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ガジェット ボックス GADGET BOX 誤解

誤  解


 ぼくがそのひとを見捨てたのは、そのひとが境界の向こう側にいるひとだったからなんだよ。
 イルミネーションにデコレーションされた泥の塔がいくつもいくつも立ちならぶ街でぼくは、ひとびとの吐き出す汚念を食べながら暮らしている。だからその日もいつものように、よい匂いをまきちらしながら行き交う派手に着飾ったきらびやかなひとたちでごったがえした雑踏のなかで、ぼくは間断なく吐き出される汚念を一心不乱に消費していたのさ。
 リゲルからおとずれた八本腕の旅行者や大気中をゆるやかにただよう羽の生えた一族、滅亡したヴェガから逃げ出してきた皺だらけの隠者たちや踊り狂いながら派手はでしく汚念をふりまく道化師まで、そのときもいつもと同じように街はにぎやかな狂乱であふれ返って、すこし疲れているようだったよ。
 ゆるやかにカーヴしながら断崖に沿ってのびるアーケードは地平線のかすみの向こうまでつづいていたし、極彩色の露店が建ちならぶ広い街路にひとびとは隅々まであふれ返って、いつものように暮れてゆく陽の朱に染められてとてもきれいだった。
 だから最初は、そのひともほかのひとたちと同じように躰の奥底にたまりにたまった汚念を噴き出させながら歩く、ふつうのひとだと思っていたんだ。
 ただ、何がぼくの目をひいたのかだけははっきりしてる。そのひとは、ガラスのように透きとおったボディにつるんとした顔のない頭を乗せた姿をして、一糸まとわぬ裸でゆったりと、ぼくのいるほうに近づいてきたからさ。
 笑いさんざめく喧噪の流れとは明らかに異質の時間を、衣がわりのように身にまとってそのひとは、奇妙にうつろな足どりでやってきたんだよ。
 ぼくはいっしょうけんめい汚念を吸いこみながら、ちらりちらりと横目でそのひとの様子をうかがっていたのさ。なぜって、近づくにつれてそのひとが、ほかのひととは明らかにちがっていることに気づいたから。
 何がちがっていたかって。
 そのひとは、汚念を吐き出していなかったんだよ。
 狂騒にあふれ返ったこの世界で、汚念を吐き出さずにすむひとなんているわけがないと思っていたから、ぼくはとてもびっくりして口をあんぐりとあけ、やらなきゃいけないことも忘れて思わずそのひとをしげしげと見つめてしまったんだ。
 でも、すぐに目をそらして、ふたたびもとどおり汚念をいっしょうけんめい吸いこみつづけるふりをしたよ。
 だってそのひとが、死にかけてることに気づいたから。
 心臓の部分が砕けてひらき、そのあいだから静かに魂のかけらが、もやになってゆらゆらと立ちのぼっていくんだ。ああなったらもうながくはないって、ぼくにはわかっていたからね。
 そのひとは死にかけたひととは思えないほどゆったりとしたおちついた足どりで、気づかないふりして汚念の吸引に精出すぼくの目の前を横ぎっていった。
 そしてぼくの背後にあった噴水池のほとりの、月片石でできた囲いの上に静かに横たわって、そのままきたるべき時を待つ姿勢に入ってしまったんだ。
 正直いって、ぼくはかなり困惑したよ。猟場をすぐにかえるわけにもいかなかったし、かといって死んでいくひとのかたわらで汚念を食べつづけるのもあまりいい気分ではなかったし。
 なにより、そのひとの体内に、あるべき汚念がまったくないというその一点が、ぼくをひどく居心地の悪い思いにさせていたからね。
 美々しく着飾った雑踏をいくひとびとは、静かにそのときを待って横たわるそのひとの存在になど気づきもしないように、あいかわらず笑いさんざめきながら自分たちの時間を消費していたよ。
 なかには横たわるそのひとの姿に気づくひとたちもいたことはいたけど、だれもそのひとに手をさしのべようとはしなかったね。どっちみち、たすけようとしたってできることなんか何もないのはひとめ見ただけでわかるけど、やっぱりだれひとり声をかけさえしない光景は、うらさびしいものがあったのもまちがいないな。
 でも、なぜだれも声をかけようとしないのか、ぼくにはわかっていたんだ。
 そのひとは身体のなかに汚念を抱いかないひとだったから。
 だから、ガラスのように透きとおった姿をしているくせに衣服ひとつまとうことなく街を歩くことができたんだと思う。
 着飾る必要なんて、ないから。
 そしてたぶん――だからそのひとは、胸を砕かれて命を奪われようとしていたんだと思う。
 このたそがれたにぎやかな世界で、そのひとひとりだけが完全に異質で――そう。
 孤高だったから。
 だからぼくもそのひとに声をかけることすらできないまま、ただひたすら一心不乱に汚念を食べつづけるしかなかったし、それで正しかったんだと今でも思っているよ。
 太陽が地平線の向こうに沈んできらびやかな電飾の映える夜がおとずれ、行き交うさまざまなひとびとが垂れ流す汚念もいよいよその勢いを増していき、ぼくはいつのまにかほんとうにそのひとの存在なんか忘れていっしょうけんめいやるべきことを果たしつづけていたんだ。
 気づいたときは、夜明けだったよ。
 ひとの流れもとぎれ、電飾だけが空々しく点滅する街路にひとりぽつんと残されている自分に気づき、そのときようやくぼくは噴水池のわきに横たわるガラスのひとのことを思い出したんだ。
 もちろん、わかっていたことだよ。
 そのひとの命の息吹はもうとっくに、最後の一片まで気化しつくしてしまったことは。
 月片石の上に横たわるのは、もうただのガラスのかたまりに過ぎないんだって。
 魂を喪くした躰だから、そのひとのガラスのからだだってたぶん、ぼくがちょっとふれただけで塵と化して消えてしまったにちがいない。
 でもぼくは最後の弔いもせず、ただ疲れ果てた肉体をひきずって寝るだけの窓へと帰っていったのさ。
 きっと、夜が明けきる前に吹く常世への風に吹き払われて、あのひとのガラスのからだはちりぢりに世界に消えていったと思う。
 それだけのこと。
 それだけのことだから、ぼくは、躰のなかに汚念を抱かぬひとがこの世には存在するのだという驚くべき事実も単なる事実として受け入れ、もしまた出会ったとしてもあの日と同じように関わりあうこともなく、その汚念を受け入れることすらしないまま、ただすれ違っていくだけなんだ。
 そういうわけで、ぼくはいささかくたびれながらもあいかわらず、ひとびとが飽きもせず吐き散らす汚念を貪りながら生活しているんだ。
 あの街ではない、どこか別の場所でね。
 きらびやかに着飾ったさまざまなひとびとはどこにでもいたけど、でもあの日以来、ガラスのからだでゆったりと歩くひとにも、汚念をはかないひとにも出会ったことはないよ。
 出会いたいかときかれれば、応えに困ってしまうけれどもね。

誤解 ― 了

			

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