ベルン美術館

 ベルン美術館は、駅の近く、街の北ホドラー通りに面してあった。北といっても旧市街地そのものがアーレ川に囲まれた半島のようで、南北約800m、ベルン駅から東へ約1.5qであるから、端という印象は、少ない。美術館の裏手は、アーレ川になっている。

 展示は、常設がパウル・クレーとホドラーとスイス人作家。企画展に古い銅版画とナボコフの展示もあったが時間も限りがあるし、私にはパウル・クレーしか目に入らなかった。聴くところによると、スイス人には、どこと無く悲壮感が漂うフェルディナント・ホドラーの人気が高く、これは日本の横山大観といったところか。通りの名前が「ホドラー通り」になっている。

 クレーの展示は、はじめの数室が家族写真を含めて誕生から少年時代、ガラス絵など青年期の作品とあり、この美術館ならではの懐の深い展示である。

 空間感覚の生来の姿というか、もって生まれた芸術感覚の生成過程が理解でるようで良かった。又後年カンジンスキーやファイニンガーなどの作品もその年代の部屋にあり、全体に年代記風な展示であった。

 はじめの部屋に入った時、日本から来た若い画学生20名くらいのグループがいた。引率の先生の熱心な説明を聞いていたが、気がついた時には、風の如く去っていた。ベルン美術館の鑑賞者は余り多くはないようである。したがって、クレー芸術をゆっくりと読み解くのには、最高の場である。

 クレー展示室の中ほどにさしかかった時、若い女性たちの声が聞こえてきた。どうやら美術鑑賞で学校からきたらしい。見ると女子高校生らしい一団が、「パルナッソスへ」の前を占拠して、トライアングルやタンバリン、単純な打楽器や自分たちの発声で、絶妙な音楽を数分間奏でていた。いや数秒かもしれない。すべてアドリブらしく、体験表現というか創造的な鑑賞方法であることには違いない。なんと言う贅沢だろう。

 はじめにリーダーが作品の説明をして、それぞれの感動を楽器や発声で表現する授業らしい。学芸員らしき女性が、微笑みながら小さな拍手を送っていた。

 その後、カンジンスキーの作品の前に移動、又別のメンバーが音楽を奏でていた。チャーミングな囀る小鳥たちである。私は、行きずりの観客として、心のどこかで、目から鱗の落ちる音を聞いた。

 又この一角では、クレー手作りの人形が待っていた。なんともファンタジックで一人息子フェリックスのために作ったものらしい。それにしても、この胸をつくものは何か?重いものを感じてしまう。

 クレーの作品の多くが日本でも画集や展覧会で既に紹介され、初見のものは少なかったようにおもう。そして、「ルツエルン近くの公園」のように再会が楽しめた作品もあった。これは数日前、ルツエルンを歩いていたためかもしれない。ルツエルンは典雅な街であった。最後の部屋は、最晩年で重く哀しい雰囲気があり、絶筆「静物」もゆっくり鑑賞できた。

 最後の展示室を出る時、果してパウル・クレーは、幸せであったのか。ふとそんな愚問が脳裏をよぎった。幸不幸と言う尺度が当てはまる人でもあるまいと思いながらも―――。

 パウル・クレーは、ものが見えすぎていたのだ。形而下どころか、形而上の事象が見えた男。例えば、アインシュタインもベルンで一時期を過ごした。彼もものが見えすぎてしまった。その結果、どちらも神に近い使命を負って闘い続ける運命にあったのに違いない。天才たちの宿命を感じて、重い美術館の門を押し開いて外に出た。

   ニーゼン山

 パウル・クレーの水彩画「ニーゼン山」(1915年)をはじめて見たのは、みすず書房 美術ライブラリー 26 「クレー」1955年版、(昭和30年)であった。

 その後、多くの画集がこの作品を掲載していて、著名な作品になっている。

 明るく強い色面の積み重ねが、幼年時の積み木体験を思い起こさせる楽しい作品である。

 クレー画集の極めてはやいページで出会うこの作品は、絵画芸術の楽しさが、自分たちの生活と等身大でそこにある、という印象をうけて、多くの人がクレーフアンになってきたことと思う。

 この水彩作品には、なんとも神秘的な試みが施されていて、その効果は、音楽的な抽象性とともに、魔法を見るような楽しさを持っている。

 それは、天端に描かれている月や星々など、風景画の領域を越えた風景画で、この前年の「サン・ジェルマンの庭(チュニス)」のような作品、つまりカイルアン・スタイルと呼べるような色面処理による風景画の作品から、一歩深みに踏み込んだ、まったく別の「性格的な風景作品」である。この頃の水彩画は、旅情を含んだ水彩画から、より緊張感の高い、抽象的な作品になりつつあったようである。この後、クレーは、このスタイルのによる「いわゆる風景画」といえる作品は、余り描いてないようである。

 ここでクレーは、いったい何を表現したかったのだろう。何故この作品で月や星を描きこんだにだろう。その動機を想像逞しくしてみたい。

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 1914年、クレーはミュンヘンにいて、ルイ・モワイエやアウグスト・マッケとチュニジア旅行をしている。クレーは、その旅で「私は色彩画家である」という自覚を持った。そして、その年5ヶ月後の9月、その実り多きチニュジアの旅を共にした親友マッケを戦争で失っている。第一次世界大戦である。クレーはどんな思いでマッケの訃報を聞いたことだろう。

 1915年の作品に「フランツ・マルクの庭、南の風」というのがあるが、他の水彩画に比べて、お世辞にも明るい作品とはいえない。追悼気分の短調な雰囲気である。その避けがたい不幸の可能性は、日に日に増大して、クレーにも忍び寄っている。どんな気分でいたことだろう。そして、そのマルクも1916年ヴェルダンで戦死してしまう。

 ニーゼン山は、おそらく、はじめは三日月や星は無かったのではないかと私は、勝手に想像する。おそらく彼がニーゼン山を描くとき、ミュンヘンで故郷を忍び、楽しかった少年時代を思い出していたのではないか。そしてカイルアンの手法で手前の明るい色彩から描き始め、構想していたニーゼン山を舞台の主役のように描き、おそらく空と雲までを描いたと思う。

 ところがニーゼン山の余りの重さに、クレーは戸惑っていたのではないだろうか。実際、前景の底抜けの明るさに比べて、バリトンのような青で、夜景か冥府の山のようだ。

 前景は、マッケたちと旅をした明るい南の光の記憶に満ちている。いや少年時代か、それは極めてラフなタッチである。そして背景は、クレー少年時代の思い出の山にしては、直線が峻厳でピラミットを思わせる山影である。

 この地上に現れた二重構造のような存在。何という二重構造か。これを調和させるものは何か――― そしてある日、呪文のような三日月や星を描き込んだ。古都ベルンの町のどこかに潜んでいるような三日月と星を、芸術家の家庭に育った発想の自由さで―――。

 おそらく、広がる戦禍の中でマッケを忍び、黒い雲におびえているような星や月を、自分自身の心象をトレースするように描きこんだのではないか、当然の事のように墨色で……。

 星たちは輝いているけれど、光りは空ろである。しかし、この唐突とも見える組み合わせで、結果としてこの意外性と神秘性ゆえに、絵画手法による舞台芸術のように楽しい作品に仕上った。小さいけれども「魔笛」のような作品である。この神秘的な夜空に匹敵するのは、ゴッホの糸杉と星空の作品位ではないかと、私は思う。

 そしてクレーは、どの風景画家よりも、はるかに広大な表現領域を獲得することになる。私は、抽象と具象の間に誕生した、奥深いクレー芸術の最初の開花は、ここらあたりから始まると、今考えている。

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 その後の作品で三日月や星たちの登場するものを拾ってみると、次の作品が容易に思いうかぶ。

     不吉な家の上にのぼった星ぼし(1916年)

     バイエルンのドン・ジョバンニ(1919年)

 特に「バイエルンのドン・ジョバンニ」は、モーツアルトのオペラ「ドン・ジョバンニ」であろう。最後は、地獄の劫火に飲み込まれる、あのドン・ジョバンニの得意満面のポーズを描いている。しかし、画面の上部に月と星を死のシンボルとして描いている。やがて来る不幸な結末の予告である。

 これらの作品を見ると、ニーゼン山上の月と星も不幸や不吉、不運や死などを暗示する記号であると思う。音楽も専門家であったクレーが、いわば見る人を演奏者になぞらえてのクレーらしいアイデアであると思う。実際三日月が変化したようなフェルマータが、まことに上手く使われている楽しい素描作品もある。クレーの作品鑑賞は、見るのではなく、自分の琴線で演奏する行為であるとおもう。そして、同じ月でも、ニーゼン山と同じ年に描かれた「サン・ジェルマンの月の出」の月は、神秘的に象徴化されたり、記号化された月ではない。チュニジュアの大きな楽天的な満月である。

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 クレーの作品の中で主役のように登場する記号では、何と言っても太陽であろう。その中で、私の印象に一番強いのは、「パルナッソスへ」の太陽である。

そして、太陽そのものを擬人化したような「セネシオ」もある。しかし、月と星のマイナーなイメージは、やがてもっと直接的な記号である矢印に変わっていったようである。

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 私が本物のニーゼン山に出会ったのは、ツエルマットへ向かう途上であった。

 ニーゼン山(高さ2362m)は、ベルンの南40数q、もう少し詳しくみると、トゥーン市の南方向シュピーツの西南郊外にあった。偶然バスの中から、予期もせずスケッチをしていた時、突然画帳の上に現れたのだ。バスは、シュピーツの郊外あたりであったらしい。 そしてクレーのピラミット状のニーゼン山は、抽象的であるがかなり写実的であることを知った。

 クレーのニーゼン山を見て気がついたこと、それは、うっかりすると見過ごしてしまう山体を二分する線、山頂から右に下る直線である。これは山頂から北に伸びる稜線で山の右の斜線は、おそらく西に伸びる尾根筋になるだろう。

 もし最もクレーの作品に近い形の山を見るのであれば、構図的には、山の正面をさけて、北寄りから仰ぎ見る形になると思う。

 その後で私は、カンデルシュテークの駅で、周辺の観光パンフレットの中に、ニーゼン山のページを見つけた。そこには、夕日でニーゼン山の山影が、まるでピラミットの影のようにトゥーン湖を横断して、インターラーケンを越え、ブリエンツ湖方面にまで伸びている空中写真であった。いや山頂からの写真かもしれない。

 地上に描かれた壮大なニーゼン山。撮影者もクレーのニーゼン山を知っていたのだろうか。あるいは地元の登山家の間では、誰でも知っている現象なのだろうか。私には、知る由も無かった。

 またクレーの日記を良く見ておけば、彼がシュビーツの対岸にあるオーバーホーフェンには、頻繁に訪れている事も予備知識として、持って行けたろうと思う。その時々に彼は、湖の上に三角錐のニーゼン山をいつも見えていたことと思う。

 

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予期せぬ遭遇で、私は大変豊かな思いで旅を楽しむことができた。もっと事前に勉強して行けば、まだまだ発見があったかもしれない。しかし、これで良かったとも考えている。思慮も浅い若年の時、偶然のようにクレーと出会ったのだから、この出会いも偶然で良かったのであろうと思う。しかし、この旅でクレーへの思いが一層深まったのは事実である。        2000.60.30