全く手に入らないと思っていた、東京カンファレンス&フォーラムでの 『ハムレット』公演。どうにかネットオークションで手に入れた。 ハムレットに黒金銀太、クローディアスに橘洋平、オフェーリアに桂由真、 ガートルードに久馬冴、それぞれのファンがチケット争奪戦をして、 ファンクラブに入ってない僕には入手不可能だと思っていた。 しかし、たまたま目にしたネットオークションで、チケットを運良く見つけた。 価格は意外にも定価以下だったが、それだけに他の人に先を越されないかと 不安になり、急いで即決価格で落札した。 木曜日午後の公演だが、木曜日は出席を取らない授業だけだから問題ない。 『開場1時間前に、会場近くの指定の場所で取引』というのはちょっと怪しいが、 でもプラチナチケットが定価以下の超格安だったし、他に当てがある訳じゃないので あまり文句も言ってられない。調べてみたら、そのチケットの公演回は 『貸切』になっていた。どうせ旅行会社かクレジットカード会社の貸切だろう。 それならチケット当日渡しも不思議じゃない。リスク承知で払い込んだ。 そして連絡を取り合った結果、会場からそれほど離れていない区役所の玄関前で 受け取りをする事になった。会場近くでは混雑しそうだからだ。 「『王宮の小悪魔』のTシャツだけの薄着で来るように」と指定された。 昨年の桂由真主演作だから当然持っている。桂由真のファンがたくさんいる 会場前でこのTシャツは目立たないだろうが、区役所の前なら十分目立つだろう。 この時期ならもう寒くはないから、Tシャツ1枚でも別にいい。 そんなわけで、当日の開演1時間20分前から区役所の玄関前で待った。 区役所の玄関は意外と人の出入りが多くて、このTシャツは予想以上に目立って 恥ずかしい。それに意外と寒くなった。朝から冷えていたから薄い上着を持って きたけど、受け渡しが終わるまで着れない。あと20分ほどの我慢だけど。 予定時刻を5分過ぎた頃、隣にある公園からやってみた女性に声をかけられた。 「桜木、雄一さんですよね?『ハムレット』のチケットを落札してくれた」 声をかけてきたのは、制服を着た女子高校生だった。 「はい」 女子高生が、あの役者陣での『ハムレット』のチケットを持ってるなんて、 ちょっと意表を突かれた。誰のファンなんだろう。意外とおじさん趣味なのかな。 制服を着ているという事は、学校の行事があって見れなくなったのか。とにかく、 僕は彼女と待ち合わせに成功してほっとした。 「落札してくださってありがとうございます、すごく助かりました」 彼女の方も『良かった』という顔をしている。 「いえいえ、こちらこそありがとうございます。これのチケットはもう手に 入らないかと思ってたので。でも普通に売ったら、最後尾でも1万以上になる チケットですけど、3千円で良かったんですか?」 疑問に思っていた事を尋ねてみた。高校生だからそんな事は知らなかった、という 答えかもしれないが。 「ちょっと色々条件があって、面倒なチケットなんです」 「ああ、貸切公演なんですよね。どこの貸切なんですか?会員証か何かを提示する 必要があるとか?」 「えっと……学校の団体鑑賞なんです」 「え?」 一瞬、なんのことか分からなかった。学校団体の貸切があるのは知っているけど、 それって普通。あ、だから制服を着ているのか。 「私、修学旅行で富山から来たんですけど、すぐ隣の会場でやるテンポ・ジャックの コンサートの方に行きたいんです。普通なら来られない東京に来ていて、すぐ隣で やってるテンポ・ジャックのコンサートを見れないのって、すごく癪じゃないですか」 「まあ、確かにそうですね。僕も大学に入学するまでは田舎に住んでたので、 その気持ちは分かります」 「そうなんですよ。それで抜け出してテンポ・ジャックのコンサートに行こうと 思ったんですけど、抜け出しちゃうと、点呼でばれちゃうじゃないですか。 席がひとつ空いてしまうし」 女子高生は力をこめて熱弁している。割と背の高い子が熱弁しているから、 こっちはやや圧倒され気味。しかし言ってる内容は、ちょっと不安になる内容だ。 「そりゃそうですね」 「だからそこに座って、見てもらう人を募集してたんです」 「な、なるほど……事情は分かりましたけど、でもそれだと」 「だから、この制服を着て入場して欲しいんです」 さすがにこれは慌てた。 「それはちょっと無理じゃないですか?女子の制服を着てあなたの代わりに席に座る だなんて。僕は男だし」 「それは大丈夫です。うちの中学はスポーツに力を入れてて」 中学生だったのか。今まで高校生だと思ってたのに。 「県外から入学する人もいるほどの女子中で、だから背が高い人が結構多いんですよ。 私も割と高い方だけど、もっと高い人がたくさんいるし」 僕が彼女を高校生と思ったのは、背が高いからとか、見た目とか、そういう 理由だけじゃない。年上相手の話し方をされてないような気がしたからだ。 この程度の丁寧語なら、大人が年下相手にも使う程度の丁寧語だ。 そもそも態度が、初めて会った男性相手なのにすごく堂々としている。 それでも制服を着ているから高校生だと思ってたけど、中学生だったなんて。 確かに背がちょっと高くて、僕は見下ろされている感がしたけど、もっと背の高い 同級生がたくさんいるのなら、僕なんてすごくチビに見えて、あまり年上という 感じがしないのかも。あるいは全国大会に出るレベルのスポーツ少女で、 大人と話すのに慣れているのか。 「でも、顔でばれちゃうじゃないですか」 「スポーツばかりやってて、日焼けしてて、ニキビ跡がすごくて、女子なのに ほんと男子にしか見えない人もいるから、あなたなら全然問題ないです」 確かにこの子も日焼けをしてて、髪の毛もかなり短くて、声もかすれてて、 制服じゃなかったら男かも、と思うかもしれない。もちろんそんな事、口に出しては 言えないけど。でもだからといって『あなたなら女子の制服を着ても全然問題ない』 と言われるのは変な気分だ。 「それもありますけど、それだけじゃなくて、先生が点呼をするんですよね? 生徒じゃない人が混じってたら、すぐに先生にばれちゃうんじゃないですか?」 「それも大丈夫です。うちの修学旅行の全員が『ハムレット』を見る訳じゃなくて、 美術館と科学館と『ハムレット』観劇の3つから選択なんです。『ハムレット』で 引率する先生は、私のクラスで授業をしている先生が一人もいないんです。 だから、顔が違っても問題ないです」 「はあ。でも同級生が気付いたら、口止めしてても…」 「私のクラスで『ハムレット』観劇は私一人です。問題ないです」 「はあ…」 話し方にさらに熱がこもってきている。確かにこの機会を逃したら、お気に入り アーティストのコンサートをこの先何年も見れないかもしれないのだから。 「やっぱり……ダメ、ですか?」 彼女はちょっと困ったような顔でそう言った。 「えっと、僕も『ハムレット』は観たいし……本当に大丈夫ですか?」 「大丈夫です」 「…分かりました」 自信満々に答えたので、彼女の提案に乗る事にした。僕だって、これを逃したら 桂由真出演の『ハムレット』はもう見れないだろうし。 「えっと、じゃあ、あそこにある公衆トイレで着替えましょう」 隣の公園にある公衆トイレを指さした。 二人で横断歩道を渡り、公園の公衆トイレの入口に立った。割と大きな公衆トイレで、 当然ながら男子トイレと女子トイレに分かれていた。 「えっと、どうやって着替えるんですか?」 「どうやって、というと?」 「僕は男子トイレを使えばいいのか、女子トイレを使えばいいのか」 「女子の制服を着て出てくるんですから、女子トイレでいいですよ。ここって 使う人が多くないらしいですよ。夜中なら男子トイレを使ってもいいくらいだって」 「はあ。詳しいですね」 「うちは中高一貫で、高校の先輩にテンポ・ジャックのファンがいて、よくここを 使ってるらしくて、詳しいんです。区役所の隣だからいつもきれいだって」 なるほど、先輩の入れ知恵もあったのか。 「あまり時間がないので着替えましょう」 「それじゃあ、失礼します…」 トイレに入るのに『失礼します』と言うのも変だが、女子トイレだし。 「私、こっちに入って脱ぐので、こちらに入って脱いでください」 言われるままに、隣の個室に入った。隣ではガサゴソと音が聞こえ始めたので、 僕も急いで脱ぎ始めた。薄着だったからすぐに下着姿になったけど。 「ところで、そちらは脱いだ後、何を着るんですか?」 「あなたの服です」 僕の服? 「もちろんコンサートにふさわしい服を着たいんですけど、修学旅行中だから たくさん持ってこれなかったんです。今日は朝から施設見学や観劇だけだから、 大きな荷物を持ってると変に思われるし」 確かにそうだ。 「でもTシャツだけだと寒くないですか?一応薄い上着を持って来ましたけど」 「ありがとうございます。でも、コンサート会場の中はTシャツの方が合ってる んじゃないかと思います。踊る客も多いらしいですから」 テンポ・ジャックってテレビでは見た事あるけど、コンサートはそんなノリなのか。 「私、脱ぎ終わりましたんで、先にそちらに渡します。落とさないように気を 付けてください」 トイレの壁の上に服が見えたので、落とさないようにゆっくり受け取り 目の前まで下ろした。でもそこには、制服の上着やスカートだけでなく、 下着や靴下まであった。 「え?下着まで着替えるんですか?」 「だってスカートをはくんだから、その下着じゃないと変ですよね?」 そうなのか?良く分からないけど、隣にいる女子は今素っ裸って事だ。 下着も渡さないといけない。僕も急いで下着を脱いで、自分の服を隣に渡した。 トイレの中で全裸になって、女子中の制服を目の前にしている。これを着ないと いけない。あまり時間がないだろうから、急いで。悩んでいたいけど、 悩む暇もない。とりあえず靴下から。元々短いのに、さらに折り返されている。 折り返してはくのが校則だったりするんだろうか。次にパンツ。ちょっと小さ過ぎ のように見えるが、手に取って引っ張ってみると意外と伸びる。恐る恐るはいて 見ると、小さくはないけど意外と締め付けが強い。水泳用のサポーターみたいで、 これはこれでいいかも。次は…… 「あのー、ブラジャーってどうすれば」 「それはスポーツ用のブラジャーで、大きさはあんまり関係ないから、つけてた方が いいですよ」 「でもあなたはつけなくていいんですか?」 「大丈夫です」 こちらからは何も分からないから、大丈夫という言葉を信じるしかない。 どう着るのか10秒ほど悩んで、まず頭を通して、次に腕を通して、形を整えた。 そしてスカートみたいに長い下着。触るとすごくさらさらしている。 これが『スカートの時はこれじゃなきゃ』という奴か。さっそくスカートみたいのを 着せられて変な気持になる。それからYシャツを着るけど、ボタンの合わせが 男子と違うから、戸惑ってしまう。そして、ジャンパースカートとかいう、 全身をおおうようなスカート。頭から被るのか、上から足を入れるのかしばらく 悩んだけど、なんだか良く分からないまま頭から被ってみた。手を入れた後、 前後ろが反対だと気付いてやり直し。脇と肩のホックを留めて完了。上半身から 覆っているスカートだから結構重たい。着るのも大変だったけど、脱ぐのも 大変そうだ。途中でばれて『制服を脱げ』と言われたら、なんか大変そうに 思えて、すごく不安になる。でも彼女が大丈夫って言うから信じよう。 あとは上着を着て完成。上着は普通のブレザーで、この辺りで見かけるの制服と 比べると地味めの制服だったが、僕が高校生の時の近くの女子商業高校の制服が ちょうどこんな感じだったので、それを着せられたような気持ちになった。 ちょっと頭の悪い女子高だったから、それを二十歳過ぎた自分が着ているのが、 なんだかちょっとへこむというか。でも富山のこの中学は優秀かもしれないぞ。 中学だけど。 とりあえず着終わったから、もうトイレの個室にいる必要はない。とはいえ、 女子トイレだから不安なので、恐る恐るドアを開けると……そこにはかっこいい 男性がいた。いや、僕の服を着た女子中学生がいた。薄着では細い体の線が見えて、 それが逆にかっこよく見える。 「その女子制服、思ってた以上に似合ってますよ。大きさはどうです?」 「えっと、肩幅はちょっと狭いかな、と思うけど、それ以外は少し大きいかも」 「確かにちょっとスカートが長いようだけど、その長さが校則通りかも」 彼女の顔つきはマジ男子だった。背が少し高いとはいえ、さっきまで女子中の制服を 着ていた子がかっこいい男の子になって、僕はそれよりもおチビの女子中学生に なっちゃったなんて。これよりもさらに背が高い女子がいるとなれば、確かに僕が 女子中学生の中に混じっても違和感がないのかも。 しかし、ここは女子トイレだ。僕はいいけど… 「やっぱり女子トイレは早めに出た方がいいんじゃないですか?」 「え?なんで?女子の制服を着てると、女子にしか見えませんよ?」 「僕じゃなくって…その…」 「え……あ、あああ」 理解して、ちょっと顔が引きつっていた。やっぱりショックなのだろうか。 「分かりました。すぐ出ましょう」 公衆トイレから出た。近くにベンチがあったので、二人でそこまで歩いた。 外に出て歩き始めると、スカートがひらひらして、それが出しっぱなしの膝やももに 触れるのは、なんだか変な感じ。すねを出しているのも、真夏にスリッパばきなら ともかく、今の季節は違和感がある。たった10mほど先のベンチまで歩くのに、 ドキドキしてしまった。恥ずかしくて急いでベンチに座ったら、お尻とももの下が 変な具合になって、あわてて手を入れてスカートを整えた。 「他に必要なのは……靴ですね。これも校則で決まってるので」 そう言われて、はいている靴をその場で交換した。女子用の革靴が、僕にぴったり だった。背の高いスポーツ少女の靴とはいえ、ちょっとショック。 「それと、このカバン」 ローマ字で学校名らしきものが書かれているカバンを指さした。 「修学旅行のしおりとか、そういう必要最小限の物だけを持って歩けって言われた ので、これを持っている必要があるんです」 カバンに学校名まで入ってるんじゃ仕方ない。彼女のカバンを受け取ると、 最小限という割には意外と重かった。修学旅行のしおり以外に色々入ってそう。 旅行中だから荷物が多いのか、あるいは午前中にどこかに行っていたのか。 「それだと、僕のカバンは…」 「一人だけカバンを二つ持っていたら目立ちますよね?私が持ってます」 僕のカバンを初めてあった人に預けるのはちょっと抵抗があったが、 そんな立派なカバンでもない。彼女の校名入りのカバンの方が高いかもしれない。 電車1本で帰れるから、大金を持ってる訳でもない。劇場の座席にあるチラシを 持ち帰る事を考えて、カバンの中はほとんど空っぽだ。重たい彼女のカバンの方が、 よっぱど高価な物が入っているように思える。 「それじゃお願いします」 僕も彼女にカバンを渡した。 「それで終わった後の待ち合わせなんですけど」 それが一番大切な事だ。こんな脱ぎにくい服では、どこででも着替えられる訳 ではない。 「『ハムレット』とコンサートの終了時間が大体同じらしくて、『ハムレット』が 終わった後、次の見学先に行くまで時間があるので、その時間で待ち合わせ しましょう」 「場所はここでいいですか?」 「着替えなきゃいけないので、ここで」 「えっと…」 今聞いておくべき事は何か、必死に考える。 「あ、点呼があるんですよね?」 「はい。午前の見学でもありました」 「じゃあ名前とか、クラスとか。そもそも学校名が分からないと集合できないかも」 「左胸ポケットに生徒手帳があるので、それを見てください。全部書いてあります」 左胸のポケットに手を突っ込み、そこにあった生徒手帳を取り出した。 『柿沢学園女子中学校2年5組木村春子』と書いてあった。その横に、女子中の 制服を着た男前の写真が貼ってあった。目の前にいる人が男前だから、同じ顔で 女子中の制服を着ている写真であっても、もう男子にしか見えない。 「分かりました。えっと、会場に入る時の集合場所は?」 「チケット売り場の前のスペースに、いくつかの学校が観に来るらしいので、 そこで学校ごとに並ぶ、と言ってました。分かります?」 「チケット売り場の前なら分かります。学校ごとに並んでいるっていうのは、 学校名の旗とか…」 「そんなのあったかな?」 「えーと、それじゃあ、どうすれば…」 「そうですね……同じ制服の女子を探せばいいんだ」 「ああ、そうか」 「集合時間がもうすぐなので、もう会場の方に行きましょう」 二人で立ち上がり、会場の東京カンファレンス&フォーラムに向かった。 公園から出て区役所の前を通ると、さっきよりも出入りが多くて、女子中の制服を 着ている姿をみんなに見られているような気がして、また恥ずかしくなってくる。 はき慣れないスカートを見られているのが恥ずかしい。ちょっと重たい革靴を はいているのに、短い靴下ですねを丸出しにしているというアンバランスな感触も 奇妙に感じる。上着の丈もおへそが出そうなくらいの長さで、ジャンパースカート だからおへそが出る訳じゃないけど、上着を着ているのに腰やお尻が隠れてなくて、 もちろんスカートで隠れているんだけど、へそより上は厚着なのに、へそより下は 薄着のように感じられて、なんだか落ち着かない。 平日の昼間で、通りには中学生高校生がいないから、女子中学の制服を着ているのが 僕一人というのはちょっと恥ずかしいけど、本物の中学生高校生の女子から変な目で 見られないかと心配する必要はないわけで……あ、向かいから本物の女子高生が来た。 この近くにある女子高の生徒だ。どうしよう、やっぱり本物の女子高生は、男の僕が 女子中の制服を着ている事に気付くだろうか。でも東京の中学の制服じゃなくて、 富山の中学の制服だから、男子が着てても変に思われないかも。それは違うか。 見慣れない制服だから、女子が着てても注目されるかも。本物の女子中学生でも 注目されるんだから、気にしなくていい。うん。そう思ってもドキドキする。 女子高生が近づいてきて、僕の方を見ている。やっぱり注目されるんだ。 『修学旅行生だ』と思われているだけだろうか。やっぱり男が着ているとばれてる んだろうか。ドキドキが激しくなりながらすれ違う時、よく見たら女子高生は 僕ではなく隣の人を見ていた。僕の服を着た男前の女子中学生の方だ。ちらっと 横目で見たら、僕の服を着て、僕のカバンを持って、本当に男子大学生みたいだ。 着ているのは僕の服なのに、僕よりもずっとかっこよくて、僕よりも男子大学生 らしく見えるかも。周りから見ると、僕は、かっこいい男子大学生に連れられた 制服姿の女子中学生に見えるんだろうか。男前の彼女と比較して、僕が美人の 女子中学生に見える事はないだろう。でも不細工な女子中学生くらいには見えている のだろうか。この制服が、僕の地元の頭の悪い商業高校の制服に似ているせいで、 自分が頭の悪い商業高校の不細工な女子生徒の中の一人のように思えてきた。 あの制服を不細工な女子が着ると、地味さが加わってさらに不細工に見えると 思ったけど、今は僕がその不細工な女子なんだろうか。そう思うと歩いていて 恥ずかしくなるし、中身は男の不細工女子中学生を連れて歩いてもらっている 男前の女子中学生に申し訳ない気持ちになってきた。でもこの制服は、 富山の女子中の制服で、私立だからそこまで頭悪くはないんだ、きっと。 そう思っておこう。中学校だけど。 たかが数分歩くだけでそんな事を考えていたら、会場に到着した。 「えっと、それじゃ私、当日券の列に並ぶので」 「あ、まだ買ってなかったんですね。行列があるから、まだチケットはあるんでしょう けど、早く並んだ方がいいですよ」 「それじゃ、終わってから会いましょう」 彼女は列の最後尾に並んだ。窓口をちらっと見たら、S席とB席は残っているけど、 A席は無かった。滅多に来れないであろう富山の子なら、やっぱり奮発してS席か。 あるいはやっぱり中学生だからB席か。僕の方は団体だから、席はもう決まって いるはず。どこか分からないけど。 ここからは僕一人だ。緊張しながら、少し離れた場所にある、少し広めのチケット 売り場に近づいて、こっそり覗き込む。手前には、田舎の中学校の雰囲気を感じさせる 中学生男女が数十人いた。その先には、これも修学旅行っぽい感じの高校生が数十人。 その先には、都心でたまに見かける制服を着た女子が百人以上いた。 僕が着ているのと同じ制服は見当たらない。どこだろう?この会場は千人くらい 入るけど、このスペースに千人も並べない。3回くらいに分けるのだろうか? という事はまだ時間ではないのか。それとも遅れたのか。そんな事を考えていたら、 突然肩を叩かれてびっくりした。 「あ、あ、あの、なんでしょうか、えっと、ぼ、ぼくは」 振り返ると割と若い女性が立っていた。 「柿沢は一番あっちよ。びっくりしてないで、早く行きなさい」 「え、えと、はい…」 その女性はすぐに僕の近くを離れて、僕よりもさらに遠くにいた女子中学生に声を かけていた。僕と同じ制服を着ている女子だ。僕と同じ制服を着ている女子を見て、 ちょっとドキっとした。これって本当に女子中学の制服だったんだ。それを僕が 着ている、と実感した。 大人の女性の方は周りを見回して、さらに同じ制服の女子に声をかけていた。 もしかしたらあの人は、この制服の中学校、柿沢学園の先生なんだろうか? 僕はいきなり先生に見つかって、声をかけられたんだ。どうしよう。でも先生は 不審がる様子もなく、他の生徒と同様に、並ぶ場所を教えてくれた。自分の中学の 生徒だと思っていたようだ。あの子が言ってた通り、授業で顔を合わせる先生が いないという事なのか。でも、まだあの先生一人だけだし。 それでも、ここに立ってても仕方ない。列に並ぼう。そうしないと、せっかく ここまで来たのに観劇が出来ない。違う制服の列の後ろを通って奥に進むと、 一番奥に、確かに僕と同じ制服を着た女子がたくさんいた。百人くらいか? 自分と同じ制服を着た女子の集団を見つける、という関門を達成して、ほっとした。 しかし、本当に自分と同じ制服を着た女子がこんなにたくさんいるのを見ると、 なんだか変な感じ。逆か、このたくさんの女子中学生が着ているのと同じ制服を、 僕が着ているんだ。もちろん僕だって、中学高校の時は何百人と同じ制服を着て いたけど、それは男子だった。女子が同じ制服を着て列を作っているのも、 中学校や高校の時にいくらでも見た事がある。だけど、たくさんの女子と同じ制服を 着て、同じ制服を着た女子の列に並ぶのは初めてだ。本当は男子大学生の僕が、 制服はもう着ちゃってるけど、本当に女子中学生の列に並んでいいのかな、という ためらいの気持ちが湧いてくる。 さっき僕に声をかけた女性の先生が、列の一番前に現れた。 「みんな並んでくださーい」 列に並ばないと観劇出来ない訳だから、並ぶしかない。最後尾にちょっと 遠慮がちに並ぶ。自分と同じ制服を着ている髪の長い女の子をすぐ目の前にして、 僕もこの子と同じ女子中学生なんだろうか、などと思ってしまう。 「クラスごとに点呼を行うので、クラス代表が名簿を取りに来てください」 先生が点呼をするんじゃなくて、クラスごとに点呼をして先生に報告するのか。 それなら先生の近くに行かずに済む、良かった。と思ったけど、ここに同じクラス の人というのはいないんだった。僕一人なんだ。僕が名簿を取りに行かないと、 2年5組の木村春子さんが行方不明という事になる。もう引き返すわけには行かない。 さっきみたいに後ろから声をかけられるのではなく、こちらから先生の目の前に 行かないといけない。恐怖心でいっぱいになりながら、それでも思い切って、 たくさんの女子が並ぶ列の中に足を踏み込む。こんな所を歩いているから、 列を作って座っている女子が全員僕の方に目を向ける。本当は6歳くらい年上の男が 中学生の女子と同じ制服を着て、同じ制服を着ている女子から注目されているなんて、 僕はなんて事をやってるんだろうと後悔した。恥ずかしさで顔が熱くなる。 でもこれをやらないと観劇できないし。 一番前までに行く。一番注目される位置ではあるけど、誰も特に騒いでない。 他のクラスの子が先にいたので、僕はその後ろに並ぶ。僕の前にいたのは、 僕よりも背が低くて、ちょっと小太りの女子だった。いかにも女子中学生という 感じの女子だ。こんな子と並んでいたら、僕が男だとばれるんじゃなかろうか。 そう思っていたら、僕の後ろにもう一人並んだ。振り返ると、僕よりもずっと背が 高くて、日焼けをしていてニキビ跡もすごくて、髪型も『ちょっと長めの角刈り』で、 本当に『男子が女子の制服を着ているのか?』と本当に思うような人が後ろにいた。 よく見ると、ほっぺの感じが『女子かな?』という感じもしないでもない。 さらに周りを見回すと、もう一人、背は僕と同じくらいだけど、いかつい体つきの 女子を一人見つけた。大学生の体育会系男子サークルにいたって不思議じゃないくらい ごつい体つきだ。こんな女子がいるのなら、僕が女子の制服を着て女子に混じってても ばれないかも。 「はーい。次。次の人。あなたの番よ」 後ろを見て考え事をしてたら、もう僕の番が回ってきた。 「えーと、何組かしら?」 「に、に、年、5組です」 「5組と。これね。これに確認の印を……あ」 先生が話すのを途中でやめた。何があったんだろう。もしかして、僕が男子だと ばれたんだろうか。自分の学校の生徒じゃないと気付かれたんだろうか。 「ちょっと待ってね」 先生が名簿の向きを自分の方に変えて、じっくり見ている。時間がかかるので、 段々不安が高まっていく。ばれたらどうしよう。どうすればいいんだろう。 先生が顔を上げて、僕の方を見た。 「5組は一人しかいないのね。じゃあこの場で済ませましょう。ボールペンは? 今、先生は持ってないんだけど」 「え、えっと」 早くこの場を離れたいから、すぐにボールペンを出したいけど、さっきカバンを 交換してから、入っている物を一度も確認していない。筆記用具ぐらいある だろうけど、どこにあるのか分からないままで、立ったまま探すのはかなり難しい。 どうしよう。とりあえずカバンの中に手を突っ込むけど、筆箱っぽい物は 手に当たらない。自分の持ち物がどこにあるか分からないなんて怪しまれるかな、 そんな不安が浮かんできて、余計に慌てる。 「田中先生、ボールペンを持ってませんか?」 座り込んでいた先生が立ちあがった。 「今ここにはないです」 田中先生が僕の方をちらっとみた。少し離れた所に立っていた別の先生らしき人も 僕の方を見た。3人の先生に顔を見られるなんて。どうしよう。 「んーと、ちょっと待って。まず先にこれを渡しちゃいましょう。4組、これで 点呼して」 僕の後ろにいた背の高い女子がそれを受け取り、後ろの方に戻って行った。 最前列に立っているのは、先生達と僕だけになった。 「鉛筆でもいいんだけど。誰か持ってない?」 先生は周りを見回している。 「先生、赤青緑のボールペンならあります」 僕の足元に座っていた女子が、3本のボールペンを手に持って、先生の方に伸ばした。 さらに手を伸ばそうとして、すこしよろけて、スカートから出ている僕のすねを 彼女がとっさにつかんだ。女の子に足をつかまれてドキッとした。 「ごめん」 もう一度、手を伸ばした。 「赤青緑と持ってて、どうして黒を持ってないのかな。こういう時は青でいいか。 ありがとう、菊井さん」 青のボールペンを取った先生は、僕の方を見て。 「えーと、5組、木村」 「はい」 僕しかいないから、僕が返事するしかない。 「5組の点呼終了。これに座席の位置が書いてあるから」 結局その紙を受け取った。 これでこの場を離れられる。そう思って後ろを向いたけど、さっきよりも列の人数が 増えていて、一番後ろに行くのは大変そうだ。僕の、というか、木村さんの クラスメートはここにいないし、あの言い方だと、他のクラスの親しい友達も ここにはいないんだろう。もちろん僕自身が知っている人がいる訳がない。 一緒に行動するべき人がいる訳でもないのに、後ろに行くもの変かも。それなら、 この近くで空いてる場所を探そう。ぐるっと周りを見回していると、下から声が 聞こえた。 「ここが空いてるよ」 下を向くと、さっきボールペンを貸してくれた子が、カバンを膝の上に置いて、 一人座れる分の場所を作っていた。 「ほらほら、早くここに座って」 女の子はニコニコしながら隣の隙間を勧めてくれるけど、ちょっと狭いように感じた。 「え、ここ、いいの、かな?ちょっと狭くて、周りの人が窮屈になりそうな」 「どこもこんな感じだから、わざわざ動かずにここに座りなよ」 確かにそうだ。わざわざ歩く方が邪魔だ。他を探すのをあきらめて、狭い隙間に お尻を押し込んだ。押しくらまんじゅうのような気持ちになる。男子大学生の僕が、 女子中の制服を着て、同じ制服の女子とぎゅうぎゅう詰めになって座っているなんて、 かなり恥ずかしい。周りの女子中学生が少し動くたびに、体を押し付けてくる。 そちらに目を向けると、丸々したほっぺの可愛い女子中学生が、僕と同じ制服を着て、 狭い中で身振り手振りをして話している。後ろの女子は手を叩いて笑い始めて、 その腕が僕の背中を押した。男みたいな顔の生徒もいたけど、ほとんどは普通の 女子中学生だ。美人な子やかわいい子もいる。ものすごく不細工な子もいる。 本当は男子大学生の僕は、下から数えて何番目の不細工だろうか。そんな事を 考えてしまった。 周りの中学生の女の子と同じ制服を着て、ぎゅうぎゅう詰めの中に座っていると、 段々と、僕も女子中学生の一人になったような気がしてきた。理由は他の子とは 違うけど、先生の視線にちょっとびくびくしながら、他の子と一緒に列を作って 座っている。それだけで中学生のような気分だ。僕の周りには同じ制服を着た 女子中学生ばかりだけど、その外側には先生たち、それに会場や公演の関係者が 歩いている。あの人たちには、僕も女子中学生の一人に見えるんだろうか? 「それでは会場に入ります。立ち上がってください」 周りの女子中学生が立ち上がるので、僕も立ち上がった。周りの女子がスカートの お尻から汚れを落とすためにパンパンとはたいているので、なんとなく僕もそれを 真似した。 先生に先導されて、右側の2列が会場に入って行く。真ん中の列の先頭にいた僕は、 その後に続いて入る。こうして列を作って、同じ制服を着た前の人に続いて 歩いていると、本当に中学生のような気分になる。もう二十歳を過ぎているのに こんな気分になるなんて。でも3年くらい前の高校生の時と違って、女子の制服を 着ているけど。女子として中学生からやり直し、のような気もしてきた。 ホールの中に入ると、他の子達は座席がどこにあるか分からなかったり、座席番号を 忘れてクラス代表に聞きに行ったりしている。走り回っている子も多い。その辺りは まさに中学生という感じ。僕は一人だけだから座席番号を誰かに聞く必要もないし、 この会場は4回目だから迷う事もない。さっさと席を見つけて座った。 ここに座ってしまえばもう大丈夫。終わってから生徒でない事がばれても、 実は男子大学生である事がばれても、もう問題ない。いや問題はあるか。 でも女子中の制服を着て観劇をするとは思わなかった。そもそも今日は学校団体の 貸切だ。体育館での観劇会は中学校の時にあったけど、こういうのは初めてだ。 周りを見回すと、全て中学生か高校生だ。先生が何人かいるけど、ほぼ全員が制服を 着ている。僕も女子中の制服を着ている。ますます女子中学生扱いされてる気分 になる。周りにいるの女子中学生だから、少し離れた所にいる、ちょっと大人びた 雰囲気の女子高校生を見ると、僕は中学生の方に放り込まれたんだ、という気分に なる。さらに離れた所には男子がいるから、女子の制服を着て、周囲が女子ばかりの 席にいると、女子扱いを余計に自覚してしまう。そう思いつつ周りを見回すと、 既にほとんどの生徒が席に座っていた。本当に女子中学生の中に、僕一人だけ男子が 混じってるんだ。普通の公演でもたまに20人くらいの中学生団体を見かける事は あったけど、自分がその中の一人になっちゃうなんて。しかも女子の制服を着て。 普通の公演だったら、普通の観客にその姿を見られてたんだろうな。そう思うと 学校団体の貸切で良かった、とも思えなくもない。 「あれ、あなたはそこの席だったんだ」 先生にボールペンを貸した女の子が、僕の隣に座った。 「え、ええ、はい」 「5組はあなただけ、なんだよね?」 「はい…」 「一人だけなのに、観劇を選んだの?そんなに興味があったの?」 「えっと、だって桂木由真が出てるから…」 「え?桂木由真?その人って有名なの?」 あ、まずい。演劇界では有名な人だけど、富山の中学生がそんな事に詳しいなんて 普通はないかも。これでは怪しまれてしまう。何か言い訳を考えないと。 「えっと、ほら、『ぎゅっと果汁』のCMに出てる人」 「ああ、あの美人な人ね。そうか、あの人が出るんだ。私は友達が選んだから選んだ だけなんだけど、そういう話を聞いたら興味が出てきた」 なんとか言い訳ができて、ほっとする。周りが少しうるさいから、顔を近づけて 話しているけど、可愛い女子中学生と顔を近づけて話しているとドキドキする。 背の高い男前の女子中学生は別にドキドキしなかったけど、可愛い顔の女の子だから ドキドキするのか、こんなに顔を近づけたら男だとばれるかもと心配してドキドキ するのか。良く分からない。 「でも、『ハムレット』ってよく聞くけど、どんな話なのかは知らなーい」 「うーん、それは……これから見るから」 「そうだね。『シュークスピア』も良く聞くけど、なんだっけ?」 「『ロミオとジュリエット』とか、『真夏の夜の夢』とか、書いた人」 「『ロミオとジュリエット』なら知ってる。へえ、あれを書いた人なんだ。 もう一つの方は知らないけど」 普通はそうかも。でもこんな風に話していると、この幼い顔の子が同級生のように 思えてくる。この子は僕を女子中学生、同じ2年生だと思ってるんだろうから、 同じ学年だと思って話しているんだろう。そんな話し方をされたら、僕の方も この子を同級生のように思ってしまう。同じ制服を着て、並んで座って、 おしゃべりをして。ますます自分が女子中学生になったような気がしてきた。 同じ学年の女子同士で話しているような気持ちになってきた。 「木村さん、だっけ。詳しいんだね」 「え、別に、そんな事は」 「頭良さそうだしー。かっこいいしー」 一応大学生だから、中学生よりは頭がいいかも知れないけど。かっこいいって 言われるのは初めてだけど、やっぱり男っぽい顔だと思われてるんだろうか。 他にも男っぽい顔の生徒がいるから、あまり気にしないのかもしれないけど、 ばれそうな気がして、ちょっとドキドキ。 「隣のクラスにこんな人がいたんだ。気付かなかったよ。もっと早く仲良く したかったな。修学旅行が終わったら、学校でもっといろんなことをお話しよう。 隣のクラスだし」 まずい。顔を覚えられてしまった。今ばれた訳ではないけど、修学旅行が 終わった後にばれてしまう。この観劇が終わったら、僕はこの制服を脱いで 木村さんに渡して、さっさと逃げてしまう。ばれて怒られるのは木村さんで、 僕が怒られる訳じゃないけど、木村さんがちょっと気の毒ではある。 それよりも、僕の事を隣のクラスの生徒だと思って、帰ったらお話しようと 楽しそうに話すこの子の顔を見ていたら、なんだか罪悪感を持ってしまう。 「まもなく開演です。お席についてお待ちください」 「木村さんの話を聞いたら、ちょっと楽しみになってきた」