舞は先輩に呼ばれたとか言って朝早く出かけたので、今日は僕一人で登校。 そういえば、九輪女子の制服を着て町内を一人で歩くというのは初めてだ。 本当は高校を卒業した男子の僕が九輪女子の制服を着て、ひいおばあちゃんや 舞の付き添いもなく、誰もいない住宅地の道を歩いているというのは、なんだか 変な事をしている気分になる。なんというか、みんなに隠れてこっそり女子の 制服を着ているような。 「あら、おはよう」 誰もいないのは3軒先までだった。今日も羽栗さんが玄関先にいた。 変な事を考えている時に、いきなりあいさつをされてドキっとする。 「お、おはようございます」 羽栗さんは昨日も僕の制服姿を見ているし、新聞でも見ているし、いまさら変とは 思ってないんだろう。 「今日はマイちゃんと一緒じゃないの?」 「ね……生徒会か何かに呼ばれて、先に行ったみたいです」 ご近所さんの前で『姉さま』と言おうとしてしまった。ご近所さんはもちろん僕が 兄だと知ってる訳で、『姉さま』というのはやっぱり変に聞こえるんじゃないか。 かといって呼び捨てするのもちょっと恥かしくなってきたし、どうしよう。 「あらまあ、忙しいのね」 でも舞が隣にいないと、安心できないというか、ちょっぴり寂しい。本物の九輪生の 舞がいると安心、というだけでなく、ひいおばあちゃんの若い頃に似ている舞が 隣にいると、僕もマサちゃんみたいに見えるのかな、そういう安心感があるけど、 一人だけではそういう自信も持てない。やっぱり一緒に登校したい。 「じゃあいってらっしゃい」 「いってきます」 さらに歩くと、徳田さんも、柴井さんも、写真屋の樋口さんまで、あいさつをして きた。みんな既に1回は僕の制服姿を見ているから、特に制服の話はしない。 みんな楽しそうに見ているけど。二見さんと村上さんには今日初めて制服姿を 見られたけど、 「古風ね」 と喜んでいただけだった。僕が九輪女子の制服を着ている事が当たり前のように 話しかけてくるので、僕だけがドキドキしているが奇妙に思える。かといって、 恥ずかしさがなくなるわけでもない。むしろ当たり前の事のように、町中のみんなが 普通にあいさつしてくれるから、まるで僕がごく普通の女子中学生のように思われて いるみたいで、それがすごく恥ずかしい。先月まで高校の男子生徒だったはず なのに、先月まで小学生だった1年1組のみんなと同じになっちゃったような、 みんな楽しそうなんだけど、やっぱり恥ずかしい。 ドキドキしながら神社の敷地に入ると、駅の方から歩いてきた九輪女子の生徒が 見えた。ここまで会ったおばあちゃん達は嬉しそうにあいさつしてくれたけど、 それでも本当はずっと年上の男子の僕が、女子がたくさん並んで登校している列に 入って行くのもちょっと変で恥ずかしく思える。でもこの坂を登らない事には 学校まで行けない。一瞬そんな事を思って、ちょっとためらっていたら。 「岸部さん、おはよう」 矢谷さんが僕の方を見てあいさつをした。矢谷さんとはそんなにたくさん話して いるわけじゃないけど、それでも知っている顔を見てほっとした。 「おはよう、矢谷さん」 登校中の女子生徒の列に加わって、なんとなく矢谷さんのすぐ隣を歩いた。 同じクラスの女子がいてほっとしたけど、並んで歩き始めてから、話す事がない と気付いた。席は千和ちゃんの前だから、顔は良く知ってるけど、今までそんなに 話してないし。昨日一緒に和菓子を食べた事くらい。 あ、和菓子と言えば。 「あの、昨日みんな和菓子と食べた後に、うちに帰ってから、ひいおばあちゃんの 妹の日記を読んだんだけど」 「その制服の元々の持ち主なんだよね」 「そう。日記の、今ぐらいの季節の所に、みんなでお団子を食べたって書いてあった」 「何年前の日記?」 「80年くらい前の日記」 「80年前に、この制服の持ち主も食べてたんだ」 「そう」 「それにこの制服も、80年ぶりのお団子だったんだ」 「うん、そういう事になる」 「80年前の九輪生も私たちと同じ事をしてたと思うと、なんだか不思議」 矢谷さんがこの話で喜んでくれて良かった。僕が18歳の男子だという事を クラスのみんなが知っているから、避けられるんじゃないかなって不安に思って いたけど、矢谷さんとも少し仲良くなれてよかった。もっとも、僕が男子だと みんな知っていると言っても、先生が口で説明しただけで、僕が高校の男子制服を 着て高校に通っている所やそういう写真を見られた訳じゃないし。舞の友達は 見覚えがあったようだけど。少なくとも1年1組のクラスのみんなには、 この制服を着ている所しか見られてない。 そう考えたら、1年1組のみんなに男みたいな服装をしているのを見られるのが 恥ずかしい事のように思えてきた。1年間はこの制服で九輪女子に通うけど、 その後に男みたいな服で大学に通っている姿を、千和ちゃんたちに見られるのは ちょっと困る。どうしよう。まだ来年の話だけど。 教室に入ると、千和ちゃんと桜子ちゃんが既に来ていた。 「おはよう」 あいさつをして席に座ると、桜子ちゃんが飛びかかろうかという勢いで僕に顔を 近づけた。 「ねえねえマサちゃん、昨日マサちゃんとお団子を食べた事をひいおばあちゃんに 話したら、すっごく喜んでくれた」 こんなに近くで女の子の顔を見るなんて、家族以外では経験がない。ちょっと ドキっとした。 「私もマサちゃんの日記を見たら、私たちがやった事と同じ事が書いてあって」 「ひいおばあちゃんの頃と同じ事やってるんだよね、私たち」 桜子ちゃんにそう言われると、僕たちって本当に80年前から仲良しだったような 気がして、そう思ったら、抱きつきそうになるくらいに近くにいる事が、ドキドキ するようなことじゃなくて、むしろ安心できる事のように思えてきた。 「なになに、二人ばっかり楽しそうに話してー」 千和ちゃんがまたすねてる。 「あ、あのね、日記には、お団子が大き過ぎたから、お友達に食べてもらったって、 そういう事も書いてあった」 「じゃあ私も矢谷さんも、80年前と同じ事をしたの?」 「そうだよ」 千和ちゃんも、そしてその後ろにいる矢谷さんも、嬉しそうに笑った。二人が喜んで くれてよかった。 結局今朝も内倉先生には特に何も言われなかった。僕は今日も1年1組で普通に 授業を受けるらしい。同じ教室で授業を受けていると、普通に女子中学生をやってる ような気持ちになる。女子しかいない教室の雰囲気にはまだ慣れないけど、 女子だけのこのクラスのみんなとこれから1年間過ごす、そういう実感が段々と 強くなってくる。 1時間目になって、地理の先生が入って来た。 「地理の授業を始めます。社会科は歴史と地理とでそれぞれ別に授業を行います。 3年生になると公民の授業を行います」 中学生になったばかりの子相手の説明を各教科ごとに聞かされると、僕が高校を卒業 した後にまた中学1年のクラスに通っている事を改めて思い知らされて、本当の 中学生ではないと分かっていても胸が締め付けられて苦しくなる。 「さて、この授業は地理の授業です。つまり世界や日本の様々な地域の特徴を見て いきましょう。そういう授業です。ですからまずは、世界地図を見て世界の様子を 見ていきましょう。地図帳の、表紙をめくって最初のページを開いてください」 僕とほとんど同じ制服を着た女子が一斉に、少し体を動かした。教室中から地図帳 を開く音が聞こえる。僕もみんなと同じように地図帳を開いた。たったこれだけの 事でも、僕もこのクラスの女子中学生と同じ事をしているんだと感じる。 「世界地図です。小学校の時にも見たと思います。一方、後ろからめくって最初の ページを開くと」 先生に言われた通り、クラスのみんなが地図帳の裏を上にして、1ページめくる。 僕も同じ事をする。 「日本地図が載ってます。これも小学生の時に見たと思います。さて」 先生が何やら冊子を配り始めた。一番後ろの隅っこにいる僕の所に届くのは一番最後 になる。しばらく待っていたら、冊子が来る前に先生が僕の所にやってきた。 「岸部さんはこれを使いなさい」 先生はそう言って、僕の机の上に本を置いて、教卓に戻った。 「みなさんに配ったのは、岸部さんのひいおばあちゃんの妹さんのマサさんが 使っていた、約80年前の地図帳の一部です」 教室の中がちょっとザワザワした。何人かが僕の方を向いた。話した事のある人に 顔を向けられるのはいいけど、まだ話した事のない人に注目されるのは、やっぱり 変な気分。 「みなさんが持っている地図帳と比べてみましょう」 他の子達が冊子と教科書を広げる中、桜子ちゃんが顔を近づけてきた。 「先生、何を置いていったの?」 小声で尋ねてきた。 「そのプリントの、元の地図帳」 「80年前の?」 「うん」 「なんだか本当に80年前の生徒が隣に座ってるみたい」 楽しそうな顔をしながら、桜子ちゃんは椅子に座り直して、自分の地図帳と冊子を 開いた。 「もちろん日本の形や、世界の形が変わった訳ではありません。人類発祥の歴史から すれば80年前なんてついこないだの話です」 ひいおばあちゃんが女学校に通っていた時なんだから、確かについこないだの話だ。 「でも細かく見ると色々違います。地形から見ていくと、桜島。2冊とも、九州の 地図を広げてみてください。さら20年前までは、桜島は島だったのですが、 大噴火で大隅半島につながってしまいました。だから80年前の地図表では既に つながっています。しかし、今の地図帳の桜島は、さらに大きくなっています。 この地図帳を使っていた頃からまた噴火が始まって、さらに大きくなったのです。 あるいは東京湾や大阪湾を見てみましょう。80年の間にこんなに海岸線が 変わっています。これは埋め立てによるものです。その他に、我が県の地図を 比べてみましょう。何か気付く事はありますか?あなた」 一番前に座っている立科さんが指された。 「え、えっと。同じくらいの大きさの地図なのに、昔の方が、市や町の名前が たくさん書かれて……ます」 「そうですね。これでも明治よりはかなり減ってます。明治にはもっとたくさん 『村』があった。でも明治時代の『村』は今で言うと『集落』くらいの大きさ だったんです。すぐに歩いて行けるくらいの大きさ。でも鉄道や車が普及して、 歩くにしても歩きやすい道が出来て、『すぐ行ける』の感覚が変わってきて、 それに合わせて村を合併して大きな町や市にしていったのです」 80年前の教科書を持って授業を受けていると、80年前の九輪女子の教室にいる ような気がしてくる。もちろん僕がいる建物は新しいし、同じクラスの女子と 80年前の記念写真の女子とはちょっと雰囲気が違う。そんな中で自分だけ 80年前の制服と80年前に教科書で、僕の席だけ80年前の空間のような気が してくる。 「こういう話をしていると、歴史の授業のように思うかも知れませんが、 この古い地図帳は80年前には最新の地図だったんです。ほら、表紙には 『最新教科用地図』と書いてあります。当時の人にとってはこれが最新の地理の 知識だったんです」 80年前の『最新教科用地図』を手に持っている僕は、一体いつの時代の学校に 通っているんだろうか、と不思議に思ってしまう。先生も80年前の話をしたり、 もっと昔の話をしたり、いつの間にか現代に戻ったりて、両方の教室に同時に いるような気持ちにもなる。 「また地理の勉強の中には、どういう所に人が集まりやすいのか、どういう場所で 工場が多いのか、どういった地域で農業が盛んなのか、という事も勉強します。 今の地図帳にも、80年前の地図帳にも、交通と産業の関係を説明した地図が あります。どちらも後ろから3ページ目ですね」 みんながまた地図帳と冊子をめくる。コピーとはいえ他のみんなも80年前の 地図帳を見ているから、僕一人が昔に飛ばされている訳じゃない、と安心する。 「昔は大きな荷物を船で運んでいたので、船で便利な場所に工場を作った。それが 鉄道に変わり、今では自動車や飛行機に変わった。それでも、交通の便利な場所、 と考えると何も変わってません。遠い昔の事でも、地理で習う事が起きています。 地理の中にも『なぜ歴史上そんな事が起こったのか』という理由が隠れている事も あります。地理と歴史にはそういう関係があるので、授業は別々ですが、 全く無関係なのではありません」 地理の授業が終わると、浅賀さんが僕の席まで来た。一番前の廊下側、僕とは教室の 反対側の席なのに、授業が終わった後、お尻がむずむずするのでスカートを整える ためにお尻に手を入れようとした時にはもう近くに来ていた。 「ねえねえねえ、岸部さん、それが80年前の地図帳なの?」 浅賀さんは机の上に置かれた地図帳を指さした。 「見せて見せて」 お尻を持ち上げてお尻の下に手を入れたばかりなので、どうしたいいのか一瞬 分からなくなった。中学1年の女子の中でも大人っぽい方の浅賀さんに、こんな事を している姿を見られるのもなんだか妙な気分。大人っぽい女子に見られて恥ずかしい のか、ずっと年下の女子に見られて恥ずかしいのか。 「う、うん、いいよ」 僕がそう言うと、浅賀さんは嬉しそうに地図帳を手に取り、ページをめくり始めた。 良かった、これで安心してスカートを整えられる。お尻をもぞもぞした後、 顔を上げたら、浅賀さんが地図帳に顔を近づけていた。 「浅賀さん、そんなに目が悪いの?」 千和ちゃんが不思議そうに言った。 「そうじゃなくて、なんていうか、匂いが独特だなって思って。ほら」 浅賀さんは地図帳を千和ちゃんの顔に近づけた。 「あ、本当だ。なんて言えばいいんだろう」 千和ちゃんの次に、僕の顔に近づけた。中学生なんだけど、千和ちゃんや桜子ちゃん とは違う、ちょっと大人っぽい顔と指を目の前にして少しドキドキしながら、 地図帳の匂いをかぐ。 「ああ、この匂いって本の匂いだったんだ。他にも写真とか服とか色々あったから、 今まで何の匂いだか分からなかった」 「古い本の匂い?」 「でもひいおばあちゃんや、ひいおばあちゃんのお友達は『こんなにきれいに残ってる なんて思わなかった』って驚いていたけど。古くなった匂いじゃないと思う」 「へえ。じゃあ昔からこんな匂いだったのかな」 「でも、外国の本の匂いも、ちょっと違うよ。インクや紙が違うせいかも」 桜子ちゃんが地図帳に鼻を近づけながら言った。 「そうか。インクが違うと匂いも違うんだ。風景も写真じゃなくて手書きだし、 なんだか面白い」 「写真がなかったんじゃない?80年前は」 「えー、明治時代の人の写真もあるんだから、80年前はあったんじゃない?」 そんな事を話しながら、浅賀さんが地図帳を眺めていたら、休み時間が終わって しまった。 「岸部さん、面白いものを見せてくれてありがと」 少し大人っぽい浅賀さんから仲良しの友達ように話しかけられて、少しドキドキした。 子供っぽい千和ちゃんと話す時とは違った感覚。子供っぽい子が大人相手にタメ口を きいても『子供だから』と思える事もあるけど、浅賀さんくらいに大人っぽいと、 つい先月まで僕の事を『先輩』と呼んでいた女子が同級生になって遠慮が無くなった みたいに感じてしまう。千和ちゃん達と話す時と違って、なんだか落第したって 気分になってしまう。それどころか、浅賀さんが少しお姉さんぽい話し方を、 年下相手のような少しわざとらしい話し方をするから、僕の方が子供扱いされている ような気分になる。もしかしたら浅賀さんには妹がいて、妹相手の話し方が出ちゃう だけなのかも知れないけど、それでも僕に向かってそんな話し方をされると、やっぱり 恥ずかしい。 「いや、あの、先生から『みんなに見てもらいなさい』って言われてるし」 僕の方がずっと年上なのに子供扱いされたみたいで、でも浅賀さんはクラスメートで、 どういう話し方をしていいのか困ってしまう。 「じゃあまた、別のを見せてね」 「うん」 午前の授業が終わって、千和ちゃん桜子ちゃんとお弁当を食べていると、内倉先生が やってきた。 「あら、3人で仲良くお弁当?」 「はい」 「入学してすぐに仲良しが出来て良かったわね」 「もう80年前から友達のような気分です」 「うん、お弁当箱も年季が入ってるしね」 担任の先生と言ってもずっと教室にいる訳じゃない。3人で仲良くしているのを、 いつも一緒にいるクラスのみんなに見られるのは慣れてきたけど、先生に見られる のはやっぱり恥ずかしい。 「それで岸部さん」 「はい」 「今日からの予定表ね」 時間割を少し大きくしたような表を先生から渡された。 「6時間目までの授業で他のクラスに行くのは明日からだけど、補習は今日の放課後 から始めるから」 「はい…」 「補習?」 「マサちゃん、成績が悪くて補習なの?入学してすぐに?」 二人が不思議そうな顔をして言った。 「いや、あの…」 違うと答えたいけど、大学受験のための補習を受ける事になっているなんて、 『僕はもう高校を卒業してるんだぞ』とわざわざ大声で言うみたいで、それも嫌だ。 でも、どう言えばいいんだろう。 「そうなの。マサちゃんは自分の教科書もちゃんと読めないから、補習するの」 なんだかひどい事を言われたような気がする。先生の言葉を聞いて、二人がさらに 不思議そうな顔をしたけど、桜子ちゃんはすぐに気付いたようだ。 「ああ、入学式の後の、古い建物で読んでたあの教科書」 それを聞いて千和ちゃんも思い出したようだ。 「みんなの前で読んでて、高校生に間違ってるって言われてた、あの教科書の事か」 おばあちゃん達の前ではそれほど恥ずかしくなかったけど、この二人に思い出されると すごく恥ずかしい。先生は、わざわざそんな事を二人に思い出せなくてもいいのに。 普通に古文の補習だと言ってくれれば……いや、それも言えないか。 「だって、あれは、80年前の教科書で…」 千和ちゃんも桜子ちゃんも分かっているとは思うけど、それでも言い訳してしまう。 「80年前、マサちゃんはすらすら読めたんだよ」 80年前のマサちゃんそりゃは読めただろう。でも80年前のマサちゃんは12歳で、 僕はもう高校を卒業していて。80年前とはいえ本物の中学生と比較をされて、 恥ずかしくて反論できない。 「でもそれなら、今日は一緒に帰れないんだ」 千和ちゃんがちょっと寂しそうに言った。 「二人とも、そんなにすぐに帰らずに、部活の見学でもしてきたら?」 「そうですね。そうします」 5時間目6時間目は家庭科。少し離れた所にある家庭科室まで、みんなでぞろぞろと 歩いて行く。こっちの方まで来るのは初めて。教室のある建物は他のクラスの生徒も 行き来するするけど、家庭科室までの渡り廊下は同じクラスの女子しかいない。 学校の中だけど、クラスの女子だけでちょっと遠出するような、そこに僕だけ 男子が混じっているような気持ちになる。 家庭科室に入ると、黒板に大きく 『出席番号順に5人ずつ座る事』 と書いてあった。出席番号順なら千和ちゃんが同じ机になる、と安心したけど、 桜子ちゃんが別の机になるんだ。 「えー、私だけ別なの?」 珍しく桜子ちゃんがふくれっ面をしていた。僕の机の方も、千和ちゃんと矢谷さんは 話した事があるけど、森下さんと野洲さんはまだ話した事がない。千和ちゃんと 矢谷さんが隣に座ったから、森下さんと向かい合わせになってしまった。 同じクラスだから顔と名前は知っているけど、まだ話したことがない中学生の女子と 向かい合わせってなんだか緊張する。髪が短くて男の子みたいな雰囲気で、ちょっと かっこいい顔なんだけど、女子の制服を着ているし、やっぱりどこか女の子っぽい 感じがする。僕も女子の制服を着てるんだけど。僕も他のクラスメートから見たら、 森下さんみたいに見えるんだろうか。男の子っぽい顔でもこのくらい女子の制服が 似合っていれば。いや、こんなに似合ってたら、それはそれで恥ずかしいかも。 「えっと、岸部さん」 森下さんの方から話しかけてきた。結構低い声で、余計に男の子っぽくって、 なんだか親近感が。と言ったら本人に悪いか。 「制服、触ってもいいかな」 「あ、どうぞ」 森下さんの方に右腕を差し出そうとしたけど、机が結構大きくて、手を伸ばしただけ では届かない。お互い身を乗り出す。 「あ、本当に違うんだ。へえ」 身を乗り出しているから、顔がすごく近い。こうして顔を近づけるのは5人目くらい だけど、やっぱりまだドキドキする。1年の同じクラスの女子でもこうなのに、 他のクラス、他の学年で大丈夫なのかな。 「私も触らせて」 野洲さんも身を乗り出して来たので、左腕を差し出した。両腕を別々の女子に触られて いると変な感じ。 「じゃあ私はスカートを触ろうかな」 隣に座っている千和ちゃんがそんな事を言い出した。身を乗り出すために腰を浮かせ、 後ろにお尻を突き出している最中にそんな事を言われたので、ちょっとあわてる。 両手がふさがっているし。 「あ、あの、千和ちゃん、変な所は触らないでね」 「スカート触るだけだよー」 そう言って僕のスカートを引っ張った。引っ張られるだけでも変な感じ。 でも、この制服や昔の教科書にみんなが興味を持ってくれて、そのおかげで全然 歳が違う男子の僕がみんなと少しでも楽しく話す事が出来て、良かったのかも。 僕は本当の女子中学生じゃないんだから、仲良くする必要はないのかもしれない けれど、それでも同じ教室に長い時間一緒にいるのだから、仲良くできる方がいい。 うん。そうなんだ。あれ、お尻がムズムズする。 「千和ちゃん、触らないでって言ったのに」 「あー、ごめんなさい。ついつい触っちゃった」 そんな事をしていたら、家庭科の先生が家庭科室に入って来た。僕に九輪女子に 通う事を提案した木原先生だ。机の上に身を乗り出していた3人はあわてて座った。 「この時間は家庭科の授業を行います。家庭科の授業は小学校でもみなさん受けて いるので、基本的にはそのレベルをあげて、より難しい事が出来るようになり ましょう、という事ですね。国語や数学と変わりません。ただ、国語や数学と違って、 包丁やミシン、あるいは電動ノコギリなども使うので、扱い方を間違えると怪我を する、そういう難しさもあります。十分に気を付けて扱う事も、『より難しい事が 出来る』の中に含まれます」 そういえば僕が公立中学校に通っている時は『技術家庭科』だったような。 電動ノコギリとか言ってるから、技術みたいな事もやるんだろうけど、授業名が 『家庭科』になっているだけでも、僕は女子中の授業を受けてるんだ、と感じる。 「これからしばらくは調理の授業をやって、その後に被服作製を行いますが、 今日は最初の授業ですので、1時間目は特別なお話をしましょう。岸部さん、 前に来てください」 やっぱりそうなるんだ。『みんなに見てもらいたい』と言い出した先生なんだし。 木原先生がいる教卓の方に向かって歩いていたら、先生が 「ここに立って」 と指さした先は、教卓の前だった。先生も教卓の前に来た。 「みんな見えるかしら?後ろの人は、前の机の間や、横に来てみてください。 そうだ、いっそのこと教卓の上にでも立ってもらおうかしら」 それはさすがに目立ち過ぎて嫌だ。 「教卓は高過ぎて見づらいわね。必要な時には椅子でも使いましょう」 そんな事を言っている間に、後ろの机に座っていたみんなが僕の周りを取り囲んだ。 前の机のみんなは座ったまま僕の方を見ている。僕はクラス全員からぐるっと 取り囲まれている。壇上で全校生徒と保護者から見られるのとはまた違った威圧感が ある。知らない人に見られるのと、この数日で顔を思えたみんなに取り囲まれるのと、 違った恥ずかしさがある。でも興味津々のみんなの顔を見ていると、みんなに見せて あげたいな、という気持ちにもなる。 「この制服は80年前の九輪女学校の制服です。着丈やスカート丈は、それ以前の 和服の着方を洋服に置き換える際に引き継いだ部分もありますので、今の洋服とは 違って見える所もあります」 みんな、自分の制服や隣の子の制服と僕の制服を、交互に見比べている。 「今の制服とはデザインが少し違っている部分、あるいは時代の流行が反映された 部分もあります。流行というのは、制服のデザインを考えた学校関係者や服飾関係者 の流行もありますが、生徒の好みが変わった部分もあります。たとえば今だと 『スカートが短すぎるのはダメ、校則違反だ』と先生に怒られますが、『スカートが 長すぎるのはダメ、校則違反だ』と怒られた時代もありました」 先生の話に感心してる子、笑っている子。前に立っていると色々見えるけど、 みんなが僕の方をじっと見ている事も分かるから、やっぱり恥ずかしい。 「それでも、大体のところは今と同じです。みなさんが今着ている制服の基本的な デザインは昔のままです。しかし、デザイン以外の部分で変わっている所もあります。 一番目に付くのは生地ですね。今は様々な合成繊維があり、合成繊維を使う事で 洗濯しやすくなったり、しわになりにくかったり、そういう便利な生地が出来ます。 一方で、羊毛などを使った方が高級感が出ます。そこで、みなさんが着ている制服も、 羊毛50%、ポリエステル50%です。しかし80年前にはまだ合成繊維がありません でした」 特別なお話といっても授業なので、みんなマジメに聞いている。そんなマジメな みんなの視線を集めているのもつらい。 「生地の他にも様々な違いがあります。80年前にはジッパーは、発明はされていた ものの、今ほどしっかりした物ではなく、あまり普及してませんでした。ですから。 岸部さん横を向いて」 先生に肩を押されて、横を向いた。 「腕を上げて」 先生は言うと同時に、僕の腕を握って持ち上げた。 「脇のこの部分や、スカートの、この部分」 先生はスカートの腰の部分がみえるように、僕の制服を持ち上げた。 「今の制服ではジッパーを使っている部分は、カギホック、ボタン、スナップなdを 使って閉じています」 先生に腕を持ち上げられて制服も持ち上げられて、それでも腰の部分だからみんな からは見づらい。みんな頭を下げたり腰をかがめたりして、僕の腰に顔を近づけて、 じっくりと見ている。女子制服を着ている僕の姿を、しかもスカートの腰の部分を、 みんなから凝視されているなんてすごく変な気分。 「それでは、今の生地との違いや作りの違いを、実際に触って確かめてみましょう。 同じ教室で勉強しているので、既に触った人も多いと思いますが、今の話を頭に 念頭に置いて、触ってみてください」 そう言った後、先生は僕の頭の上からつま先までを見た。 「そうですね、制服だけでなく靴下も触ってもらいたいので。この椅子に立って」 机の上に立つほど目立つ事でもないので、言われた通りに椅子の上に立った。 でも上から見下ろしてみると、1クラスでも結構たくさんいる事が分かる。しかも 女子中学生の頭がたくさん。椅子の上だからそれほど高くなく、それだけみんなの 頭が近い。女子中学生のつむじが目の前にあって、改めてここが女子中なんだと、 変な所で自覚する。さらにみんなの手の高さには僕のスカートがある訳で、 これだとみんなは僕のスカートを触る事になる。そがすごく恥ずかしい事のように 思えた。 「立つとちょっと高いわね。机に腰かけてみて」 先生にそう言われて安心する。これなら腕を触ってもらえる。 「それでは、一人か二人ずつくらいで、順番に触っていってください」 一番近くにいた立科さんと槙田さんが先生に手招きされたので、おずおずと僕に 近づいて、僕の腕や脇を触り始めた。 「脇の部分もじっくり見なさい」 先生にそう言われて、立科さんは僕の制服の脇の裾にも手を伸ばした。槙田さんが 顔を近づけて、物珍しそうに見ている。脇の下にここまで顔を近づけられるなんて、 舞にもされた事がない。腕の内側を虫に刺されて、母に見せた時くらいだ。 「靴下にも触ってみなさい」 二人が僕の足に手を伸ばした。腕や襟と違って靴下は薄くて肌にぴったりとついて いるから、触られている事が露骨に分かる。でもやっぱり肌を直接触られるのとは 違う、すごく変な感触。靴下だって女子の制服の一部なんだし、それを着ている 上から触られるなんて。 クラスメート全員に触られた後は、なんだか妙な気分になっていた。最後には触られ 慣れてきたような気がしてきたけど、それでもクラス全員に体を触られたのは僕だけ。 歳が6歳上とか男子とか昔の制服を着てるとかそんな事よりも、みんなに触られた事で 自分だけ特別な子のように思えてくる。みんなに触られるお人形になったような気分。 九輪女子の先生に勉強を教えてもらう代わりにそれをやるって約束だったんだから 仕方ないけど、この調子で九輪女子の生徒全員に触られるんだろうか。 「次に下着を見てもらいましょう。岸部さん、制服を脱いでください」 先生に言われたので、机から降りて、制服を脱いだ。既に体育の時間にみんなの前で 脱いだのだから、いまさら恥ずかしい事はないと思ってたけど、みんなが注目して いる前で、自分だけ脱ぐのは意外と恥ずかしい。今の感覚で言えば下着っぽくないと 思える下着を着てはいるけど、脱ぐという行為そのものが恥ずかしい。それにみんな の前で脱ぐのがスカートなんだから。 制服を脱ぎ終わって、みんなの前で下着姿になった。 「下着というのは、普通は人に見せたり絵に描いたり写真に撮ったりしないもの なので、記録に残りにくく、分かりにくいものです。その一方で直接肌に触れる 物でもあるので、出来るだけ着心地が良く、でも見栄えを良くする、そういう努力を する部分なので、少しの間にどんどん変わっていきます。ですから、この下着も 80年前頃の一時期の下着なのですが、それでも当時の事情が色々分かります。 今一番上に着ているのはペチコート。これは今でもスカートやワンピースを着る時に 着ますね。じゃあそれを脱いでください。はい。これは上半身の下着とパンツが つながっている下着、コンビネーションというものです。昔は伸縮性のある生地が あまりなく、伸縮性があってもすぐに伸びてしまうので、今の時代のような下着が 難しかったのです。そうそう、体育の時間に既に見たと思いますが、ブルマーを 見ると分かりやすいですね。ゴムは昔からありましたが、今でもゴムの部分はあまり 着心地が良くないと思う事があります。そこでこのような形が生まれたのでしょう。 今の下着と比べると全く違います」 先生が長々と説明する間、僕は下着姿のまま前に立って、みんなにみつめられ続ける。 「あの、先生。それってトイレの時はどうするんですか?」 先生の目の前に座っている戸巻さんが質問をした。矢谷さんと同じ疑問だ。 「岸部さん、ちょっと後ろを向いて」 先生に肩を押されて、みんなに背中を向けた。 「ここにボタンがありますが、これを外すと」 先生はなんの躊躇もなくパンツのボタンを外し始めた。 「こういう風に後ろが開くようになっていて、これを下ろす事が出来ます」 先生はそう言って、本当に下ろした。お尻に空気が当たる感触がした。後ろ向きに 立っているからみんなの視線は分からないけど、それでもクラスのみんな、ずっと 年下の女子に見られていると思うとすごく恥ずかしい。先生が僕のパンツを持って 真剣に説明している最中で、僕は何も出来ないから、余計に不安になる。 「これで座れば、今とそれほど変わりませんね」 座って見せろと言われるんじゃないかとビクビクしたけど、それは言われなかった。 先生がパンツのお尻の部分を上げてボタンをかけている最中にチャイムが鳴った。 「あ、もう時間ですね。このように、80年の間に服装の様々な部分が変わっており、 それには様々な技術、発明、それに流行、いろんな要素が関わっているのです。 それでは10分間ほど休憩します」 ようやく1時間終わった。立っていた子は疲れたのか、すぐに席に戻った。 「岸部さん、お疲れ様。みんな興味を持って真剣に見てくれてたわ」 「はあ…」 先生が嬉しそうな分だけ、複雑な気持ちになる。周りが広くなったので、急いで 制服を着た。前の机の子に見られながら、だけど。 制服を着てしまうと、なんだかすごく疲れた。ふらふらしながら自分の席に戻った。 「岸部さん、お疲れ様」 「マサちゃん、すごく疲れてるね」 「うん…」 「でも岸部さん、なんだか下着モデルみたいでかっこよかったよ」 野洲さんにそんな事を言われた。下着モデルって一体なんなんだ。たまにテレビで 見かける下着の広告のモデルみたいなものだろうか。 「うん、雑誌に載ってるモデルさんみたいだった。着ている下着の時代が違ったけど」 雑誌のモデルって言われると、ちょっとかっこいいように聞こえるけど、 自分では見たことがないから、ほめられているのか良く分からない。 十分ほどでチャイムが鳴って、家庭科の授業の続きが始まった。隣の部屋に行って いた木原先生が、前の席の女子二人を呼んで、大きな箱を運ばせた。 「今日は最初の授業なので、みなさんの手先の器用さを見てみたいと思います」 教卓の上にリンゴ箱が置かれた。と思ったら、本当にリンゴの入った箱だった。 「みなさんにリンゴを向いてもらいます」 『えー』という声が部屋中に響いた。嬉しそうな声と嫌そうな声が半分ずつくらい。 「まずはエプロンをしてください」 みんな立ち上がって、エプロンをつけ始めた。 「今日からさっそくエプロンなんだ」 千和ちゃんは楽しそうにエプロンを広げて、すぐにエプロンをつけた。でも他の子や 隣の席の子は僕の方を見ている。何かあるんじゃないかと思ってるのだろう。 あるんだけど。背中のひもを結ぼうとして苦闘している千和ちゃんの隣で、僕も 袋から取り出した。 「あ、割烹着なんだ!」 千和ちゃんは自分のエプロンの事を放り出して、僕が持っている物に顔を近づけた。 80年前にマサちゃんが使っていたから真っ白ではないけど、それでもなんの飾りも ない白い割烹着を広げた。 「ほんと、時代劇に出てきそうな割烹着だ」 「岸部さん、早く着てよ」 みんなに急かされて、割烹着を着た。 「セーラー服に割烹着なんて、ほんと、マンガに出てきそう」 千和ちゃんが嬉しそうな顔をして見ている。隣の席の子も、こちらを指さして 見ている。自分一人だけ割烹着なのもちょっと恥ずかしい。というか、本当は男子の 僕一人だけが、80年前の女学校の生徒みたいな恰好をして、今の女子中の生徒に 混じっているのが妙な気分。 「ほら、早くエプロンをしなさい」 先生に言われて、みんなが自分のエプロンを急いでつけた。そして各机にリンゴが 人数分ずつ配られた。 「ナイフとお皿は机の下の扉の中にあります。それぞれ取り出して、洗ってから 使ってください」 扉というのが僕の足元にあったので、千和ちゃんと一緒に人数分だけナイフとお皿を 取り出した。そしてリンゴを一人1個ずつ取って、むき始める。 先生は机の間を歩きながら、生徒のリンゴむきの様子を見て回っている。僕たちの机 にもすぐに来た。 「岸部さん、似合ってるわよ」 先生はすごく嬉しそう。 「ナイフの持ち方は変だけど、まあまあきれいにむけてるわね」 リンゴの方は、あまりほめられてないような気がする。 「あなたは厚くむき過ぎ。もったいないわよ」 千和ちゃんはもっとほめられてない。 「マサちゃんは確かに上手だよねー」 千和ちゃんは途中で手を休めて、僕の手元を見ている。 「でもなんだかおばあちゃんみたい。その恰好」 「おばあちゃん?」 「割烹着を見てると、なんとなく。あ、別にマサちゃんがおばあちゃんに見えるって 意味じゃないよ」 僕が年上だからって、さすがにそこまではないだろう。着ている服はひいおばあちゃん と同じくらいだけど。でもこうして割烹着を着て、たくさんの女子に混じって、みんな と一緒にリンゴをむいていると、確かに僕だけ特別って感じはするけど、それでも 女子中学生の中の一人になったような気がする。みんなの楽しそうな顔は割烹着の おかげだけど、それでも僕も楽しくなってくる。みんなの前で下着のモデルをやった 疲れもなんだか吹き飛んだようだ。 リンゴをむき終わって、それを食べて、ナイフとお皿を片付けて。家庭科の授業が 終わって、みんなで教室まで戻る。 「ねえねえ岸部さん」 同じ机の野洲さんが声をかけてきた。 「割烹着、似合ってたよ」 「そ、そうかな?」 「テレビドラマの、明治時代くらいの若いお嫁さんみたいだった」 「そ、そうかな?制服も80年前のだから、そう見えるだけじゃ」 「岸部さんに似合ってるんだよ、きっと」 嬉しそうな野洲さんにそう言われると、恥ずかしいけど嬉しいかも。 結局今日の授業も、6時間全部を1年1組で受けたけど、今日は補習がある。 「補習がんばってねー」 千和ちゃんにそんな事を言われると、なんだか本当に成績が悪くて補習を受けに行く ように思えてしまう。 とは言っても、補習を受けるのは高校の教室。中学1年の僕が高校の建物に入って いいんだろうか、そんな緊張した気持ちになる。いや、僕はもう高校を卒業している んだから、だから高校の建物に入るのは。あれ?卒業してるんだから入っちゃいけない ような気もしてきた。 なんだか良く分からないまま渡り廊下を渡ると、中学1年の同級生よりもずっと 大人の女性に見える高校生ばかり。やっぱり高校生って大人なんだ。本当は僕よりも 年下ばかりなんだけど、ここ数日は中学生しか見てないから、どうしても同級生と 比べて大人かどうか、そう考えてしまう。それに、廊下にいる人達の僕を見る目が、 なんだか下級生を見るような目に感じる。本当にそう思って見ているのか、それは 分からないけど、そう感じる。だけど、先月まで高校の後輩だった女子と同じ歳の 女子なんだ、改めてそう思って見てみると、去年高校で見かけた1年の女子とそれほど 変わらないような気がしてきた。1年生にああいう人が結構いた。そう思い始めると、 去年下級生だった女子から下級生のように見られているような気がしてきて、 ちょっとだけミジメになる。 予定表に書かれた2年1組の教室に入ると、十人ほど高校生がいた。ここのクラスの 人なのかな。本当にここで補習が行われるんだろうか。高校生ばかりの教室に中学生が 一人だけ入るなんて、すごく緊張する。あれ、僕は大学入試のための勉強を教えて もらうためにここに来たはずだ。だから高校生ばかりの教室で問題ないはず。 そもそもここにいるみんなは全員が年下なんだし。制服を着て年下の子と机を並べて 勉強する事の方が。いや、でも、やっぱり上級生のように見えるから。 良く分からないけど、なんとなく高校生の中に入って行きにくくて、教室の後ろに 立っていたら。 「ほら、こっちに来なさい」 高校生から手招きされた。 「岸部マサちゃんでしょ?あなたのための授業なんだから、あなたが一番前の席に 座らなきゃ」 「はあ」 なんだか良く分からないけど、緊張しながら高校生の間を歩いて、一番前の席に 座った。 「岸部舞ちゃんの、妹?弟?なんだよね」 「はい…」 舞の事を知ってる人なんだ。でも兄だなんて答えたくない気持ちになってきた。 「次期生徒会長から話は聞いてるよ。本当は次期生徒会長もここに来たかったよう だけど、来れないみたいね。大丈夫、お姉さんがついててあげるから」 舞より年上みたいだけど、僕よりも年下の人にお姉さん口調で話しかけられるなんて。 「その制服なんだ。触らせて」 いつもの事だけど、上級生のお願いだから断れないし。いや、上級生じゃなくて。 でも上級生なんだけど。 とはいえ、全然別の学年で、舞とも別の学年で、それ以上話す事もなく、上級生に 囲まれている緊張感のまま座っていると、ようやく先生がやってきてほっとした。 いや、補習が始まるんだからほっとしてられないか。 「えー、古文の補習と言う事で、他の授業の予習復習という訳ではなく、それとは 全く別個に行います。諸般の事情で」 諸般の事情って、僕の事なのか。 「ですから、どの学年のどのクラスの人が受けても別に問題ありませんが、もうひとつ 授業が増えるようなものなので大変かも知れません。それは各自自分で判断して ください」 要するに、僕のために補講を行うから、他の人も受けてもいいよ、大変だけど。 という事なのか。僕のせいでとんでもない事になってるような。 「テキストは『枕草子』を使います。今日はプリントを配りますが、有名な本なので どこででも手に入りますし、一家に一冊あってもいいですね」 そういいながら先生はプリントを配り始めた。 「席が空いてるんだから前に来なさい。これで全員に渡りましたね。それでは、 えーと。今日は。とりあえず読んでもらいましょうね。まずは……岸部さん。最初の 一文を」 目の前の僕をわざわざ指さした。最初から当てられるなんて恥ずかしいけど、 僕のために用意された補習のようだから、僕が読まない訳にもいかない。 「よきいへ」 「いえ」 「よきいえの、ちゅうもんあけて、びちう」 「びちゅうげ」 「びちゅうげのくるまのしろくき、よげなる?」 「しろく、きよげなる」 「しろく、きよげなるに、すはう」 「すほう」 「すほうのしたすだれ、にほひい、ときよらに、て」 「におい、いと、きよらにて」 「しぢにうちかけたるこそ、めでたけれ」 「うん。とりあえずそこまで。たくさん引っかかってくれて説明のし甲斐がある」 なんかすごく恥ずかしい。周りにいる高校生に笑われているような気がする。 本当は、僕は。そう思っただけですごく恥ずかしい。『マイちゃんのお兄さんって すごく頭悪いんだよー』とか言いふらされそう。でも弟か妹と思われてるなら、 そこまで言われないかな。言われなくても恥ずかしいか。舞に何か言われるかも。 どうしよう。 僕に間違わせて説明したいんじゃないか、というくらいに読まされたけど、 なんだかんだで先生は細かく説明してくれた。補習の意味はあったのかも。 これなら、自分の持ってる国語の教科書を間違わずに読めるかも。意味はまだ 分からないかも知れないけど。 でも、去年はこういう授業を男子の制服を着て受けてたのに、今は女子の制服を着て、 女子だけの教室で受けている。なんだか違和感がある。でも、いつもは中1のクラス で授業を受けているのに、高校の教室で補習を受けている違和感もあって。 その両方が入り混じって余計に変な感じがする。 それでもちょっと勉強が進んで良かったかな。ただ、これって保土川高校で一度 習った事のような気もする。九輪女子なんだから、保土川高校よりもレベルが高い とは思うけど、それでも基本的な事は同じかもしれない。だって大学受験のための 補習だし。男子の制服を着て受けた授業はあんまり理解できてなくて、女子の制服を 着て女子に囲まれて受けた授業は理解出来て。保土川高校を卒業した後、九輪女子に 入り直してようやく理解出来たような気がして、少し情けない気持ちになってきた。 いや、そこは九輪女子の先生だから教え方がうまいって事なんだろう。うん。 そうなんだ、きっと。 カバンを取りに中学の1年1組の教室に戻ると。 「おかえり、マサちゃん」 千和ちゃんと桜子ちゃんがいた。 「え、待っててくれたの?」 「部活の見学をして、マサちゃんが戻ってくるのがこのくらいの時間かな、と思って」 「あ、ありがとう」 すごく嬉しいけど、1年でいなくなる僕のためにそこまでしてくれるなんて。 大学受験のための補習を受けてきた後だから、ついそんな事を思ってしまう。 「入学式の後に、国語の教科書を読んだ、あの部屋」 あ、また恥かしい事を思い出した。さっきそれと同じ事をやったばかりだし。 「文芸部と歴史研究部だったっけ?なんだかおもしろそうな事してた」 「マンガ研究会とかあると期待してたのに、なかったよー」 「マサちゃんって、毎日補習があるの?」 桜子ちゃんが急にそんな事をきいてきた。 「そういう訳じゃないけど」 「運動部だったら毎日練習しなきゃいけないとかあるかも知れないけど、文芸部 とかだったらそういうのはないんじゃない?それだったらマサちゃんも入部できる んじゃない?」 「そ、そうかな…」 一緒に入部しようって事なのかな。今のところ毎日補習がある訳じゃなさそうだし、 わざわざ待っててくれた桜子ちゃんがそう言うのなら。 「そうできるのなら、そうしようかな」