かに、ゆっくりと、新しい明日を手さぐりはじめたばかりだった。
世界を三分する二大宗教のせめぎあう聖地へのあこがれを彼女が熱っぽく語っていたのは、ぼくたちがつきあいはじめるずっと以前からのことだったし、ちょうどステップアップのための転職をひかえてまとまった時間をとることができる、おそらくは彼女にとっての最後のチャンスだったこともたしかだ。
ぼくはといえば、とうぜんのごとく二週間もの休暇をとることなど不可能と同義語。ぶっそうなテロルの潜在する国に彼女をひとりでやることなど、もちろん反対にはちがいなかったが、それでもとめることができなかったのは、彼女がほんとうにかの地をおとずれることを熱望していたのを狂おしいほどよく知っていたからにほかならない。
それでなくとも、仕事からなかなか解放されることのないぼくをあっさりとおきざりにして彼女はよく、ひとりで山歩きにでかけてもいた。だからぼくがいくらとめてもたいした抑止力にはならなかったのかもしれない。
「かならず帰ってくるから」
そうぼくの胸にささやいた彼女に、ぼくはぶっきらぼうにこたえたものだった。
「いってほしくない。きみがどう約束しようと、どうしようもない事態だってあるじゃないか」
すると彼女は笑いながら、そんなことは日本でふつうに暮らしていても起こり得ることでしょ、と軽くあしらい、そしていったのだ。
「じゃあ、もしむこうで死んじゃったら、幽霊になって帰ってきてあげる」
ベッドサイドの微灯にてらされて、ぼくの顔が一瞬ゆがんだのを見のがさなかったのだろう。彼女はからかうように笑いながらぼくの肩を幾度もたたいた。
怪談話にぼくが極端によわいことを思い出したからだろう。
「わかった。じゃあ、死んで幽霊になっても、あなたの前には姿はあらわさないわ。そのかわり……そうねえ。エルサレムの花を一輪、あなたの部屋にとどけてあげる。それがわたしが帰った証ね。あなたがいつも書きものをしてるあの机の上に、おいておくわ。これなら、化けて出なくてもちゃんと約束どおり帰ってきたってわかるでしょ?」
「生きて帰ってきてくれよ」
しかたなしにぼくはそういって、また彼女の笑いをさそったのだった。
約束ははたされ、彼女は病気にかかることもなく元気に帰ってきた。
それから二年半。波風がなかったわけでもないけれど、おおかたは幸福な日々が奇跡のようにつづいた。
そして――森の奥に隠された泉のように変化にとぼしい、だが静かでやすらぎにみちたながい明日が、このままずっとつづいていくんじゃないだろうか――そんなばかげた錯覚すらがぼくの脳裏にいすわりはじめた矢先の、とつぜんの死のしらせ。
この三年で――否、この五年間ではじめて、ぼくはすべての仕事を投げうって強引に長期休暇をもぎとり、彼女がたおれていたという山間の遊歩道へとおとずれた。
ふりそそぐ夏の陽ざしが地をまだらに染め、四囲には無数の緑と蝉の声がみちあふれた、なんの変哲もないハイキング・コースだった。すれちがうひとびとはだれもがほがらかな微笑をうかべて汗をぬぐいつつ、やけにはっきりとした口調で「こんにちは」と呼びかけてきた。ぼくには無縁の世界だった。
こんなことになるのなら、ぼくも多少むりをしてでも彼女について山を歩いていればよかったかもしれない。そうしていたなら、彼女の変調にもいちはやく気づくこともできただろうし、もしかしたら一命をとりとめることも……。
暑熱とともに平安をそそぎつづける夏の陽光をあびて汗をだらだらと流しながらぼくは、そんな愚にもつかない思考のループをくりかえし反芻していた。
彼女がたおれていた場所まで案内してくれた地元の青年団のおじさんは、所在なげに、ぼくのかたわらにたたずんでいるだけだった。
下うつむき、ぼうぜんとした視線をさまよわせていたぼくの視界に、そのとき、奇妙にあざやかな色がとびこんできたのをおぼえている。
四囲の緑に反逆するようにやけに明るい、浅黄色の群落。
まぼろしのような光景だった。
彼女もまた、あの光景を目にしたのだろうか。それとも、そんなことには気づくまもないまま、ひとり静かに、すみやかに息をひきとっていったのだろうか。
とじ忘れたカーテンのすきまから、しらみはじめた朝の色が無機質な室内になだれこむ。
もうふるえることもせずにぼくは、ただベッドのなかにたおれこんだまま。
目をとじても眠れないことはわかっていたから、だんだんと色彩をとりもどしはじめる窓の外のちいさな世界へ、茫漠とした視線を投げかけていた。
ときおりわずかに身じろぐ以外に、ぼくにできることはなかった。
現実は遠く、ぼくにはもはやどうでもいい別世界のできごとのようにしか思えなかった。だが、やがてそんなぼくにも新しい一日という現実は容赦なくおとずれ、追いたてはじめるだろうこともわかっていた。どれだけ力つきていようとも、その日常に追われて起きあがり、排泄し、たべ、そして喪失の旅を終えていつもの場所へと、この重い肉体をひきずって帰還していかなければならないことも。
それからぼくはけだるい夜明けをむかえ、彼女が目的地とさだめていた山間の湖にたどりついてぼんやりと半日をすごしたあと、喧噪と日常があふれかえった都市へと帰還した。
ひとりの部屋へまっすぐ帰る気にはならず、かといって何もかもを忘れ去るにはまるで力不足とわかっている酒にたよる気にもなれず、すくない荷物を背に負ったままぼくは、駅裏の公園へと足をのばした。
平日の夕暮れどきにもかかわらず、公園はにぎわっていた。家族づれ。アベック。帰宅途中の学生。自転車にのってゆっくりと走りすぎていく女の子たち。よちよちとおぼつかない足どりで若い母親にまつわりつく子どもたち。ベンチによりそう老夫婦。
すべてがひどく非現実的に感じられたまま。ぼくはぼんやりとベンチに腰をおとして、揺れる水面に視線をさまよわせながら無意味な時間をすごし、やがて肩をおとして立ちあがる。
原生林をそのまま残した公園を重い足どりでぬけ、ヒグラシのかなしげな鳴声を背にひとりの部屋へとたどりついた。
しらじらしい西日を扉のむこうにとじこめて、のろのろとした動作で靴をぬぎ、そして立ちつくす。とほうに暮れたから。
これからどうすればいいのだろう。
こたえの見えない疑問がにぶく心裏の奥深くわきあがり、ぼくはぼんやりとただたたずむことしかできずにいた。
そのときふいに、ぼくの背後からノックの音がした。
ききなれた、ノックの音。
ゆっくりと。きっぱりと。三度。
彼女のノックだ。ぼくにはわかる。いつもかわらず、彼女はそうしてぼくに呼びかけてきた。ゆっくりと。きっぱりと。三度。扉をひらけばいつも、彼女のはにかんだような笑顔が「ただいま」と口にしてくれた。いつまでもそれがつづくと思っていた。それがあたりまえのことなのだと。
ぼくは立ちつくし――ながいあいだ、ふりかえることすらできずにいた。
こわかったからじゃない。
ふりかえり、扉をひらき、そこに彼女の笑顔が存在しないことに直面したくなかったからだ。喪失はいちどでも重すぎる。これ以上は、もうぼくには耐えられなかった。
だからぼくはそうして、そこに硬直したままながい時間をやりすごした。
もう一度、ノックの音がくりかえされるのを待っていたのかもしれない。
だけどそれっきり、彼女のノックはもう、二度とひびくことはなかった。
ぼくは歯をくいしばりながらのろのろとふりかえり、あがりがまちに乱雑にほうりだされたままのサンダルにふるえる足をつっこんで、ドアノブのロックをひねり――
そしてゆっくりと扉をひらく。
流したような朱の色は街なみのむこうに消え入りかけ、紫から濃い青へ、そして重い闇色へと急激なコントラストを描きだす。
遠くからかすかにヒグラシの声。
すぐ裏の高架橋を、中央線の列車がゆっくりと、東から西へと減速をかけながら通りすぎていき、自転車のベルの音がどこか遠くのほうでちりちりと鳴いた。
となりの部屋で、電話のベルが四度、そしてとぎれる。留守番電話が作動したのだろう。人がいれば、たいてい二度でベルはとぎれる。
彼女は、となりの住人の顔をよく知っていたらしい。ぼくは、たまに顔をあわせれば目をそらすようにしてあいさつをかわす程度にしかつきあいはなかったが、留守電と人がいるときとのちがいに気づいたのはぼくのほうがはやかった。
ふたたびおとずれた静寂の奥底からもういちど、郷愁をさそうヒグラシの声がぼくの耳へととどけられる。
電車の振動。
一方通行の道を、公園方面にむけて走りぬける自動車の、静かなエンジン音。
汗にぬれた皮膚から、かすかに吹きすぎていった風がひかえめに体温を奪っていく。
ぼくは目を伏せ、ため息をつく。
扉の外には、そう、もちろん――だれもいるはずがない。
ひどい脱力感におそわれながら、ぼくはのろのろとふたたび扉をとじて世界を背後にしめだし、乱雑にちらかったままのひとりの部屋へとふみこんだ。
荷物を力なくほうりだし、書きもの机の前にへたりこむ。
そして気がついた。
机の上にひかえめに投げだされた、あざやかな浅黄色に。
ぼくは目をすがめ――そして、ぼうぜんと目を見はる。
きのうの昼、おじさんに案内されてたどりついたあの場所で目にした浅黄色だった。
木漏れ陽のまだらのなかに、微風にゆられてかすかにふるえるあざやかな浅黄色。
まるで手まねいているように見えた、あの浅黄色。
「あの花はなんですか?」
あのとき、かたわらに所在なげに立つおじさんに、ぼくは気のぬけたような声音でそう問いかけた。べつに花の種類に興味があったわけじゃない。ただ、ふと目についたから何となく問いかけてみただけだった。
「ああ、あれはカガリソウだよ。ここらあたりにしか自生しない花でねえ。市の花にも指定されてるんだ」
重い沈黙がやぶられたことにほっとしたようにおじさんは、ききもしないことまでぺらぺらとくりかえししゃべりはじめた。まるで堰が切れたみたいだな、とよく動くおじさんの口もとをながめながら、ぼくはそんなことをぼんやりと考えていたのをおぼえている。
そのカガリソウが、ぼくの書きもの机の上に、ひっそりと、まるでおき忘れられたかのようにおかれているのだった。
言葉がよみがえる。二年半前の言葉。
花を一輪、あなたの部屋にとどけてあげる。それがわたしが帰った証。あなたがいつも書きものをしてるあの机の上に、おいておくわ。
ぼくはぼうぜんと、机の上に横たわる一輪の花をながめやった。
言葉もなく。
何も考えられないまま、あたりが深い闇につつまれてもののりんかくさえもさだかに区別がつかなくなるまで、そうしてぼくは花をながめつづけていた。
やがて、手さぐりだけでその花を手にとる。
奇妙にたよりない感覚。
かすかな芳香。まぼろしにすぎなかったかもしれない。
もう、闇は重くないような気がした。
それもたんなる気のせいだったのだろう。
だけどぼくはそうして、一輪の花を手にしたまま、声をたてて泣きはじめた。
やさしげな雑音が遠く行き交う闇の底で、そうしてぼくはながいあいだただ、泣きつづけた。
(了)