本部へ
Saluton karaj gesamlingvanoj T.Fukuda 2001.07.05
5月ゴールデンウィークに、沖縄に行った。
30数年前「沖縄を返せ」あのベトナム戦争の最盛期に、ベ平連の集会で皆で大声で歌ったことが懐かしい。昔から、沖縄は日本であることが当然、アメリカから領土を取り返すのが当たり前と、思っていたものだ。
世界遺産に登録された守礼の門を訪れ、首里城を見学していながら、あれ?これは外国だ!文化が違う!!。
琉球は沖縄の昔の名前だろうとしか認識していなかったが、琉球人が長い歴史を築きあげてきた王国だ。
琉球王国は明国との交流で繁栄していたが、1609年薩摩藩が武力で侵攻。
琉球王国は日本の支配下に入った。
その後は、日本の影響下で文化が入り込んで混在文明が進んだ。
明治4年廃藩置県、明治12年明治政府は首里城を占領し、沖縄県庁とした。
第二次世界大戦の沖縄の悲惨な情況は、筆舌にも尽くしがたいが、その時の日本の軍隊が沖縄の人達に与えた残酷な扱い、これは日本軍の沖縄人に対する人種差別が根底にあったのは事実であろう。
北海道の蝦夷におけるアイヌの人達に対する日本人の民族差別と重なる。
先の「日本に沖縄を返せ」は間違いだ、沖縄は琉球王国であって「琉球に沖縄を返せ」がほんとうだったろう。
1650年最初の歴史書「中山世鑑」は日琉同祖論を唱えた。
また、明治には「沖縄学」といわれるものが派生した。
1906年東京大学を卒業した伊波普猷は、沖縄への差別や明治政府の同化政策を批判しつづけた。かれが主張する沖縄学において、日琉球同祖論は、琉球人が日本人に同化したいがためではなく、民族差別を厳しく批判するために敢えて同祖論を唱えたものと思われる。
その後、折り良く朝日新聞に「沖縄独立論くすぶる思い@」が掲載された。
3月、スイスジュネーブ国連の人種差別撤廃委員会は、在日外国人の情況などを説明した外務省幹部に、エクアドルの委員がこう言った。「政府報告は沖縄に触れていないが、ここは琉球王国という独立国だった。日本は差別的措置を強制してきたことを再認識すべきだ」
那覇で整体院を営む宮里護佐丸さんは、5年前東京で沖縄出身者らとともに「沖縄独立研究会」をつくった。
高校を出て東京で運転手として働き、「沖縄人が日本語をしゃべれるわけない」と言った同僚と殴りあった。スイスの友人に守礼門や島々の絵葉書を見せたとき、友人は目を見張った。「日本とは違う」それが転機だった。
独立論は時代の転機に台頭する。日本復帰前には独立を掲げる政党もあった。
「うるま(琉球)ネシア」編集委員の安里英子さんは「考えは様々だけど、独立論が消えないのは文化の違いより、平等でないという思いから。
それが沖縄の抱える問題なんです。」
朝日新聞のコラムでは
『琉球と日本:琉球は日本の一部との考えは古くからある。
近代には沖縄研究の創始者、伊波普猷が、民族的起源は同じとする「日琉同祖論」を唱えた。72年の復帰に向けた沖縄の運動には、米国統治への抵抗とともに、日本への帰属意識もあった。
しかし、言葉が異なる部分も大きく、歴史も違うことから、民族としての独自性を主張する考えは根強い。
戦争体験や基地の重圧からくる日本への疑念も、そうした主張の背景にある。』
さて、この解説は物足りない。
琉球の日本同化は侵略、略奪ではないのか? 朝鮮侵略とどう違うのか?
琉球はもともと日本人であるとして、琉球の日本同化を正当化する言論もあるが、つきつめると、日本民族とはなにか、どこからきたのか、どこまでが日本民族といえるのか、という隘路に当たる。
日本でも東北地方の文化や言葉と、九州地方の文化と言葉を比較すれば、違う人種といってもおかしくないほど、違いが大きい。
沖縄に対する本土人の意識は、せいぜいその程度、実は琉球民族の抹殺的日本同化が歴史的事実だ。
さて、奇妙なことは、さきにあげた朝日新聞の「沖縄独立論くすぶる思い@」は連載にもかかわらず、@のみで連載打ち切りになったことだ。
沖縄独立論はタブーなのか? (おわり)