画題について

                          1999.2.8



画題について考える時は、創作活動の一連の流れの中で、もっとも楽しいひとときだ。
作品の性格を自ら定義づけることは、いわば親権の発動のようなもので、誰にも邪魔だてされない楽しい時間である。そして、一寸変わった画題を思いついたときはことのほか楽しい。

しかし、その名前が見る人の自由な想像力を制約してはいけないと思う。見る人は見る人で、密かに自分の名前を考える楽しさがあっていい。またそう言う懐の深い作品が傑作なのであろう。そしてまた世に言う傑作は、必ず画題を画家と見る人が共有できる作品である。



 絵画作品の中には、純粋ないわゆる抽象的に「作品」とか、具象画の風景が単に「風景」とか、あるいは「静物」など、さまざまな知識や想像力を要求しない画題も多いが、私の場合は、どうしても創作の過程で、純粋な造形行為以外に何かを持ち込むくせがあるらしい。つまりその部分が一寸変わった画題になってくるのだと思う。



「幾つかの解題」

その1、「光の器」


「光の器」という画題は、久しく温めていたテーマである。
視覚による芸術は、全て光により情報を伝達する。絵画芸術は、光を盛る器であり、どんな光を盛るかは作者次第である。芳醇で美味しく、滋養豊富な喜びを盛りたいものである。click

その2、「こわれた仮面」

「こわれた仮面」は、一つの文化が破壊状態にある、その瞬間を表現したかった作品だ。多くの文化の2重構造的な仕組みを、仮面と素顔に例えてみれば、必ず仮面は、その爛熟期にこわれ、素顔があらわれる。しかし、その素顔には、仮面を付けた時の活力はない。click


その3、「豊なる山」

 最近知ったことであるが、豊かな海洋水産資源は、豊かな森林資源によって維持されているということである。また私たちの生活も、山から海辺にかけての豊かな自然によって存在している。
豊なる山は、私の願望だ。このシリーズの第1号は、長女美佐子と設楽雅之君の結婚式の時に作り、詩を添えた。click


豊なる山

そこには、樹木が生い茂り
枝々が重なりあって
地表には、緑の光が満ちている。

春には、色とりどりの花が咲き乱れ
小さな昆虫たちが、群れて働き
秋には、果実がたわわに実る

そこでは、小鳥たちのさえずりが絶えず
獣たちのねぐらもあって
星や月や太陽が似合っている

そんな豊かな山のような
命に溢れている山のような
楽しい家庭を築いてほしい



その4「樹」のシリーズ

◎1本の樹
リルケのオルフェウスに捧げるソネットの初めに一本の樹が歌われている。
大変印象的で私は好きだ。つまりそれは音楽の誕生を樹の生成に例えていて、この暗喩がたまらない。

◎グラナダの樹
アルハンブラ宮殿を旅した時、赤茶けた城壁を背にして、あるいは町の中ここかしこに、黒くそそり立っている針葉樹を見た。その時少し軽い戦慄を覚えて「どこかで見たことのあるな」と言う印象が深かった。じっくり見ているとそれは、黒いガウンを着た修道僧であることが分った。
勿論、木々は濃い緑であるが、スペインの大地の色からすると黒っぽく見えてしまう。飛行機の窓からの眺めも、例えばオリーブ畑も黒い点描に見えてしまう。ガルシア・ロルカ風に言えば、血の滴りとでも言おうか。
しかしこの木々の不思議な印象は、アルハンブラ宮殿の繊細さに中和されて、グラナダの樹と言う作品が出来た。


◎若い樹
                屋久島を歩いて

太鼓の風貌をたたえて、巨木が生い茂る森がある。
木々は、鬱蒼と生い茂って山々を覆い
深い谷間から、雲が沸き上がり
雲は、巫女のように峰々を行き交っている。

数千年を経た針葉樹の森には
倒れ朽ちて行く巨木があり
巨木の上に芽生える若い樹がある。

そこは、海底に似た静寂が満ちていて
生も死もゆっくりとうつろい
うつろいこそが、真実の存在となっている。

幹に羊歯や石楠花を咲かせる巨木の下で
若い樹の真摯な勢いは、シンメトリーで美しい。
その美しさに励まされて
静かな生命の饗宴の時を歩く。




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