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日本アルメニア友好協会の機関誌
「アララト通信」に投稿したものです。

1.憧れのアララト山に逢ってきました  福田 俊弘


昨年、ウクライナに行き、オデッサで友好親善の会を持った経験で、またCIS国を訪問したいと思っていた。

黒海とカスピ海に挟まれた地域はなんとなく、日本人に縁遠い場所。チェチェン独立紛争の新聞記事がきっかけで、この付近を調べていくうちに、ノアの方舟が漂着したアララト山が浮かび上がり、興味が湧く。さっそくアルメニアのエスペランティストにインターネットメールで連絡したのが昨年十月である。いずれ行けるのは今年の春なのに、連絡は早い。実は普通のサラリーマンをしている私は、そう簡単には十日以上の休暇はもらえない。で、行くに当っては大義名分が必要となる。その大儀名分を工作するためには長い時間が必要なわけ。ボランティア用の手品と、国際語のエスペラントを組み合わせ、そこに友好協会の後援をもらうことで、国際ボランティア。中島会長にメールを出し、新年会で手品を披露させてもらい、皆さんに後援をお願いしてご了解いただいた。当方の会社の常務には、日本アルメニア友好協会の後援で鶴ヶ島エスペラントマジック協会(会員は会長である私一人)がイェレバンで国際ボランティアマジックの夕べを持つことになったので長期休暇が必要だと訴え、快く認可された。

通常はモスクワ経由であるが、オーストリア航空がイェレバン便を運行していることが分かり、ウイーン経由で行くことにした。ウイーンで一泊し、翌日の夜十一時に出発予定。

が、なんとオーバーブッキングで満席、泣く泣くウイーンにさらに一泊して、翌日の十時にロンドンまで行ってからBA機、三日がかりで五月二十三日イェレヴァンに深夜一時に到着。 エスペランティストが四名、真夜中にもかかわらず、迎えに来てくれる。空港では、通関前にヴィザ発給窓口があり、一枚の紙に必要事項を記入、三十ドルで2週間のヴィザが貰えた。

ホテルは共和国広場に近いコングレスホテル。快適なホテルだ。一泊七十七ドル。

二十四日昼に日本クラブのミカエルさんがホテルに来てくれ、初対面。ミカエルさんは日本語が苦手のようで、一緒にいたエスペランティストのカリーナさんが、エスペラントとアルメニア語の通訳をしてくれてスムーズに意思疎通が出来る。エスペラントは有難い。

カリーナさんとイェレヴァン市内を見学する。マテナダラン古文書館で、アルメニア民族の精神的ささえとなっているアルメニア文字の歴史を見て、非常に心を打たれた。

たくさんの古文書、トルコが侵略してきたとき、宝石や貴金属で装飾された本の表紙だけをトルコは奪っていった。アルメニア語で書かれた中身のページは女性が身体に巻きつけて必死に守ったという。

ジェノサイド虐殺追悼の丘で、高く聳える追悼碑は大小二つの三角推の組み合わせになっている。これは、アララト山の大小を象徴してあるもので、トルコを刺激しないように、公にはしていないと。かたわらにある死者を祀る円形の墓モニュメントの地底からは荘厳でかつ悲しみの音楽がいつまでも流れていた。

アルメニア人は、ロシアに対してはあまり良い感情をもっていないという。ロシアに対しアルメニアは協力的に付き合ってきたにもかかわらず、クリミヤ半島と黒海を獲るために、ロシアはアルメニアをトルコに売ったと悔しそうに言う。

丘をおりた、近くに有名なアルメニアコニャック「アララト」の会社があるが、これは既にフランスの会社に買収されてしまっている。

イェレヴァン市内は石造りの街である。すこしくすんだバラ色の凝灰石で造られた歴史博物館や電話局など、しっとりとして綺麗である。しかし、中心地としての共和国広場は、大工事中で味気ない工事用鉄板に囲われてしまい、ガッカリする。

その夕べ、ミカエルさん家族と、車でイェレヴァンから約一時間、四百前からある古いオシャカン村に連れて行って貰う。

ミカエルさんがカリーナさんにお願いして、同行してもらうことになった。

オシャカン村には歴史的な古い教会がある。アルメニア文字の創設者メスロップの祭られているメスロップ教会だ。

村はぶどうを栽培し、ワインを造っている。その村の真中くらいの家の高い電柱のてっぺんに丸い大きな巣が見える、なんとコウノトリが辺りを見渡している。生まれて初めて見るコウノトリ。感激の瞬間であった。

そしてミカエルさんの奥さんの実家ヴォスケヴァズ村に行く。庭でバーベキュー、豚肉のおいしそうな匂いがただよう。

ミカエルさんの姪のナイラさんは人文学大学の日本語学科三年生。漢字練習帖を見せてもらったが、そのあまりにきれいな書き取りにビックリする。

応接間のテーブルにはたくさんの人が集まる。

まずコニャックで、その場の一番年長の方で、ミカエルさんの奥様のお母様の健康を祝って乾杯から始まる。

コニャックにウォッカ、おいしい郷土料理で楽しい時間、おお賑わいの晩餐をいただいた。

かばんにいれて持っていた手品を披露して更に盛り上がりる。一緒に行ったカリーナさんにエスペラント/アルメニア語の通訳をしてもらい、まさに親善の夕べになった。

今回の最大の目的の一つであるアララト山、天気は絶好の翌日日曜日。エスペランティスト五人と車で行った。

絶句するほどの景観、ホルビラップ修道院とアララト山の荘厳なたたずまい。アルメニアを実感した瞬間であった。

ホルビラップとは深い穴という意味らしい。修道院の中にある古い礼拝所の隅に地中にもぐる階段があり、中は広い空間が広がる。たった一人の行者が四十年間ノミで石を掘り抜いて作ったという。

この近くにあるポクルヴェディ村で中島会長に紹介いただいた農家を訪問、とつぜんの訪問にもかかわらず、お昼をご馳走になった。

中島会長に指導してもらったアルメニア語で挨拶すると初対面でもニコッとしてくれた。それ以来あちことで、アルメニア語をちょっと使うだけで見知らぬ人でも笑顔が出る、マジックを見せたときもアルメニア語を交えると、座の雰囲気がさらに盛り上がる。

相手の国の言葉は少しでも覚えたほうが楽しい。

その後、エチミアジン、ガルニ神殿、ゲガルド修道院をエスペランティスト達と車で回った。いずれも歴史の重さを感じる素晴らしい遺産である。

翌日の二十六日、日本クラブを訪問、小学校のミニ講堂で手品と日本紹介をやり、日本語学校の生徒とお母さん、そして先生である尾本さん達と楽しい時間をすごした。

その後、ミカエルさんとイェレバン人文学大学に行き、学長のMICHAELさんを表敬訪問。学長室には日本から贈られた立派な本が綺麗に並べられている、が装飾品のようで実用的な扱いではない。教室は日本語のテスト中、大庭郁枝先生にお会いし、また助手のカリネさんにもお会いした。

アルメニアエスペラント協会の会合は、その晩に対外文化交流協会のホールで行われた。

そこにはミカエルさんや大庭さん達も参加していただき、私の手品と日本紹介、そして踊りや歌の交流会で、とても楽しい賑やかな会になった

グルジアに発つ日、五月二十七日はあっという間であった。

アルメニア民族、歴史の重さと深さを感じる旅であった。

 

写真はモーセス・アラジ名称公立第二十九小学校内の小講堂で 日本クラブ日本語教室の生徒達と。


以下はエスペラント学会誌 Revuo Orienta に投稿したもの。

F氏のアルメニア/グルジア訪問記

                        福田 俊弘                                            

昨年のウクライナでCIS諸国に興味を惹かれたF氏は、5月の初めコーカサス地方アルメニア/グルジア2国に行ってきた。
ノアの方舟が漂着したというアララト山に惹かれアルメニアに行こうと決めたのが、昨年の10月。
例のごとく、さっそく日本アルメニア友好協会に入会。
また、アルメニアエスペラント協会に、国際ボランティアとして訪問したいとの意向をインターネットメールで伝える。返事は早い、大歓迎のメール。

欲張りのF氏、ついでに隣りのグルジアも行こうとメールを送る。
友好協会新年会の集いで手品をやり存在をアピール、アルメニア友好協会の後援を取り付ける。
会社への長期休暇の申請も、友好協会の後援で、スムーズに認可される。

5月21日に成田を発ち、23日エレバン到着。真夜中にもかかわらず、4人のエスペランティスト達が迎えてくれる。

エレバン市内をカリーナさんに案内してもらう。
アルメニア文字とその古文書を保管しているマテナラダン博物館、大虐殺追悼の丘等さまざまな場所を訪れる。
夕方には友好協会会長ミカエルさん達と近郊の古い村を訪ねる。
村人達がアルメニア料理と有名なアルメニアンコニャック、ウォッカなどで歓迎してくれる。
手品を披露し、さらに大賑わいとなる。
同行してくれたカリーナさんがエスペラントの通訳、まさに手作りの国際交流。
エスペラントの有難さを実感する時だ。

憧れのアララト山を訪れたのは、絶好の天気の日曜日。
目の前に勇壮で荘厳なアララト山が聳え、感無量。

友好協会日本クラブは小学校のミニ講堂

で友好の集いを開く。手品と日本紹介をやる、通訳は日本語を勉強している若い女性ガヤさん。
手品に皆ニコニコ。
夕刻に対外文化交流協会会館で、アルメニアエスペラント協会の会合が始まる。

50人近くの人が集まり、楽しい会合となる。
手品に日本紹介、その後はワインにウォッカ、おいしい料理、歌に踊りに大賑わい。
ああ、エスペラントはすごいと実感、楽しさに酔い痴れる。

翌日なごり惜しい気持ち、リダさんティグランさんに送られ、グルジアに発つ。

グルジアエスペラント協会のジミーさんが迎えに来てくれ、首都トビリシの協会事務所を訪れる。
会長のナナさんがトビリシを案内、旧市街19世紀の木造の歴史的建物に感激。

翌日の夕刻にアルメニア合気道道場に行き、手品と日本紹介をする。
合気道をやるだけあり、日本に対する興味はとても強い。
ナナさんがエスペラントの通訳、熱心な観客と聴衆に、さらに熱が入る。

翌日は弁護士バグラットさんの家に招待され、グルジア家庭料理とコニャックで歓待を受け、お返しに手品と日本文化の写真集で楽しんでもらう。


31日早朝、グルジアを発つ。

両国とも歴史に翻弄されながら民族の支えとしてアルメニア言語、グルジア言語を守り通してきたという。
その重さを実感する旅であった。
言葉と文字は民族の証である、アルファベットを基とするエスペラントはあくまでも国際語ではなく国際補助語であることを強く思ったF氏であった。(おわり)


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