バスが首都高に入った。まさかこのまま富山まで連れて行かれるのか、と不安にも なるけど、さっき修学旅行のしおりを見たところでは、まだ先があるようだ。 でも鎌倉とか日光とかに連れて行かれるかも。遠いというほどじゃないけど、 木村さんとどこかで会えるという希望が減ってしまう。 「観劇の他にはどこに行ったの?」 隣に座っている女子が相変わらず話しかけてくる。 「えっと、警察資料館、だったかな?そんなに大きくない博物館」 僕は一応このクラスの生徒である木村春子という事になっていて、クラスメートから 話しかけられているという事になっているのだから、返事をしない訳にもいかない。 木村さんがどういう人なのかは良く知らないが、自分の好きなアーティストの コンサートを見るためとは言え、全然知らない男子大学生と会って話をして、 自分の制服を男子大学生に強引に着せてしまうほどの子だから、内気で誰とも話を しないような子には見えない。だから普通くらいの会話をしない訳にもいかない。 「何があったの?」 「警察資料館だから、1階に白バイやパトカーやヘリコプターがあって、昔の警察の 制服があって、警察の歴史みたいのが書いてあって」 「普通の博物館だったんだ」 隣の女子とはこうして会話をしているけど、バスの中にいる他の女子からは チラチラ見られて、ひそひそ話をされているような気がする。僕たちが今話している のと同じような、今日の見学内容について普通に話をしているのかも知れないけど、 全然聞こえないから僕の事をひそひそ話しているように思えてくる。やっぱり 男だってばれてるのかな。ずっと年上の男だってばれてるのかな。 「あ、でも、西南の役の作戦図とか、そういう資料があって」 「へー。そういうのもあったんだ。へー」 あまり興味がなさそうだ。というか、同級生同士の会話という感じがしない。 と言っても、学校や友達の話題なんて知らないから、今日の観劇や見学の内容しか 話す事がないんだけど。あ、同じクラスじゃないけど、一緒に見学した子はいたんだ。 「えっと、わ、私って、ほら、このクラスで一人だけ、観劇だった、でしょ?」 男前の女子の代わりとはいえ、一応女子中だし、女子の制服まで着ているし、 女の子みたいな話し方をしてみる。 「だから、隣のクラスの人と、一緒に見学して、回ったんだけど」 「誰と?」 「菊井さん、と、白吹さん」 「ああ、白吹さんね」 隣のクラスだから知っているようだ。それなら5組の木村さんも4組に知られてる んじゃないだろうか、という気もしたが、誰にも何も言われなかったから、あまり 気にしないでおこう。 「それで、白吹さんが、警察資料館で西南の役の資料を見たら、その前から 動かなくなっちゃって」 「ああ。西南の役って西郷隆盛なんでしょ?そういう歴史関係が好きだから」 「本当に動かなくって、菊井さんと一緒に白吹さんの手を引っ張って連れ出して」 「あははは。白吹さんって小学生の社会科見学でもそうだったんだから」 小学校の時から一緒なのか。共通の話題があってほっとした一方で、一緒に観劇と 見学をした白吹さんと仲良しの人が5組にいると知って、なぜか不安になってきた。 一緒に見学して回った菊井さんと白吹さんに、僕が実は男子大学生だったって事が ばれたら、なんだか悪いような気がしてきて。僕がこの中学の生徒じゃないと 知っている何十人に囲まれている今、その程度の心配をしている場合じゃないけど。 「観劇も白吹さん達と一緒だったの?クラスで席順が決まってたとか?」 「う、うん。休憩時間に感想を言ったり、飴をもらったり、休憩時間が終わり そうになって、あわてて飲み物を譲ってもらったり」 「そんな余裕があったんだ。いいなー。美術館めぐりは、おしゃべりしちゃいけない ような雰囲気で、外に出ても歩かされるだけで、おしゃべりなんてしている暇が なかった。そっちにすればよかった」 「それで観劇の後、舞台裏見学会っていうのがあったんだけど、その案内係の人が、 うちの学園の出身の人で」 「え?柿沢出身の人?」 「体育大学を出て女優になったって」 「そんな面白い事もあったんだ」 僕が男子大学生とばれるんじゃないか、ばれてるんじゃないかと不安になるけど、 それでも隣の人とこんな話をしていると、同級生のような気持ちになってくる。 女子と同じ制服を着ているというのは恥ずかしいけど、同じ制服を着ていると、 知らない人でも同じ学校の友達のように思えてくる。話している相手は女子中学生 だけど、僕も同じ女子制服を着ているから、同じ女子中学生という気持ちになる。 僕と同じ制服を着て、楽しそうな顔をしている隣の女子を見ていると、親近感が 湧いて、この女子が本当に同級生の仲良しのように思えてくる。 そんな事を話していたら、割とすぐに首都高を降りて、普通のビルばかりの通りを 抜けて、旅館に着いた。きっと東京都内だろう。遠くまで行かなくて良かった。 駐車場にバスが停まり、先に停まったバスから生徒が降りていく。 僕が乗っているバスも停まり、みんなが一斉に立ち上がる。僕も立ち上がって 周りを見ると、狭いバスの中に同じ制服を着ている女子がたくさんいる、同じ制服を 着ている女子しかいないんだと、乗る時以上に実感する。そして自分もその女子と 同じ制服を着ている事を実感する。大人びた子もいるけど、小学生が中学校の制服を 着ているように見える子もいるし、ほとんどは中学生だと分かる。僕はこんな子達と 一緒の制服を着て、同じバスに乗せられ、こんな子達と同じ年齢の女子であるかの ように振る舞っている。ばれないためではあるけど、そんな事をしている自分が みじめに思えてくる。でも、僕は中学校や高校には通った事があるのに、中学や 高校で修学旅行に行った事があるのに、女子中の行事だからか、この修学旅行が 初めての経験のように思えて、そのせいで自分が何も知らない中学生のように 感じてしまう。本当は男子大学生のはずの自分が、幼い女子中学生になっちゃった ような気分になる。背が縮んだわけでもないのに。僕がよそ者だとみんな知ってる んだろうけど、それでも僕を同級生のように扱うから、余計にそう思う。 そんな奇妙な気持になりながら、同じクラスの女子に混じってバスから降りて、 旅館の玄関の前で列を作る。先生の視線が気になってしまい、うつむいて足元を 見てしまう。本当は男子大学生だとばれるのが恐いのか、本当の女子中学生に なってしまったような自分の姿を見られるのが恥ずかしいのか、良く分からなく なってきた。先生たちの目の前で、女子中学生に混じって列に並んでいるのが、 余計に中学生になったような気持ちを強くする。 「おまえー、ちょっと」 突然近くから声がした。先生だ。観劇の前に見かけた田中先生とかいう先生だ。 厳しそうな顔をした先生を見て、ビクビクする。観劇の前には何も言われなかった のに、今頃なんだろう。何か悪い事でもしたのかな。そんな覚えはないけど、 それでも先生に叱られると思うと恐くなってきた。 「スカートがちょっと長くないか?」 「え?そ、そうですか?」 木村さんには校則通りって言われたのに。とか言い訳するわけにもいかない。 僕は校則をしらないから、どのくらい校則違反なのかも分からない。 「えっと、その…」 なんて言い訳しようと考えていたら。 「あ、ごめん。おまえは問題なかった。前後の二人が短すぎるから、お前が長く 見えただけだ。前後の二人、短すぎるぞー」 「ごめんなさーい」 「修学旅行中にこんな注意をさせるなよー」 「はーい」 僕のせいじゃないと分かってほっとしたけど、本当に怒られるんじゃないかと ドキドキした。男子大学生だとばれる心配よりも、校則違反で怒られる心配を してしまった。 でもスカートの長さを注意されるなんて予想してなかった。女子の制服を着るのも 初めてだし、女子中学生として先生の前で列に並ぶのも初めてだから、 スカート丈で注意されるなんて考えていなかった。そういえば何年も前、 中学の時の同級生の女子がスカート丈が長いか短いかで叱られていたっけ。 自分は関係ないからと思って、何も考えずに眺めていたけど、男子の僕が二十歳 過ぎてからスカート丈を注意される当事者になるなんて思わなかった。 今回は怒られなかったけど、ずっと先生にスカート丈を見られていたと思うと、 スカートをはいている僕の足を見られていたと思うと、恥ずかしくなってきた。 そもそも男子大学生の僕がスカート丈を注意されるだけなんて、僕ってそんなに このクラスになじんでいるように見えるんだろうか。ばれないのはいいんだけど、 先生たちに『おまえなんか女子中学生になって、スカート丈でも注意されてろ』 と言われているような気がする。 人数確認も終わって、先生の話も終わって、クラス担任の先生から声をかけられる 事もなく、旅館の中に入った。先生の視線がなくなって少し楽になったけど、 他の子達も先生の目がなくなっておしゃべりを始めた。旅館の中には他のクラスの 女子もいて、ますます女子中の中に紛れ込んだという気がする。建物以外は完全に 女子中の休み時間だ。場違いな所に来たような気もするけど、みんなと同じ制服を 着ているから自分も生徒のような気がして、逃げ出しちゃいけないような気もする。 そうは言っても知ってる人もいないし、心細くなってしまう。友達のいない中学生の ような気持ちになる。そんな事を思っている時にふと前を見たら、菊井さんが ニコニコしながら手を振っていた。数時間だけど一緒にいて、おしゃべりした人を 見て、すこし安心して手を振り返す。 同じクラスの女子と一緒に廊下を進んでいく。 「どの部屋だったっけ?」 「こっちじゃない?」 奥に進むと、あちこちからそういう声が上がり始めた。バスから降りる時の荷物が 少なかったから昨日もここに泊まったんだろうけど、部屋番号と位置以外は何も 違わないし、分からなくなっても不思議ではない。 「ねえ、あなた、覚えてない?」 今まで全然話してない子からいきなり尋ねられた。僕が知る訳がないのだが、 はっきりそうとも言えない。 「えー、私もー、分からなくなっちゃったー」 他の子も忘れているんだから、これでいいだろう。 適当にそこら辺の部屋を開けてみる子だけの子や、キャッキャ言うだけの子は いたが、修学旅行のしおりを出して確認しようという子はいない。それを見てたら なんだか我慢できなくなってきた。警察資料館に行く時に使ったから、カバンの 一番手前に入っているはず。ちょっとカバンを開けて手を突っ込んだから、 すぐに出てきた。行き止まりでみんなが立ち止まったので、修学旅行のしおりを パラパラとめくったら、四角い図のあるページがあった。旅館の部屋割りの 図のようだ。昨日と今日の日付が書いてあった。ここが玄関で、上に上がって、 ここを通ってこっちに来て、周りの部屋番号を見ると… 「あ、あの、ここら辺はずっと3組の部屋、みたいだけど…」 「もっと手前だった?」 みんなが周りに集まり、僕を取り囲んだ。 「えっと、手前は4組で、5組は……真上」 「え?ここ3階じゃなかったの?2階?」 「玄関は階段を登ったから、あそこが2階だと思ってた」 「昨日はどこから入ったんだっけ?」 教えたら教えたで騒がしくなった。我慢できずにまた目立つ事をしてしまったような 気がする。でもここにいつまでも留まって騒いでるよりはマシ、と思う事にしよう。 「とにかく上に行こうよ」 「階段のある所まで戻らないといけないの?」 「えっと、そこを右に曲がった所に階段が、あるんじゃないかな…」 「あった。遠回りせずに済んだよ」 少し狭い階段を、同じ制服を着た女子がぞろぞろ上がっていく。僕は一番後ろを 付いていくつもりだったのに、いつの間にか真ん中辺りになっていた。 階段を上り終えると、僕の修学旅行のしおりに書いてある班番号が書いてあった。 「ようやく着いた」 「疲れたよー」 ここが僕の班の部屋って事なんだろうと思いつつ、他の女子と一緒に部屋に入る。 「どこ行ってたの?一緒に玄関に入ったはずなのに」 二人が先にいた。ちょうどジャージに着替え終わった後のようだった。 「階を間違えたみたいで、みんなで迷ってた」 そうだ。ここは女子の部屋だから、というか女子しかいないから、女子がここで 着替えるんだ。どうしよう。と思っていたら、一緒に入ってきた女子がカバンから 着替えを取り出し始めた。 「私のカバンはどこ?」 他の子もカバンを探し始めた。これからみんな着替えるんだ。このままだと女子の 着替えを見てしまう。これはさすがにまずいんじゃないだろうか。どうしよう。 と思っていたら、着替え始めた子は、スカートをはいたまま下からジャージを 着ていた。ちょっとほっとしたけど、でもこれからジャンパースカートを脱ぐ んだろうな。それに僕もジャージに着替える必要がありそうだ。僕の着替えは どこにあるんだろうか。周りを見渡す。 「あなたのはそこ」 部屋の手前の角、見えにくい所に置いてあった。ちょうどいい、この角で背中を 向けて着替えよう。そうすれば僕の胸は見えない。みんなの真似をして、 先にスカートの下からジャージを着ればいい。カバンを開けると、女物の下着の 下にジャージがあった。女物の下着の下にあったのがちょっと変な気分だけど、 それでも女子の制服よりはジャージの方がいい。でも後ろで女子が着替えていると 思うと、どうにもやりにくい。僕が見なくても、僕が見られているような気がする。 早く着替えちゃった方がいいかな。などと考えていたら、横にいた女子が 大きく動いたのでうっかりそっちに目が行った。Yシャツを脱いだようだ。 という事は今は下着姿で、それを見てしまった……と思ったら、下にTシャツを 着ていた。ほっとした。他のみんなが着ているのかは知らないけど、僕も着ていた 方がちょっと安心かな。カバンの底にTシャツがあったので、それも取り出す。 「夕食はまだ?」 「あと20分くらいかな?」 「私、トイレに行ってくる」 先に部屋にいた二人以外にも、着替え終わった子がいるようだ。早く着替えないと みんなに凝視されてしまう。あわててスカートの下にジャージをはいて、上着を 脱いで、脱ぎにくいスカートをどうにか脱いで。その時にちらっと横を向いて しまったが、着替え終わってない方が少ない。急がなきゃ。でも急ぎ過ぎても 目立つし。Yシャツを脱いだけど、ブラジャーをつけてて良かった。後ろから 見る分には分からないはずだ。多分。ジャージの上を着ようとして、Tシャツの 事を思い出してTシャツを着て、ジャージの上を着た。とりあえず着替え終わって ほっとする。これで女子制服じゃなくなった。女子中なのに青いジャージで、 女子って感じがしなくなったし。もっとも、周りのみんなも同じジャージを 着ているから、同じ服を着た女子中学生に混じっている気分に変わりはないけど。 周りを見回したら、他の子はもう着替え終わっていたけど、髪をとかしたり、 制服をたたんだりしていた。そういえば自分が脱いだ制服をどうにかしないと。 でも女子の制服の扱い方なんて分からない。隣の子をちらっと見て、真似しながら ハンガーにかけた。でも着替え終わった後に男子大学生とばれてしまったら、 なんて言われるだろう。不安になる。 女子ばかりの部屋で話しかけられても困るから、とりあえずカバンの中にある 女物の下着をドキドキしながら整理していたら、館内放送が流れた。 「夕食の時間です。1階の大広間に集まってください」 同じ部屋にいる女子が立ち上がって廊下に出たので、僕もその後についていく。 廊下に出ると、他の部屋から出てきた女子もいて、それほど広くない廊下に ジャージの女子でぎゅうぎゅう詰めになる。女子の制服よりもジャージがマシと 思っていたけど、こんなにたくさんの女子が同じジャージを着ているのを見ると、 やっぱり女子と同じなんだ、女子扱いされてるんだ、そういう気分に逆戻り。 ぎゅうぎゅう詰めの中で、目の前の女子のジャージの生地を見ていたら、 青色と言っても明るい青で、自分のジャージや周りの女子のジャージの感触が なんだかさらさらしていて、僕が中学や高校で着ていたジャージとちょっと違う。 なんというかきれいな生地で、もしかして女子用ジャージなのかな。女子中だから ちょっと高級そうなジャージなのか、僕の中学高校の時にも女子のジャージは 男子と違っていたのか。よく分からないけど。 広い廊下に出て少し楽になって、階段でまたぎゅうぎゅう詰めになって、 やっと大広間に着いた。1学年全部が一部屋にいる訳ではないように見えるが、 それでも僕と同じジャージを着た女子中学生だけが百人ほどいるのを見ると、 ジャージとはいえ女子と同じ物を着ている自分が恥ずかしくなってくる。 男子大学生の自分が女子中学生の一人になったんだ、むしろジャージのせいで そんな気持ちになる。 女子ばかり並ぶ中に座るのは気が引けるけど、いつまでも座らない訳にはいかない。 同じ班の女子と一緒にいて顔を覚えられるのも嫌だけど、別の班の女子と話をする 事になったら余計に多くの人数に覚えられてしまう。同じ班の女子の近くの 端っこに座って、夕食が始まるのを待つ。 「ククちゃん、こっちこっち」 目の前に立っている女子が叫んだ。友達を呼んでいるようだ。まだちらほら生徒が 入ってくる。 「桜木さーん」 自分の苗字を呼ばれてびっくりする。どうして僕の名前が呼ばれたんだろう。 ここにいる誰にも僕の名前は教えてないはず。チケットの取引で木村さんには 教えてるけど、他の人には全然教えてない。僕は観劇の前から今までずっと木村と 呼ばれるし。それじゃなんで、こんな所でいきなり。 「桜木さん、こっち」 「遅れてごめーん」 「桜木さんが一番最初に行ったのに。どこ行ってたの?」 なんだ、同じ苗字の人がいただけか。心臓に悪い。 しばらくして、多分全員が着席して、先生がマイクで話し始めた。 「修学旅行はまだ1日あります。疲れてきた人もいるかもしれませんが、きちんと 夕食を食べて、元気に修学旅行を過ごしましょう」 立っている先生に見られながら、こんなにたくさんの女子中学生の中に混じって、 同じジャージを着て晩御飯まで一緒に食べるなんて。端っこにこっそり座っていても やっぱり恥ずかしい。 「それではいただきます」 「いただきまーす」 東京の旅館なので、極端な和風でもなく、研修所みたいな栄養しか考えてない 料理でもなく、かといって女子中学生がキャッキャ喜んで食べるような物でもなく。 そこそこおいしいと言いながら、周りの女子中学生は食べている。 僕は隣と話すこともなく、黙々と食べる。でも僕の前の席がひとつ空いている。 こういう時に席が余るとは考えにくい。まだ来てない人がいるんだろうか。 と思っていたら、女の先生がやってきて、僕の目の前に座った。 「どう?おいしいかしら?」 僕の方を見ながらそう言った。真正面に先生が座ったから、かなり焦った。 でも普通の会話だ。普通に答えておけばいい。 「は、はい。おいしいです」 先生は5口くらい食べた後、隣の生徒に話しかけた。 「あなたは今日、何を見たの?」 「美術館です」 「わたしもー」 そのまた隣の子も答える。 「そうか。どれが印象に残った?」 「フィ、フィメール?」 「フェルメールね」 「写真みたいだったけど、他の訳の分からない絵よりは印象に残りました」 「確かに写真みたいだけど、三百年以上前のリアルなカラー写真と思えば、 おもしろいでしょ?三百年前に、あんな生々しくて艶めかしい人たちが 生活してたんだから。ヨーロッパだけど」 「はあ」 先生の言ってる事が今一つ理解できないような返事が返ってきた。 先生は苦笑しながら、今度は僕の方を向いた。 「あなたは何を見たの?」 今まで女子中学生相手にべらべらしゃべっちゃったけど、今度は先生だ。 適当にごまかさなきゃ。 「えっと、演劇、です」 「ハムレットだったわよね?どうだった?」 「あの、なかなか面白かった、です」 言ってしまってから、ごまかし方が大人の社交辞令みたいで、あまり中学生らしく ないように思えてきた。 「どの登場人物が面白かった?」 細かい質問が来た。『面白かった』だけでは、そう問い返されても仕方ない。 ごまかすと言っても、印象に残らなかった事を面白かったというのも変だし、 わざとらしくて目立ちそう。 「クローディ…」 「クローディアス?」 この先生、ハムレットの話を知ってるのか?国語の先生か英語の先生か。 確かに先生なら知ってても不思議じゃない。あまりいい加減な事も言えない。 「はい。クローディアス、です」 「敵役が面白かったの?」 「はい。すごく悪役してて、舞台に出てきた瞬間に悪役と分かって、笑っちゃう くらいに悪役っぽくって」 「ほう」 「それが芸人一座の芝居を見て怯えて逃げ出して、言い訳しつつ神様に祈りだす 辺りがもう最高で」 「ははは、それ見たかったなー。橘クローディアス」 この先生、橘洋平を知ってる。 「美術の教師だから美術館に回されたけど、本当は見たかったのよね、今回の ハムレット。主役のハムレットはどうだった?」 美術の先生か。でも『今回のハムレット』というくらいに演劇にも詳しそうだ。 いまさら中途半端な答えも出来ない。 「ハムレットは、下品な真似をするんですけど、なんとなくお上品な感じがあって、 わざとらしさがにじみ出てて」 「いいなー、それ。ほんと、見たかった」 なんだか嬉しそう。僕の話を聞いて喜んでくれて、ちょっと嬉しくなった。 「オフェーリアはどうだった?」 「桂オフェーリアは本当に可愛かったです。それが2幕で狂ってくれるわけで」 しまった、勢い余って桂オフェーリアとか言ってしまった。『狂ってくれる』とか、 事前に知ってて期待していたような言い方をしてしまった。 「あー。本当に見たかったなー」 本当に見れなくて悔しい、というのが分かる口調だ。 「帰ってから、その話を聞かせてね」 先生は既に食べ終わっていた。仕事でもあるのか、立ち上がってどこかに行って しまった。 どうしよう、『帰ってから聞かせて』なんて言われてしまった。先生が喜ぶから ついしゃべってしまったけど、顔を覚えられてしまったんだろうか。どうしよう。