困った。 先月県立図書館で開催された空見タカ絵本展、すごく見たかったのだが、 県立図書館がちょっと不便な場所にあって、ゆっくり見れそうになかった。 でも県の南部でも開催予定だと告知されていたから、それに期待していた。 今日届いた県の広報誌によると、その開催場所は隣の市の小学校の図書室だという。 隣の市だから少し遠くてバス停18個先だが、それでもうちの前のバス停から 乗り換えずに行けるからかなり便利だ。これが普通の図書館とか公民館とかだったら 開催期間中毎日見に行ってもいいくらいなのだが、小学校の図書室だとさすがに 毎日通うのはちょっと。というか小学校の図書室って、児童や保護者でなくても 見れるのだろうか。不安になってきた。バスに20分乗って、小学校の玄関で 『ダメです』とか言われたらさすがに嫌だ。電話で確認した方がいいだろう。 ということで、開催場所の小学校に電話をかける事にした。小学校って何時まで 電話に出てくれるんだろうか。市役所とかと同じだろうか。自分が小学生の時を 思い出すと、割と遅くまで先生がいたような気もするけど、保護者でもない自分が 電話をかけていい時間というのが分からない。あまり遅すぎない時間に、広報誌を 目の前に置いて、携帯電話を手に持つ。大学生の僕が小学校に電話するなんて なんだか変な事をしているような気がしてドキドキしてきた。 広報誌に書いてある電話番号を一桁ずつ確認しながら押していく。最後の一桁で すごくドキドキして、しばらくためらってしまって、携帯の画面が消えてしまった。 電話番号を押している最中に画面が消えるなんて初めてだったから、どうしていいか 分からず、あわててしまう。一旦消してしまおう。2回深呼吸して、改めて一桁ずつ 確認しながら押していく。最後の一桁でまたドキドキするけど、時間を空けると また画面が消えてしまう。思い切って最後の一桁を押して、通話ボタンを押す。 『プルプルプル』という音が聞こえて、さらにドキドキする。呼び出し音が5回 鳴って出なかったら、一旦切ろうかな、などと思っていたら、1回で『ガチャ』 という音がした。 「はい、赤沼小学校職員室です」 職員室にかけてしまったんだ。びっくりしたけど、小学校の代表電話だから職員室で 当たり前か。当たり前の事に今更気付いてあわてながらも、別に間違ったわけじゃ ないんだから、あわてて話し始める。 「あの、その、図書館…じゃなくて図書室の…」 「図書室ですね。しばらくお待ちください」 『ガチャ』という音の後、オルゴールみたいな音色の音楽が聞こえた。図書室に つなぎ替えているのだろう。待たされている間に少し気分が落ち着いてきた。 今度は図書室の人が出るんだから、普通に尋ねればいいんだ。それで尋ねたい事を 尋ねればいいんだ。うん。 「お待たせしました。赤沼小学校図書室です」 少し年配の女性の先生みたいな声がして、またちょっと緊張する。 「えっと、あの、その、空見タカ絵本展、来週ありますよね?」 「はい」 「あの、なんていうか、赤沼小学校の児童と関係なくても見れるんでしょうか?」 「えーと、赤沼市外の小学生でしょうか?市外の小学生だと少し遠いので、保護者が 同伴されるか、団体で見に来られた方がよろしいかと」 「あの、そうじゃなくて、小学生でも保護者でもなくて、あの、大学生なんですけど」 「大学生?……ああ、美術関係の学部の方とか」 「いや、そういうのでもなくて、空見タカのファンだから見たいなー、と」 「え…」 絶句しているようだ。やっぱり小学校の図書室だから無理なのか。小学校でやるの だからやっぱり小学生向けの展示で、それを大学生が見に行くなんて無理なんだ。 なんだかそれが当たり前のような気がしてきて、小学生向けの展示を見たいと 電話している自分が、すごく恥ずかしいことをしているような気がしてきた。 「そういうのはダメなんですよね。あの、一応確認をしたかっただけで…」 なんでもいいから早く電話を切りたかったけど、いきなり切るのも変に思われる だろうから、とりあえず思いついた言い訳をしていたら。 「あ、いいんですよ。来ていただいて全然構いません。誰でも見に来ていただける ようにって、県立図書館の人に言われたんです。ここでお断りしたら県立図書館の 人に怒られます。でも大学生の方が来られるというのは想像してなかったもので」 あちらも何やら必死で言い訳している。 「ただ、去年も他の作家さんで絵本展をやったんですけど、その時は市内の小学生と 幼稚園児とその保護者だけだったので、なんというか、ちょっと入りづらいかも しれないかと。あ、見に来てはいけないって訳じゃないんですよ。興味を持った方 にはぜひ見に来ていただきたいんですけど。でもただちょっと…」 微妙な言い方をされて、『はい、見に行きます』と答えにくいけど、『興味を持った 方にはぜひ』と言われたら『やっぱりやめます』とも言いづらい。とりあえず 聞くつもりだったことを聞いておこう。 「あ、あの、県の広報誌には、開場時間とか書いてないんですけど、えっと、 やっぱり放課後、ですよね?」 「え、ええ、まあ。でも放課後はうちの児童も、近くの小学校の児童や幼稚園児も 見に来るだろうから……あ、午前中でよろしければ、児童が授業を受けている間は 誰もいないので…」 「え、いいんですか?それ」 それってつまり僕一人の貸切状態な訳で、ちょっとそれは嬉しいかも。 「あ、ごめんなさい。うちの児童や他の小学校からの団体見学が入っているから、 午前中でもほとんど空きは……いや全然……ない事もないけど、これから埋まるかも 知れないので…」 やっぱり無理なのか。 「あの、どちらにお住まいですか?」 「空沼なんですけど」 「あ、割と近くなんですね」 「沼原1丁目バス停がすぐ目の前で、バス1本でそちらに行けるんですけど」 「ああ、あそこですか。こんな近くでお好きな作家の絵本展が開催されるのだから、 ご覧になりたいんですよね?」 「はい…」 「あの、興味を持った方にはぜひ見に来ていただきたいので、そうですね、 やっぱり放課後という事になりますが、小さな子ばかりだと思うので……そうだ、 お名前とお電話番号をお教え願いませんか?」 人が少なくて入りやすそうな頃合いを後で教えてくれるんだろうか。 「栗間利規です。電話番号は…」 電話番号を教えて、もう一度 「ぜひ見に来てください」 と言われた後に電話を切った。 一応見に行ける事になったようだ。堂々と見に行ける雰囲気じゃないようだけど、 こそこそでも見に行けるのなら、それで十分だ。運が良ければ午前中、児童が 授業を受けている間に貸切で見られるかも。あ、でも僕だって大学の授業がある 時間かもしれない。ちょうど空いてる時刻だったらいいけど。いや、展示を見る 時間と往復の時間で合わせて2時間ほどだ、フケればいい。それもちょっと あわただしいかな。ならば、やっぱり放課後の方がいいかな。 見に行く事が決まったような決まってないような、嬉しいような不安なような、 なんだか良く分からない気持ちで次の日になった。土曜日だからぼけーっとして いたら、玄関をノックする音がした。 「どちら様でしょうか?」 玄関を開けると、少し年配の女性が立っていた。 「栗間さんですね?」 「はい」 「わたくし、赤沼小学校の図書室で司書をやっております平木と申します。 うちの小学校図書室でで開催する空見タカ絵本展に興味を持っていただき ありがとうございます」 まさか小学校の図書館の人が家まで来るとは思わなかった。 「わざわざここまで来られたんですか?」 「ここのすぐ近くに住んでいるものですから。沼原1丁目バス停は娘がよく使う もので。私は車を使いますけど」 「あ、そうなんですか」 近くに住んでいる人と言われるとちょっと親近感が湧くけど、でも近くに住んで いる人と電話であんな事を話したと思うと恥ずかしくなってくる。 「それで、絵本展を見に行くのに、どの日の放課後がいいとかあるんでしょうか?」 「えーと、どの日も変わらないと思いますけど…」 しばらく僕の顔をじろじろ見て、僕の体をじろじろ見て。 「児童のみんなと同じように気楽に見ていただけるように、少し準備をしたいと 思うので、商店街までご一緒によろしいでしょうか?」 「別にかまいませんけど…」 今日は出かけるつもりがなかったので、昨日から着たままの大きめのTシャツと ジーパンという姿だった。 「あの、すぐに着替えますから…」 「すぐそこですので、わざわざ着替えなくても」 「そうですか?」 「ええ、すぐに終わりますし」 なんだか分からないまま、鍵だけ持って外に出た。 すぐ近くの商店街を平木さんと一緒に歩いた。商店街と言ってもそんなにたくさん 店があるわけではない。住宅ばかりの周囲よりは店が集まっているというだけだ。 「どこに行くんですか?」 「すぐに着きます。電話で声をお聞きした時には、とてもかわいらしい声で、 小学生かと思ったんですよ。絵本に興味のある市外の小学生かな、と」 だから『市外の小学生には少し遠い』と言ったんだ。声が幼いって言われた事は 確かに何度もあるけど、電話とはいえ本当に小学生と思われてたなんてショックだ。 「小学生なのに自分で市外の小学校まで電話をかけてくるなんてえらいな、とか」 電話をかける前からドキドキしていた僕を『えらい小学生』とほめられたみたいで、 嬉しいのか悲しいのか分からなくなる。 「今日お顔を拝見しても、割とかわいらしいですし」 平木さんが店の前で立ち止まった。その店のウィンドウには様々な中学校や高校の 制服、そして色々な小学校の制服が展示されていた。どうやら制服店らしい。 「さすがに小学生というには少し大人びてますけど、でもあなたくらいの大人びた 小学生も最近は多いんですよ。絵本大好きのちょっと大人びた小学生の女子、 という事で、他の子達と同じように楽しんでもらえたらいいな、と思いまして」 「えっと、つまり、それって…」 「はい。この」 平木さんはウィンドウにある小学校の女子制服を指さした。 「この制服を着て、小学生と一緒に展示を見ていただこうと考えまして」 さすがにびっくりした。僕が小学生の制服を着るなんて。しかもうちのすぐ近くに ある小学校の制服だ。毎朝、集団登校をしている小学生が着ている制服だ。 それを僕が着るなんて、いくらなんでも恥ずかしすぎる。 「あの、僕が小学校の制服を着たって、似合わないと…」 「大丈夫ですよ。もう小学校の制服が似合わないなー、という女の子は、6年生 どころか5年生にもいますよ」 そうかもしれないけど、そういう問題じゃなくて。平木さんが指さしたままの制服を 僕も小さく指さして。 「でも、これって、すぐそこにある小学校の制服ですよね?どうしてうちの近所の 小学校の制服なんですか?だって赤沼小学校での展示を見に行くのに…」 「赤沼小学校の子から見れば、あなたはよその子、なんですよね?」 「え、ええ、確かによその……子かどうかはともかく…」 「よその小学校の子が赤沼小学校の制服を着ているのはおかしいですよね」 確かにそうだ。僕がどこに住んでいるのかをみんなに教えなくても、赤沼小学校の 子でないことだけは分かる。赤沼小学校以外ならどこの制服でもいい事になるが、 普通は住んでいる所の近くの小学校だ。普通はそうなんだけど、近所の小学生と 同じ制服というのが恥ずかしく思えて抵抗感がある。かと言って『他の小学校の 制服がいい』などと言い出せない。それに、どの小学校の制服がいいか、 以前の問題がある。平木さんはしっかりと女子の制服、スカートに丸い襟の制服を 指さしているからだ。 「あの、僕は、その…男なんですけど」 「あら?男の方だったんですか?小柄で可愛らしい顔だから気づかなかったわ。 でも名前はクリマ、トシコだったような」 「トシキ、です」 「あらあら、どうしましょう」 名前は電話で言っただけだから聞き間違いもあるだろうけど、玄関で顔を見てから 今まで全然気づかなかったのか。それはそれでショックだ。 「それじゃ男子の制服の方がいいかしら?」 男子の制服だからといって、恥ずかしさが減るわけでもないが。 「でも、空見タカの絵本は小学生では女子に人気がありますから、小学生の男子が 『空見タカの絵本が好きで、隣の市から見に来ました』とか言ったら…」 確かにそうだ。美術関係の学部の学生が小難しい事を言いながら『こういう絵が いいんだ』というのならまだしも、小学生の男子が空見タカの絵が大好き、だなんて 言ったら、男子からも女子からも何か言われそうで、落ち着いて見てられないかも しれない。小学校の男子の制服どころか、普通の服を着てても言われそうな気がする。 それだったら、女子の制服を着て行った方がいいような気もする。女子の制服だなんて 違和感があってすごく恥ずかしいけど、でも小学生の女子でも似合わない子がいる って言うんだし。制服なんだから似合わなくても着るものだし。うん。それなら。 「あの、分かりました。女子の制服でいいです」 「それじゃあお店に入りましょう」 平木さんはなんだか嬉しそうに店に入っていった。僕は仕方なくその後について 店に入った。 平木さんが店員さんに、すぐ近所にある沼原小学校の名前を告げた。 「あら、お嬢ちゃん、小学生なの?大きいからもっと年上かと思ったわ」 店員さんの言葉にドキっとした。『お嬢ちゃん』という言葉にもドキっとしたけど、 『小学生なの?』という驚きの声にもドキっとした。もう二十歳過ぎているのだから 『もっと年上』どころの話じゃない。それでも、もう一人の店員さんがメジャーを 取り出し、手慣れた手つきで僕のサイズを測り始めた。 最初の店員さんがガラスケースからブラウスを取り出した。やっぱりブラウスなんだ。 その白いブラウスは丸い襟が大きく、すごく子供っぽく感じた。制服でもなければ、 小学生でもこんなのは着ないんじゃないかと思うくらい。 店員さんは綺麗に包装されたブラウスを、ナイロンから拡げて僕の背中に当てた。 背中に当てられただけでドキドキしてくる。 「このサイズはいかがでしょう?成長期でしょうから、ワンサイズ大きい方を お出ししていますが。」 確かに大きいように感じる。僕が小柄とはいえ、小学校の制服でこんなサイズがある と知って、ちょっとみじめな気持ちになる。 「ええ、そうね…もう一つ大きいサイズのブラウスが良いかしら?」 これよりも大きなサイズを着せられるのか? 「小学生の女子用は、これが一番大きいんですよ」 その言葉を聞いてほっとする。でも中学生の女子用なら、もっと大きいのがある のだろうか。 「じゃあ仕方ないわね。それを3枚頂ける?」 なぜ3枚なのか分からない。尋ねたいけど、僕が本当は大学生の男子だという事を 店員さん達の前で話すなんてできないから、尋ねられない。 次に店員さんは灰色のスカートを手に持ってきた。やっぱりスカートなんだ。 「あちらの試着室で、1度穿いてみて下さい。」 僕はスカートを受け取り試着室に入った。スカートなんて今まではいた事がないし、 しかも小学校の制服のスカートだ。どうしていいのか良く分からないけど、 穿いてきたジーパンを降ろし、制服のスカートに脚を通してみた。 でも途中で何かが足に引っかかった。よく見ると腰の部分に紐がついていた。 小学生の女子の夏服は肩紐のついたスカートだった事を思い出す。 脱いで紐を持ってスカートをぶら下げてみると、吊り紐は、前はまっすぐ肩に伸びて いるけど、後ろは交差していた。前の部分に、紐の長さを調節する金具がついている。 交差している方が確か後ろだったような。夏の小学生を思い出して、そんな事を 考えながらスカートをはいて、左腰のファスナーを上げ、直感でストッパーを とめてみた。 カーテン越しに店員さんの声が掛かる。 「いかがですか。穿けましたか?」 「はい。」 そう答えると、すぐに店員さんがカーテンを開けたのでドキっとした。スカートを はいている姿を平木さんと店員さん2人に見られて、すごく恥ずかしい。 でも店員さんは当たり前のような顔をして僕の腰に手を伸ばしてきた。 「ウェストはこの位でしょう。ストッパーにも余裕がありますから、成長しても 大丈夫ですよ」 店員さんは、腰の部分や裾を引っ張ってサイズをチェックしているようだ。 でも、自分がはいているスカートをこうして店員さんに触られていると、なんだか 僕は店員さんの手で女子小学生に仕立て上げられているような気分になってくる。 「裾の長さはどうしますか?」 そう言って店員さんは物差しをスカートに当てた。 「もう少し短いほうが可愛いかしら。」 スカートの長い短いなんて、男の僕にはよく分からない。もう諦めの境地だ。 そして店員さんは上着を持ってきた。 「お嬢ちゃん、これも着てみて下さい。」 また『お嬢ちゃん』と言われてドキっとする。僕は店員さんに言われるままに、 上着の袖に腕を通した。その襟のない灰色の上着はダブルボタンで、左右にボタンを 留める穴があった。どうも男女兼用のようだ。店員さんがボタンをかける。 これも、やや大き目のサイズのように感じた。 「少し大きめですが、動き安さからいってこのサイズが良いと思いますよ。」 確かに動きやすいと思うけど、小学生の女子用の制服がこんなにゆったりと大きい だなんて、かなりショックだ。 「じゃあ、上着とスカートはそのサイズで2着ずつ。それからベストと、ハイソックス を5足いただけるかしら。」 全部をカウンターに積み上げたら結構な量になった。平木さんが支払う金額も結構な 額になった。そして、近所の小学校の女子制服が入った袋を持たされて、店を出た。 店を出たから自由に話を出来るんだけど、道を歩きながら話すと周りの人に聞かれる ような気がして話しにくい。でも尋ねないわけにもいかない。 「あ、あの、これを着て…赤沼小学校に行く、って事になるんでしょうか?」 今は周りに人がいないけど、道の真ん中でこんな事を話すだけで十分に恥ずかしい。 『これを着て』と言うだけで恥ずかしい。 「ええ、そうしてくださいね」 「で、でも、だったら、何着も買わなくてもいいのに……何万円も買わなくても…」 「開催期間中、毎日来てくれてもいいのよ」 そう言われて一瞬嬉しくなったけど、小学校の図書室が会場だという事を思い出し、 そしてこの制服を着て行くという意味だという事にも気づいて、一瞬だけでも 嬉しくなった自分が恥ずかしく思えた。でも、だからといって『いえ、行きません』 とも言えず。 「はい…」 と答えてしまった。なんだか、女子の制服を着て赤沼小学校に毎日行くのを 認めたような、僕が喜んでいるような返事をしてしまった気がしてきて、 余計に恥ずかしくなる。 女子制服を持ったまま僕のアパートに戻ってきて。 「お名前はどんな字を書くのかしら?」 平木さんは表札を確認した。 「これでトシキなのね。そうねえ。利規だから…トシコ。リコ?」 小学生の時に、いじめっ子からトシコとかリコとか言われたのを思い出して、 また胸がドキッとして痛くなった。あの時は『声が女の子みたいだ』とか 言われたんだっけ。今は小学校の女子制服を持たされて、トシコとかリコとか 言われている。 「うーん、それはちょっと…あ、リカならいいわね。利香ちゃん。」 「そんな、余計に女の子みたいな名前…」 「だって女子の制服を着るんだから」 そうなんだけど。 平井さんは玄関でしゃがんで、ポケットから何かを取り出し、書き始めた。 僕は制服の入った袋を床に置いて、平井さんが書いているものに顔を近づけた。 そこには小学校の名札があった。 「栗間、利香。6年1組でいいわね」 3文字目まで僕の名前と同じ名前が書かれたその名札は、近所にある沼原小学校の 名札だった。 「あの、どうしてそんなものを持ってるんですか」 「娘が去年まで沼原小学校に通ってて。今はもう中学生だけど、1個余ってたの」 そういえば、すぐ目の前にあるバス停を娘が使っているとか言ってたっけ。 この辺りに住んでいるのなら、確かに沼原小学校に通っているか通っていたか、だ。 「それじゃあ、これを着て、月曜からの展示を見に来てくださいね」 女子の制服を着て行くなんて嫌だと思ったけど、でも空見タカ絵本展には行きたいし。 小学校の中にある会場で、小学生の女子ばかりの中で見学するのなら、女子制服を 着て行かないと見れないような気もしてきたし。 「…はい」 そう答えてしまった。 そして月曜日。 教えてもらった終業の時刻の1時間前にうちに帰り、しばらく悩んだけど、結局 着てしまった。店で一度試着したから、もう恥ずかしくないかな、と思っていたけど、 ブラウスに袖を通して、ボタンをとめるのはやっぱり恥ずかしかった。 制服を着終わって、このまま外に出なきゃいけないのかと思うと、恥ずかしくて顔が 熱くなってくる。でも外に出ないと展示を見に行けない。あまり早く出ると、 小学生が一人だけ街中を歩いているように見えて変に思われそうだけど、 でも近所の小学生が下校する時刻になったら、同じ制服を着た小学生の中に混じって 歩かなきゃいけない。どっちが恥ずかしいか迷っているうちに時間が過ぎてしまう。 バスの待ち時間もあるから、もう出ちゃおう。そう思って外に出た。 道路に出て、周りをキョロキョロ見回す。なんだか悪いことをしている子のようだ。 でも、歩いている人はいない。ほっとしてバス停まで歩く。この時刻はバスが多い から、誰にも見られずにバスに乗れるはず。と思っていたら、車線を挟んで反対側の 歩道を、制服姿の低学年の子が歩いてきた。1年生くらいの子に見えるけど、 そんな小さな子に遠くから見られるだけでも恥ずかしい。早くバスが来ないかな。 遠くの方を見ると、バスが見えた。ほっとしたけど、赤信号で停車している。 その間に小さな子達は僕の前を通り過ぎた。じっと立っているだけでドキドキする。 小さな子達が完全に通り過ぎた後、ようやくバスが来た。 バスが目の前に止まった。ほっとしてバスに乗り込む。中にはおじいさんおばあさん が10人ほど乗っていた。もちろん知らない人ばかりだけど、それでもちょっと ドキドキする。小学生がこんな時刻に一人でバスに乗って、何か言われないだろうか。 みんな後ろの方の席に座っていたので、僕は運転手さんの真後ろの席に座った。 ここなら目立たないだろう。 その後は住宅街を離れて大きな川を渡る。車は多いけど人通りは少ない場所で、 歩いている人はほとんどいない。そんな窓の外を眺めて、気分が少し落ち着く。 でもすぐに赤沼市になり、段々と家が増えてくる。そして下校している小学生が 見えた。高学年の子も見えたけど、さっきほどドキドキしない。僕が着ている 制服は灰色だけど、下校している小学生の制服は紺色だ。別の小学校の子だと すぐに分かる。うちの近所の小学校の制服でよかった、などと思ってしまう。 そして一つ手前のバス停でバスが止まった。あと一つだ、と思っていたら、 女子高生が4人、バスに乗り込んできた。こんなところに高校があったんだ。 女子高生4人は僕の周りの座席に座った。高校生に見られたら、大学生の男子が 小学校の女子の制服を着てるってばれちゃうかも。そう思うと体中が熱くなる。 僕の斜め後ろに座っている女子高生は手元の携帯電話を見ていて、僕の方には 目を向けない。それでもいつ顔を上げるか分からないからドキドキは止まらない。 「次は、赤沼小学校前」 次のバス停の案内を聞いて、すぐにボタンを押す。あとほんの少し。早く着かない かな。周りの女子高生がこっちを向かないか気にしながら、早く着く事を祈る。 そうしているうちに学校の校庭のような風景が見えた。正面を見たらバス停が見える。 「赤沼小学校前、急ブレーキにご注意ください」 急いで立ち上がろうとしたら、本当に急ブレーキで倒れそうになる。ここで倒れたら 目立っちゃう、そう思って倒れないように踏ん張る。完全に止まり、ドアが開いた。 急いで料金を運賃箱に入れて降りようとした。 「お嬢ちゃん、小学生は半額。百円。」 運転手さんの声が、スピーカーで大きく響いてドキっとした。振り向いたら、 運転手さんが百円をもって、手を僕の方に伸ばしていた。 「あの、ご、ごめんなさい。えと、ありがとうございます」 なんだかよく分からない返事をして百円を受け取り、バスを降りると、バスはすぐに ドアを閉めて、走り去った。今、すごく恥ずかしいところを女子高生に見られた ような気がする。なんだか泣きたくなってきた。 でも、バス停のすぐ斜め前に小学校の校門があった。そこから出ていく小学生も いるし、入っていく小学生もいる。『空見タカ絵本展』という看板も立ててある。 ここが会場の赤沼小学校なんだ。小学校の校門のすぐ前で泣いたら、本当の小学生の 女の子が泣いているように見えちゃうかも。小学校の女子制服を着てるし。 そんな事になったら余計に恥ずかしくて泣きたくなるかも。いや、そんな事より、 あと少し歩けば、空見タカの絵本の展示が見られるんだから、そっちを考えて 元気を出そう。うん。 校門に入っていく子は、多分近くの他の小学校の子なんだろう。その子達と同じ 方向に進む。出て行く小学生には男子がかなりいるけど、入る小学生は女子しか いないようだ。やっぱり女子の制服を着て来て良かったんだろうな。 少し安心したけど、それで安心していいんだろうか。ただ、周りの小学生の制服は ほとんどが紺色だった。出て行く小学生と同じ制服に見える。この周辺の小学校の 制服はみんな同じなんだろうか。上着やスカートの形が違う制服を着た子も数人 いるけど、それも紺色だ。灰色の制服を着た僕が目立っているような気もする。 バスの中から小学生を見た時は違う制服で安心したのに、学校の中に入ると、 今度は違う制服だから恥ずかしくなってくる。どうしよう。 そんな恥ずかしい気持ちのまま、女子ばかりの列に並んで、時々貼り出されている 矢印の方向に進むと、普通の校舎から少し離れた所にある、ちょっと大きな建物に たどり着いた。この建物全部が図書室のようだ。僕の高校の時の図書室よりも 大きいかも。こんな所なら、確かに展示が開催されても不思議ではない。 建物の入口で靴を脱ぐ。『この袋に靴を入れてください』と書いてある。 その張り紙の下に箱が置いてあって、ビニール袋が置いてある。でもその箱の 周りには他の子が集まっていて、小学生の女子ばかりで、ちょっと近づきにくい。 でもあれを取らないと中に入れない。思い切って、女子が集まっている所に近づき、 女子の中に体を割り込ませた。小学生の女子と押し合いをするなんて、 本当にドキドキするけど、それでも手を伸ばして、他の子の手とぶつかりながら、 なんとか袋を一つ取った。すぐにそこを離れて、袋に靴を入れて、建物の中へと 入る小学生女子の列に並んで奥に進む。 少し進むと、 『←四年生以上』『一年生、二年生、三年生→』 と書いてあった。なんの事だろう、と不思議に思いつつ、四年生以上の矢印の方に 進む。小さな子がいなくなって、大きな女子ばかりになった。大きいと言っても 小学生で、僕と同じくらいの子もいるけど、ほとんどは僕よりもずっと小さい。 ただ、さっきまでは『1年生から6年生までいろんな小学生』という感じで、 大きな僕はただの上級生だという感じだった。でも4年生から6年生だけになると、 大学生の僕が小学生の女子の中に放り込まれたという気持ちが強くなってきた。 同じくらいの小学生の中に僕だけ一人大学生の男子が混じっている。それが すごく恥ずかしい。小学生の女子制服を着ているだけ少しマシにも思えるけど、 制服の中身は大学生の男子のままだから、余計に恥ずかしいような気もする。 そんな事を思いながら先に進むと、先生が立っていた。小学校の先生に、 小学校の制服を着た僕の姿を見られるんだ。そう思ってドキっとした。 でもよく見ると平木さんだった。平木さんの顔を見てようやく本当に安心した。 「見に来てくれてありがとう。順番に並んで、ゆっくり見てね。あ、あなたも 身に来てくれたんだ」 僕の方を見て、平木さんは笑顔でそう言った。 「は、はい…」 「みんなと一緒に仲良く見て行ってね」 平木さんにそう言われて、小学生の女子の中に並んで先に進む。 さらに進むと、展示が始まった。小学校の図書室での展示というから、幼稚な感じに なるかと思っていたけど、県立図書館での本格的な展示をそのまま持ってきた感じで、 ちょっと驚いた。これなら確かに『←4年生以上』と書いてあっても当然だ。 そして、こんな展示が見られたことがすごく嬉しかった。しばらくの間は、自分が 小学校の制服を着ている事を忘れるくらいに熱中して展示を見た。 後半になると、簡単なストーリーに沿って絵が並べられている。簡単と言っても すごく楽しいストーリーで、周りの女子も楽しそうにおしゃべりをしながら見ている。 その声を聴いていると、小学生の女子だけが見に来る絵本展というのもいいかも、 そんな気持ちになってきた。そして僕も、小学校の制服を着て、小学生の女子として 小学生の女子と一緒に一展示を見ている、それがなんだか嬉しくなってきた。 展示が終わり、先に進むと、ぐるっと一周したのか、また平木さんが見えてきた。 「はーい、みんなお行儀よく見れましたね。ありがとう。うん、明日も見に来ても いいんだよ。あ、あなたもまた見に来てね」 平木さんが僕の方を見てそう言った。 「あ、はい」 靴をはいて外に出た。いつまでも小学校の制服を着ているのは恥ずかしいから、 見終わったらすぐに帰ろうかな、と思っていたけど、展示を見終わったら、すぐに 帰るのがもったいないような気がしてきた。周りにいる女子のおしゃべりを聞いて いたいような気がする。でも一人で校庭に立って、他の小学生のおしゃべりを 聞いているだけというのもちょっと寂しいかも。一人で見に来た事がちょっと 寂しく思えた。一緒に来る人なんていないけど。 「ねえ、あなた」 近くにいた女子から声を突然かけられた。 「その制服はどこの小学校?」 急に声をかけられてびっくりした。 「え、えと、あの、空沼の…」 しどろもどろで、とりあえず市の名前だけ答えた。 「ああ、赤沼の小学校じゃないんだ。空沼って、結構遠くない?空沼からわざわざ 見に来たの?」 「う、うん、空沼でも、こっちに近い方だけど」 僕よりも少し背の低いその子は、僕の名札に顔を近づけた。 「あ、沼原なんだ。それなら割と近いかな?それでもバスだよね?」 「う、うん」 「バスで来たんだ。でもそれだけの価値はあるよね。絵本展ていうから、 絵本が並んでいるのかと思ったら、あんな大きな絵を見られるなんて。 ほんとすごかったよね。原画も何枚かあったし」 女の子が嬉しそうに話す間に、少し気分が落ち着いて、改めて女の子を見ると、 背は僕より低いけど、結構大人びた顔で、小学校の制服が似合わないなー、って感じ。 僕とは違う意味だけど、それでもちょっと親近感が湧いた。名札を見ると、 赤沼市内だけど、赤沼小学校ではないようだ。 「最後の絵、あんな大きく描かれると、なんだか全然別の物に見えちゃうよね。 あなたもそう思うでしょ?」 問いかけられて、ちょっとあわてる。 「え、う、うん。でも、あれはあれでかわいいっていうか」 「かわいい、かなぁ?違うような気がする」 「いきいき?」 「そうなんだけど、ちょっと違う気がする。もっと、なんていうか、どーんって感じ」 良く分からない話題でしばらく盛り上がってしまった。 「あ、少し暗くなっちゃったかな?帰らないと」 「うん、そうだね」 「あなたは明日も見に来るの?」 そう尋ねられて、『うん、見に来る』と答えそうになったけど、また女子の制服を 着てこないといけないのかな。それは恥ずかしいかも。でも女子の制服を着て、 こうして小学生の女子と話をした後、ここにまた来るのなら、女子の制服じゃなきゃ いけない、そういう気持ちにもなって。そして。 「学校が早く終わったら、見に来ちゃうかも」 そう思ったから、そう答えてしまった。 「じゃあ明日か明後日、また会えるかもね」 「うん」 「じゃあまたね。バイバイ」 そういって、その女の子は校庭から走って帰って行った。 それじゃあ僕も帰らなきゃ。 「あ、来てるんだー。うちの小学校の子が他にも」 同じ制服を着た子が二人、目の前を通り過ぎていった。同じ小学校の子が他にも 来てたんだ。同じ小学校の子が来るなんて思いもしなかった。いや、同じ小学校の子 じゃないんだけど。僕が沼原小学校の子じゃないんだから。それでも同じ小学校の子 だと思ってしまう。明日も同じ小学校の子が来るかもしれない。どうしよう。 でもやっぱり、明日も見に来たいな。