テーマは「ノアの方舟」
旧約聖書の『創世記』第八章の中にこのような記述がある。
「ノアの方舟が洪水のあと辿り着いたのがアララト山である。」
この“アララト山”がどこにあるかということについては、いろいろな説があるが、最も有力な説とされているのが、このブランデーの故郷であるアルメニアの最高峰アララトだ。
アルメニアのアララト山は“大アララト”“小アララト”の2つの峰から構成されていて、位置するのは、チグリス川とユーフラテス川の両大河の源流となるコーカサス山脈の山中である。この点からも最有力とされている理由となっている。
ノアの方舟には様々な関心が在り、インターネットで検索すると面白い。
まず、旧約聖書に書かれたノアの方舟は。
今からおよそ4400年前、人祖アダムから数えて10代目の子孫に、ノアと言う義人がいた。彼は立派な人だったが、地上の他の人たちは堕落しきっていた。全能の神はそれを嘆いて、地上に大洪水を計画した。それにさきだち神はノアに舟を作らせた。名高いノアの箱舟であり、長さ137m、幅が23m、高さが14mで3階建てであった。いとすぎの木で作り内外にまつやにを塗りこんだ。
舟が完成すると、ノアの家族合計8名と、総ての生き物1つがい、そして総てのきよい動物7つがい、さらに総ての鳥を7つがい、及び食べられるあらゆる食物をとって、箱舟に乗せるよう命じられた。
すべての作業が終わって7日目から、40日40夜、滝のような雨が降り続いた。一番高い山頂から8mの高さまで増水し、陸地は姿を消した。雨が止んでから、150日を過ぎてやっと水は減り始めたが、地上の総ての生物は死に絶えた。それから47日後、偵察に飛んだ鳩が、オリ―ブの若葉をくわえて戻って来て、地上に平和が蘇り、善人達の新しい世界が始まった。・・・紀元前1513年モ―セによる旧約聖書の記述である。
ノアの方舟については、聖書の中に具体的なサイズや形状が記述されている。
インターネットのホームページから引用すると、
「どうやら古代人は角材で船が出来ていたと主張している。その船の内面と外面は樹木の樹脂(原文コフエル=松脂)を塗布(原文はカフアールと言う言語で覆う又は塗り固める意)。そして方舟の内部は隔壁で区切った。おそらく数カ月で樹脂が硬化し琥珀のような堅牢な外壁と内壁によって外界とまったく隔絶されたシェルター構造と見られる。 方舟全体の外形寸法は、長さ300キュビト(約45センチ×=135m) 幅は50キュビト(22.5m)高さは30キュビト(13.5m)と記されてる。今日の船に換算すれば
2〜5万トンのタンカー程度の大きさで長さと幅に高さの比は今日の船舶工学を駆使した近代船舶の比率とまったく同率だ。」
証 ノアの方舟[旧約聖書から] 櫛部忠士 91.10.23記
また、日本のお祭りと無理やり関連付けしている人もいる。
「漂着したその日は、京都の祇園祭りの山鉾巡行の日、7月17日とされています。
つまり山鉾(やまぼこ)と言うのはノアの方舟(ほこぶね)のことだったのです。山鉾の側面に波の絵があるのも大洪水の時の大海原を表わしていたのです。浮かんだ時は大部分が海の中に消えてしまうので、まるで蒲鉾(かまぼこ)板を 2 枚繋(つ)げたような形になっていたと思われます。それでアララト山に漂着した蒲鉾板と言うことで山鉾(やまぼこ)と呼ぶようになったのでしょうか。京都の祇園祭りの山鉾巡行の行なわれる 7月17日は、旧約聖書に書かれたノアの方舟(はこぶね)が現在のトルコ共和国のアララト山に漂着した日です。」
方舟の存在を信じて、アララト山を調査した人もいたようだ。(インターネットのHPより)
「 旧約聖書(「創世記」8章4節)によると、ノアの方舟は「アララト山」の上に留まったとされる。近代における大アララトの初登頂は1829年のことである。40年7月の大地震で山のあちこちで地崩れがおき、山麓の村や修道院が土に埋まった。'49年夏アメリカの探検隊が登山したが、ノアの方舟が漂着したという証拠を見つけることはできなかった。最近、別の探検隊は板を発見したと報告しており、これが方舟の残骸だとしている。」
時代は進み、1916年。第一次世界大戦のさなか、ロシアのパイロットが任務によってアララト山頂を飛行していた。するとアララト山の南側傾斜部分にある湖で、舟とおぼしき巨大な物体を発見した。パイロットはその舟と思しき物体の形に思わず「なんと奇妙な舟だ」と叫んでしまった。その物体は太いマストがあるものの、表面には丸みのある屋根で覆われていて、船隊の長辺に沿って幅約1メートル程の側面通路が走っていた。そしてその大きさはとてつもなく大きく、戦艦にも匹敵するそれであったのだ。
この湖は1年のうち9〜10ヶ月は凍結される。つまり大部分が氷の湖なのだ。腐らず残っていたと理解された。皇帝ニコライ2世はすぐさま特別編成の工兵隊派遣したと言われる。
「ノアの方舟」伝説がいつ頃のものかは定かではない。「天地創造」の記述を筆頭に、エピソードの順番では最初の方である。地球の第4氷河期の終息が始まったのが今から1万2000年前ぐらいとされるが、その頃のエピソードならエピソードとしてにわかに信憑性が高まるものの、逆に1万2000年前から木製の巨大船が残っていたというのは信じ難い。
さて、アララト山の頂上付近にあるとされる巨大木造物、その正体はいったい何なのか、実に興味深い。
なかにはこの物語を、現実論で矛盾を検証している人もいる。(インターネットのHPより)
箱舟の大きさであるが、今日の感覚で見ると、約1万5千トンになる。
現在、確認される最大の木造船は、全長115mで8千5百トンであるから随分昔、素晴らしい建造能力である。ノアはこれを100年近くかかって作ったらしいが、彼は3人の息子とそれぞれの妻達、合計8人で作業したと推定されるので、この年月はうなずける。しかし、いとすぎの木は100年間、風雨にさらされて、その機能を保ち続けることが出来たであろうか。
さて舟はうまく出来たとしよう。総ての生きもの1つがいづつ、舟に乗せるために、どのくらいの時間が必要だろう。北極熊から、南極のペンギン、恐竜・・
理科年表には、脊椎動物だけで41,700種とある。他の生物を加えると、なんと1,017,315種になった。これを仮に1つがいづつとして200万匹を、それぞれ1分で乗船させると、昼夜兼行で4年間かかる勘定だ。
一歩譲ってこの時間は無視しよう。200万匹の生物が乗ったとしよう。箱舟は3階建てで延べ床面積は9,453平方米である。1匹あたりの居住面積は、0.0047平方米(7cm角)。
もし、きよい生きものが半数だとすると3cm角の範囲だ。
さらに生物が1年、船上で生活するとなれば、水、食糧も膨大だ。1ケ月を自分と同じ体積の食糧で生きられるとして、居住空間は13分の1になる。そして生物は繁殖サイクルが1年未満のものもかなりいる。ねずみ算的に船内に・・・
そして排泄物はどうしたであろう。食えば出すというのは、自然の摂理であって、神もこれは否定し得ないであろう。生きものはそれを自分で処理できないから、ノアとその家族がせっせと世話したことだろう。物理的に不可能な時間と量だが・・・・
ノアの洪水の物語は盗作であるという人もいる。(インターネットのHPより)
ノアの大洪水の物語は古代メソポタミアの文学『ギルガメッシュ叙事詩』から取り入れられたものである。1872年、当時大英博物館の遺物修理員であったジョージスミス氏は、古代都市ニネヴェの王宮付属図書館の遺跡から発掘された粘土版のなかに、ノアの物語と酷似した物語があることを発見しました。この発見や、その後発掘されたものから明らかにされたことは、それは、前二千年紀の中頃、メソポタミアで愛好されていた古バビロニアの英雄物語『ギルガメッシュ叙事詩』の一部であったことです。それは、もともとシュメール都市文明のなかで生まれたものが、後に、アッシリア語、バビロニア語、ヒッタイト語、フリル語、などに翻訳されて、多くの古代諸民族に愛好された物語である。発掘されたもの最古のものは前21世紀頃の楔型文字シュメールで残されたものです。実に、旧約聖書が書かれ始めた時代より千年以上も前のことです。この『ギルガメッシュ叙事詩』の「ウトナピシュティム物語」の部分がノアの洪水物語に対応する部分です。舟が山の上で止まり、水が引いたかどうかを見るために、カラスや鳩を放ったこと、その鳩が止まるところが見つからず、戻ってきたこと、などという具体的なモチーフまで、ノアの物語とよく似ているので、この相似が偶然でないことは明らかです。つまり、ノアの物語は盗作だったのです。
ノアの物語の最後に、不可解な話が記されているという(インターネットのHPより)
「方舟から出たノアの息子は、セム、ハム、ヤフェトであった。ハムはカナンの父である。この三人がノアの息子で、全世界の人々は彼らから出て広がったのである。
さて、ノアは農夫となり、ぶどう畑を作った。あるとき、ノアはぶどう酒を飲んで酔い、天幕の中で裸になっていた。カナンの父ハムは、自分の父の裸を見て、外にいた二人の兄弟に告げた。セムとヤフェトは着物を取って自分たちの肩に掛け、後ろ向きに歩いて行き、父の裸を覆った。二人は顔を背けたままで、父の顔を見なかった。ノアは酔いから覚めると、末の息子がしたことを知り、こう言った。
「カナンは呪われよ奴隷の奴隷となり、兄達に仕えよ。」
また言った。
「セムの神、主をたたえよ。カナンはセムの奴隷となれ。
神がヤフェトの土地を広げ(ヤフェト)セムの天幕に住まわせ
カナンはその奴隷となれ。」」
このように前後不覚に寝ている、全裸の父親の隠し所を見たノアの末息子ハム(カナンの父親)は、見ぬふりするのが礼儀なのに、面白がって二人の兄達にそれを告げて、父親ノアに恥をかかせました。
しかし、二人の兄達セムとヤフェトは、それを見ないように「後ろ向きに歩いて行き」「顔を背けたまま」着物で父の裸を親切に覆ったというのです。ノアの不覚の恥かしい姿に対して、3人の息子、セム・ハム・ヤフェトが取った態度を比較した物語があります。
恥ずかしい所を見られたノアは激怒し、末息子ハムの子供カナンを呪います。
「カナンは呪われよ。奴隷の奴隷となり、兄たちに仕えよ。―――」9・25、と。
裸を見ることが、それほど大きな罪なのか、理解しかねます。しかも、本人ではなく、孫のカナンが激しく呪われるというのも、割りに合わぬ、腑に落ちぬ話です。どういうことなのでしょうか。
この解釈として、息子ハムが、父に同性愛的な欲情を燃やしたからだという説もありますが、どうなのでしょうか。旧約には、レビ18・22とレビ20・13で「女と寝るように男と寝てはならない」という男色禁止規定があるにもかかわらず、このような同性愛の記述が所々あります。創世19・9 のソドムの町でのロト家での事件。士師19・22のベニヤミン族のならず者の要求などに、この悪徳が見られますが、そのような男色説をこのノアの物語に当てはめるのは無理があるようです。
こんなことを言ってる人もいます。(インターネットのHPより)
酷いよ、あんまりだ。酷いと思いませんか?だって、ハムは自分の父親が裸になっているのを見て兄弟達に着物を持ってきてもらって父にはおらせてあげたのに、その父によって呪われる身となってしまったのです。
しかもこの父、ぶどう酒を飲んで酔っぱらって天幕の中で寝ていたらしいです。つまりただの酔っ払いです。その酔っ払いが起き上がって自分の裸を見たハムに向かっていきなり、「お前の息子(カナン)は呪われよ」って、そりゃあないよ。というか普通に聞いたらただの酔っ払いの戯れ言にしか聞こえません。でも本当に呪われてしまうんだから、ハムとしてはたまったもんじゃないでしょう。
何故ノアは自分の裸を見たハムの息子を呪ったのか?そんなに裸を見られるのが嫌だったのでしょうか。そんなお年頃だったのでしょうか。しかし、もう少し先まで聖書を読むと、同じ創世記9章28節と29節にこう書いてあります。「ノアは、洪水の後三百五十年生きた。ノアは九百五十歳になって、死んだ。」と。
つまり、単純計算で、950-350=600、というわけで、この事件が起きた時少なくともノアは600歳を越えていたことになります。
・・・オーケーわかった、600歳ね。いいよ、100歩譲って600歳まで生きていたことについては何も突っ込まないさ。けどね。普通に考えたら、600歳になった人って、超シワシワだと思うよ(爆)そんな人の裸なんか見ちゃったら、見られた側よりむしろ見た側が被害者(爆)それなのに、優しい息子ハムは酔っぱらった父が裸で寒かろうと思って着る物を用意した、それなのに、あぁそれなのに。狡猾な兄たちは父の裸を見なかったんです。だから、第一発見者であるハムが呪われてしまった。
でも、やっぱりハムは可哀相です。だって、誰かが父が裸であることを視覚的に確認しなければ、誰も父が裸であることに気付かず、着物を持って行くこともできない。ハムが父を発見しなかったら、酔っぱらった600歳の父はシワシワの身体を寒空の下にさらしながら寝腐っていたことになるんです。それを思えば、何も裸を見られたくらいで呪わなくてもいいんじゃない?だって息子でしょう?ていうか、あなた600歳にもなって裸を見られてキャアハヅカシイもへったくれもないと思うんだけど
さらに過激なことを言う人もいます。(インターネットのHPより)
オケ友N堀氏のコメント〜
カナンがなぜ父ノアに呪われたか。実はカナンは酔っ払った父を見て欲情し犯してしまうのですねー。当然父親は激怒しますね。この場面はごく一部の聖書でしか読めません。なぜこんなことを俺が知ってるかは俺に聞いてください。
洪水がおさまった時に飛ばしたカラスやハトを気にする人もいます。
(インターネットのHPより)
40日の終わりになって、ノアは自分の造った箱船の窓を開けた。そののち一羽の渡りがらすを放ったが、それはずっと外を飛びつづけて、水が地から乾くまで行ったり来たりしてた
ノアの方舟のお話では、ハトがオリーブの枝をくわえて帰る話のほうが有名ですよね。でもノアが箱船から最初に放った鳥はワタリガラスでした。ノアはなぜ最初にワタリガラスを選んだのでしょうか?
ワタリガラスが雑食性で腐肉を含めてなんでも食べて生きていけること、また鳥類の中で飛び抜けて利口で順応性があり、さらに飛翔力も優れていて非常に広い地域を飛び続けることができることが知られています。ノアは大昔にそのことを知っていたのでしょうか。
ノアの方舟から放たれたのは、先ずヘレブという名のカラスでした。このカラスは帰って来ませんでした。その7日後、ノアはイオナという鳩を放ちます。鳩はオリーブの枝をくわえて戻ってきます。これで鳩は一躍ヒーローとなってしまうのですが、カラスはいったいどこへいってしまったのでしょうか?
ハトの行方を心配する人もいます。(インターネットのHPより)
七日後に洪水は起き、40日40夜〔150日と言う 説もある〕の間、地上を吹き荒れた。
最後に方舟はアララト山の上に漂着した。 雨がやむとノアは木々の頂が見え始めた、土地を探すためにノアは鳥を放った。
はじめにカラスを放そうとしたが、カラスは『自分たちはひとつがいしかおらず死ねば全種属が絶滅してしまう、別の鳥にしてくれ』と不平をいった。
しかしノアはそのことを聴かず空に放った。カラスは戻ってこなかった。
次にハトを放った。 ハトは地上にとまる所が見つからず方舟に戻ってきた。
七日後、ノアはふたたびハトを放った。 しばらくしてハトは嘴にオリーブの小枝をくわえ戻ってきた。
その小枝は、聖地オリーブ山からくわえてきたものであるらしい。
それでノアはもう少しで方舟から出られると考えた。もう七日まち、三回目のハトを放った。
ハトは二度と戻ってこなかった。 ノアは扉を開き地上に降り立ち動物達を放した。
アダムの子孫は、彼ら以外のすべてが死んでしまったので、ノアたちが人間の新しい祖先となった。
ここで問題になるのは、方舟から飛びさったハトは何処に行ったのかである。
エイプリルフールの起源がここに?(インターネットのHPより)
エイプリルフールの起源には諸説あるが、「ノアが大洪水後に陸地を探すために方舟からハトを放ったのが4月1日だった」というのが、聖書関係者の間では有力な説らしい。
ハトは陸地に到着できなかったため、ノアにダマされたと言うことになるらしい
また、ハトが平和のシンボルになった訳とは(インターネットのHPより)
国内でも「ハト」といえば、「八幡様とハト」、「平和のシンボル」、「愛と優しさ」等を連想する人は少なくはない。また、各種の競技大会や記念事業の折に伝書鳩を放鳥していることも知られている。
この平和のシンボルは、「ノアの洪水物語」に由来しているといわれている。この物語は、新世界の出発(神意にそむき、平和を失って争いと混乱に充満した世界の清算)が、ノアの方舟から飛びたったハトによってもたらされたオリーブの若葉の発見にはじまる。このハトが平和・正義・秩序の新世界の告知者であるからであろう。戦後、講和条約が締結されたのを記念して、タバコの「ピース」の図柄がハトに変ったり、自衛隊の記章にハトが用いられたりしている。
ノアの方舟伝説はおもしろい、アララト山を見たい!!
ということで、5月の21日、アルメニアに行ってきたわけです。