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二〇〇一年十二月六日早朝、パリは、まだ暁闇の底にあった。東駅のカフェでコーヒーを飲み、六時五十分発ストラスブール行きの特急列車に乗った。

ストラスブールへの旅。これには目的が二つあった。一つは娘の手はずでストラスブール美術館(版画・デッサン部門)で、十五世紀後半から十六世紀初頭のヨーロッパでは極めて早い時期の木版画コレクションを閲覧すること。今ひとつは、グーテンベルグの銅像に挨拶をすることであった。

ヨーロッパに紙を漉く技術が伝わったのは、十二世紀初頭とされているが、その紙を使って活字による活版印刷術が発明され本が作られたのは、一四五五年グーテンベルグによる旧約聖書が最初であったということである。そして私には、活版印刷と深い縁があった。

少年のころ私は、町内の活版印刷工場に勤めていた。そこで生活費や学資を稼いでいた。当時は、まだ戦後の色濃く、多くの日本人が生活難、就職難に喘いでいた時代であった。インキに汚れた版を洗って、活字を戻す解版から始まり文選や植字、そして印刷といつも指先を真っ黒にしながら先輩について習っていた。

印刷機は、小さな手差しの自動印刷機で、モーターから長い平ベルトがのびていて、ペタペタ音を立てながら回っていた。遊ぶ時間は、まったくと言うほど無かったが、印刷の仕事は、とても楽しかった。毎日が原稿と活字との付き合いで、詩や小説に興味を持つようになるのは自然の成行きだった。また古い手動の印刷機や大小様々な活字には、悠久の存在感があり愛着が持てた。そしてこの経験から、後年グーテンベルグの存在を知り、古い印刷文化や木版画に、ひそかな興味と憧れを持つようになったのだ。だから、機会があれば、彼の縁の地を訪ねたかったのである。

パリから四時間、ストラスブールは、小雨がぱらついていたが雲には切れ目があり、雨も上がりつつあった。駅を出てイル川を渡り、既にノエル(クリスマス)色にあふれている古い街並みを縫うように歩き、カテドラルをめざした。十五世紀前半に完成したカテドラルは、一四二メートルの単塔を持っていて、その前の広場を囲んで、古色蒼然とした石造りの家々や彫り物を施した木組みも見事な古い家が軒を並べていた。

石畳の広場は、マルシェ・ド・ノエル(クリスマス市)の小屋が立ち並び老若男女でごった返していた。どの店もどの路地も緑と赤の装飾で満ち溢れ、着膨れた人たちは、誰も彼も頬を赤くして、声高に談笑しながら歩いていた。昼時で郷土料理のレストランは、どこも満員で賑わい、順番を待って入るようであった。この親密な風景の中で、ふと自分たちが数世紀昔へ、タイムスリップしたような錯覚に陥りそうであった。

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美術館は、カテドラル東側の広場に面してあった。大きな看板があるわけでもなく、よほど注意しながら歩かないと見過ごしてしまうような入り口である。受付で、閲覧予約者であることを告げると、その女性が中庭右手の扉を開け、そこにある狭いエレベーターで三階に行くよう案内してくれた。三階には学校の教室くらいの閲覧室があった。中央に幅の広い頑丈この上ない感じの長テーブルが三箇所、それぞれに椅子が数脚づつあり、一番奥のテーブルが私たちに用意されていた。

テーブルの上には、箱が二つ用意してあった。箱の中には、窓付きの台紙に貼ってある版画作品が、それぞれ三十点近く収納されていた。担当の学芸員は、まだ昼休みから帰っていなくて、別の学芸員が「どうぞご自由に」と言ってくれた。そして「もし興味をお持ちであればデューラーがあります、ほとんどの作品が貸し出し中であるが……」と言うので、ぜひ拝見したいと所望したら、なんと彼の代表作「メランコリア・T」を持ってきてくれた。台紙にも貼ってなくて、シートのまま資料箱の底にあるではないか。

あまりの好意と無造作さに驚いて「いつもガラス越しにしかお目にかかれない」と言ったら、微笑んで頷いていた。他の作品は、現在貸し出し中ということであるが、一体この他に、デューラーのどんな作品を収蔵しているのだろう。手の震えを抑えながら、ゆっくり鑑賞することができた。

やがて担当者のアニー・クレール・ハウスさんが見えて、用意されていた作品群を閲覧した。左の箱に十六世紀頃と思われる銅版画が収納され、宗教的なテーマが多かった。古い木版画の閲覧という事前の申し込みであるが、同時代の銅版画と比較できるように配慮してくれたらしい。そして右手の箱の中にお目当ての古い木版画があった。

アニー・クレール・ハウスさんは、これから十六世紀木版画作品の整理をするところという話である。想像していた通り、作品の手法は木口(こぐち)木版と見受けられた。

 木版画作品の多くが、新聞などの連載小説のカットを切り抜いたものらしく、内容は通俗的な物語の挿絵であった。これらの作品を見ているうちに、このカットの作品群が、一つのルールで組み合わされていることに気がついた。

登場人物や風景画が、それぞれ幅約二センチ、高さ約六センチくらいの短冊形に作られていて、これを物語の内容に合わせて組み合わせ、カットを作る。つまり絵による活字ということになろうか。両脇に風景や建物、中に人物三人という組み合わせが幾つかあり、庭を思わせる樹木のカットもあった。活版印刷術の大きな特徴である活字の互換性を挿絵に応用しているのだ。

これらの古い版画作品は、明るく、何処か鄙びた雅趣があり、主要な登場人物には、名前が彫りこんであるものもあった。風景のカットは、どこことなく南欧風であり、植物もこの寒いアルザス地方の植物とは思えない伸びやかで不思議な形をしていた。どんな経歴の作家が彫ったものだろうか、作風は明るい感じである。大らかな版の作りから、切り出しによる彫りと思われ、古いエンブレムを連想させた。

さて、ここで少し小口木版について説明を加えると、木版画は、大きく木口木版と板目木版に分けられる。一本の木を、水平に切った時そこに現れる年輪、そうバームクーヘンのような切り口を磨いて、そこへ絵を彫り込み版とするのが木口木版。切り口、つまり版の面となるところが強固で、私たちが使う柘植の印鑑がこの作り方になる。木を輪切りにするので、あまり面の広い版材が得られないので小品が多い。しかし緻密な作品ができる。

一方板目木版は、木を縦に割って作った板の面に絵を彫り込み版を作る手法で、板目は彫りやすく、年賀状などで広く利用されている技法である。比較的大きな板が作れるので、多色刷りもできて、北斎や広重、歌麿などの浮世絵作品は、世界に誇る日本の版画芸術である。

十六世紀、ヨーロッパを史上初の出版ブームが席巻していたといわれている。イタリアのフォリーニョでは、ダンテの神曲が本の形で出版され、印刷文化の隆盛とともに、ルネッサンスが花開いていた。そして、このフランスとドイツの狭間の地ストラスブールには、その活版印刷の創始者グーテンベルグがマインツから亡命してきていた時期もあり、印刷産業が栄えていたものと思う。

その頃、この地に新聞のような形の出版物があっても不思議ではない。その中で連載小説が書かれ、それにカットをつける事に、何の不思議があろうか。その時このカットが、どれだけ大きな感動を人々に与えたことだろう。人々は競って印刷物を買い求め、感動し、笑い、涙を流し、思わずそっと十字を切り……。そんなことを空想させる古い木版画群であり、私に大きな発見の喜びを与えてくれた。

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閲覧室の中は、静かな時間が流れていた。部屋の照明は、わずかな天井の照明器具と淡い光を取り込む縦長の窓。窓の下は、カテドラルの前の広場で、マルシェ・ド・ノエルの喧騒が、あたかも十六世紀の賑わいのように聞こえてきていた。

気持ちを込めすぎたのか、少し疲れて閲覧室を見まわすと、この部屋の雰囲気はどこかで体験している、ふとそんな気分になった。このほの暗さは、レンブラントの、例えば「書斎で魔法の円陣を見るファウスト」。それから彼の多くの室内の人物画、もちろん銅版画であるが……。それに、この目の前にあるデューラーの「メランコリア・T」の光である。

この頃の版画作品にみる深みのある光の按配は、決して現代の私たちの光ではない。まさにこの部屋のような暗さの光の中で作られた表現ではなかったのだろうか。

今の私たちが享受している光あふれる生活は、何もかもが見えすぎて、私たちは、本質的、根源的なものが、ほとんど何も見えない状態に陥っているように思われてならない。結局現代人は、自分の中にイメージを形作る機能が脆弱になり、心の視力が萎えて、想像力をも失ってしまっている、ということがいえないだろうか。閲覧室は、私もその寂しい現代人の一人であることを感じさせる空間であった。

 美術館を出てグーテンベルグ広場へは、ほんの数分で着いた。広場では、グーテンベルグを記念して古本市が開かれていた。木曜日が市の立つ日である。

幸運にも雲が切れ、青空の下でグーテンベルグとご対面が出来た。彼は両手で「そして、光があらわれた」という旧約聖書冒頭の言葉を印刷した紙を大きく広げて見せていた。まさに「もう一つの光をあらわす活版印刷術」という、革命的な情報伝達の仕事の始まりを示す誇らしげな姿であった。

ブロンズによるグーテンベルグは、眼孔が深く、修道僧のように見えた。そして足元から仰ぎ見るその風貌に、ふと渡辺啓助先生を思い出した。関東平野の西北端、榛名山麓が利根川に落ち込むところの町、奥様の郷里渋川町(市)に疎開されていた頃の先生、つまり半世紀も前の渡辺先生をである。

町の中央を流れ下る平沢川の辺を散歩する、不思議な雰囲気の人。近寄りがたい雰囲気の人物に、子どもの私は、おそらく遠巻きに歩いていたと思う。終戦直後、私の家族は、一時川下の町に住んでいて、戦中祖母に預けられていた私は、川上に住む祖母の家に、毎日のように、その道を歩いて遊びに行っていたのである。

そして私が、このような文章を書いたりするのも、その町で渡辺先生の主宰されていた「B文学会」に入会し、やがて「B」が「鴉の会」となっても、変わらぬご指導を頂いてきたからである。

遠い太陽を背にしたグーテンベルグ像を見上げつつ、私は、自分の中で一つの環が繋がって、何かが完結したなという不思議な感覚を味わった。それは微かな自覚であるが、安堵感のような、開放感のような不思議な感覚だった。思いもかけないことだった。

少年の日、同じ物が何枚も刷れるという印刷手法の喜びと共に味わった、何枚も刷らねばならないという反復労働の閉塞感。そして今は、版画の世界で感じている刷りの快感と共に、その背後に潜んでいる版という手法の発する、呪縛のような拘束感からも解放されたのだろうか。

思えば五十数年の歳月、私は版の魔力に縛られていたように思えてならない。もしそうだとすれば、そのことによって救われ、そのことによって制約されていた何と長い人生の日々であったか。

気がつけば、ストラスブールの冬空は、たちまち夜の気配を濃くして、ノエルのイルミネーションが街角にあふれ始めていた。                  2002..10


『鴉』掲載(No.18、2002年4月発行)