ぼくは君だけは許せない
君はそういって爆弾宣言をしめくくった。そのセリフが本気だったのかどうか、いまこの瞬間、ぼくにはわからなくなっている。
君の指は華麗にリフの上をはねまわり、つむぎ出される音は無数の氷の刃。他のすべての音を圧して駆けのぼり、ひるがえり、目眩さえ許さない緊張感を強いながら、空間を狂おしく引き裂き、急降下する。
汗をふりまいてわめき散らしていたヴォーカルも今は、逆光のなかで天をあおいだまま口を閉ざしていた。瞑目しているのだろう。ドラムスは緊張感を添えるために小刻みなリズムでうなりつづけ、そしてぼくは、努めて機械のような正確さを保ちながら、重く君の、指先からの叫びをとらえつづける。
広島。ひどく遠いし、ぼくたちが君を訪ねることももう、おいそれとはできなくなるだろう。なによりも君には、もう自由にギターをつまびく時間さえなくなる。
「疲れてたんだ。うんざりってか、さ。いつまでもやってらんねえよ、つうか、そんな風に思ってたからさ。もう、前から、ずっとよ」
君のそんな言葉、ぼくたちにはとてもよくわかる。バンド組んで当てようなんて、お手軽で見ばえもいい夢だ。そんなガキども、よく見なくたってそこらじゅうにあふれてる。みんな、適当なとこで見切りつけて、そう、落ちついていくんだ。
そして引き際を誤ったうすのろだけが、いつの間にか年齢ばかりがガキでなくなっていることにふと気づいて、呆然としなきゃならないんだ。
だから正直、ぼくは君がうらやましくもあった。父親が倒れて動けなくなって、そりゃそのことは気の毒だしこれから先たいへんだろうってことも想像できるけど、それでも帰る口実と、そして帰れる場所が君のもとに降ってわいたそのことが、奇妙にうらやましくもあった。
ぼくたち、どこへでも行けるけどそれは、どこにも落ち着く場所がないからなんだと、近頃そう思うようになった。口に出して話したり聞いたりしたことはなかったけど、たぶん君も、ぼくらみんなが、そう思いはじめていたんだろう。
疲労が蓄積するには、ちょうどいい頃合いかもしれない。喧嘩やトラブルなんかいつでも絶えなかったけど、ぼくたちは奇跡のようにバランスをとりつづけてきた。
だからこそあの頃は、崩壊の原因が疲労と倦怠だなんて思いもよらずただ夢中になってわめき、暴れつづけていられたんだ。
震える。逆まき、宙を舞う。ナイフのエッジが波うちながら空気を引き裂き、そして大胆に沈みこむ。そう、今だ。
ぼくとドラムスは申し合せたように音を抑え、後ろにしりぞく。勝手知ったるこのタイミングも、今宵かぎりだ。
そのまま――そのまま、まるで不可視の琴線上で綱わたりをつづけるように、低く、静かに、その実背筋を凍らせるほどアクロバティックに、君は弦の上で遊びつづける。
怒号も歓声も硬質に抑圧され、フレーズの切れ目を狙ってかけられる女の子の声は涙にふるえている。べつに、珍しいことなんかじゃないさ。
それでも、そんなかけ声ひとつがいつもと違って聞こえるのは、みんな君のせいじゃないか。
そして君のメロディラインが、鬼気迫る迫力をもってぼくの耳に響くのも。
そうだろう?
そしてぼくは立ちすくむ。ドラムスのスティックも、とっくの昔にふりおろされたまんまだ。
痛いほどの静寂のなか、君は音の向こう側に沈みこんで眉を寄せ、瞼をきつく閉ざして、揺れつづける。
いつまでも。
すすり泣きが聞こえてくる。そこからも、あそこからも。
野太い男のかすれた声が、ふるえながら君の名を呼ぶ。
行かないでくれよ。
言葉がぼくの胸をじわりと押しあげる。
行かないでくれよ。たぶん、感傷だ。ただの情動失禁だ。一ヵ月もすれば、なにほどのことでもなくなるだろう。生活の前に、思い出なんて大した力はもっちゃいない。
そうだろう?
そうだろう?
君は撤退していくんだ。まだ戦いつづけるぼくたちに背を向けて。
二度と戻ってくるな。そうすれば、今夜のこの音は、いつまでも、ぼくたちの内部で戦慄と感動を保ちつづけるだろうから。
君と、そして今夜が、伝説に変わるだろうから。
そんなものの一つくらいないと、やり切れないじゃないか。海のものとも山のものともつかないまま、帰っていかなきゃならない奴らにとって。ぼくたちだって――いつまで戦いつづけていられるか、見当もつかないんだから。
せこい照明の灯りに照らされ、のけぞる君のシルエットが硬直する。音は戦慄を残して氷結し――
合図ひとついらない。ぼくたちは一斉に弾けとんだ。ヴォーカルのシャウトが凶暴に闇をぶち割り、リズムは獰猛に箱を揺るがせ、客席から返る怒号がうねりながら夜を満たしていく。
そして歯止めなしに昇りつづけながら、醒めた目でぼくたちはすべてを見とどける。今夜、これが君との最後のライヴ。でも、君もぼくたちも、今夜で終わりってわけじゃない。
飛びこえ、いやになるほど跳ねまわり、くりかえし、叫び、髪をふり乱し拳を突きあげ、天を仰ぎ地に伏して。
べつにそんなに特別でもないけど、でも、ワンラストナイトだ。もう二度とここにはたどりつけないけど、何度でも新しい場所を切り拓きにくる。ぼくはきっと。
飛び跳ねるヴォーカルがくるりととんぼを切り、着地に失敗してぐらりとよろめく。泣きながら笑う女の子たち。罵声をとばす野郎ども。
興奮の底にちょっとした暖かさを手さぐりながら、フィニッシュを決めた。
ありがとう、とかすれ切った声でヴォーカルが叫び、お定まりのMCを客席に投げつける。それへ、君が苦笑を投げかけるのを、ぼくは確かに見たよ。
ふん。
クールじゃないか。そしてじゅうぶん、楽しんでもいるね。
OK。最後のギグにしちゃ上出来さ。ラストナンバー、バラッドでしめくくろうか。
「いつまでつづけるつもりだ?」
ギグのはじまる前に君は、目をふせてギターを抱えたまま、そうきいた。
ひどい質問だ。答えなどわからないことなど、君自身がいちばんよく知っていたはずだ。だからぼくはフンと鼻を鳴らして中指を立て
「老衰でよぼよぼになって、死ぬ直前まで今のままさ」
と言葉を吐きかけてやった。
君は、バカじゃないのか、といいたげな顔でぼくを見返し、そして笑った。
「じゃ、隠居したらおれも戻る」
ほんとうにそうなれたら素敵だね、とぼくは心の中で思いながら、ドラムスとヴォーカルをまき込んで「お断りだねー」と舌を派手に見せながら跳ねまわってたりしたんだ。
そういうことだよ。
だからこれで最後だけど、クールに、リラックスしていこう。
明日からまた、新しいそれぞれのバラッドを歌いはじめるために、今日をとにかく乗り越えよう。
君の最後のギターがむせび泣き、ひとときの至福をぼくたちみんなが共有した。今夜も、なかなかいい夜だった。
またこんな夜を、ともに過ごせるいつかを夢見ながら、ぼくたちはステージを降りる。
(了)