ヤーデム 「言語としての手話とエスペラント」

 

言語は、人を抑圧する力があります。

そして、言語としての手話もエスペラントも、同じ抑圧の危険性を孕んでいると思います。
以下は手話とエスペラントの言語としての抑圧性と危険性について、私の思いを手紙形式で綴ったものです。                                                                             



突然の手紙で失礼します。

わたしは以前、「手話言語法(仮称)フォーラムin埼玉(2012.2.19大宮)」で発言した、世界共通語エスペラントを趣味としているものです。

少し私の発言の背景をお話ししておきたいと思い、手紙をさしあげました。

わたしは、3年前までは、機械系エンジニアとし一般企業に40年間勤務していました。
昭和20年9月生まれ、現在66歳になります。

NGOヤーデム日本エスペラントマジックktp友好協会( Japana Amika Asocio de Esperanto Magio )を主宰し、世界各国をエスペラントとマジックで、友好親善活動をすすめています。

約20年前に、世界共通語に興味を持ち、エスペラントを学び始めました。

興味をもった理由は単純です、英語が出来なかったからです。(私は語学で有名だった上智大学を卒業してるので、英語ができないことが恥ずかしいと思っていたのです)

エスペラントを学び始めて、言語の面白さと怖さに気が付きました。

面白さの一つが、言語で他人よりも優越感をもてること、また劣等感を持たせることができるということです。そして怖さとは、単に言語そのもので、人格や人間性を超えることが出来ることだと思います。(これは一般論ではありません、わたしの場合です)

エスペラントは、どの民族にも属さない中立・公平な言語ということで、人工的に工夫されて作られました。(ヨーロッパ語を基礎として、アルファベット文字を使うので、アジア圏やイスラム圏に対しては中立・公平ではないという問題を孕んでいます)今、一番の弱点はエスペラントを話す人口が、日本で約1万人、世界で約100万人ということです。

エスペラントは「平和と友好の言葉、そして母語を尊重してあくまでも補助言語」という、しっかりしたテーゼを主張しています。

この理想を実現すべく、エスペラントを国連の公用語として認めさせる運動をしている人もいますが、なにせ、60億人対100万人では勝負になりません。いわば、シカトされているのが実情でしょう。

世界では結局、残念ながら誰も世界共通語エスペラントを必要としていない、という事です。

手話については、まったく無知そして無関心だったわたしは、手話は聴覚障害者向けの通信手段だと思っていました。いわば手旗信号のたぐいと思っていたのです。

2年前に「手話は言語」だという話を聞き、とても興味がわきました。

それは、手話は障害福祉のためというより、日本語と同じ言語であると主張している人がいることを知ったからです。

しかし、手話の講習会に参加して、手話表現やろう文化などいろいろ学んで分かったことは、手話はエスペラントのように、趣味として学ぶ言語ではないということです。

それは、エスペラントのように、趣味で学ぶほど言語としての魅力やメリットがないからです。(これは私の場合を言ってます)
わたしの感想では、手話を魅力やメリットがあると思っている人は、非常に限定されているのではないかと考えています。

そして、その魅力やメリットを享受できるのは、日本語対応手話話者を除く、約10万人と想定される伝統的日本手話ろう者だけであり、それに付随する手話通訳者だけではないでしょうか。

エスペラントを広めるために、世界エスペラント協会は非常な努力をしていますが、苦戦しています。
それは、世界中のだれもエスペラントの使用を禁止しているわけではありません。

ただ、世界の多くの人々が、エスペラントを必要としていない(魅力もメリットも感じない、その心には英語のほうがずーっと役に立つ)からだと思います。

手話言語法(手話言語の法律化)は、「ろう者の抑圧解放運動」であると、私はとらえています。

わたしは、手話を言語として広く宣伝することに、なんの異もとなえません。
ただ、注意しなければならない点があります。手話を言語として定義するということは、世界にあるといわれる約6,000の言語と対等となることです。

日本語はもちろん、英語やフランス語とも対等になり、ろう者の言葉ではなくなるということです。
それは、障害(福祉)の手話としてのインセンティブを放棄するに等しいと思います。
そしてグローバル世界の自由競争(添付した私の手話講座の感想文を参照ください)に晒されることでもあります。

それは、1億2千万人いる日本語話者に、手話が魅力ある、経済的にもメリットのある言葉でなければならないということです。
日本手話者は、マイノリティーであり(少数言語話者)、日本の人口からすればわずか0.08%にすぎません。

ご存じのようにいま、日本には公用語は法的に規定されていません。
Wikipedia日本国内に、法令上、日本語を公用語ないし国語と定める直接の規定はない。しかし、そもそも法令は日本語で記されており、裁判所法においては「裁判所では、日本語を用いる」(同法74条)とされ、文字・活字文化振興法においては「国語」と「日本語」が同一視されており(同法3条、9条)、その他多くの法令において、日本語が唯一の公用語ないし国語であることが当然の前提とされている。また、法文だけでなく公用文はすべて日本語のみが用いられ、学校教育では日本語が「国語」として教えられている。)

そして、言語を禁止する法律もありません。

民間ではどんな言語を使っても、自由です。好きな言語を使える。英語もエスペラントも自由に使えます。民間ではどんな言語を使うか、話者の好みで決まります。
もちろん、手話も禁止されているわけでもありません。

(ろう学校で手話が禁止されていると、声高に言われますが、これは教育法のレベルであり、手話を法律的に公用語にする話とは次元が違います、これに関しては明晴学園の方向が正しいと思います)

以上のような背景で、私はマイノリティーである手話を法律で公用語と規定するのは、無理(無茶)な話であると思っています。

以上の論理展開は、あくまでも手話が言語であるという前提です。障害や福祉の観点からすれば、理論展開はまったく違ってくると思います。

わたしは、論点を整理すべきと考えています。
音声言語と非音声言語は、比較できるものではない。対等とか格差があるというものではないと思います。

変な例えですが、飛行機と自動車が「乗り物」として対等であるとして、「空を飛べる能力」と「地上を走る能力」の優劣を議論しているように思います。手話言語法は、例えてみれば「自動車が、飛行機に地上を走れと命令している、そしてそれが出来ないならば、自動車は空を飛べないのだから、飛行機に只で乗せろ」といってるように思ってしまいます。

要は、さまざまな言語を、自由に使うのは勝手だが、強制してはいけないと思っています。

誤解を受けるのを承知で敢えていえば、障害とは数で決まります。
聴覚障害者が、国民の半数を超えれば、それは、もう障害ではないでしょう。

さまざまな資料を調べているうちに、マサチューセッツ州のアーサズ・ヴィンヤード島の事を知りました。

住民の半数近くが、ろう者であるとの事例です。そこでは、島民は法で定めなくとも手話を当たり前に使っているそうです。それは手話に魅力(言葉)とメリット(必要性)があるから。
この島では、ろう者は障害者ではないのです。

わたしは初めて、「手話言語法フォーラムin埼玉」の前日(2月11日)Dプロの「ろう者学セミナー」に出席しました。

約70名の出席者は全員がろう者で日本手話です。おそらく、手話が分からないのは私だけだったと思います。(聴者がいたかもしれませんが、日本語が聞こえることはありませんでした)

当然、手話通訳はありません。プロジェクターで日本語資料は投影されますが、マイクなどはありません。
音声のない静かな中で、会議は活発に進行しました。時々、笑い声がでます。しかし、なにが可笑しいのか、私は分かりませんでした。

孤立感に、不安になりました。しかし、わたし1名のために手話通訳をお願いするなんて、出来ません。
本来ならば、手話を勉強しているわたしは、討論している中身を理解できる立場でした。
手話ができない私は恥ずかしく思い、皆からおいてきぼり、そしてろう者に手話で抑圧されている気がしました。(一般論ではありません、わたしの場合です)

まさに、多勢に無勢です。わたしは、この会場では、障害者でした。
この感覚は、外国で会合があった時に、全員が英語で話しているところに、英語の出来ないわたしが感じる、孤立感と劣等感です。

手話言語法(手話言語の法律化)は、伝統的日本手話によるろう者の抑圧解放運動であると、いいました。

もし、わたしの感じたこの抑圧解放運動であれば、手話言語を法律で国民に強制するこの活動は、勝算のない戦いであると思います。むしろ、「情報・コミュニケーション法」のなかで、中身を充実させる戦いが大事だと思っています。

情報・コミュニケーション法のなかで、日本手話だけを抜き出して法律で規定しようという運動は、ろう者が自ら墓穴を掘る、ような運動になるような気がしてなりません。

ろう文化宣言を読んで、ある意味衝撃でしたが、その中で印象に残っているのは、「言語を押しつけるな」という言葉でした。それは、以下の事例に通じる発言です。

言語は他人を支配(抑圧)する力をもっていて、征服者は抑圧の武器として言語を使用してきました。
列強の植民地への言語の強制として、フランス語、英語、ロシア語、スペイン語、ポルトガル語、イタリア語なども抑圧の武器となったことは、周知の事実です。

日本でも、朝鮮、台湾他に日本語を強制し、名前までも日本語にさせました。

次に示す例文は、MJ・ビエンヴニュ( MJ Bienvenu ) アメリカ人 ASL話者「ろう文化」青土社の「挑戦するろう者」の対談で語った抑圧をテーマにした例を拾ったものです。

「聴者」を「征服者」とし、「ろう者」を「被征服者」とすると、問題点が明らかになると思います。

●征服者の立ち位置 =〔聴者がろう者を抑圧する例〕

    Pejorative view  見下すこと、軽蔑 (被征服者を能力的に低い者として位置づけること)
   Superior view  傲慢 (征服者は優れていると信じていること。被征服者を自分と同じようにするのが理想だ)
   Egoism 自惚れ (征服者が被征服者にとってなくてはならない存在だと、意識すること) 
   Paternalism 干渉主義、同情 (自分が征服者であることを罪に思い、被征服者のために何か力になろうと思ってる人)
  Desire for approval 賛意を要求する (征服者は常に被征服者から感謝されるべき存在と思いこむ)
   Feaful/angry reaction to liberation 解放に対する恐怖や怒りの反応 (征服者が被征服者と対等になるのを恐れる)

●被征服者の問題=〔抑圧されるろう者側の問題〕

   Ambivalence 相互矛盾感情、相反する感情 (征服者の価値観に振り回され、征服者のようになりたいと思う一方で、その感情を否定して、自分は被征服者であることに誇りを持っていいのだと思う)
   Self-depreciation 自己蔑視 自分を卑下する (被征服者は蔑視されて当然と思いこんでいる被征服者)
   Basic distruct of oneself  自分自身への根本的な不信感。仲間に対する不信感。(同じ仲間の被征服者を信じようとせず、征服者のことを信じる)
   Horizontal violence  同種のものへの暴力、仲間割れ。(仲間うちで争いをする)
   Passivity, adaptation, fatalism 受動、適応、宿命論 (征服者の言う事をそのまま受け入れる)
   Magical belief  魔法にかけられたような信仰 (被征服者は、征服者はすべて完全で、何の落ち度もないと信じている、一方自分たちは不完全で、いつも何か問題を抱えていると思うこと)
   Emotional dependence 感情的な依存。(何かにつけ、すぐ征服者を頼りにする)
   Fear of freedom 自由への恐怖感、反動の懸念 (抑圧する側と戦うべきところを、リスクが怖くて現実に妥協し、保身的になる)

ここで注意しなければならないことは、この指摘は手話だけではありません。

「英語」を「征服者」とし、「英語が出来ない人」を「被征服者」とすることでも、適用できる例えなのです。MJ・ビエンヴニュ( MJ Bienvenu )氏は、言語の抑圧性をいみじくも語っていると言ってよいと思います。それは、逆にいえば、手話が言語であれば、抑圧性をもっていることを認識すべきであるということです。
 

以上、ながながと書いてしまいました。

ろう運動を真摯にやってこられた方々にとっては、聞き飽きた議論でしょう。
時間を取らせて申し訳ありません。
 ただ、手話言語法を認めさせる相手は、フォーラムでは国会議員だと言っていましたが、基本はいわゆる一般国民です。

一般国民は、はるかに手話の知識はありません。これを、わたしは批判しているのではありません、エスペラントと同様、一般の人は手話にもろう社会にも興味がないと考えるべきでしょう。

わたしの、ろうと手話に対するの認識は、次に示す流れです。
  ①   耳が聞こえない人は全員ろう者だ、聴覚障害者に区分はない
   ろうという言葉は差別用語だ
   聴覚障害者はみな手話が出来る
   手話は世界で一つ、手旗信号のように合図すると通じるサインだ
   手話通訳者はボランティアだと思っていた
   まさか手話が言語とは気づかなかった
   ろう者に文化があるなんて、目からうろこだ
   手話にも日本語対応手話や中間型や伝統的日本手話や、キュードや、指文字があり、日本手話にも東京表現、大阪表現、京都表現など方言があり、標準語がないようだ   世界で手話は約110種類もあったなんて
   そのなかに国際手話があっても、理念が無さそうだ
   ろう者と中途失聴者・難聴者は別人格であり、目指す方向が違うらしい
   手話の先進国といわれる、ドイツ、フランス、アメリカは何故手話を公用語にしないか、その調査がされていないのは何故だろう

わたしの経験から、一般国民はせいぜい①~⑤番程度の認識ではないでしょうか。

わたしは、言語に興味を持って手話を始めましたが、手話を学ぶことでろう文化を知ることが出来ました。そして、手話言語法が要求する主張の脆弱性に気が付きました。
以前エスペラントの日本大会で、国際共通語エスペラントを強力に応援してくれる経済評論家S.Sさんが講演してくれましたが、初めのあいさつも含め一言もエスペラントを使いませんでした。
なぜ、彼は一言もエスペラントを使わなかったのだろうと、ずーっと不思議に思っていました。 


Dプロのセミナー資料を読んで、この疑問が氷解しました。
それは、ろう者が聴者とはなすとき、口話が出来ても絶対「声」を出すな、もし「声」を出したら
聴者側に取り込まれてしまうというのです。この話をよんで、腑に落ちました。

S.Sさんが考えていたことは、もし下手でもエスペラントを話すと、エスペラント社会に取り込まれてしまう。
下手くそなエスペラントだなとか、なんでもっと勉強しないんだ、エスペラントも出来ないのにえらそうなことを言うな、エスペラントがまともに話せないのに、エスペラント世界に口出ししないでくれ。
要は、声(エスペラント)を発すると、エスペラント社会の言語価値観で人間を評価されることを恐れていたのだと、いまは彼の思いが良く理解出ます。


今後とも、わたしは聴者の立場から、大局的に手話言語法の是非を捉えていきたいと思っています。そして、手話はエスペラントと同列にとらえ、言語の趣味として楽しみたいと思います。 

ありがとうございました。

                                                            平成24227

 

 

 


                 福田 俊弘   平成23年11月9日(水)  

講演《聞こえない人に関わって SK氏》の感想文

手話通訳はボランティアか?という講座の最後のテーマが重い。世間では、ろうは障害者、その障害者を助けるのが手話通訳者であるという固定観念が強いと思う。

いわば、手話通訳は福祉活動である、という思い込みが、手話通訳=ボランティアと思われる風潮を呼んでいると思われる。手話通訳を、責任ある専門職業(仕事)として世間に認知させるためには手話が言語として公的に認められることが、重要なポイントである。
 

手話を言語として認められたときには、手話はろう者を支援する道具ではなくコミュニケーションの手段となる。

そして、少数言語とはいえ世界で約6,000あるといわれる言語のひとつとなる。ということは、フランス語や英語と対等の言葉となるわけである。

例えば、町中で外国人にフランス語で話しかけられたとき、たいていの日本人は、ドギマギしてしまい、困った顔をするのは外国人ではなく、日本人である。そのとき、そばにフランス語ができる日本人が通りかかったら、気軽に通訳してくれるであろう。
 

これを経験した日本人は、フランス語を勉強してみようと思うかもしれない。手話でも同じ状況である。町中で手話で話し掛けられたら、ドギマギし、困ってしまうのは日本人(健聴者)であり、手話者ではない。

そばに手話ができる日本人が通りがかったら、気軽に通訳してくれるであろう。でも、だれもその手話で通訳してくれたことを、福祉とは思わない。
 

これを経験した人は、自分でも手話を勉強してみようと思うかもしれない。

手話ができれば面白い、騒音のなかでも通じる言葉、ガラス越しでも通じる言葉、声の届かない離れた場所でも会話ができる便利な言葉。

というようなキャッチフレーズで、語学教室が手話を科目の一つとして売り出すかもしれない。

そして、そのなかで英語の専門通訳士と同じように、手話通訳士が社会的職業として必要とされることになる。福祉ではない、言語通訳士の一員として。

残念ながら、手話を言語として公的に認定されるまでは、手話通訳=ボランティアと思われる状態が続くだろう。なお、手話を言語として認定させるためには、日本手話の標準語を整備することが大事である。

場所によって手話表現が変わる(方言?)と言語として成り立たないと思うから。手をつかうのが手話でなく、手の形(形態)が統一されて、その手話単語が言語となる。()




 追伸


お手紙をさしあげるべく、手紙を書き終わった段階で、ろう者の数がニュージーランド現地調査中間報告のなかに書かれていることが分かりました。

実は、以前から全日本ろうあ連盟はろう者の数について、いったい何人を対象に考えているのだろうと、調べてみましたが分かりませんでした。

そのため、手話言語法フォーラムin埼玉のわたしの発言の中では、手話言語法に該当するろう者を10万人と表現しました。これは、「ろう文化」(青土社)のなかで、木村晴美さんが、ろう者はだいたい10万人くらいだと言っていた事を思い出したからです。

しかし、全日本ろうあ連盟の以下の資料からは、手話を使うろう者の人口として約5万人と書かれていることが判明しました。

 201132日 全日本ろうあ連盟「手話言語法」制定推進事業研究会提出
ニュージーランド現地調査 中間報告
201132

1 日本とニュージーランドの対照表

 

 

日本

ニュージーランド

国土面積

378,000km²

268,680km²

人口

12728万人

426万人

GDP

34千ドル(1人あたり)

27千ドル(1人あたり)

民族構成

日本人 98.5%

アイヌ人 約20万人として 0.002%

ヨーロッパ人 81%
マオリ人 15.2%(約663千人)
アジア人 9%
20107月末、NZ統計局推計

手話を使うろう者の人口

5万人(人口の0.0004%※平成18年身体障害児・者実態調査より

5千人(人口の0.001%
※ニュージーランドろう協会職員へのインタビューより

手話通訳者

2827名(ろう者18人に1人) 20112月までの手話通訳士合格者数

100名弱(ろう者50人に1人) ※オークランド技術大学手話通訳学科修了者数

 

わたしが書いた手紙の本文のなかでも、「数」は非常に大事であると指摘しましたが、もし手話言語法をもって法的に活動するとなると、国民は必ず利害者の数を問題にします。これに対応できる理論武装が必要だと思います。
また、この表の中でパーセンテージが間違っています。基本的な数字に対しても油断は禁物だと思うのです。(余計なことを言ってすいません)

また、約36万人いる聴覚障害者に対し、5万人ということは全体の14%のろう者が対象で、残りの日本語対応手話者を含む86%の聴覚障害者はおいてきぼりになりませんか。
これに対する、理論武装も重要だと思います。

わたしは、手話とろう運動についてのきっかけは「どんぐりの家」と「わが指のオーケストラ」です。これを読んで、非常な衝撃を受けました。
そして、木村晴美さんと市田泰弘さんの「ろう文化宣言」および青土社の「ろう文化」(現代思想編集部)に行きつきました。これらは、また別の側面で衝撃でもあり、また「目からうろこ」でもありました。

「ろうは障害ではない、ただ不便なだけである。」また、「ろうは不便でもない、当たり前の存在なのだ。」 また、ギャローデット大学の学長は「ろうは聞くこと以外は何でもできる」と言いました。

わたしは、まったくその通りだと思います。
聴者とろう者は、当たり前ですが同じ人間でなければならないと思います。
しかし、このように対等であると主張するときは、国民は必ず「数」を問題にします。

いま、毎年3万人が自殺しています。
また、生活保護受給者は200万人を超える事態になっています。
これにくらべれば、5万人なんて相手にならない・・・・となりませんか?

このような背景も良く考えて、本当に僭越ではありますが、いまのろう運動の戦略を見直した方がよいのではないかと思っています 

すいません、数ごときで偉そうなことを言ってしまい、失礼しました。

2012227