フォーティンブラスの命令で兵士がハムレットの遺体を持ち上げて、弔砲がと轟く中、 列を作ってゆっくりと歩き、遺体を運び出していく。 誰がどう見たってここで話は終わりなのだが、誰も拍手をしない。面白くなくかった から拍手をしないというのではない。拍手のしどころが分からなくて拍手をしない だけだ。だってここにいるのは、学校行事で観に来た中学生高校生だけなんだから。 ここまでだって、面白くて拍手をしているのか、ノリが良くて拍手をしているのか、 場面転換の儀礼として拍手をしているのか、なんだか分からないけど先生に言われた 通りに拍手をしているだけなのか、良く分からない拍手だったんだから。俳優が時々 言っている『学生さんの団体の拍手は新鮮』というのはこれの事なのか。 しかし、どう見たって終わりの場面で拍手がないのは変な気持ちだ。面白くなかった のならまだしも、橘洋平のクローディアスは素晴らしかった。だから、ここで拍手を しないのはおかしい。普通の中学生高校生が難解なハムレットを見て感動するとも 思えないから、面白くないというのも正しいかもしれないが、僕は面白かったんだから。 つまり僕が拍手をすればいいのか。まだ誰も拍手をしない。僕が先陣を切って拍手を するのか。それもなんだか恥ずかしいけど、かと言って、やらない訳にもいかない。 でも拍手のタイミングってこれでいいのかな。早過ぎるって事はないよな。だって。 あ、幕が降り始めた。これはいくらなんでも早過ぎる事はない。遅過ぎるくらいだ。 と、3秒間で考えて。思い切って拍手を始めた。 1秒後には他の人も拍手を始めたので、ほっとした。僕が始めなくても他の人が 始めたかな、と思わなくもないけど、もう1秒待ってたら、幕がかなり降りて しまっていただろう。それはさすがに変だ。うん。僕が始めて良かったんだ。 でもたかが拍手をするのにこんなに緊張するとは思わなかった。 拍手が少し落ち着いた時。 「木村さん、一番最初に拍手してたね」 隣に座っている菊井さんが顔を近づけてそう言った。 「始まる前、すごく楽しみにしてたみたいだけど、面白かった?」 「え?う、うん」 「ふーん」 しまった。また目立つ事をしてしまった。自分が女子中の制服を着ている事を 思い出した。スカートと丈の短いブレザーの女子制服を着ている違和感を、 舞台を見ている間は忘れていたけど、強烈に感じ始めた。これを着たまま、 ハムレットを最初から最後まで見てしまった。どうしても見たいと思って この女子制服を着て劇場に入ったんだけど、今更ながらに恥ずかしくなってきた。 シェークスピアの作品は以前にも見た事があるし、ハムレットも映画版をDVDで 見た事があるものの、実際に舞台でハムレットを見るのはこれが初めてだ。 ハムレットの事を思い出すたびに、この女子制服を思い出す事になるんだろうか。 『僕が生の舞台でハムレットを見たのは、大学生の時、女子中の修学旅行で 観劇したのが初めて』って。僕が二十歳を過ぎてから上演された作品を観たのが、 女子中の修学旅行の時だったなんて、自分でも訳が分からない。ハムレットなんて 世界中で何度も上演されているけど、黒金ハムレットに橘クローディアスに 桂由真オフェーリアはこの一度だけなんだから。 などと考えているうちに、拍手が段々と小さくなっていったが、鳴り止む前に 再び幕が上がった。意外と早くカーテンコールが始まった。いつもは無駄に 引っ張るのに。やっぱり学校団体の貸切だからだろうか。いつもふざけている 橘洋平がお行儀良く挨拶しているのも珍しい。シェークスピア作品だし、 変な演出があったわけでもないし、これで手を振って終わりかな、と思ったが、 幕が降りず、主要キャストが舞台に残り、手を下ろして整列した。 「これより、各校代表による花束贈呈です」 左の方でなにやら動いていると思ったら、花束を持った生徒が十人ほど、舞台の 上に上がってきた。制服は全員違うから、あれだけの学校が今日観に来たのだろう。 真ん中にマイクが据え付けられて、一番人数が多そうな女子高校の生徒がマイクの 前に立った。 「本日は、迫力にあふれる、大変素晴らしい舞台を鑑賞する事ができ、有意義な 時間を過ごす事が出来ました」 学校団体ってこういう事もやるのか。 「とても難しい内容を含む作品でしたが、同級生と語り合って、さらに理解を 深めたいと思います」 そういえば休憩の時に、同じ制服を着た隣の女子中学生と『登場人物の男性の うちで誰が好きか』という話題で話したっけ。女子中学生と語り合った僕って。 そういえば、6年くらい前の高校の修学旅行の時に『修学旅行は授業の一環』と 言われたっけ。つまり僕は、女子中学校の授業に出席したのか。 「出演者の皆様、力のこもった演技をありがとうございました」 マイクの前に立った子がそう言い終わると、全員が前に進んで、主要な役の役者に 花束を渡した。桂由真に花束を渡しているのは、僕と同じ制服を着ている女子だ。 僕の周りにいる女子中学生と同じ学校、同じ学年の子だ。自分と同級生の子が 桂由真に花束を渡しているように思えてきて、ちょっとうらやましくなった。 あんな近くで桂由真を見られるなんて。あれって生徒会長なんだろうか。 全員がこれを観に来ている訳ではないらしいから、副会長かもしれないが、 やっぱりうらやましい。あれを僕がやれるんだったら……千人の中学生高校生に、 女子中の制服を着ている僕の姿を見られるのか。それはちょっと。桂由真にも、 僕の女子制服姿をすぐ近くで見られるわけで。 舞台の上に上がった生徒が舞台から降りて、出演者が花束を持って手を振りながら 退場し、ようやく幕が降りた。 ホールの照明が明るくなった。それと同時に自分の膝の上にスカートがあるのが 目に見えた。周りの女子と同じ制服を着ている事がはっきりと分かる。 芝居が終わって目的を果たしてしまったから、自分が中学生用のスカートを はいているのが余計に恥ずかしくなる。周りの中学生に気付かれないように ここを抜け出して、木村さんと落ち合って、早く着替えたい。 「公演は終了しましたが、この後、舞台裏見学会となります。順番に案内いたし ますので、しばらくの間、お座席に座ってお待ちください」 ちょっと待て、舞台裏見学会だって?そんなの聞いてないぞ。でも学校団体の貸切 なら、そういうのがあっても不思議じゃない。今日はこの公演の1回だけだし。 「舞台裏見学会って何を見るの?」 右隣の背の高い女子が話しかけてきた。 「衣装とか。小道具とか。背景にあった建物や壁や。あと、そういうものを 出し入れするための仕掛けとか盆とか…」 あ、あまりベラベラしゃべると、また目立ってしまう。 「…じゃないかな?」 「へえ」 でも自分でしゃべっているうちに楽しみになってきた。そういうのが見られる のなら、もうちょっとだけこの制服を我慢しないと。でも、劇を観るのは 照明が落ちた暗い部屋の中で座っているだけだったけど、見学会なら明るい所を 歩くだろうから、みんなから見られてしまうんだろうな。同じ制服がこれだけ たくさんいるから目立たないんだろうけど、今までも別に不審に思われたり 男だとばれたりはしてないのだけど、でもやっぱり恥ずかしい。 「うーん、私全然分からなかった。難しそうな事ばかり言って」 左隣の菊井さんがそう話しかけてきた。 「え、えっと、そう、かな?ほら、桂真由の中世ドレスがきれいだったし」 ハムレットは無茶苦茶難しいよ、とか言うのもなんだか変に思われそうで、 適当な事を言っておく。 「それは私も思ったけどー。分からなかったよー」 「そう?父親の仇を打つために策略を進めていたら、間違って恋人の父親を 殺して、それで恋人が嘆き悲しんで自殺して、恋人の兄と決闘する事になって。 普通にメロドラマじゃない」 菊井さんの隣にいる白吹さんがそう答えた。 「なるほど、そうか」 背の高い子が納得している。頭良さそうな子は、やっぱり僕よりも頭いいのかも。 僕が目立たなくなるという点ではほっとするけど、自分が女子中学生の中に 普通に紛れてしまって、普通の女子中学生、普通の14歳女子になったような 気もして、ちょっと複雑。 舞台裏見学会のために少しずつ人が出て行くので、客席も少しずつ人が少なく なっていく。でも僕たちはまだ。どのくらい時間がかかるんだろう。ちょっと 不安になってきた。足元に置いていた学校名入りのカバンを膝の上に置く。 これは木村さんのカバンだから勝手に開けるのは気が引けるけど、これを見ないと 終了時間が分からない。ドキドキしながら、ゆっくりとチャックを開ける。 開けたらすぐに修学旅行のしおりが出てきた。それを取ると、その下には傘が あった。今日は雲が多くはあるけど、でも雨が降りそうだったかな? 傘の下には、午前中に見てきたと思しき企業見学のパンフレットがあった。 その下にタオルがあって、その下に筆入れがあった。こんな所にあるんじゃ、 すぐに分かるはずがない。 とりあえず修学旅行のしおりを開いて、今日の予定が載ってそうなページを探す。 「何を見てるの?」 隣に座っている菊井さんがのぞきこんだ。 「この後の予定がどうなってるのかなって」 「舞台裏見学会の後は、博物館をひとつ見て終わりだよ。あまり大きくない 博物館を見て終わり」 普通なら、覚えるくらいに修学旅行のしおりを見ているものかも知れない。 だとしたら、今頃確認するなんて変と思われるかも。何か言い訳をしなきゃ。 「どのくらい時間がかかるのかなって。舞台裏見学会」 「ああ、そうだね」 うん、これは隣の子も知らないようだ。 「今日の予定はこのページから。私たちのグループは、次のページ」 菊井さんが教えてくれたページを開く。午前中は企業見学、お昼を食べて、 少し休憩があって、観劇があって。あれ、このホールを出る時刻が書いてない。 「書いてないね。やっぱり順番次第ではっきりと分からないんだ。その次の 博物館もあまり大きくないから、20人くらいのグループで少しずつ入る、 みたいな言ってたような気がするし」 その博物館の見学時刻も「午後5〜6時で終了」と、あいまいな書き方を してある。木村さんはどこを見て『ハムレットとコンサートの終了時間は 大体同じ』と思ったんだろう?もしかしたら、他の日の公演終了時刻と比べて 『大体同じ』と思ったんだろうか。この『ハムレット』は少し長かったから、 普通のコンサートが同時に始まればコンサートの方が確実に早く終わる。 木村さんはあの時にチケット売り場に並んでいたから、多少遅く始まったかも しれないが、それでも今ちょうど終わったくらいか。木村さんはもう公園で 待っているかも知れない。それはちょっとまずいかも。でも、舞台裏見学会を 待っている今の状態で、この建物の外にこっそり出るのは無理っぽいし。 どうにかならないかな?携帯電話で連絡を……あ、僕の携帯電話はカバンの 中に入れていた。あのカバンは木村さんが持っている。どうしよう。 あ、木村さんの携帯電話があればいいんだ。かける先は僕自身の携帯電話だ。 問題ない。そう思い、口の開いたカバンに手を突っ込んでみるが、それらしい ものは見当たらない。修学旅行中の中学生だから、『保護者からの連絡は先生が 受け付けるから、お前らは携帯電話禁止』とか言われてそう。 「何探してるの?」 また隣の子に不思議がられてしまった。 「えっと、カバンの中がごちゃごちゃになって、ほら、さっきも筆入れをすぐに 取り出せなかったから、ちょっと整理しようかな、っと」 「そうだね。筆記道具をすぐに取り出せないのは困るよね」 傘を下にして、修学旅行のしおりやパンフレットを横に入れて、筆入れを一番 上にして。チャックを閉じる。でもカバンの中には僕の持ち物がひとつもない。 僕のカバンじゃないから当たり前だけど、自分の物がひとつもないのは少し 落ち着かない。カバンだけじゃない。着ている制服も、靴も靴下も、下着までもが 僕の物じゃない。僕のものは自分の体だけ。そう考えたら不安になってきた。 僕がここで死んだら、木村春子として富山で葬儀が行われて、富山で埋葬される のだろうか。修学旅行中の交通事故か火事で死んで世間の注目されたら、 木村春子としての、女子中学生としての僕の葬式が、県内ニュースで流れたり するんだろうか。死にまではしなくても、僕がここで怪我をしたら、木村春子と して病院に行って、その後には富山に一人だけ送り返されるんだろうか。 怪我も出来ないんだ。 「あ、私たちの番だよ。木村さんは5組で一人だけなんだよね?私たちと 一緒に行く?」 隣の子が声をかけてきた。変な事を考えていたら、ちょっと慌てた。 「え?あ、はい。一緒に行きましょう」 こんなに長く一緒にいると、ますます顔を覚えられるような気もするけど、 他のグループに混じってさらに多くの人に顔を覚えられるよりは、 この数人だけで済ませた方がいいかな。それにいろんなお話をしてて、 ちょっとだけ楽しくなったし。あと数十分だけなんだけど、全然知らない人 ばかりのグループに入るよりは、この3時間ほどの間だけでも一緒にいて、 少しは話した事がある人と一緒にいる方が楽したいそうだし。 木村さんと落ち合う事ができるのかちょっと不安だけど、すぐ隣でコンサートを 見てたんだから、不安になったらこの建物の周りで待っててくれるはず。 などと楽観的に考えながら、周りの女子中学生と一緒に立ち上がり、列を作った。 観劇前は知らない子ばかりの中にいて緊張したけど、今はちょっとだけ話した 女子が周りにいるから、そこまで緊張はしない。ちょっと話をした中学生女子と 同じ制服を着て列を作るのは、ますます女子中学生に溶け込んでいるようで、 ちょっとが違和感あるけど。。 僕が座っていた席の列と後ろの列の20人でグループになって、廊下に出た。 同じ列の離れた所に座っていた女子が背が高くて、スポーツをやってるっぽい がっしりとした体格で、右隣に座っていた背の高い子と合わせて、背の高い子が 多くて、ちょっと安心した。僕は『ちょっと背が高くて男みたいな顔の生徒』 くらいに見えるだろう、多分。 でもみんなは、同じクラスではないとはいえ、僕を男子大学生とは気付いてなくて、 つまり僕を同じ女子中の生徒、同じ歳の女子中学生と思ってるんだろうな。 だって女子の制服を着ている僕しか見てないんだから。本当は男子大学生である事を 知られて、普通は男性用の服を着ている事を知られるのが、なんだが恥ずかしく 思えてくる。実は男子大学生の僕が女子中学生と同じ制服を着ている事がばれるのが 恥ずかしいのではない。ここにいるみんなには、それはもう十分に見られたんだから。 それよりも、僕がいつも男性用の服を着ている事を知られて、それを見られるのが、 恥ずかしいような気がしてきた。女子中学生の僕が、実はこっそり男子大学生として 生活していて、それがみんなに知られる方が恥ずかしい事のように思えた。 明るくてきれいな廊下から、細い通路に入り、小さなドアを通り、さらに細く薄暗い 通路を進んでいく。急に広くなったと思ったら、倉庫みたいな部屋があった。 たくさんの棚があって、工事のための道具みたいな雑然と物が並んでいた。 「体育館の倉庫みたい」 誰かがそう言った。 もう少し奥に進むと、少し広いスペースがあって、そこに舞台衣装を着た女性が 立っていた。 「柿沢学園女子中学校のみなさん。舞台裏見学会へようこそ。わたくしは、先ほど この衣装で舞台に上がっていた、西藤真知子です。私がどこで出演していたか、 覚えてますか?」 みんな、友達同士で顔を見合わせるだけで何も言わない。 「覚えてない?あははは。芸人一座の王妃ですよ。だからこんな立派なドレスを」 首をかしげる人や、『えー』っと言って、わざと付けた汚れた部分を指さす人や。 「そんな立派に見えない?芸人一座の王妃様ですから。うん。ちなみに私、 柿沢学園女子の卒業生です」 さすがにこれには全員が反応した。 「高校を卒業したのが10年前ですけど。私もその制服を着てたんですよ。ほんと」 そう言って、僕の方を指さした。指さされて、ちょっとドキっとした。僕は本物の 柿沢学園女子中の生徒じゃないのに。でも、この人も10年前にこの制服を着ていた 先輩なんだ。そう思うと、ちょっと不思議な感じ。あ、僕の先輩じゃないんだ。 「柿沢を卒業されて、俳優になられたんですか?」 僕の近くに立っている背の高い女子が尋ねた。 「どうしてでしょう?大学は体育大学なんですけどね」 これもみんな驚いていた。スポーツに力を入れている中学だそうだから、自分自身 スポーツをやってる子も多いだろうし、自分はやってなくてもそういう同級生が 多いんだから。 「体育大学を出て俳優ですか?」 「うん。日本だと背が高くてすっごく細いがモデルから俳優になって、そういう人が もちろん美人だから目立つけど、でも体力を使うし、ダンスをやれば本当にスポーツ みたいだし。チアリーディングやバトントワリングはほとんどスポーツに見える でしょ?逆に体操がダンスのように思えたり。外国じゃ女優でも筋肉隆々の人が 多いよ。ほら、そこの背の高い3人、こっちおいで」 また僕の方を指さした。背の高い3人というのは、体格がいい子と、隣の席に 座っていた細い子と、もしかしてその次は僕なのか。近くに立っていた細い子が、 僕の手を引っ張って前に出た。みんなの前に引っ張り出された。ここにいるのは、 僕の近くに座っていて僕の事を既に何度も見ている人たちだけど、こうして前に 引っ張り出されると、全員が注目しているわけで、男子大学生の僕が女子中学生と 同じ制服を着ているのが恥ずかしい。同じ制服を着て隣に立っているのが、 僕よりも背が高くて体格のいい女子だから、そっちの方が目立って注目されている、 といいな。 「あなた達、背が高くて目立つし、体格もいいし、元気そうだし」 女優さんが体格のいい子と僕の肩を握った。女子制服の上から体をつかまれると、 それだけ女子制服を体に押し付けられたような気がして、僕の体に女子制服が さらに密着したようで、ドキドキしてくる。 「あなたは細いけど服の下に筋肉が付いてそうだし」 「わ、私、そんな美人じゃないですしー」 この3人で一番可愛い子にそれを言われてしまった。 「3人とも普通に女の子らしい顔をしているよ。それに舞台だったら、ニキビ跡が 全然見えなくなるくらいに厚化粧するし。ほら、私のこれを見てよ」 「あ、本当だ」 体格のいい子が顔を近づけて見ている。 「それにこの衣装、結構重いよ。ほら、スカートの裾を持ってみて」 なんだか僕に言われたような気がして、それに僕はまだ一言もしゃべってないし、 仕方なくスカートの裾に手を伸ばした。なんだかスカートめくりをしているような 気分だけど、僕もスカートをはいてるし。裾をかかえると、スカートは何重にも なっていて、かなり重たい。 「かなり重いです」 「これはまだ軽い方だから。本当にきれいなドレスを着るには体力がいるわよ」 僕に向かって『きれいなドレスを着るには』と言われたような気がする。僕にも 言ったんだろうけど。女子の制服を着ている時に『普通に女の子らしい顔』とか 言われるちゃうし。普通の中学生の女の子みたいな扱いをされて、本当に自分が 普通の中学生の女子になったような気がしてくる。 「あ、前のグループが先に進んだようなので、これからみんなで舞台の上に 上がります」 女優さんの後について舞台にあがる。 「次の出番の人はここで待ちます。それでは中央に進みましょう」 「わー、天井が高ーい」 「天井には照明などいろんな装置があるので、広くなっています。あそこから ロープを下ろして釣り上げられる役者さんもいます」 さっき観ていた舞台の中央まで来た。大道具や小道具は片付けられているから、 本当に何にもない。体育館みたいにつるつるの床に、所々目印のテープが貼ってある だけの場所だけど、舞台の中央に立つと客席が見える。まだ人がいて、女子制服を 着ている僕が見られているような気がして恥ずかしくなる。周りのみんなと同じ制服 だから目立たないんだろうけど、それはそれで恥ずかしいし。 女優さんの説明を聞きながら、同じ制服の女子中学生に混じっていろんな場所を 見て歩いた。 「今回は使いませんでしたが、作品によってはここにオーケストラが入ります」 「こんな狭い所にオーケストラが入るんですか?」 そう質問している菊井さんは、いつの間にか僕の手を握っていた。 「オーケストラと言っても、各楽器が一人か二人、二十人程度のオーケストラ ですが、広くはないですね」 女の子に手を握られるなんてドキドキするけど、でも傍からみたら、女の子同士が 仲良く手をつないでいるようにしか見えないのかな。街中で見かける仲良し女の子が 手をつないでいる様子を思い出して、あれを僕が今やってるんだと思うと、 自分がああいう女の子の一人になっちゃったような気がして、それでドキドキする。 「それではこの背景を前に記念撮影をします」 女子の制服を着ている姿の写真まで撮られるのか。修学旅行ならば確かに記念写真の 3枚くらい当たり前かもしれないけど。でも、富山の女子中の記念写真に僕が写って しまったら、修学旅行の記録に僕が残るという事で、自分がますます女子中学生に なってしまうような気がしてくる。でもこの写真は自分で見る事はないだろう。 いや、木村さんが送り付けて来たら見ちゃうかも。 「ではここに1列に並んでください」 背景の絵はかなり大きく、詰めて並べば20人が横一列に並べる。横一列という事は、 写真には全身が写る事になる。スカートをはいてすねを出している姿を撮られる事に なる。 「はーい、撮りまーす」 しかも19人の女子と、同じ制服を着て並んで撮影だなんて。ここにいる女の子達と 同じ、この女の子の中の一人に思えてしまう。 「はーい、終了でーす」 カメラマンさんの声が聞こえた。 「はい、これで舞台裏見学会は終了です。こちらから駐車場に出てください」 言われた方向を見ると、そこにドアはなく、舞台装置の搬入口みたいな出入口だった。 みんなそこからぞろぞろと外に出ていた。外に出ると、確かに駐車場だった。 入場した時の入口とは全然別の方向に見えた。舞台の搬入口ならば、客席の出入口 とは正反対かもしれない。チケット売場が面している商店街の雰囲気とは全然違って、 こちら側は小さなオフィスビルや小さな工場みたいな建物が並んでいるだけ。 お店はほとんどない。木村さんと落ち合って着替える公園から離れてしまったかも。 どうしよう。状況が分かるものは何かないか。とりあえず修学旅行のしおりを 取り出した。 「何を調べるの?」 隣に立っていた菊井さんが尋ねてきた。 「えっと、これからどうするのかな、って」 「博物館まで歩くらしいけど」 「歩くって……どっちに?」 「他の人は……あれは別の学校か。あれ、うちの学校の人、ここにはいないね。 先生には『自分たちで歩いて行け』って言われたような。どっちだろう?」 自分たちで歩いて行けって、そんな事を言われても。修学旅行のしおりを 適当に開いたら、さっき開いたページだったので、1枚めくったら地図があった。 「この地図を見て行けって事かな?」 「そうかも」 これが東京カンファレンス&フォーラム、こっちが駅だから、普通の入口側。 出てきたのはここ。やっぱり正反対側だ。 「えっと、この道を右に進めばいいんだよね?じゃあ行こう」 菊井さんが僕の腕をつかんで引っ張った。どうしよう。ここでいきなり『トイレに 行きたい』なんて言いづらい。次の博物館で行けばいいって言われそうだし。 木村さんも多分この先の予定を知ってるだろうから、先回りしてくれているんじゃ ないかな?と期待して、菊井さんに引っ張られて道路に出た。 晴天ではないけど、それでも十分に明るい屋外に出て、こうして道を歩いていると、 今まで以上に女子中の制服を着ているんだって自覚させられる。歩いていると 無意識のうちに足元を見てしまうから、スカートをはいて歩いている事も実感する。 しかも同じスカートと靴をはいている子の足が、左右に見える。 「この角を曲がるの?」 「もっと先」 僕の手にある修学旅行のしおりを、菊井さんと白吹さんが僕をはさんで左右から 見ている。僕の腕に体を押し付けるようにして地図をのぞき込んでいる。 二人とも胸が大きい訳じゃなさそうだけど、それでも女の子二人に体を押し付け られてドキドキする。こんなに明るい場所でこんなに近くだと、同じ制服を着ている という事がはっきりと分かる。 「面倒くさいなー。『自分たちで歩いて行け』なんて」 確かに修学旅行なら、先生かバスガイドさんが旗を持って先導するものじゃないか、 と思う。でも先生に先導されて列を作って歩いたら、すごく子供扱いされてる ような気持ちかも。中学生なんだからすごく子供かも知れないけど、中学校の制服を 着て列を作って先生のあとについて歩くなんて、本当に子供になったように感じて みじめになったかも。それに比べたら、こうして同級生と一緒に地図を見て、 おしゃべりしながら歩いている方が、楽しいっていうか。いや別に、女子中学生と 同じ制服を着て町中を歩くのが楽しい訳じゃないんだけど、それでもこうして 一緒に歩いていると、一緒に歩いている女子中学生が仲良しの同級生のように思えて、 女子中学生の仲良しグループの一人になったようで、やっぱりちょっと楽しい。 少し入り込んだところをしばらく歩いたら、それほど大きくない建物があった。 『警察資料館』と看板が出ていた。正面にあるガラスの向こうには白バイがある。 入口に田中先生が立っていた。 「クラスと名前を確認してから、中に入って、順に見て行きなさい」 一緒に来た子が一列に並んで、順に確認を取っていく。 「4組、植田です」 「はい、次」 「4組、白吹です」 「次」 「4組、菊井です」 僕の番になった。田中先生は入場前に顔を見られたから、多分問題ない、はず。 「えと、5組……木村、です」 「うーんと…」 先生が悩み始めた。なんだろう。ドキドキしてきた。 「5組は次の紙か。木村と。はい次」 組が違うから、用紙をめくっただけか。ドキドキして損した気分。 菊井さん達と一緒に奥に入ると、パトカーや小さなヘリコプターが置いてあった。 すごく古そうな物ばかりだから、使い終わった本物なんだろう。ちょっと興味が 湧いたけど、白吹さんはあまり興味がなさそうで先に進んでしまう。 『あのヘリコプターに乗ってみたい!』とか言ったら、やっぱり変だろうか。 女子だから変というよりも、本当は大学生の僕がそんな事を言って女子中学生の みんなを引き留めるのも子供っぽくて変に思えてしまう。 「わたし、これ乗っちゃおう!」 後ろにいた女子が乗り込んだ。うーん、どうしよう。でも白吹さんと菊井さんが 2階に行くから、僕も2階に進む。 2階には新旧の制服、警棒、手錠などが展示されていた。 「えー、昔の女性警察官の制服ってこんなんだったの?これはちょっと着たく ないなー」 「そう?こっちの方が偉そうで警察官向きだと思うけど」 「その前のこれ、木村さんが似合いそう」 昔の女性警察官を指さして、白吹さんがそう言った。 「こ、これ?」 「確かに木村さんなら似合いそう」 女性警察官の制服が似合うって言われて、褒め言葉なのかも知れないけど、 恥ずかしいような、でも嬉しいような。 そして3階に上がり、警察の歴史についての年表を見て、少し進んで展示を見て。 白吹さんが先に進まなくなった。菊井さんは追い越して先に行ってしまった。 「何を、見てるの?」 白吹さんが見ている先を見ると、西南の役の作戦図だった。 「これって西南戦争で使われた、本物?」 「そうじゃないかな…」 すごく嬉しそうな顔で凝視している。そういえば休憩の時の会話で、戦国時代だ 源平合戦だと言ってたから、歴史好きなのかも。結局、菊井さんが4階に上がって 戻ってきて、僕が4階に上がって戻ってきて、白吹さんはその間ずっと西南の役 関係のところを見ていた。 「そろそろ時間じゃない?」 菊井さんが時計を見ながらそう言っても、まだ見ていたそうにしていた。 「私たち二人で、白吹さんを連れて行こうよ」 菊井さんがそう言った。 「え、うん、そうしようか…」 菊井さんが白吹さんの右手を握った。という事は、左手は僕か。自分から女子中学生 の手を握るなんて、なんだかいけない事のように思えたけど、でも今は同じ中学の 同じ学年の女同士、という事になっているから。そういう事にして白吹さんの 左手を握った。自分から手を握ると、女の子の柔らかい手の感触をすごく感じる。 「うーん」 白吹さんは未練があるような顔をしながらも、二人に手を握られて、仕方なく歩き 始めた。 警察資料館の外に出たら、他の生徒が同じ方向に歩いているから、今度はどっちに 行けばいいかすぐに分かった。結局3人で手をつないだまま歩くと、広い公園の中に 入った。次はどこに行くんだろう、と思っていたら、生徒の列の向こうにバスが 見えた。 「ようやく旅館に戻れるね。結構疲れちゃった」 もしかして、あのバスに乗って旅館に戻るんだろうか?それはいくらなんでもまずい んじゃないか?周りを見回したけど、公園だから広々していて、ここから逃げ出す のは目立ってしまう。トイレを口実にしようか、と思ったけど、トイレがあるのか どうか分からないし、旅館に戻ってから行けばいいって言われそう。 そんな事を考えているとバスの近くまで来てしまった。手をつないでいる二人は、 自分のクラスのバスがどれか探している。 「あ、あった。これだ」 「じゃあ5組はこれかな?うん、これだ」 「木村さん、今日はすごく楽しかった。旅館でまたお話しよう」 菊井さんにそう言われた。 「う、うん…」 僕は旅館に行かないはずなんだけど。でもこのバスに乗ったら、旅館まで連れて 行かれてしまう。 「それじゃあ」 菊井さんと白吹さんが、バスの乗車口の方に向かった。今のうちなら逃げられる だろうか。でも変な所に逃げたら、木村さんに会えないか。ちょっと遠いけど あの公園まで戻ればいいかも。でも他の生徒と逆の方向に歩くのは目立ち過ぎる。 遠回りでも別の道で歩けば。もう放課後の時間だろうから、こんな制服の女子中学生 なんて他にいくらでもいるし。 「あら、あなた、5組?」 バスの間から出てきた女子に声をかけられた。どうして僕が5組だと分かった んだろう?いや、5組の女子の代わりをやっていると分かったんだろう? 僕に声をかけた女子は僕に近づいて、いきなり手を握り、バスの間に引っ張り込んだ。 握られた手を見た時、胸に『2−5』と書かれた学年組章がある事に気付いた。 これを見て5組と分かったんだろうか。手を引っ張られて行った先には、 『柿沢学園女子中学校・修学旅行・2年5組』と書かれていた。これが5組のバスだ。 そのままバスの搭乗口の途中まで引きずりこまれたところで、僕を引っ張っていた 女子が立ち止まった。 「演劇鑑賞の木村さんが戻ってきました」 「木村、はい。お疲れ」 そしてバスの中に引きずりこまれた。左側の最前列を見ると、先生と思しき人が 座っていたけど、下を向いて名簿を見ていた。でもバスの中にいる生徒はみんな 僕の方を見ている。 「はい。奥に座って」 そう言われたので、仕方なく座席に座る。僕を引っ張ってきた女子が、僕の隣、 通路側の席に座った。これは逃げられない。通路の反対側に座っている女子が 僕の方をチラチラ見ている、ような気がする。今までは同じクラスの子がいないから 気付かれなかったんだろうけど、今は違う。全員が5組の生徒だ。僕が木村さん じゃない、このクラスの生徒じゃない事くらい気付いているはず。 「それで、『ハムレット』を見てきたのよね?どうだった?『ハムレット』は 難しいって聞くけど、面白かった?」 「え、う、うん」 木村さんが『ハムレット』を観に行った、そのはずだというのは知っているようだ。 「長々とした台詞が多かったけど、橘……クローディ……ハムレットのおじ役が 本当に悪そうな悪役で、その悪役が不安になって神様に祈りだす辺りは本当に 良かった」 「へえ」 「ハムレットも、わざと下品な事をするのが、本当にわざとらしくて面白くて」 「そうなんだ。そういう話を聞くと、私もそっちにすれば良かったかな、と 思っちゃう」 もしかして、木村さんが隣でやってるコンサートを見るために観劇を選んで、 誰かに身代わりを頼んでコンサートを観に行きそうだ、と気付いてたんだろうか。 それで木村さんの制服を別の人が着てても驚かなかった、とか。他の子もそれを 知ってて、全然別の人がバスに乗り込んで来るのを見て、チラチラ見てはいるけど、 黙っているんだろうか。 「もうちょっと詳しく聞かせてよ」 「う、うん…オフェーリア……ハムレットの恋人は……」 知った上で、別人の僕をわざと同級生の木村さんとして扱っているんだろうか。 この人に尋ねて確認したいけど、ここには先生もいるし、クラスの全員が知っている のか、一部の人が知っているのか、そこも分からないし、聞くに聞けない。 結局『ハムレット』の話をしているうちに、残りの人達もバスに乗り込み、 バスが発車してしまった。周りにいるのは、同じ制服を着た知らない女子中学生 ばかり。みんなが楽しそうにおしゃべりしている声を聞いていると、これが 女子中学校の修学旅行のバスの中なんだと実感する。演劇の客席と違って、 このバスの中には同じ女子中の同じクラスの女子しかいないから、よそ者の僕が、 男子大学生の僕が一人だけ紛れ込んでいる、そういう気持ちがますます強くなる。