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NGOごっこ顛末記として、イランマシャドに行ったいきさつをまとめました。(プライベート版です)
本稿は、池袋エスペラントクラブの機関誌にも連載しています。


2月10日〜18日、SPARプロジェクト

2/11 ボルケールウヌ学校                            アフガン難民エスペランティスト30人
2/11 マシャド 結婚式披露宴                       イラン 20人
2/13 アフガン難民が集中した町ゴルシャ訪問
2/14 ボルケールウヌ学校                            アフガン難民 40人
2/14 アフガン難民キャリミ家庭訪問
2/14 ハッジアブドラアンサリ英語学校              アフガン難民 15人
2/14 アフガン難民ムサビ家庭訪問
2/15 ボルケールウヌ学校                アフガン難民各種学校生、幼稚園児童 40人
2/16 テヘラン、イランエスペラントセンター      イランエスペランティスト 30人
2/17 バボルサル市(カスピ海沿岸)マザンダラン大学イランエスペランティスト10人
2/17 バボルサル市 市営映画館       市民 200人
2/18 帰国

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 「イランマシャド訪問記」  NGOごっこ顛末記


注:F氏とは福田本人のことです。

昨年創立されたアフガンエスペラントクラブ(AFESPO)は、現在約50名のメンバーがいる。このプロジェクトを考え実行しているのは、イランエスペラントセンタのTorabi氏とマシャドに住むエスペランティスト27歳のBorhani氏、世界エスペラント協会の“Lingvo de Paco”のプロジェクトとしてスタートした。なぜアフガン難民なのかと問う、現在はアフガニスタンにエスペランティストはいない、以前カブールにいた先駆者であるエスペランティストRasxido博士も、いまは難民としてアフガン国境近くイランの町に住んでいる。いつかアフガンに戻れた時に、いまエスペラントを勉強している人たちにアフガンでエスペラントを育てもらいたい、との希望をもってプロジェクトをスタートさせた。講習会3クラスを経て、アフガンエスペラントクラブを創設した。

さて、昨年の10月にAFESPO設立の情報を日本エスペラント学会の機関誌で知ったF氏は喜んだ。なんせエスペラントを使い、マジックを見せる楽しさを知ってしまった彼は、どっぷりとこの世界にはまってしまい、毎年外国を訪問、昨年はアルメニア、グルジア、そして韓国大会にまで一人で出かけて、うまくもない手品を見せて喝采を強要してきたのだ。

じゅうぶん満足して韓国大会から帰った後に、このニュースを知ってしまったF氏は悩んだ。家族をないがしろにして、自分ひとりだけで海外旅行にでかけ、ボランティアなんていいながら海外旅行を楽しんできているのは、家族も知っていてなかばあきれている始末。それなのに、またイランに行くなんて口が裂けてもいえる状況にない。

でも、実はF氏はマジックをやっている長いあいだに一つの夢があった。それは世界の紛争により発生している難民の人たちに、自分のマジックを見てもらい、つかの間の楽しみを味わってもらえないだろうか。特に難民としての長く深い歴史を持つアフガンの難民の人たちに喜んでもらえないだろうかと、ずーっと思っていたことだ。

そこでF氏は考えた、もう一人で行動するのは限界だ。サラリーマンであるF氏、会社を利用しよう。いままでは、他のNGOなり親善協会を隠れ蓑にしてきたが、某NGOでのボランティア経験のあるF氏、今回は思い切って自分でNGOを作ることにした。

その名前はヤーデム( Japana Amika Asocio de Esperanto Mgio ktp )組織となれば会員がいないとカッコがつかない。で、手当たり次第声をかけ、賛同会員にしてしまう、ただ賛同を得やすいように、会員登録期間は4ヶ月、会費なしで一切の義務もなし、会長をよいしょするだけの軽薄な会である。が、アフガン難民応援(救援でなく支援でもない応援とした)プロジェクトとなると、けっこう関心が高く、最終は43名の人たちが賛同会員として参加してくれた。そして、この間にJEIにもヤーデムを正式に後援するようにお願いした。このNGOをかかげ、会社の広報部や環境部そして人事部と掛け合うと、さすが、NGOの力そして会員数43名の力は大きい。さらに日本エスペラント学会が正式に後援するこということで、鬼に金棒である。会社のISO14000の環境レポートに社会貢献のジャンルがあり、ここでこのNGOのアフガン難民応援プロジェクトを取上げることになった。このため、会社としてボランティア休暇を4日間付与すること決めてくれたのだ。とうとう、堂々とNGOボランティアとしてイランに行く体裁が整った。さてそしてわが家族は、立派な大義名分が成り立ったために、応援団に変身してくれたのである。

さて、メールでイランのマシャド市にいるBorhani氏に連絡、訪問歓迎メールをもらいイランエスペラントセンタのTorabi氏にも連絡する。2月9日出発し、10日間の滞在を連絡しておくが、相手からはどのような状況で受け入れしてくれるのか返事がなく、皆目わからない。相手によりまた、人数により手品の出し物を替える必要もあり、準備に悩む。なるべくたくさんの種目を用意し、さらに外国にはあまり見当たらない知恵の輪も用意した。会員の一人が、おみやげとして折り紙に漢字一文字を筆で書いたかわいいおみやげを準備してくれ、さらにに自作の俳句を毛筆書きした書道ミニチュア屏風もたくさん準備してくれた。

テヘランで一泊して、目的地マシャドに着いたのが2月10日である。マシャドはアフガンの国境に近い町で、イスラム教シーア派の聖地といわれる町である。夕方AFESPOのメンバーが3名会いに来てくれた。みな黒いチャドルを身にまとい、いっしゅん怯む思い。でも、これが普段着。町を歩く女性はほとんど例外なく、黒いチャドルで身を包んでいる。

翌日、三名に連れられ学校に行く。中心部から離れたボルケールウヌ学校といい、アフガン難民用に使われる各種教育施設である。パシュテュン語教室、コーラン教室、パソコン教室、幼稚園、アフガン図書展示室、そしてエスペラント語教室なども行われている。10時を過ぎた頃にぞくぞくと人が集まり始めた。絨毯をひいた広間で、皆は座り込んで見ている。日本の文化などを写真を示しながら、説明を始めたが、やはりどこの国でもおなじ、プライベートな話に1番興味を示す。家族のはなしや、ちいさいマイホーム、自家用車のはなし、日本の食べ物、わが町のお祭り、きれいな日本着物などなど。みな楽しそうに聞いてくれ、写真を手に取って見たがり、身近な話を質問をしてくる。アフガン難民の置かれている状態がまったく分からなかったので、日本の幸せな話など、能天気と揶揄されるのではと心配していたが、彼らは単に未知の新鮮なおもしろい話題として、楽しんでいるのを知り安心する。

その後、いよいよマジックをスタートしたが、ものすごくいい雰囲気、どんなに簡単な小作品でも、声をあげて喜んでくれる。かれらが心の底から喜んで、楽しんでくれているのを見て、ああーよかったこちらこそ幸せと心が熱くなる。かれらはほとんどがエスペラントの初心者なので、Akbariさんがすべて通訳してくれ、エスペラントが実際に役にたっている事実も、はっきり心に刻んだに違いない。こういう形でエスペラントの実際に接することが、エスペラントを続ける大きな動機づけとなるし、夢が広がるとの思いを深くした。終わった後も、皆は立ち去らず、マジックグッズを覗いたり、漢字の質問をしたり、漢字でのサインを頼まれたり、エスペラントで話し掛けてきたり、熱気がさめない雰囲気で楽しさが続く。

遅い昼食を、Borhani氏を含め5人でとったが、その時に彼が「フクダ今晩結婚披露宴があるのでマジックをやってくれ」と突然言い出す。タクシーで一時間、遠い郊外にある彼の叔父の家でマジックを披露する、イランはお酒がご法度なので、披露宴も雰囲気がいまいち上がらない。が、日本人が口髭をつけ赤いジャケットを着てマジックを始めると、物珍しさと突然の出し物に大喜びしてくれ、子ども達もおおはしゃぎである。エスペラントをBorhani氏が通訳、出席している人はおそらくエスペラントは始めて聞く言葉で、いろいろ感銘を受けたに違いない。子ども達には風船を、折り紙のお土産をみなに配り感謝されたが、さらに日本の歌まで披露することに。こうなると、まさに芸人の気分である。いずれ、このような経験もエスペラントが縁であり、ありがたいありがたいと唱えるF氏。

13日にはアフガン難民の町といわれているマシャド市郊外にあるゴルシャに行く。日干し煉瓦で造られた石造りの低い建物が延々と道なりに続く、緑もなく殺風景な町、子供たちが声をあげて遊んでいる。土ぼこりのある原っぱでは、サッカーに興じている。町全体がダーク色、Akbariさんが質問する。フクダ、どんな印象をもった?「活気がなく、暗い、希望がみえず、夢もない厳しい雰囲気だね。」そう、 “Jes ni nur pasas tempon. “「そう、ただただ時間を過ごしているだけよ」。このレンガの家もただではない、1部屋で月当たり20ホメーニー(約25ドル)、収入が少ない人たちは、一部屋に6〜7名が住んでおり、食事も満足に取れない状況もあるという。先もみえない辛い状況で、じっと家で時間を過ごしているのだ、とAkbariさんは言う。

AFESPOの会長をしているKarimiさんの家に行くと、3部屋いわゆる2DK的な家、月当り60ホメーニー(約75ドル)もとられるそうだが、彼女はパソコンを教えたりしながら収入を得て、なんとか生活を維持しているそうだ。9年前に仏像破壊のバーミヤンから逃れてきている。国連(難民高等弁務官事務所)からは、一切の金銭的補助はないとのこと。Akbariさん、イランで生活するのは年々厳しくなってきている、小学校もイラン人と共学であるが、最近はアフガン人の子ども達だけは有料になってしまった。いま、カブールでは家がおよそ7百万円もの驚異的な値段であり、とてもアフガンに帰れない。Torabi氏の説明では、現在国連が難民帰還を推進しており、ひとり当り80ドルと食い物を支給する支援をしているが、帰還を望む難民は少ないそうだ。

母国に戻っても、住めない食えない着れない状況にあり、まだイランに居たほうがましだからであろう。まさに身動きできない状態におかれている。そして、ながびく難民生活で、二世の子ども達が生まれ祖国を知らないで成人になる人も多くいる。彼らは主要アフガン言語のパシュトン語を知らないという。Akbariさんの感覚で言うと、マシャド全体で100万人のアフガン避難民、そしてそのうち半分の50万人がゴルシャに生活しているという。Torabi氏によれば過去にイランには400万人の難民がいたが、最近では約200万人が住んでおり、そのうち60万人がマシャドにいるという。国連も(ホームページ上で)統計的なしっかりした数値を出していないが、相当数のアフガン難民がイランに生活していることがうかがわれる。Akbariさんは、小声で言う、マシャドで生活するのは楽ではない、みえない差別を感じることもあるという。しかし、イランのエスペランティストに聞いてみると、アフガン人たちは気の毒で生活するのも大変だから、イランで生活してもらったほうがいいと考えていると、非常に寛容な反応で、内心この優しさに感心した。国連もイランのアフガン難民に対する寛容さには敬意を示している。歴史的にも、文化的にもイランとアフガンは非常に近い点がある。言葉もほとんどペルシャ語で通じるし、宗教的にもイスラム教のシーア派でもある。まだまだ祖国に帰る日はずーっと先になるであろう。ただ驚くことに、アフガン難民はアフガニスタンへの出入は可能で、いったんアフガンに帰っても、イランに戻ることも許されているという。AFESPOの難民の兄弟や父親などが、いとも簡単にカブールに行ったり、カブールから帰ってきたりを日常茶飯的に話しているのを見ると、理解しづらい面もある。

14日(土)の午前にまたボルケールウヌ学校で、集会を持つ。今回はエスペランティストの家族や、一般の人たちが多く集まってくる。男性の若者達も集まってきたが、印象的には女性のほうがすべてに積極的で、強いと感じる。この会も絨毯の広間で行ったが、本当に楽しんでくれ大満足。終わった後も、遅れて来た人達がたくさんいるので、もう一度マジックを見せてくれと頼まれる。持参した別の出し物をじっくり見てもらう。やはり、最後にはエスペラントで話し掛けてきたり、日本のことについて家族のことについてなど質問をしたり、雰囲気は熱い。漢字に興味があり、日本文字でのサインをたくさん頼まれる。また、割り箸をお土産に配ったが、これも面白いらしくてさかんにつまんだりしていた。会長のKarimiさんの家に招待されて昼食をいただくことになった。アフガン料理をおかあさんが準備していてくれ、とてもおいしい料理、羊や鶏肉中心でパラパラのお米もおいしい。karimiさんが言う、いまAFESPOは大きな問題を抱えている。活動するための部屋が、従来は無料で提供されていたが、最近は有料になってしまい活動が停止している。月当り12ドルであるが、この金が工面できず活動が出来なくなってしまった。たんたんと彼女が語る問題も、日本の金にすれば月1,500円程度。

この夕方に、マシャド市の外れにある学校でマジックを見せてもらいたいとKarimiさんから、突然の申し入れで、あわててマジックの準備をする。その学校は、アフガン人向けハウジアブドラアンサリ英語学校。やせぎすの校長に会い、エスペラント世界共通語云々をほんの挨拶代わりに喋ったとたん、英語でまくしたててきた。エスペラントが共通語なんてとんでもない、英語が世界共通語にきまっている、なんとばかなことをいうのだ。英語でまくし立てる雰囲気に、たぶんこんなことを言っているにちがいないと身体で聞いた。こちらも、こんなことで議論するつもりはなかったが、まけじとエスペラントでがなりあって、彼の意見には同調しないことを身体で表現したが。どなりあったあとに、仲良く写真におさまり、マジックを始めた。校長や学生達は、変な日本人がマジックをすることにビックリしたり喜んだりで、最後は固い握手でお別れ。これはこれで、面白い経験だった。

15日(日)の午後1時半に飛行機でテヘランに立つ予定であったが、午前中に再度ボルケールウヌでマジックをやって欲しいとの要望があった。今回は、幼稚園の園児達が1番前で目を輝かせて見入る。他にパシュトン語教室、コーラン教室の学生達も周りを囲み、ものすごく賑やかな雰囲気になった。楽しい事に飢えているように、出し物すべてに大賑わい。マジックは世界共通語なんだと実感した。

夕方、テヘランのイランエスペラントセンタを訪問、とうとうTorabi氏に会えた。やさしい風貌とおだやかなエスペラント、奥さんもエスペランティストで、さっそく初心者クラスの講習会に出て、自己紹介やらマシャドでの活動について説明する。翌日16日の夕方には、エスペラントセンタの会員やら家族達が詰め掛けて、マジックと日本の紹介などをやる。この際、おみやげとして持参したミニチュア書道屏風を配り、日本の俳句と書道についてじっくり説明する。

テヘランはアルボルズ山脈のふもとに位置し、街からは雪をいただいた真っ白な山脈が直ぐ近くに見える。イラン最大の山、イランの人達が誇るダマヴァンド山5,670mがある。この山脈を越えるとカスピ海に出会う。

17日(火)早朝、車でテヘランを出発、途中は雪がちらつく寒い天候のなか、約5時間かけてバポルサル市に到着、カスピ海に面したリゾート地である。エスペランティスト2名が迎えに来て、マザンダラン大学に向かう。経済学博士Karimi氏が主宰する女性学習センタの事務所に行き、挨拶をする。彼女は、この町のエスペラント会の代表でもあり、今回はイランエスペラントセンタから連絡を受け、この町での活動スケジュール等を計画してくれた人である。

その席上、彼女は予定されているスケジュールを説明、市長と相談して市営の映画館をマジックショーのため提供してもらうことになっている。そこで夜の6時から2時間マジックショーをやってくれてとビックリするような申し入れである。通常はマジックはせいぜい30分くらい、それ以上長引くと、いくら面白くても観客は飽きてしまう。その後日本の文化等を説明したりしても、せいぜい1時間が限度。どのように出し物を増やすか考えて、あせる。必死になって準備、その場で新ネタも作ってあわててバポルサル市エスペラント会に車で行く。すでに会員達が集まって、いまや遅しと待っている。大急ぎで自己紹介やら、マシャドとテヘランでの活動の報告やら、エスペラントで説明する。みなはエスペラントの理解は良いようだ。して、おみやげとして漢字折り紙を皆に配る。本当に短い時間しか取れなかったが、皆が歓迎してくれていることは非常に良く分かり、うれしい気分であった。

開演時間の6時が迫っているので、あわてて映画館に行く。他の音楽演奏が始まっていて、映画館のなかは非常に広い。座席数も400くらいある。時間は突然7時に変更、ロビーに行ってみるとどんどん若い人達が入ってくる。皆はボクのマッジクショー目当て。緊張するより、あせる。まして、入り口で入場料を取っているのを見て、やめてくれーと言いたくなる。ロビーが一杯になってしまう、覚悟を決めて皆の中に入っていきアッサラ-ムと挨拶しながら愛嬌を振りまく。赤いマジックベストを着ているもんだから目立つこと。7時開始には、400ある座席の半分は埋まっている、若者達が圧倒的に多い。エスペランティストは前列を占める。カーテンを閉めて、オープンショーをしようかというので、大慌てやらないやらない、客席の照明も落とさないで明るくしておくようにお願いする。スタートでは、まず日本から来たエスペランティストであり、マジックは単に趣味でやっているだけだよと、観客に過剰な期待をもたないように牽制する。気分がそうとう軽くなってきた状態でマジックをスタートしたが、白いハンカチが一枚出現するだけで拍手、手ごたえが良い。観客の反応がとても良い事がわかり、さらに気分が軽く楽しくなってきた。結局約40分マジックをやり、その後エスペラントで自己紹介やら日本のことやらエスペラントそのものの楽しさについてなど大声で話す。それをKarimiさんが横でペルシャ語に通訳する。マジックが終わった段階で、多くの人達が席を立って帰り始めてしまうだろうと思っていたが、エスペラントの話を興味深く聞いてくれ、写真を見せたりすると拍手が沸く。おそらく、めったに日本人など来ない小さな町に、エスペラントを話し、マジックを奇妙な衣装で見せる東洋人なので、珍しい動物でも見る感じだろう。終わった後も、若者がステージに集まってきて、日本語の漢字のサインをせがんでくるし、マジックグッスをみたがり、また質問をしてきたり、熱い雰囲気につつまれた。疲れたけれど、なんとも心地よい気分である。映画館の前で、マジックを見た若者達数人と一緒に記念撮影をする。彼らも面白かったらしく別れ際に握手をかわす。

Karimiさんの家に戻り、遅い夕食、広間で紅茶、ほっとする。彼女に、エスペラント関係で贈られた人形や装飾品などを見せてもらい、彼女のエスペラントに係わる長い深い歴史を感じた。

翌日は、早朝のカスピ海散策後、テヘランに向け車で出発。最高に素晴らしい天気になり、雪を頂いた山は特別きれい、快適にドライブ。約5時間後に、この案内をしてくれた最近初心者クラスでエスペラントを始めたGicxiさんの家に到着。彼女は、若い頃には全イランの乗馬大会でチャンピオンになり時のパーレビー国王からメダルを戴いた晴れやかな経歴を持つ人。エスペラントを勉強しようとする姿勢は、圧倒的にすごい。バポルサルに往復の車中で、エスペラントの質問ぜめ、分厚い辞書を手にこの旅行のレポートまで書きながら、車中授業である。イランエスペラントセンタに戻り、Torabi氏に報告とともに、今回のプロジェクトの謝辞を述べ、当NGOヤーデムがAFESPOを応援していきたいと、正式に表明した。そして、現在かかえているAFESPOの経済的問題をすこしでも応援したいと、NGOヤーデムとして100ドル+21,000トマム(トータル約245ドル)を支援金として提供したいと申し入れた。(245ドルのうちすでに120ドルは、マシャドでAFESPO会長のKarimi氏に手渡したことを報告した。この支援金で今年一杯の教室の使用料が賄える)このうち約125ドルでエスペラントテキストが40冊購入できると、Torabi氏は感謝の意を述べられた。

記念の写真を一緒にとり、イランエスペラントセンタとお別れ。

夕刻8時にイランを去る、感無量。 


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