次の講義も学生の数が多い講義で、隅っこに目立たないように座る。この講義では、 前に座ってる学生はたまに質問されてるけど、後ろに座っていれば大丈夫。多分。 でも、みんなの視線がチラチラとこちらを向いているようで、やっぱり気になる。 他の人が引いた椅子の音や筆箱を落とした音でこちらを見ているだけだから、 別に僕の事を見ている訳じゃないとは思うけど、それでもみんなにジロジロ 見られているようで落ち着かない。だから小さな音がして、みんながちょっと 顔を動かしただけでドキっとする。 とはいえ、隣に良く知っている楠葉さんがいる。『どうしてこんな所に小学生が いるの?』と聞かれたとしても、一人でいるよりは安心できる。大学ではまだ誰にも そんな事は言われてないけど。でも、その楠葉さんにすぐ隣からチラチラ見られる のも恥ずかしい。楠葉さんは何も言わないけど、全部知っててチラチラ見ているから、 それはそれで恥ずかしい。僕を横目で見る時の楠葉さんの顔が、ちょっと笑っている ように見える。元々そういう顔かもしれないけど、こういう時にそういう顔を されると、何を思っているんだろうと気になって居心地が悪い。 どうにか午前中の講義が終わって、少しほっとする。でもお昼を食べなきゃ。 食堂に行くと、教室以上にジロジロ見られるかな。でもうちの大学の食堂には 近所のおばさんも食べに来たりするから、小学生の女の子がいても別におかしくは ないかも。いや、今日は平日だからおかしいか。むしろ近所のおばさんに何か 言われるかも。やっぱり楠葉さんがそばにいた方が安全か。楠葉さんの隣に座って いれば、楠葉さんの妹にでも見えるだろう。いや、それは平日だから関係ないか。 でも、僕が楠葉さんの妹になった、なんて事を考えたら急に恥ずかしくなって ドキドキしてきた。良く知っている楠葉さんが自分のお姉さんなんだ、楠葉さんの 方が上級生なんだ、そう思ったら、胸が締め付けられた。湯場先輩は僕よりも 年下だけど、入学した時から上級生だったから、あまり年下という気がしない。 でもずっと同級生だと思っていた楠葉さんがお姉さんになるなんて考えたら、 ドキドキが収まらない。でも湯場先輩も、西山田小学校で僕を小学校に連れ込んだ あの先生も、もし中学生の時に同じ町に住んでいたら、同じ中学の下級生だった わけで。そう考えたら、楠葉さんだってそんなに変わらない。だって僕が中学生の 時に楠葉さんは……小学生だ。それに気付いたら、今こうして同級生として一緒に 座っているというだけでドキドキが。 「さて、佐藤くん」 「は、はい」 変な事を考えている時に、当の楠葉さんに話しかけられてびっくりする。 頭の中で考えていただけなんだけど、本人のすぐ前ですごく恥ずかしい事を考えて いたから、自分が変な子に思えて恥ずかしくなる。 「お昼を食べる前に…」 この人は良く知っている同級生の楠葉さんだと必死に思っても、僕が中学生の時に 小学生だった人だとついつい思い出してしまって、顔が熱くなってくる。 こんな事を考えちゃうから、本物の小学生からも年下のように扱われちゃうんだ。 「写真を撮っておこう。ほら、教壇の上のあの椅子にでも座って。さっさと撮って、 お昼を食べよう」 「あ、はい…分かりました…」 小学生の女の子からもらったお下がりを着た中学生の僕が、年下の女子に 『写真を撮るから教壇に上がれ』って指図されて、それに素直に従っている。 そんなみじめな気持ちになりながら、教壇の上に上がって、嬉しそうな顔をした 楠葉さんに写真を撮られた。 午後は楠葉さんと一緒でなくて、誰かに声をかけられるんじゃないかとビクビク していたけど、誰かに声をかけられる訳でもなく、なんとかその日の講義を 全部受け終わった。今日は下宿に帰れる。ちょっと気が楽になってから、 大学の外に出る。 大学に近い岸部小学校の前を通ると、低学年の子が下校していた。今日はそんなに 早くないと思うけど、高学年の子は何かやってるんだろうか?小さな子達に混じって 歩くのは、背丈の近い高学年の子と混じるよりはちょっと気が楽だ。でも今日は 『高学年はまだ学校が終わってないのに、どうしてこんな所にいるの?』とか 言われそう。もしかしたら『背が高いから5年生くらいに思ったけど、3年生?』 とか言われちゃうのかな。そう思ったら早く帰り着きたくなって、急ぎ足になった。 大きな道の横断歩道を渡って西山田まで戻る。岸部に比べたら僕の事を知っている 人が多い町に着いて、さらにほっとして、歩く速さを遅くした。こんな服を着て いるところを知っている人から見られるのは恥ずかしいけど、今朝にこの服を 見られたり、小学生の集団登校に並んでいるのを見られているから、みじめでは あるけど、もう慣れてきちゃったかな。でも実際に声をかけられたら落ち着いて られるだろうか? 「あれ?あなた、うちの登校班に入った、誘拐された子?」 急に声をかけられて驚いた。既に西山田小学校の校門の前だった。 「え、えっと、あの、はい…」 急に声をかけられてあわてるが、誘拐された子とか登校班とか言ってるから、 僕の事を知ってる子だ。周りを見回すと、今朝の集団登校で、僕の前を歩いてた 5年生の女子がいた。今朝会ったばかりとはいえ、僕の事を知っている人で ほっとした。でも『明日の朝、会おうね』と言われて、放課後に会ってしまうなんて。 「お名前はなんだったっけ?」 小学5年生の子に名前を教えて覚えられるなんて、小学生の友達が増えるような 気がして少しためらったけど、いつまでも『誘拐された子』と呼ばれるのも嫌だし。 「佐藤透です」 「透くん?あ、そういえば大学生の男の子だったね。うちのクラスに佐藤さんって いるから、透くんでいいよね?だって木曜日にうちのクラスに来るんでしょ?」 「あ、はい、それでいいです…」 僕よりずっと背が低くてつむじが見えそうなくらいなのに、同級生相手のような 話し方をされると、なんだか同級生のような気分になってくる。 「私は稲羽麗奈」 「レナちゃん?」 「そうだよ」 こんな事を話していると、こんな小さな子でも同級生の友達のように思えてくる。 「透くんって、私と同じ西山田1丁目に住んでるの?同じ登校班だし」 「えと、その、山田3丁目、川を渡って割とすぐのところで」 「ん?それなら山田小学校じゃないの?」 「いや、だから、大学生で…」 「ああ、そうだった」 さっき自分で言ったばかりなのに。 「可愛い服を着てるから分からなくなっちゃう。その子犬の柄、可愛いね」 僕の襟を指さした。指が僕の顔の近くまできて、ちょっとドキっとする。 「いつもそういう服を着てるの?」 「昨日は西山田が停電してて、それで伊藤久美さんの所に泊めてもらって」 「6年生の伊藤さん?そういえば今朝は一緒に来たね。知り合いのおうちに泊めて もらったんだ」 「はい…」 知り合いというほどでもないけど、楠葉さんに『お世話になった小学生』って 言われたから、確かに知り合いかも。 「伊藤さんって大きいから、お下がりをもらったんだね」 「そういう事です…」 「でも、誘拐されてテレビに映った時も、可愛い服を着てたよね?」 やっぱりそれを言われるんだ。 「あれは犯人に無理やり着せられて」 「無理やり?脱がされて、無理やり着せられたの?」 「そこまではされてないです」 「じゃあ無理やり着せられたって?」 「ライターの火を近づけられたり、カバンの中に押し込まれて『川に放り込むぞ』 って言われて」 「カバンの中に押し込まれたの?」 「うん…すごく恐い思いをした後に、これに着替えろって言われたから…」 話していると、また思い出しちゃう。小学生の女の子と思われて、恐い目にあって、 あの二人が本当に恐くて何も出来なくて、何も出来ない自分が本当に小学生の女の子 なんじゃないかと思えてきて。 「そんなことされちゃったら、何にでも着替えちゃうよ。透くんって、そんな恐い目に あったんだ」 「うん…」 僕が小学生の小さな女の子のようにおびえた事を、小学生の女の子がなぐさめて くれる。やっぱりこういう気持ちは、小学生の方が分かってくれるんだろうか。 そう思うと、こうして小学生の女子と一緒に歩いているのが気分が落ち着く。 「やっぱり私たちと一緒に登校して、私たちと一緒に帰った方がいいよ。その方が 安心でしょ?」 「うん…」 本当は大人の人と一緒の方がいいんだろうけど、でも大人の人と言っても僕を誘拐 した人たちみたいな大人もいるし。それよりも、僕の気持ちを分かってくれる 小学生の方がいいかも。 そういう話をしながら歩いていたら、下宿の近くまで戻って来た。 「あなたはこの橋の向こうだよね」 「うん」 「私、こっちだから。じゃあまた明日」 「うん…また明日…」 「木曜日にうちのクラスに来るんだよね。社会科見学の班決めのために」 「何をするのかは知らないけど…」 「同じ班になろうね」 「うん…」 「じゃ、バイバイ」 レナちゃんは細い道に入って行った。 橋を渡って、ようやく下宿に帰り着いた。教科書を取りに今朝ちょっと戻ったけど、 それを別にすれば1日半振りに帰り着いた。ようやく一人で眠れる。 カギを開けて中に入る。カバンを床に置いてクッシュンに座る。ふー、疲れた。 今日一日ずっと小学生の女の子のお下がりを着ていたけど、着替えようかな。 別に小さくてきつくて着心地が悪いわけじゃないけど、むしろ大きくてゆったり だけど、やっぱり小学生の女の子のお下がりは、家の中でも恥ずかしいし。 でもお風呂に入る前に着替えるのも変かな。このままでいいか。 お風呂といえば、水道とガスは大丈夫なんだろうか?不安になって立ち上がる。 水道の蛇口をひねってみると、今朝と同じで、変な色の水が出てくる。 ガスも火が付かない。外に出てガスメーターを眺めて、注意書きを読んでみたけど、 異常があるような感じではない。もっと手前で止まってるんだ。 これじゃお風呂は入れない。ガス以前にあの水では無理。トイレを流すのは変な色の 水でもいいけど、お風呂とご飯には使えない。それどころかカップ麺も、水を飲む事 さえも出来ない。ご飯と水はスーパーで買ってこようか。あ、近所のあのスーパーが 火事だったんだ。あの周りの店も開いてるかどうか。遠くまで出かけないと買えない。 それにお風呂。昨日は入ってないし。銭湯に行くとか?この近くにあるって聞いた事 ないんだけど。大学の近くにはあるらしいけど。 どうしよう。ここでは寝る以外に何も出来ない。誰かの所に泊めてもらうしかないか。 誰の家に行こう?比較的近いのは……大学のすぐ近くの楠葉さん。でも、すごく 困っているとはいえ、女子の家に『泊めて』ってお願いするのもどうかと。 湯場先輩も近いけど、あの人は恐くて頼めない。サークルの他の知り合いは、 大学を挟んで反対側ばかりだし。他に近いのは……久美ちゃんち。昨日泊めて もらったばかりの家、僕が使った歯ブラシが置いてある。昨日僕が着ていた服が 置きっぱなしで、取りに行かなきゃ。それに、久美ちゃんにならお願いしやすいかも。 楠葉さんにはお願いがしにくいのに、久美ちゃんにはお願いしやすいというのも 変だけど、でもなんとなくそう思った。 じゃあ久美ちゃんちにお願いしに行こうか。持っていかなきゃいけないのは何だろう? 明日そのまま出かけるのなら、教科書。着替えも必要か。またお下がりを着せられる かも知れないけど、下着は必要だから、持って行こう。あまりたくさん持って行っても 変に思われそうだから、こんな所でいいか。 結局十分ほどで下宿を出てしまった。また橋を渡る。 あ、そうだ、お下がりの服のままで着替えてない。でも久美ちゃんの家に行くのなら、 久美ちゃんのお下がりを着たままの方がいいか。久美ちゃんのお下がりを着て、 ちょっとだけ寄り道して、久美ちゃんの家に向かう。なんだか久美ちゃんの家に 『帰っている』ような気持ちになる。このまま久美ちゃんの家に上がって、そのまま 久美ちゃんの家で寝て、明日そのまま学校に行く。なんだか久美ちゃんの家の子に なっちゃうような気がしてきた。もう1泊したら、ますます久美ちゃんちの子に、 ますます久美ちゃんの妹に、小学生の女の子になっちゃうような気がしてきた。 でも他に行く場所がないし。他に行く場所がないって事は、つまり僕は久美ちゃんち の子という事なんだ。 そんな事を思いながら歩いていたら、すぐに久美ちゃんちの前に着いてしまった。 さっき6年生が帰ってる様子がなかったから、久美ちゃんはまだいないかもしれない。 いたとしても、チャイムを鳴らせば久美ちゃんのお母さんが出てくるんだろうな。 久美ちゃんのお母さんになんて言ってお願いしようか。『水道が変なので、もう一晩 泊めてください』と言えばいいか。玄関のチャイムのボタンに指を伸ばす。 でもうっかり『ここの家の子にしてください』とお願いしちゃいそうな気がして、 指が止まった。『泊めてください』とお願いしただけで、ここの家の子にされちゃう かもしれない。やっぱり、頼みづらいけど楠葉さんにお願いした方が良かったかな。 でも僕みたいな子が大学生の女性の家に泊まる方が、久美ちゃんちに泊まるよりも 変かも。もういいや、久美ちゃんちで。だって、他の人の家に行くよりも、 仲が良くて優しくしてくれる久美ちゃんの方が安心できる。久美ちゃんの妹になった ような気分の方が落ち着くし。そう思った瞬間に、チャイムのボタンを1回押した。 「ぴんぽーん」 「はーい」 すぐに返事があった。さらにドキドキしてくる。でも、すぐに返事があったのに、 2分くらい待たされた。 「ごめんなさい。どちらさま……あ、透くん。そういえばお洋服を忘れてたわね。 取りに来たの?」 「え、えっと、それもありますけど…その…」 とりあえず話し始めたけど、その話題は関係ない、早く本題を言わなきゃ。 これを言ったら、僕はますます久美ちゃんの妹になってしまうかも。でももう 久美ちゃんのお母さんが来ちゃったし。ドキドキしながら、ちょっとだけ 勇気を振り絞って。 「あの、もう一晩泊めて欲しいんです…けど…」 「あら、まだ停電なの?」 「電気は使えるんですけど、水道から変な色の水が出てきて。ガスも使えなくて」 「あらまあ。水も飲めないの?」 「はい…2日も続けてでご迷惑かと…」 「全然問題ないわよ。久美も喜ぶだろうし、張り切るだろうし。ほら、あがって」 「ありがとうございます」 「久美はまだ帰って来てないけど、多分もうすぐ帰ってくるから、久美の部屋で 待っててね」 そう言われて久美ちゃんの部屋に入った。今朝ここを出て、結局ここに戻って来た。 一人になって気分が落ち着く。周りを見回すと、ぬいぐるみやファッション雑誌。 この部屋に一人でいると、ここが僕の部屋で、僕がここの家の子になったような、 そんな気持ちにますますなってしまう。でもこの部屋は久美ちゃんの部屋。 でも久美ちゃんと一緒に寝るんだから、姉妹2人の部屋のような気もする。 この部屋の中にいると、そんな事を思ってしまう。 でも久美ちゃんの部屋で一人ぼっちというのもちょっと寂しい。久美ちゃんよりも 先に帰って来たなんて、なんだか僕の方が下級生のような気分になる。一緒に 帰って来たのが5年生のレナちゃんだし。そんな事を考えてたらちょっとドキドキ しちゃうし、一人でやることもないし、宿題でもやっていよう。 ピンクのティッシュ箱入れと、可愛い絵が横に描かれた鉛筆や消しゴムが散らかった 小さな机の上に少しだけスペースを作り、そこにレポート用紙を置いて、問題を 解き始める。少し進んだところでふと気になって、机の上にある可愛い絵の入った 鉛筆を手に取る。しばらく眺めた後、それでレポートを書いてみる。鉛筆自体は 普通の鉛筆だから何も変わらないけど、この部屋にあった鉛筆を使っていると、 この部屋が自分の部屋のように、自分がこの部屋の一部になったように、思えてくる。 しばらく黙々と問題を解いていたけど、表を作る問題があった。定規が必要だ。 僕の筆箱に定規は入ってない。机の上を見回して、小物入れのような箱を見つけて、 フタを開けると、ヘアピンやリボンや小さな鏡やクシや絵の入ったリストバンドと 一緒に、花の柄のついた定規があった。一瞬ためらったけど、他に定規がないし、 まだ久美ちゃんが帰ってこないから断れないし。別に勝手に使う事をためらってる訳 じゃなくて、僕がこんな女の子用の物を使っていいのかな、とか思ったけど、 使わない訳にもいかない。ピンク色の定規を取って、少し眺めた後、レポート用紙に 線を引いた。ちょっとはみ出したから、手元にあったお花の形の消しゴムで消す。 そんな事をしながら問題を解いていって、あと2問。でもレポート用紙が足りない ような気がして、ちょっと不安になった時。ドアが開く音がした。 「あれ、あなたがいたんだ」 久美ちゃんのお姉さんが制服姿で部屋をのぞきこんでいた。 「はい…」 女の子向けの絵が入った鉛筆と消しゴムを手にして、女の子用の物が散らばる机に 向かって宿題をしている姿を見られて、ドキっとした。服装だけでなく、宿題を やってる姿まで小学生の女の子のようだ、そんな気がして恥ずかしくなった。 でも、急に放り投げる訳にもいかないし。ますます自分が小さな女の子になった ような気がしてきた。 「透くん、だったっけ?お母さんがおやつだから降りておいでって」 「あ、はい…」 高校生のお姉さんに子供をおやつで呼ぶような話し方をされて、ますます自分が 子供に思えてくる。でも行かない訳にもいかないし、素直に立ち上がって廊下に出た。 制服のお姉さんの後について階段を降りる。大人っぽいお姉さんの後ろ姿を見て、 お姉さんがいるってこんな気持ちなのかな、と思った。でも本当は僕よりも6歳以上 年下で。でも大きなお姉さんが出来たような気がして。 お姉さんの後について部屋に入ると、テーブルの上にはおまんじゅうみたいなものと お茶が置いてあった。 「さ、一緒に食べましょう」 「はい…」 お姉さんに言われて椅子に座って、とりあえずお茶を飲む。おまんじゅうみたいな 物をお姉さんが先に取って食べ始めたので、僕もひとつ取って食べる。おまんじゅう だと思ってたけど、中身はクリームだった。 「なんだか物静かな妹が出来たみたい」 お姉さんがニコニコしながらそんな事を言った。 「物静かだなんて…」 「だってほら、久美は乱暴な子だし。あなたが来て、急にあなた相手にお姉さん ぶりだしたのは笑ったけど。でもそれも嬉しいかな」 僕も、大きなお姉さんが出来たみたい。本当は僕よりもずっと年下だけど、すごく しっかりしてて大人びてて、こんなお姉さんが出来てちょっと嬉しいです。 と言いたかったけど、実はずっと年上の僕がこんな事をいうのはすごく恥ずかしい事 のように思えて、ドキドキして言えなかった。 「あ、あの、そうですか…」 まともな返事が出来なくて、高校生のお姉さんの前で本当に小さな子供になった みたいで、恥ずかしくなる。とりあえず何か話さないと。 「あ、あの、久美ちゃんはまだ帰ってこないんでしょうか?5年生はもう帰ってる のに、6年生はそんなに遅いのかなって」 「あれー?久美ちゃんがいなくて寂しいのかな?こんな大きなお姉さんじゃ嫌?」 「あ、いえ、大きなお姉さんが出来たみたいで嬉しいです」 あ、うっかり言っちゃった。ずっと年下の高校生をお姉さんと言っちゃった。それを 嬉しいと言っちゃった。恥ずかしくて胸がぎゅっと締め付けられたけど、でも嬉しい のは本当で。 「ありがとう。でもそういえばちょっと遅いわね、久美」 お姉さんは台所の方を向いて、大きな声で話しかけた。 「お母さーん。久美は今日、何かあるの?」 「そこに小学校の予定表が貼ってあるでしょ?」 「そうだった」 お姉さんが、自分の真後ろの壁に貼ってある紙の方を見た。 「えーと、山田中学校説明会?ああ、あれだ、小学6年生に、中学校はこんな所 ですよ、校則はこんなのですよ、って説明するの」 「それでちょっと遅いんですね…」 そうか、久美ちゃんは小学6年生だった。来年の4月には中学生なんだ。なんだか 久美ちゃんがすごく大人になるような気がした。本当は僕の方がずっと大人のはず なんだけど、久美ちゃんが僕よりもずっと大人になるような気がした。 「ただいまー」 久美ちゃんの声が聞こえた。すぐに足音が聞こえたけど、2階に上がったような 音がして、すぐに降りてきて。 「あれー、透くんが来てるの?あ、ここにいた」 すぐにこの部屋に来た。 「まだ帰れないの?あ、二人でお菓子を食べてる」 「はい、あの、まだ水道からちゃんとした水が出なくて」 久美ちゃんは僕の隣に座って、お菓子を食べ始めた。 「じゃあ今日も一緒に寝ようね」 「はい」 今朝と同様に3人が揃って、自分が末っ子のような気持ちになってきて。ドキドキ してきた。落ち着かないから、何か話そう。 「あ、あの、今日は遅かったんですね」 「うん、中学校の説明会?がちょっと長くなって」 「久美は本当に中学生になれるの?」 お姉さんがそんな事を言い出した。 「なれるよー。来年はちゃんと中学校の制服を着るんだよ」 久美ちゃんが中学校の制服を着る。それだけですごく大人のような気がした。 だって僕は着れないんだし。別に子供だから着れない訳じゃないんだけど。 でも久美ちゃんが中学校の制服を着て、僕が着れないと思うと、なんだかちょっと 寂しい。 「はいはい。あ、そうだ、制服は私のお下がりでいいんじゃない?」 「えー?来年の4月にはもっと背が伸びて、お姉ちゃんより高くなってるよ。 お姉ちゃんのお下がりは着れないよ」 「それはないと思うけど。なんだかもったいないなー」 「ほら、透くんにあげればいいじゃない。お姉ちゃんが中学生の時の制服なら、 着られると思うよ」 お姉さんが僕の方を向いた。 「そうね。私のお下がりを着る?久美のお下がりだけじゃなくて私のお下がりも。 ちょっと古いけど、私の制服の下がりを着てくれると、嬉しいかな」 本当は僕は小学生の女子じゃないんだけど。それでも。 「は、はい…僕も、嬉しいです…」 僕、本当にここの家の子になっちゃうのかな。この二人がお姉さんになるのかな。 そんな気がしてきた。 「お菓子食べたしー、宿題してくる」 久美ちゃんが立ち上がった。 「あ、あの、僕も宿題の途中だったから…」 「じゃあ一緒にやろう」 「あ、はい…」 一緒にって、同じ問題を解くわけじゃないけど。 久美ちゃんの部屋に戻って、やりかけの宿題の前に座る。 久美ちゃんは勉強机の椅子に座って、膝の上にカバンを置いて中を取り出し始めた。 「あ、あの、勝手に鉛筆とか消しゴムとか定規とか使っちゃいました」 「いいよ。でもそれ、書きにくかったでしょ?なんかちょっと太くて」 「そうですか?そうは思わなかったですけど…」 「透くんは早く帰ってきてたの?先に宿題をやってたの?」 「はい…」 手元のやりかけの宿題を見て、思い出した。 「あの、レポート用紙ってありますか?」 「レポート用紙?」 「えっと、こういう感じの紙……ちょっと違ってもいいですけど。あと1枚だけ」 「うーん」 久美ちゃんは本棚の間や引き出しの中を探し始めた。 「えーと…これでいい?」 久美ちゃんが手にしたのは、大きさは同じだけど、少しピンク色で、周りにお花や 星の絵が描いてある用紙だった。宿題に使うのにはちょっと気が引けるような 用紙だけど、でも久美ちゃんが探してくれた物だし、他にないんだろうし。 それに、久美ちゃんのお下がりを着て、女の子の小物がいっぱいの机で、絵の入った 鉛筆を使って、花柄の消しゴムや定規を使って宿題をした僕なら、あのくらいの柄が 入った用紙を使っていいよね。小学生の女の子にはあのくらいちょうどいいよね。 そんな気がして。 「それでいいです。ありがとうございます」 ちょっとドキドキしながら、1枚もらった。