青 空
『地獄の季節』。ぼくと彼女の共通項。べつにランボオが好きなわけじゃない。フランス語だって再履がふたつに再々履がひとつ。ただ立ち去った夏の空虚さと、居残る暑気の不快とがそんな気分にさせただけ。
ビル街にはさまれた小公園で文庫本をひらいていたとき、ふとあげた視線の先が彼女にからんだのも、ほんの偶然。二年間同じクラスだったからって、おたがいたいして知ってたわけじゃない。会うと挨拶をかわし、時には軽口の二言三言。だから彼女のその微笑は、ぼくには少し意外だった。
あらあ、偶然。なに読んでるの?
いつものよそいきの微笑にぼくは本の背表紙を無愛想にかかげてみせる。驚きの表情を一拍おいて、彼女の微笑の種類がかわる。親しみ。そしてぼくは知る。彼女が仏文を選んだのは、ランボオという危険で深遠な森の内部へ、より深くわけいるため。
和訳ならだれそれのものがいいとかどこそこの書店からなにやら復刻版が出てるとか、そんなことにはまるで興味がわかなかったけど、そう話しているときの、いつもとはちがった彼女の輝きには、興味を抱かないわけにはいかなかった。
だから、彼女が詩とも散文ともつかない彼女の言葉の集積をぼくにさしだした時、ぼくは正直いって単純にうれしかった。文学のことも恋愛のこともよくわからなかったけれど、ぼくは彼女が言葉にこめた想いや感情を読みとるために懸命だった。結末をどうつけたらいいかわからないの、彼女はよく、ぼくにそう呼びかけた。そんなもののつけかたなんてぼくには見当もつかなかったけど、埒もないアイディアを彼女のために幾つも、幾つもしぼり出してもみた。そんな結末は採用されることなく、ただ、ありがとう、一言だけがぼくへの報酬だった。
無数の恋愛模様は、ぼくには本当なのか空想なのかはわからなかった。そうきいてみると、全部フィクションよ、文学少女はよそいきの微笑でそう言った。
そのころには、彼女のちょっとした噂を耳にしていた。どこかの売春組織で働いていたとか、落とすにはどうすればいいとか、だれそれ教授といい仲だとか。どうでもいいことじゃなかったけれど、ぼくはそんなことどうでもいいふりをしていた。水商売をやると、人気が出そうだね。このセリフを口にしてから、後悔した。彼女の微笑に怒りや哀しみを見たのは、ぼくの気のせいだったと思いたい。
ちょっとつきあわない? 夏がゆき、風が震えはじめたころ、彼女はそう言ってぼくを誘った。子どもがいたずらをする時のような微笑みを、彼女は浮かべていた。
授業でもそれ以外でもあまり使われたことのない、構内はずれの校舎の屋上へは、おどろくほど簡単に侵入できた。半年前から、鍵がこわれたままなのよ、彼女はそう言って、役者のように、さえぎるもののない秋空の光景にむけて手を広げてみせた。
子どものころ見た青空を思い出し、胸が痛くなった。東京の空が、ぼくは好きだ。だけどこの空は、それとはちがっていた。わけもなくぼくは哀しくなり、煙草に火をつけて静かにふかす彼女をかたわらに、胸の底に居すわった奇妙な感情をいつまでもかみしめていた。
つきあってみないか? 冗談めかした口調で入れていたさぐりを終え、彼女の瞳を正面きって見つめながらそう言ったとき、ぼくたちはこの広い東京でふたりきりだった。長い春休みは半ばも過ぎてはいなかったし、彼女が郷里にも帰らずにこの街でなにをしているのかはあいかわらずぼくにとっては謎だった。
うれしい、ありがとう、そう言ったときの彼女の微笑。よそいきだったのかそうでなかったのか、ぼくにはわからなかった。だけど彼女がこの新しい状況を楽しんでいたのはわかった。ぼくの言葉を、ぼくの想いを、鳥かごのなかに入れ、眺めやり、つつきまわし、時には軽く慰撫を与えて。ふたりの関係はさまがわりしたけど、壊れたわけじゃなかった。
沈丁花の花が香るころ、情報は構内を風のように流れた。独文のある若い講師が助教授に任命され、同時に教授の娘と婚約したと。若いといってもたいしていい男でもないし、授業も退屈だしで、特に学生に人気があったわけでもない。ぼくもただふうんと鼻をならしただけだった。だから彼女からあの屋上へ呼びだされたときも、そのことと結びつけて考えるなんて、思いもよらなかった。
手すりなんかない建物の突端に危うげにたたずんで、彼女は現れたぼくによそいきの微笑を投げかける。
かすんだ空に均整のとれたラインが挑発的にたたずみ、しばしぼくは言葉も意思も失ってただ、呆然と見つめていた。現実に立ちかえるには、意志の力が必要だった。
あぶないよ、不安にみちたぼくの呼びかけに、彼女はふふ、と楽しそうに鼻をならして笑う。
こんな結末、どう? 笑いながら彼女は言い、両手を広げて危ういバランスをとりながら、屋上のへりを伝って歩きはじめた。
なにが。怒ったぼくの問いかけにも微笑みを崩すことなく、物語の結末、彼女はそう言う。
その時はじめて、ぼくは気づいた。今まで見せられてきた幾つもの、彼女の物語の断片。無数の恋愛遍歴に偽装されて、すべてひとりの男性にささげられていたんだと。
悲劇の主人公みたいで、いいでしょう。そう言う彼女の顔に浮かぶ微笑みが仮面だということを、ぼくは知っていた。いつでもそれを知っているつもりだった。
ありふれてる、つまらない結末だ、まるでできそこないの太宰じゃないか。内心の焦りをおさえてぼくは仏頂面で言葉を投げつけ、立ちどまった彼女にむけてゆっくりと歩を踏みだした。
来ちゃだめよ。
胸の前で両手を組んでそう言った彼女は、もう笑ってはいない。
眼下には、けぶる春の風に桜の花びらが舞い散る光景が見えていた。
結末なら、おれとつけないか? 決死の呼びかけに、能面の無表情が応える。その顔がぼくには、彼女の泣き顔に見えた。
そのまま機械のようにリズムを保ちながら彼女のもとに歩みより、華奢で繊細な肉体をこの手で抱きしめた。抱きしめたまま、屋上のへりからひきずり降ろした。
下から見れば、不埒なカップルが楽しんでいるようにしか見えなかっただろう。
そのあいだ、彼女がどんな表情をしていたか、ぼくは知らない。永遠のように長く重苦しいしばらくが過ぎてから、彼女は静かに、もういいよ、とつぶやくと、力なくぼくの抱擁をおし戻した。
うつむいていた顔が静かにあがり、ありがとう、とつぶやいてぼくの眸を見た時、浮かんでいた彼女の微笑に、ぼくは勝利を確信した。
家まで送るよ、ぼくの言葉に彼女は無言で首を左右にふり、ひとりでいたいの、今は、そうつけ加えた。
これが結末。
彼女は風のように跡形もなく大学を去り、ぼくの前から姿を消して、都市のどこかへ埋もれていった。
残されたぼくはいまだ呆然としたまま、消えない傷口を眺めやりながら暮らしている。
青空 ― 了