「お兄ちゃーん。再来週の日曜日、暇?」 漫画を読んでいる時、妹の文香がいきなり部屋に入ってきて、そんな事を尋ねてきた。 「急に部屋に入ってきて、そんな事を言われても」 そう言ったのに、文香は気にすることなく僕の近くまで来た。 「暇でしょ?」 「再来週の日曜日?連休の間の日曜日?」 「そうだよ」 「分からないよ」 別に予定なんかないけど、分からないって事にしとこう。何も決まってないから 分からない、というのは本当だし。 「お兄ちゃん、中学生になっても部活とかしてないし、日曜日は暇でしょ?」 文香はちょっと嫌味っぽくそう言った。文香は小学生なのに部活みたいな事を やってて、中学生の僕はやってない。あてつけに言ってるように聞こえる。 「で、でも、連休だからゆっくりしたいし…」 「連休だから、1日くらい何かやってもいいじゃないの。何もないんでしょ?」 立っている文香が、僕に覆いかぶさるようにして上から話しかけてくる。 文香は陸上を始めて体つきが大きくなったから、なんだか威圧感を感じる。 身長もなんだか高くなったようで、中学生になってからほとんど伸びてない僕と 変わらないようになっていた。いやもしかしたら、僕よりももう高いかも。 いやそんな事は。嫌な気分になるから考えないでおこう。 「な、な、な、なにがあるんだよ。再来週の日曜が」 大きな妹にちょっと怯えてる自分が情けなくて、ちょっと強い口調で答えてみた。 「んとね、再来週の日曜日に、陸上の大会があるの。県大会。うちのクラブも 出場するの」 「へえ。そういうのって連休中にやるのか」 「それに、お兄ちゃんも来てほしいんだけど」 「え?応援に行くのか?会場が近いのなら行っても。でも、そういうのって 朝が早かったりしないのか?」 運動部に参加している同級生の話を思い出して、そんな事を尋ねた。 「朝早くてもいいじゃない」 「良くないよ。応援なら、文香が出る頃に行けばいいんじゃないか?」 「いや、そうじゃなくて、応援もして欲しいんだけど」 文香は一息おいて。 「ほら、うちのクラブって人数少ないでしょ?」 「うん」 良く知っている訳ではないが、晩御飯の時に文香がそういう話をする事が良くある ので、一応知っている。 「それでー、同級生に助っ人を頼んだりしたんだけど、他の種目の県大会も 同じ日が多くて、出られる人がいないんだ」 「それがどうしたんだよ」 「だからー。お兄ちゃんにー、リレーのチームに入ってもらいたいんだ」 いきなりとんでもない事を言われてびっくりした。 「えー?僕が県大会のリレーに出場するの?ムリムリムリ。小学校の運動会では 半分より上位だった事なんてないのに。そんな、県大会なんて」 「県大会ってそんなにすごくないよ?一か月前に出来たチームが出場してたりするし。 うちのチームは、優勝は無理だろうけど、決勝進出くらいはいくかもよ?」 文香のチームって結構すごいんだ。知らなかった。 「で、でも、そんなチームに僕みたいなのが混じったら、ダメなんじゃないか?」 「大丈夫だって。リレーの補欠だから」 「補欠?」 「だってうちには4人、リレーに出るのにぎりぎりの人数しかいなくて。 誰かが怪我をしたら、もう出場取りやめだもの。予選も走れない。 でも、遅くてもいいからお兄ちゃんが参加してくれれば、順位はともかく、 走れるでしょ?」 「それはそうだけど…」 「みんな怪我をしないように健康管理には気を付けて、出来るだけお兄ちゃんが 出場しなくていいように頑張るし、もしお兄ちゃんが出場する事になって、 お兄ちゃんのせいで最下位になっても、怒らないから。むしろ感謝するから」 最下位でも感謝するって言われて、ちょっと馬鹿にされた気がする。 「最下位って、そんな小学生のチームに僕が参加して……あれ?文香が参加する 大会って、小学生の大会なんだよな?」 「そうだよ?」 「種目は…リレー?」 「女子4人で100メートルずつのリレー。普通の100メートル走に参加する 人もいるけど」 「それって、中学2年の僕が参加していいのか?男子だし」 「いいよ」 文香はあっさりとそう返事をした。 「普通、小学生の女子の競技に中学生男子が出場しちゃいけないんだろ? それに参加して、優勝なんかして目立ったら、すごく困るじゃないか」 小学生女子の競技に中学生男子の僕が出るなんて、先生に出ていいって言われても、 出ろと強制されても、恥ずかしいし。というのは恥ずかしくて言えない。 「いいよいいよ。お兄ちゃんは私たちと並んでたら、小学生の女子にしか見えないし。 私たちでも優勝できるとは思ってないのに、お兄ちゃんが走って優勝しちゃって、 全国大会に出場するなんて、絶対にありえないから。大丈夫」 すごくひどい事をたくさん言われた気がする。僕なんか普通の小学生と同じだって 言われたようなもの。 「さすがに僕もそこまでは遅くないと…」 「予選は遅い子もたくさんいるだろうけど、決勝に勝ち進んだら、お兄ちゃんが いたら絶対に最下位だよ」 いくらなんでもそんな。でも県大会の決勝だったら。不安になってくる。 「で、でも。見た目で分かるだろ?中学生男子だって。確かに背は低いけど」 「だって私より低いもんね」 「そ、そこまで低くないよ」 必死になって反論する。 「4月の身体測定の結果をみたよー。私よりも5ミリ小さかったよ」 文香にそんな事を言われてショックだった。本当に僕の方が小さかったのか。 「で、でも、5ミリなんて」 「4月からもう随分経ったから、もう2センチくらい差があるかも」 反論したかったけど、僕の身長はここ半年ほとんど伸びてないから、反論出来ない。 「で、でも、顔を見たら」 「お兄ちゃんよりもいかつい顔をした小学生の女子なんていくらでもいるよ。 男子に間違われるような女子って、お兄ちゃんのクラスにもいるでしょ?」 「僕のクラスにはいないけど…小学校の時なら…」 小学校4年生の時に転校した河島さんが、背の高くて男子みたいな顔で、 すごく恐かった事を思い出す。 「ね、大丈夫だって。じゃあお兄ちゃんが補欠で参加するって事で、名簿に名前を 書いて届けておくね」 「名簿?」 「県陸上なんとか協会ってところに、申込書を出すの。そこに、女子リレーの 補欠としてお兄ちゃんの名前を書いておくから」 「そ、そんな。名前まで書いたらばれちゃうよ」 「優って名前なら、ユウって読めば女の子みたいでしょ?」 今までそういう事を、クラスメートの男子に言われた事はあるけど、妹から言われる とは思わなかった。文香に言われると、なんだか本当に女の子の名前みたいに 思えてくる。 「それとも優子とか優奈とかがいい?」 「え、えと、ユウでいいです…」 「小学校は市立日雀小学校、でいいか。6年生がいいかな?」 「6先生?」 一瞬意味が分からなかったけど、名簿にどこの小学校の何年生か書かなきゃ いけないんだろう。だから僕が、日雀小学校の6年生として出場する事になる、 という意味なんだろう。つまり僕は小学生の大会に、小学6年生の女子として 出場するのか。 「あ、それだと私たちが双子って事になっちゃうね。じゃあお兄ちゃんは 5年生でいいか」 「えっと、5年生?僕が?」 「私より背が低くてー、足も遅いお兄ちゃんならー、私たちと同じ学年というよりも 5年生の方が良くない?」 文香と同じ学年。文香と同級生、そう言われると、なぜだかすごく恥ずかしく 思えてくる。なら別の学年の方が。でも5年生という事は文香よりも下の学年。 どっちも嫌だけど、もちろん4年生なんてもっと嫌で。 「うん。それでいいや」 悩んで反論できずにいたら、文香が一人で納得して決めてしまった。 「じゃあ、お兄ちゃん、これから2週間の間、運動公園に練習に来てね」 「え?補欠だから、出なくていいんじゃないのか?だから練習なんて…」 「出来るだけそうしたいけど、補欠として出る事もなくはないから。 その時は最下位でも構わないけど、でもバトンを落としたり、受け取り方が 悪かったり、ルール違反で失格になっても困るし、恥ずかしいから」 「確かに…」 「足は速くなくていいから、そういう部分だけでも練習してね」 「う、うん…」 なんか押し切られた。 月曜日の放課後。運動公園は、家からみると中学校と反対側だから、 一旦家に帰って来た。普通なら小学校から運動公園に行っている文香も、 僕を連れて行くためか、家に帰っていた。もう体操服を着ていた。 「お兄ちゃん、時間がないから、早くこの体操服に着替えて」 体操服らしきものを手渡された。 「体操服って、決まってるのか?」 「別に決まってないけどー。日雀小学校の5年生だから、普通は日雀小学校の 体操服でしょ?」 よく見たら、確かに日雀小学校の体操服だ。胸の所に日雀小学校の校章が 入っている。僕が小学生の時に着ていた体操服と同じ、そして目の前の文香が 着ているのと同じ。おなかの辺りに『有谷』と苗字が大きな字で書かれている。 さらに『5−1』と学年まで書いてある。僕が小学5年生の時は2組だった。 1組だったのは文香だ。つまりこれは文香の体操服だ。 「こ、これを着るのか?」 「うん。日雀小学校の体操服だもん。お兄ちゃんだって1年半前に着てたものだよ」 「着てたけど…それは小学生の時であって…」 「お兄ちゃんは小学生の大会に出るんだから、小学生なの」 そりゃまあそういう事になるんだけど。 「でも…これって文香の…」 「そうだよ。お兄ちゃんは5年生なんだから、5年生って書かれていて、ちょうど いいでしょ?苗字も問題ないし」 「う、うん、そうだけど…」 「ほら、早く、急いで」 中学2年生にもなって小学校の体操服を着るなんて、すごくみじめになる。 しかも妹のお下がりを、妹が見ている目の前で着るなんて。でも文香に急かされて、 仕方なく着替えた。5年と書かれているという事は、去年から使っていた体操服 なんだろうけど、それがぴったりなのがなんだか悲しい。半ズボンは僕が使っていた のとなんだか手触りが違う。半ズボンの中もどこか違う気がする。もしかしたら 女子だから、どこか違うんだろうか?自分が小学生の時は、男子も女子も同じだと 思っていたから、違いが良く分からない。違いが分からないけど、女子の体操服を 着せられたような気がして恥ずかしくなる。 「もう着替えた?」 僕が着替える間、隣の部屋で待っていた文香が、いきなり部屋に入って来た。 もう着替え終わっていたから問題ないけど。 「う、うん」 「じゃあ行こう。靴も私のを使っていいから」 玄関で靴を渡された。陸上専用の靴なのか良く分からないけど、なんだかそれっぽい。 はいてみたら、これもちょうど良くて、また悲しくなる。 運動公園まではそれほど遠くない。でも文香と一緒に歩くのは恥ずかしい。 だって文香とまったく同じ服装だから。僕が小学生の時だって文香と同じ体操服を 着てたわけだけど、今は文香と同じ服を着て道を歩いているのがすごく恥ずかしい。 中学生が小学生と一緒に小学校の体操服を着ている、というだけの話じゃない。 僕が小学生の時には僕の方がずっと大きくて上級生に見えた。でも今じゃ、 文香と僕の背はほとんど変わらない。文香が言うには、もう文香の方が大きい。 それに運動をしている分だけ体格が立派に見える。そんな文香と全く同じ服を着て、 こうして歩いてたら、文香と同級生に見えてしまうんじゃないか。いや、5年1組と 書かれた体操服を着ているんだから、6年と書かれた体操服を着ている大きな文香の 方が上級生に見えるかもしれない。そんな事を思ったら、隣にいる文香が上級生の ように見えてくる。僕が小学5年生の時に見た、大きな小学6年生のように見える。 なんだかドキドキして胸が苦しくなってきた。 「あ、そうだ。練習の間は普通の体操服を使うけど、大会の時はそれっぽい かっこいいユニフォームになるらしいよ。ちょっと楽しみ。お兄ちゃんも そう思うよね?」 「え、う、うん…」 大会の時は違う体操服なのか。たくさんの人が見ている大会にまで小学校の体操服 だなんてさすがに嫌だったから、ちょっとほっとした。 運動公園の入口に着いた。 「ここからはお兄ちゃんは小学5年生だからね。私がお姉ちゃんよ。分かってる? ここではお姉ちゃんと呼ぶのよ。優ちゃん」 もちろんそんなのは嫌だけど、5年生と書かれた、文香のお下がりの体操服を着て いるから、僕の方が年上だなんてバレる方がずっと恥ずかしい。 「う、うん…」 出来るだけしゃべらないようにしよう。そう思いながら文香の後ろをついて行って、 運動場の中に入った。 「あれー?みんなどこにいるの?早くお兄ちゃん、じゃなかった優ちゃんを紹介 したいのに」 そうか。まずは陸上部の人達に合わなきゃいけないんだ。僕は4人のリレーの 補欠なんだから、少なくとも本来の選手4人と会わなきゃいけない。先生とも 会わなきゃいけない。そう思うとすごく緊張してきた。本当は中学生の僕が 小学校の体操服を着て、小学校の陸上部の練習に加わるんだから。中学生だって ばれないだろうか、そう考えたらドキドキしてきた。 「フミちゃーん、こっちー」 多分文香の事を呼んでいる、そんな声が聞こえた。 「あ、カナちゃん、なんでそんな所にいるの?」 文香が声のした方に駆け足で向かった。僕も慌ててそっちに向かって走った。 前を見ると、体操服の女子が3人、それに大人の女性が一人いた。あれが陸上部の 部員と先生なんだろうか?必死に走りながらも、なんだかちょっと怖くなってきた。 その4人の所まで来て、文香と僕は止まった。 「えーと、この5人が陸上部?4人と聞いてたけど」 先生と思しき人がそう言った。 「リレーに出るのに4人ちょうどだと不安だから、補欠として、有谷さんの妹さん に参加してもらう事になったんです」 「ああ、そういう事ね。石川先生には話してある?」 「はい、昨日話しました」 「ならいいわ。それで、あなたは練習に参加するのは初めてなのね?」 先生が僕の方を向いてそう言った。先生に話しかけられてドキっとした。 「え、えと、はい」 「小学校の体育と同じだけど、怪我をしないように注意してね。何か怪我をしたら、 今日は私の所に報告に来なさい」 「は、はい」 先生は4人の方を向いた。中学生男子だとばれなかったようだ。ちょっとほっと したけど、それはそれで悲しい気もする。 「私は教えられないけど、私の目の届くところで練習してください」 「はーい」 先生は別の所に歩いて行った。先生の背中をしばらく眺めた後、4人が僕の方を 向いた。 「あなたが補欠として参加してくれる子なんだ」 一番背の高い女子が僕に話しかけてきた。文香よりもさらに背が高くて、 胸も大きくて、一瞬中学生かと思うくらいだった。 「は、はい…」 僕が中学生の男子だとばれないかドキドキしながら返事をした。 「お名前はなんていうの?」 今度は一番小さな、本当に小学生らしい女子が尋ねてきた。 「有谷、ユウ、です」 一応僕が5年生という事になっているから、ちょっと丁寧な言葉づかいで話す。 でも、『田中』と書かれた体操服を着ている人が中学生に見えるから、 本当に上級生に向かって丁寧な言葉づかいをしているような気もしてくる。 「ユウちゃんは、フミちゃんの妹さんなんだよね?」 そう言われて心臓がドキンとした。本当は違う、そうじゃない、そうだとは 言いたくないんだけど。 「はい…」 そう答えなきゃいけない。 「5年生なんだ」 「はい…」 すごくみじめな気分になる。 「なんだか緊張してるみたいだね。6年生の中に一人だけ5年生だと緊張する? 上級生ばかりだと緊張する?」 文香と同じくらいの身長の、同じ日雀小学校の体操服を着ている女子が そう尋ねてきた。 「え、えと、はい、そうです…」 本当は小学生女子の中に中学生男子が一人だけだから緊張してるんだけど。 でも、胸に5年生だと書かれた体操服を着て、背の高い女子を目の前にして、 ドキドキしながら丁寧な言葉づかいで話していると、本当に自分が下級生のように 思えてくる。自分が一人だけ下級生だから緊張しているような気がしてくる。 「かけっこは早いの?」 「い、いえ、遅い方だと思います…」 小学生にこんな事を聞かれて、こんな答えを返すなんて。 「補欠だからあまり緊張せずに、気軽に楽しみながら練習してね」 「はい…」 みんなニコニコしながら僕を見ている。僕の事を小学5年生の女子だと思って、 『かわいい』とか思って見てるんだろうか。ばれずに良かった、とは思うけど、 ばれないのが恥ずかしいようにも思える。どうしよう。 そんな事をしばらく思っていたら、僕を見ていた4人が、さらにニコニコしていた。 ニコニコというか笑い出しそうだった。ふき出しそうな顔になっている。 あれ?と思った時には全員がふき出していた。文香もふき出していた。 「あ、あの、なんでしょうか?」 なんだか分からなくて、不安になってきた。 「ごめーん、ユウちゃん。実はみんな知ってるんだ、ユウちゃんが中学2年生の お兄さんだって事。ずっと前から」 それはつまり… 「だってー、私は日雀小学校でしょ?2年前にユウちゃんが小学6年生をやってる のを見たもん。あれがフミちゃんのお兄さんなんだって」 日雀小学校の体操服を着ている倉井さんは、ずっと前から僕を知っていたんだ。 確かに、学年は違うけど同じ小学校にいたから、自分の友達の兄を見たことが ある方が当たり前。小学校の時、僕と文香が一緒に校内放送で職員室まで 呼び出された事もあったっけ。どんな用事だったか忘れたけど。だから見たことが なくても、兄がいることくらい知ってて当然。 今日初めて会う、何も知らない人たちの前で、小学校の体操服を着て、 小学5年生の振りをしないといけないとさっきまで思っていたから、 みんな最初から知っていたと分かり、ちょっと気が抜けた。文香の仲良しが 全然知らない訳がないか。緊張して損した。でも… 「面白かったねー」 「ずっと年上の中学生の男の人が、私たちより下級生の女子になり切ろうと して頑張っている姿、本当ほほえましかった」 「2年前に見たことがあるお兄さんが、私たちの下級生みたいに縮こまって、 緊張しながら私たちに話している姿、本当に面白かった」 僕の事を中学2年生の男子だと分かっている小学生の女子に対して、小学5年生に 見えるように、幼い子に見えるように、必死に話していた自分が恥ずかしくなった。 特に同じ小学校の体操着を着ている子は、僕が小学校に通っていた下級生で、 そんな子に向かって下級生のように緊張して話していたんだから、自分が本当に 5年生に落第して、下級生だった子に追い越されたような気分になってきた。 「これなら誰が見たって小学5年生だよね、お兄ちゃん。あ、ユウちゃんって 呼ぶんだった」 「これなら明日、石川先生に会っても問題ないよ。大会で小学生に混じって 参加しても大丈夫。中学生のお兄さんを連れてくるっていうから心配してたけど、 実際に見たら安心した」 「ユウちゃんがこんなに小さくなっているなんて思わなかったな。あ、私たちが 大きくなっただけか。あのお兄さんが私たちの下級生だなんて。私たち、本当に 大きくなったんだ」 小学生4人に囲まれて、すごく恥ずかしくてみじめな事を言われて、泣きたく なってきた。でも僕は小学5年生として大会に参加しなきゃいけない、というのは 変わらないらしい。 「あ、あの、石川先生、ですか?この陸上部の先生は」 「うん、そうだよ。今日は来られないみたいだけど」 「そ、そうなんですか」 僕の事が中学生だとばれている事を知った後でも、田中さんみたいに大きな女子も いて、丁寧に話すのをいまさらやめられない。 「石川先生に会う時は、今日みたいにお行儀のいい小学5年生の女子になってね」 「え、あ、はい…」 明日はまた、先生に会う時に今日みたいなドキドキを感じないといけないのか。 「もちろん私たちの前でも、お行儀のいい下級生でいてくれていいんだよ」 「でも緊張しなくていいよ。分からない事があったら私たち6年生がなんでも 教えてあげるから。ね?陸上の事でも、人生相談でも」 またお姉さんぶった事を言われた。でも、もう上級生のように見えてしまうから、 この4人が生意気な小学生とは思えない。 「あ、ありがとう、ございます…よろしく、お願いします」 「よし、いい子だね、ユウちゃん」 文香に頭をなでられて、それをみんなに見られてすごくみじめだ。 「よし、じゃあランニングから始めよう。ユウちゃんも一緒にね」 そう言って4人が走り始めた。僕もその後について走り始める。 小学生の女子4人の中に中学生男子の僕が混じるなんてちょっと恥ずかしいから、 4人の後ろを少し離れて走っていたんだけど、気付いた時には4人に囲まれて 走っていた。小学生女子の部活に僕一人だけ男子が加わっている。他の競技の 練習をしている小学生にそれを見られている。すごく恥ずかしくてドキドキする けど、でもランニングでもドキドキして、なんだか良く分からなくなってきた。 運動場の一番外側を3周してランニングは終わった。それほど速く走ったわけ じゃないけど、ちょっと疲れた。 「私たちが走るペースは、5年生にはきつかったかな?」 「え、えと、その…はい…」 5年生だからきつい訳じゃないけど、でもちょっときつかったから、『はい』 としか答えられない。6年生の4人はそれほど疲れているようには見えない。 毎日やってるからだろうか。 「じゃあスキップやるよー」 え?スキップ?なんでいきなりスキップなんて。 「ユウちゃんは知らないかも」 「は、はあ…」 「じゃあお姉さん達のやる事を真似してね」 「は、はい」 「こんな風に」 一番背の高い子がスキップし始めた。スキップと言っても、踊るような スキップじゃなくて、体操みたいな大きな動きだった。 「ほら、やってみて」 そう言われたので、やってみたけど、あんなに大きく体を動かすのが恥ずかしく 思えて、同じ事が出来ない。 「ほらー、もっと足をあげて」 「腕も振って!」 「もっと大きく!」 周りから大きな声で指示される。 「もっとあげて!」 「もっと元気よく!」 罵声に近いような大声で、小学生の女子に怒鳴られる。 「ほら、腕を振って!」 文香にまで怒鳴られた。みじめだから胸が痛いのか、激しい運動をしているから 胸が痛いのか、良く分からない。 「ユリちゃんは背が高いから、ユウちゃんだと感覚が分からないんだよ」 「そうかも」 「じゃあ私がやる」 文香が僕の目の前に立った。 「ユウちゃん、私と並んで、私の真似をするんだよ」 「う、うん…」 文香が僕の目の前でスキップを始めた。文香の方が背が高いかもしれない、 と言っても、多分1センチくらいだろうから、確かにどのくらい足をあげるのか、 手を振るのか、良く分かる。 「ほら、今のを真似して」 「うん…」 自分の妹に言われて、妹の真似をしてこんな事をしなきゃいけないなんて 恥ずかしいけど、でもちゃんとやらないといつまでも妹の真似をさせられて、 いつまでも小学生の女子に罵声を浴びせられ続ける。恥ずかしいのを我慢して、 文香と同じくらいに手を振って、足を振り上げてみる。 「できるじゃーん」 「やっぱお姉ちゃんに教えてもらう方がいいんだね」 周りからそんな言葉が、大声で聞こえてくる。僕が中学生の兄だと知ってて そんな事を大声で言っている。小学生にこんな事を言われるなんて恥ずかしい。 「ユウちゃん、やれば出来るじゃない」 文香にこんな事を言われるなんて。自分が文香よりも幼い子になったように 思えてくる。 そして、柔軟運動のような事をやった後。 「今日は走るだけにしようか。石川先生がいないと、私たちだけでユウちゃんに バトンタッチの事を教えられないし」 「はあ」 良く分からないまま4人の後についていくと、100mまっすぐのコースがあった。 中学校の運動場は100mをまっすぐ取れずに、体育の時は曲がって100mか、 直線で50mしか走った事がない。100mまっすぐのコースを見るのは初めて。 文香はいつもこんな所で練習してるんだ、そう思うと文香がなんだかすごいように 思えて、そんな事を思っている自分が子供のように思えてきた。 「じゃあユウくん、この100mを走ってね」 「あ、えと、はい」 体育の授業の、1年間に数えるほどの陸上の授業でしか走った事がない僕が、 いつも練習しているみんなの前で走るなんてすごく嫌なんだけど、 補欠とはいえ走るかもしれないんだから、ここで走らない訳にもいかない。 へたくそな走り方を小学生女子に見せるなんてみじめだけど、見せない訳にも いかない。 「一人で走るのは嫌でしょ?お姉ちゃんと走ったら?」 「え?」 「それいいね。ユウちゃん、一緒に走ろう」 文香と並んで走るのか?いつも練習している文香と、へたくその僕が一緒に 走るのを、みんなに見られるなんて。 「じゃあ私、ゴールに行ってるから」 「ほらユウちゃん、そこに立って」 文香はそう言って、自分もスタートラインに立った。仕方なく僕は文香の横に立った。 「じゃあ、位置について」 良く分からないので、スタートの姿勢も文香の真似をする。いちいち文香の方を 見て真似をする自分が情けない。 「用意、ドン!」 文香がすぐに飛び出したので、僕も慌てて走り出す。足がもつれそうになるけど、 なんとか倒れないように走り続ける。気が付いたら文香はずっと前を走っていた。 まっすぐの100mのゴールがすごく遠く見える。一生懸命走ってるのに全然 前に進まない。まだ100m走り終わってないのに息が苦しくなってきた。 文香はもうゴールに着いたようだ。すごく遠い。ゴールにたどり着くのに 1分くらいかかったような気がする。実際にそんなにかかった訳じゃない だろうけど、そのくらいかかったような気がした。 「はあ、はあ、はあ」 ようやくゴールした。たった100mなのにすごく息が乱れて、変な唾液が出てくる。 文香よりも足が遅いという事よりも、たった100mでこんなになってる事の方が ずっと情けなく思える。 「18秒8。くらい」 女子4人が集まって来た。 「全然練習してない5年生なら、こんなところ?」 「でもスタートの時に足がもつれてたよ。走り方の練習をして、ああいう所を直せば、 結構早くなるかも」 「補欠で足が遅くてもいいって言っても、走ってる途中でつまづいたら、やっぱ まずいよね」 息が乱れている僕の周りで小学生の女子4人がそんな事を話し合っている。 たった100m走っただけでこんなになってる僕をどうするか、小学生が相談 しているというのも、すごくみじめだ。 「じゃあ今日は、ユウちゃんに走り方を教える事にしよう」 結局その日の練習は、小学生に色々教えてもらって、小学生のやる事を真似して、 時々大声で怒鳴られた。 「すごいよ、今日だけで2秒以上縮んだよ」 「やっぱり走り方で全然変わるよね」 足がもつれていたのが無くなったんだから、それだけでかなり速くなったように思う。 「このまま2週間練習を続けたら、大会の5年生100mで優勝できるかもよ?」 「そうかも。どう?ユウちゃん出てみない?」 「いや、あの、その…」 「優勝は無理でも、8位で表彰台に上がれるかも」 中学生男子の僕が、小学5年生女子の中に混じって表彰台なんて恥ずかし過ぎる。 そもそもいけない事なんだし。でも、足がもつれて倒れそうだった僕が、それなりに 走れるようになったのはちょっと嬉しいかも。文香たちに教えてもらって、 文香たちを真似して、少しだけ走るのが上手になった。それがちょっと嬉しい。 「でもさ、下級生に教えてると、自分の走り方を改めて考えたりして、 自分の役にも立つよね」 「うん、そう思った」 そして僕に色々教えてくれた小学生の女子4人が、ちょっとお姉さんに見えた。 文香たちが本当に上級生のお姉さん達に見えた。時々怒鳴られたけど、 色々教えてくれたお姉さん達に感謝の気持ちを持った。そんな気持ちになった 自分が、本当に小学生になっちゃったようで、それがすごく恥ずかしい。 「フミちゃん、また明日。ユウちゃんもね」 「さ、さようなら」 他の3人と別れて、運動公園の外に出た。文香と二人だけになって小学生扱い されてるという気分はなくなったけど、ついさっきまで小学生の前で、 文香の目の前で、小学生扱いされて、小学生の振りをして、小学生から 下級生のように色々教えてもらって、小学生みたいな気分になっていた事を 思い出して、さっきよりも余計に恥ずかしい気分になってきた。 「ユウちゃん、ちょっとこっちに寄り道するね」 「え、うん、いいけど」 もう運動公園から出てかなり歩いたのに、文香からまだユウちゃんと呼ばれる。 他の子がいないのに、まだ妹から年下扱いされて、ちょっと腹が立った。 でも、あれだけ文香に年下扱いされて、色々教えてもらった後に、文香に 『練習が終わったからお兄ちゃんと呼べ』なんていうのも余計みっともない ように思えて、何も言えない。 少し商店街に入った所にあるお店の前で文香が止まった。スポーツ用品店の前だ。 何か必要なものでもあるんだろうか。文香が店の中に入った。 「ユウちゃんも入って」 文香にそう言われて、なんだか分からないけど、店の中に入った。 「いらっしゃいませ」 若い店員さんが出てくると、文香はすぐに品物を頼んだ。 「日雀小学校の体操服をください」 「サイズはいくつですか?」 文香は振り返って僕の方を向いた。 「ユウちゃん、今着ている体操服、それでちょうど良かった?」 「え?う、うん、ぴったりだと思う…」 「じゃあ150cmをください」 あれ?つまりこれって…で、でも、文香もほとんど同じ身長だから… 「ショートパンツも必要ですか?」 「はい」 「150cmの女子用、でよろしいですね」 「はい」 女子用って言ってるし。あれ、小学校の体操服の半ズボンに女子用があるんだ。 それじゃあ、僕が今はいてるのは、やっぱり女子用なんだ… 「はい、1600円です」 体操服はすぐ近くに置いてあったのか、もう支払いをしている。 「ありがとうございました」 文香はレジの前を離れて、僕の方を向いた。 「ユウちゃん、はいこれ」 今買ったばかりの物を、僕に差し出した。 「え、えっと」 「ほら、これはユウくんの物だから」 文香に押し付けられて、受け取ってしまった。 「さ、帰ろう」 文香が店の外に出たので、あわててその後をついていく。 「ちょ、ちょっと、なんでこれを買ったんだ?」 「だって使うから」 「使うって、たった2週間なのに。大会の時には別のユニフォームがあるって 言ってたじゃないか」 「たった2週間だけど、毎日使うんだよ。私のお下がりだけじゃ足りないでしょ?」 「よ、よく分からないよ、どのくらい使うかなんて…」 「それに、私のお下がりだけじゃイヤでしょ?」 確かに文香のお下がりを着て、こうして商店街を歩くのは恥ずかしいけど、 中学生の僕が新しく小学校の体操服を買うだなんて、お下がりと同じくらいに 恥ずかしい。しかも半ズボンは女子用だなんて。 「毎日使うったって、大会の後はどうするんだよ…文香が使うのか?」 「そのサイズはもう小さいから。それはユウちゃん専用」 「そんな…いまさら小学校の体操服、それも半ズボンは女子用だなんて…」 「だってユウちゃんは小学5年生の女子だもん」 そういう事にしたけど。でも。今持っているのが小学校の女子用体操服だと 思うだけで、それが袋の中に入ってて外から見えないのに、持ってるだけで 恥ずかしい。 「お、お金はどうするんだ?1600円とか言ってたけど」 「補欠になってもらうための練習だから、それくらい私が買ってあげるわよ」 小学校の体操服を新しく買ってもらったって嬉しくないし、それが妹に買って もらったものだなんて、さらにみっともない。 「これ、洗濯はどうするんだよ…毎日使うんだろ?お、お母さんに見られたら…」 それを考えたらすごく恥ずかしくてドキドキしてきた。お母さんに見られたら。 「いいじゃない。体操服なんだし」 体操服だからいいって、どういう事だ。 家に帰って、文香のお下がりの体操服はすぐに脱いだけど、洗濯物入れに入れる のはちょっとためらってしまった。でもたくさん走って汗をかいたし。 これは元々文香の物だし、大会前だから文香がたくさん使っていると思ってくれる だろうか。 着替えた後、疲れたから部屋でゴロゴロしてたら、文香が入ってきた。 「お兄ちゃん」 家に帰ってきたら、さすがに『お兄ちゃん』か。 「名前はまだ書いてないでしょ?」 袋に入れたまま机に置いた体操服を文香が取り出して、机の上に広げた。 そして手に太いペンを持って書き始めた。 「『有谷』と。『5の1』と」 押し付けられたとはいえ、僕が買ってもらった体操服に5年1組と大きな文字で 書かれていると思うと、すごくみじめな気持ちになるけど、そもそも小学校の体操服 なんだから、中学校の学年を書いても意味がない。 「ショートパンツにも書いておくね。『有谷』……あ、私の名前を書きそうになった。 『優』って書かなきゃ」 女子用の半ズボンに僕の名前を書かれてしまった。見てないのにすごく恥ずかしい。 「うん。これでヨシ。じゃあこれ、タンスに入れておくから」 そう言って勝手に僕のタンスを開けて、名前を書いた小学校の体操服を 入れてしまった。 「お兄ちゃん、明日はこれを着て行くんだよ」 『お兄ちゃん』と呼ばれても、小学校の体操服をタンスに入れられた訳で、 やっぱり小学生扱いされているんだ。 その夜、翌日の準備をしようとして、体育があるから体操服を取り出すために タンスを開けて体操服を取り出したら、『5−1』と書かれた体操服だったから ドキっとした。あやうく小学校の体操服を持っていくところだった。 もしかしたらこの先、本当に間違えて持っていくかもしれない。そう思ったら、 恐くて震えてしまった。 翌日。家に帰ってみると、玄関に文香の靴があった。やっぱり帰って来て、 僕を待ってるんだ。僕の部屋に行くまでの間に文香には合わなかった。 でも、会ったらすぐに『着替えろ』って言われてしまうんだろうな。 妹に小学校の体操服を着るように言われるのもちょっと嫌だから、 文香に会う前に着替えちゃおうかな。早く着替えると運動公園まで早く連れて 行かれるけど、遅く行ったところで練習が短くなるわけでもないだろうし。 タンスを開くと、昨日買った小学校の体操服があった。大きく『5−1 有谷』 と書いてある。これが僕のタンスの中にあるなんて、本当に小学5年生に 戻っちゃった気分だ。でも文香は6年生のままで。すごく悔しくてみじめだけど、 でも着替えなきゃいけない。中学校の制服を脱いで、小学校の体操服を着た。 おなかの辺りに大きく書いてある学年と名前を見て、中学2年生から小学5年生に 落第した気分になる。それから短パン。昨日は知らずにはいちゃったけど、 今日はこれが女子用だと知っている。女子用だと知ってると恥ずかしくなるけど、 男子のとそんなに違わないし、自分もはいてみるまで気付かなかったんだし。 少し気分を落ち着けて、その後に急いではいてみた。はくとやっぱり恥ずかしい。 しかもこれが、文香の使い古しじゃなくて、僕のために買った新品なんだから。 中学生の僕が、自分のための小学校の体操服で外に出なきゃいけない。 これを着ていると、さっきまで中学校にいた事の方が嘘のように思えてしまう。 もしかしたら僕は小学生女子なのかもしれない。そんな気になる。 「お兄ちゃんいる?早く着替えて…」 文香の声がした。 「あ、もう着替えてたんだ。そんなに練習が楽しみだったの?」 「いや、別にそう言う訳じゃ…」 早く着替えたら、それはそれで別の事を言われる。 「やっぱり自分の体操服を買ってもらったら、気兼ねなく着替えられる、とか?」 そんな事を言われると、文香に体操服を買ってもらって、本当の小学生になって しまったような気がしてしまう。 「今日は曇っててちょっと寒いから、これを着て行かない?」 文香がウィンドブレーカーを手渡した。運動部に入っている同級生が持っている 物と同じようなものだった。あれってかっこいいな、と思っていたんだ。 それを文香が持っていたなんて。文香も小学生とはいえ運動部だから、持ってても おかしくはないけど、文香が僕よりも大人っぽい物を持ってるような気がして、 悔しいというか、文香が僕より大人に見えるというか。 「う、うん。運動公園まで歩く間は、寒いかも」 「じゃあそれを着て、行こう」 文香から受け取ったウィンドブレーカーを着て、ジッパーをあげる。そして文香と 一緒に外に出た。 文香から借りたウィンドブレーカーは、同級生が持っている紺色の物とは違って、 いい感じのグレーで、ちょっと気に行ったかも。これの方がずっとかっこいい。 そう思ったら、なんだか欲しくなってきた。これは文香の物なのに。 自分で買えばいいのかも知れないけど、これをどこで売ってるのか知らないし、 文香に聞けばいいんだろうけど、きっと文香が良く行く店だろうし、同じ物を 買ったら買ったで、文香とお揃いという事になってしまう。なんだか僕が文香の 真似をしたみたいになる。昨日の練習みたいに。文香が持っている物を欲しがる 妹みたいになっちゃう。それに比べたら。 「あ、あの」 文香に声をかけようとした。けど、『文香』と呼び捨てで声をかけていいのか、 一瞬ためらってしまった。『お姉ちゃん』なんて言えないし。 「なに?ユウちゃん」 文香が気付いてくれた。良かった。 「あ、あの、このウィンドブレーカーなんだけど…」 「うん」 妹の持ち物を欲しいなんて言うのはすごく恥ずかしいけど、お下がりを着たいなんて 言うのは嫌だけど、でも昨日はお下がりの体操服を着て練習をしたんだから、 ひとつくらいお下がりをおねだりをしても。と自分に言い訳して。 「このウィンドブレーカー、なんだかいい色で、ちょっと気に入って…その…」 「欲しいの?」 「う、うん。昨日は体操服を買ってもらっておいて、これも欲しいなんていうのは 我がままかも知れないけど、でも、いいな、と思ったから、その…」 欲しくて買ってもらった体操服じゃないけど、他に言う事が見つからずに、 とりあえずこれで言い訳をしてみた。 「高かったんだけどなー」 「え?いくらだった?」 「五千円くらい。しかも安売りで運よく見つけて」 「あ、そうなんだ…」 それはちょっと高いかもしれない。自分で買うと考えたら、確かに高いと思う。 文香に無理なお願いをしたような気がして、ちょっと罪悪感を感じてしまう。 「でも、あげるよ」 「え?ほんと?」 「だって私が無理を言って練習させて、補欠とはいえ大会に連れていくんだから。 そのくらいあげないとね」 「あ、ありがとう」 文香からこれをもらえて、すごく嬉しい。まだ時々寒い日が続くだろうから、 中学校に着て行ってもいいかな。妹にお下がりをもらって喜んでいる自分が ちょっと情けなくて、しかも妹のお下がりを中学校に着て行こうと考えているのが 余計にみじめに思えるけど、でも嬉しいし。 嬉しくて恥ずかしい気分で、運動公園に着いた。他の三人はもう運動場にいた。 「あ、ユウちゃんにそれを着せてるんだ。今日はちょっと寒いからね」 「ユウちゃんがこれを欲しいって言うから、あげる事にしたの」 「え?それをあげちゃうの?フミちゃん、やさしいなー」 「お姉ちゃんからもらったんだ。良かったね」 「はい…」 周りからそんな事を言われて、文香が優しいお姉ちゃんのように思えてくる。 でも、みんな僕が中学2年生の兄だって事は知っている。妹におねだりをして お下がりをもらった兄だと知ってるんだ。みんなどう思ってるんだろう。 それを考えたらおなかの奥がずんと重くなって、恥ずかしい気持ちが湧き上がって くるけど、それでも文香からこれをもらえた事が嬉しい。僕って恥ずかしくても おねだりしちゃう、僕はそんな我がまま妹になっちゃったのかな。 「陸上部の4人、じゃなかった5人、集まりなさーい」 遠くからそういう事が聞こえた。みんながその声の方向に歩き始めたので、 僕もついて行く。あれが陸上部を指導している石川先生なんだ。 さすがにあの先生は、僕が中学生男子だって事は知らないだろうな。 今日はお行儀のいい小学5年生の女子でいなきゃ。そう思いながら、みんなの後ろに ついて先生に近づく。 「あ、あなたが有谷さんの妹のユウさんね」 「は、はい」 「陸上部のコーチをしている石川です。よろしくね」 「よ、よろしくお願いします」 「顔を見たらすぐに分かったわ。姉妹って本当によく似てるわよね」 「そんなに、似てますか?」 「似てる似てる。お姉ちゃんと比べると痩せてるけど、それでも妹さんだな、 とすぐに分かった」 「そ、そうですか…」 やっぱり僕を5年生の女子だと思っているみたいだ。そうとしか見えないんだろうな。 それはそれで安心だけど、でもやっぱりみじめに感じる。 「あまり運動はしてないようだけど、お姉ちゃんに無理やり大会に出ろ、って 強要されたの?」 「は、ない…」 「えー、私、そこまできつく言ってないですー」 文香が言い訳をしている。 「あ、あの、4人の中の一人が出られなくなった時は、最下位でもいいから走りたい って言われて。バトンを落としたりつまづいたりしなければいいと、ふ…」 言いかけて、『文香』と言おうか『お姉ちゃん』と言おうか、ちょっとだけ悩んで。 「そう言われて、だったらいいかな、と思って」 どちらも言わずに、なんとか文章をつなげて話した。 「そうか。お姉ちゃんのお願いを聞いてあげたんだね」 「は、はい…」 「いい子だ」 先生にほめてもらえて、ちょっと気分が落ち着いた。でも妹としてほめられた んだけど。 「でも、ちょっと頑張れば、バトンの受け渡しの他にも、少し速く走れるように なると思うよ」 「は、はい…」 「せんせーい。昨日ユウちゃんにちょっと走ってもらったんですけどー、 ほんとにちょっと教えるだけですごく早くなると思いますよー。だってフミちゃん の妹なんだし」 一番背の低い人が大きな声でそう言った。 「お、そうなんだ。それは楽しみ」 「いっそのこと、大会では5年生の100mに出場したらいいんじゃないですか?」 そんな事を言われて、またドキっとする。本当は中学生男子の僕が、小学5年女子の 試合に出るなんて、すごくいけない事のように感じて恐くなってきた。 でも『本当は中学2年の男子だから出られません』なんていまさら言えないし、 なんて言って断ろう。 「それいいなー」 先生もそういうから、さらにドキドキする。 「でも、もう出場エントリーは出して、締切を過ぎたのよ。だからもう別の競技の エントリーは出来ないの。ごめんね」 「えー、残念。せっかく練習するのに」 「あ、あの…ちょっと残念…です…」 本当はホッとしてるんだけど、口ではそう言っておく。 「じゃあランニングを始めようか」 文香たちがウィンドブレーカーを脱ぎ始めたので、僕も脱いだ。 「おや、新しい体操服だね。気合が入ってるね」 先生にそんな事を言われて、びくっとした。中学生の僕が『5−1』と書かれた 小学校の体操服を着ているのを、真正面からじっくり見られている。しかも 短パンは女子用。 「え、えっと、毎日のように練習するから、たくさん着替えがいるって、ふ、あ、 お、お…お姉ちゃん、が、言うから…」 文香の事を『お姉ちゃん』と言ってしまった。ちらっと周りを見回したら、 6年生はみんな少し離れた所にいる。先生にしか聞かれてないと分かり、 ほっとした。でも先生に聞かれた事だけで十分恥ずかしい。 「うん、たくさん練習して、たくさん汗をかくよ。じゃあ走ろう」 先生が走り出したから、あわててその後をついていく。僕が小学校の体操服を 着ている事も、女子用の短パンをはいている事も、特に何も言われなかった。 小学生の女子に見えてるって事で、良かったと言えば良かったんだけど、 ちょっと悲しい気もする。 今日も運動場を3周して、スキップみたいな事をして、柔軟体操をして。 今日は先生もいるし、みんなと一緒にやったし、『足があがってない』とか 怒鳴られる事もなかった。練習でも、それほど厳しくはなかった。 たった2週間の参加だし、補欠のためだけで多分実際には大会で走らないし。 それに、5年生って事になってるし。6年生の文香たちと比べると、 先生からも下級生扱いされてる感じがする。文香たちが大人扱いされている ような気がして、ちょっとみじめになる。 「フミちゃん。ユウちゃん、また明日」 「さ、さようなら」 文香と一緒に運動場の外に出る。曇りのせいもあって、少し暗くなっていた。 さっきまで走ってたのに寒くなってきたので、僕も文香もウィンドブレーカーを 着た。文香からもらったウィンドブレーカーを着れて、ちょっと嬉しい。 いや別に文香からもらったから嬉しい訳じゃなくて、このウィンドブレーカーが かっこいいから嬉しいんであって。 文香と一緒に運動公園の門から出る時、高校生くらいの女子が一緒に門から出た。 僕と同じウィンドブレーカーを着ていた。やっぱりこの色って人気があるのかな。 自分が一目見て気に入ったのが割と人気がある、小学生の妹にもらったものだけど、 高校生の間でも人気だ、そう思うとちょっと嬉しいかも。あれ、でも女子が着ていた。 そもそも文香にもらったものだし。もしかしてこれも女子用かも。ドキっとして、 あわてて胸や腕を見た。でも、別に花柄とかピンク色とかある訳じゃない。 同級生が着ているのと、別に違いがあるようには思えない。別の方向に歩いていった 女子高生の背中を見ても、メーカー名が書いてあるくらいで、別に女の子っぽい訳 じゃない。でもこれが女子用だったらどうしよう。僕が欲しいとおねだりして もらった物なのに、いまさらいらないとは言えないし。それにこの色が気に入った からもらったんであって。もしこの色が女子用しかないとしたら、ちょっと困る。 このウィンドブレーカー自体は気に入ってるし、別に女の子っぽい所がある訳じゃ ないし、着るのに困る訳じゃないし。でも中学校に着て行って、『それは女子用だ』 と言われたらどうしよう。そんな事を考えながら、文香の後ろを歩いた。 家に帰って着替えた後、すぐに文香がやってきた。 「お母さんがね、お兄ちゃんの体操服を、私の洗濯物の中に入れてたのよ。 困るよね。これ、お兄ちゃんが使うのに」 そう言って、『5−1』と書かれた体操服を僕の部屋の机の上に置いて行った。 お母さんは文香が使った体操服だと思ったようだ。ちょっと安心した。 でも、僕が着た文香のお下がり体操服をお母さんに見られたと思うと、 気付かれなかったとしても恥ずかしい。ちょっと複雑な気持ちで文香が置いて行った 体操服を取り、他の洗濯物と一緒にタンスに入れていった。靴下を入れて、パンツを 入れて、体操服の短パンを。あ、これは文香のお下がりの短パンだ。短パンの方は 僕の洗濯物の中に入れてあった。これは女子用のはず。女子用の短パンを、 お母さんが僕の物だと思ったんだ。僕が女子用の短パンを使っているのを気付かれた のかな。そんなはずはない。僕だってこれが女子用だとは最初気付かなかったんだし。 中学校の体育用短パンと比べてみても、手触りは違うけど、見た目はそれほど 違わない。きっとお母さんも、中学校の短パンと同じだと思ったんだ。 晩御飯の時にもお母さんには何も言われなかったから、僕が文香のお下がりを着て 陸上の練習をしたとは知られてない、はず。晩御飯の間中、何か言われるんじゃ ないかとドキドキしっぱなしだったけど、何も言われずにほっとした。 でも夜、お布団の中で、『今までもお母さんは気付かずに、僕の短パンと文香の 短パンを間違っていたんじゃないか?』とか考えてしまった。でも感触が違うから 気付くかな?でも気付かないまま中学校に持って行ってはいてたかもしれない。 自分を含めて誰も気づかなかったんだから、その時は別に恥ずかしくなかったけど、 そうだったかも知れないと気付いただけですごく恥ずかしい。 翌日、中学校で陸上部の友達のウィンドブレーカーを観察したけど、男子用と 女子用の違いというのが分からなかった。外からしか見てないから、 実際に着てみたら違いが分かるのかもしれないけど、『着せて』と頼むわけにも いかないし、『違いがあるのか?』なんて聞けないし。 でも運動公園での練習の時には安心して着て行ける。だって文香からもらった物 だってみんな知ってるから。妹からのお下がりだっていう事も知られていて、 恥ずかしいのは恥ずかしいけど、先生には僕の方が妹だっていう事になってるから、 お姉ちゃんのお下がりで恥ずかしがっちゃいけないし。なによりも、僕が気に入って いる物だから着たいし。 今日はバトンの受け渡しの練習をした。僕にとってはこれが一番の目的なんだから、 先生も時間をかけてじっくり教えてくれた。叱られたりはしなかったけど、 何度も何度も練習した。バトンの受け渡しだから僕一人では出来ないわけで、 6年生も一緒にやったんだけど、へたくそな僕の練習に6年生を付きあわせて、 なんだか悪いような気がする。でもみんな楽しそうに練習をしているから、 僕もちょっと楽しくなってきた。そんな6年生がなんだか本当に立派な上級生の ように思えてくる。こんな上級生と一緒に練習できる事がちょっと嬉しい。 その上級生の中に文香がいるのが、ちょっと複雑な気分だけど。 そんな練習を続けて、2週間が経った。バトンの受け渡しも落としたり、 受け取れなかったりしなくなったし、100m走るのが3秒以上短くなった。 大会では多分走らないんだけど。ちょっと残念な気もするけど、 でも5年生の女子に混じって、一緒に100mを走るなんて恥ずかしいから、 別にいいや。中学校の運動会で最下位にならないようになれただけで十分。 そして大会当日。 大会用のユニフォームを後で受け取って、会場で着替えるというから、 文香のお下がりのジーパンとTシャツで運動公園の前に来た。スポーツ用品の 会社の名前が大きく入ったTシャツで、別に女の子らしい絵が入っている訳じゃ ないし、陸上部の誰も何も言わなかったんだけど、それでも、また文香のお下がり だと思うと、やっぱり恥ずかしい。でもこの大会までは文香がお姉ちゃんなんだから。 電車に30分ほど乗って、大きな競技場に着いた。かなり大きな会場でびっくり した。こんな大きな大会に参加するなんて、すごくドキドキする。 でも4人とも揃ったんだから、僕は走らなくていいんだけど。 こんな大きな会場では迷子になってしまいそう。どんどん歩いていく文香たちを 見失わないように、必死についていく。 建物の中に入ると机がたくさん並んでいて、『ここから先は出場者のみ』と 書かれていた。先生が机で紙を1枚提出し、何かの束を受け取った。 「はい、これがエントリーナンバー。前と後ろに付けなさい」 僕がもらった布には『全国小学生選手権陸上大会県予選』、そして大きな字で 『96』と書いてあった。 「96って結構おおきな番号だね。補欠だから?」 「そ、そうかも…」 そんな事よりも、県予選とはいえ、全国小学生大会に、僕は参加するんだ。 こうして番号を手渡されて、そこにしっかりと『小学生』と書いてあるのを見て、 本当に小学生の大会に来てしまったと実感した。 「それじゃ、先生はここから先には入れないから。5人とも頑張ってきなさい」 「はーい。頑張ってきまーす」 そういうと4人は建物の奥に向かって歩き始めた。あわてて僕もそれについて いった。小学生の女子5人だけになってしまった。先生が入れないんだから、 周りにいるのは全部小学生。中学生が僕一人だけなんて。そう思うと心細く なってきた。でも小学生ばかりの中に僕がいるのは、僕が小学生だからで。 そう思うと今度は恥ずかしくなってきた。心細くて恥ずかしいけど、 それでも文香たち6年生が一緒にいるから、大丈夫。年下の文香たちを 上級生として頼ってしまう自分が情けないけど、でも他に安心できる人が いないし。ここでは僕は小学5年生なんだから、6年生のみんなを頼って いいんだ。頼るしかないんだ。 さらに奥に進むと『更衣室』と書かれていた。そうか、ユニフォームに着替えないと。 「ほら、ユウちゃん、行くよ」 文香に手を引っ張られて入った所の入口には『女子』と書かれていた。 「あ、あれ、あの、いいのかな…」 「何言ってるの?ほら、さっさと着替える」 文香に引っ張られて入ってしまった。広い部屋を布きれ1枚で仕切っただけの 更衣室だけど、それでもすごく悪い事をしているような気持ちになる。 「で、でも…」 「お姉ちゃんたちと一緒に着替えるのが恥ずかしいの?」 一番背の高い田中さんにそう言われた。僕が中学生男子だと知ってるのに。 でも女子のリレーの補欠として参加するんだから、ここで着替えないといけないんだ。 「ほら、早く着替えましょ」 そういうと、みんなさっさと脱ぎ始めた。周りを見ると、中学生どころか高校生に 見えちゃうような女子もいるけど、僕よりもずっと背の低い女子も多い。 壁を向いて着替えれば見ないで済むけど、僕が着替えている所は見られてしまう。 見られるのが恥ずかしいという事はないけど、でも見られるのは嫌だ。 「ほら、早く着替えなさい」 文香はもう着替えてしまっている。さっさと着替えてしまって外に出た方がいい。 僕も急いで着替えて、番号が書かれた布を付けた。 みんなの後についていって、グラウンドに出た。ちょっとほっとした。 でも胸と背中に『全国小学生』と書かれているから、まだちょっとドキドキする。 でも周りを見回したら、今まで練習に使っていた運動公園の運動場よりもさらに 広い運動場があった。学校の運動場なんかより全然広い。こんな所で走れたら いいな、なんて思ったけど、4人とも揃っているんだから走らないんだ。 小学生の女子に混じって走る訳にはいかないし。 「リレーの予選は一番最初らしいから、今から軽く走っておこうか?」 「うん、そうしよう」 僕は走らなくてもいいんだけど、一人だけでどこかで待っているのも不安だし。 ……僕はやっぱり6年生を頼っている。近くにいないと不安になる。今日は僕は 小学5年生なんだから、文香の妹なんだから、別にいいんだ。そう思っても、 やっぱり情けなくなる。そうだ。まだ予選ってだけなんだから、決勝で僕が出なきゃ いけなくなるかも。決勝に出なきゃいけないなんてそれこそ恐いけど、とりあえず そういう事にして、文香たちと一緒に走った。 しばらく走っていると、スピーカーのスイッチが入る音がして、 「まもなく開会式が始まります。チームごと、決められた場所に並んでください」 というアナウンスがあった。文香たちは走るのをやめて、グラウンドの中央に 向かって歩き始めた。しばらく歩くと僕たちのクラブの名前『日雀スポーツクラブ』 が書かれた札があった。5人はそこに一列に並んだ。僕が一番後ろ。なんとなく みんなの後をついて歩いて、結果的に一番後ろに立っただけなんだけど、 僕が小学5年生だから一番後ろなのかな、とか思って、ちょっとドキっとした。 周りを見回すと、僕たちの所と同じように6年生が前に並んでいるせいか、 僕の近くには小さな子ばかりいるように見える。きっと5年生なんだろう。 今はチーム別に並んでいるから、男子も女子もいる。だから余計に、周りが 5年生ばかりと分かる。本当は中学校に通っている僕が、こんな小さな子達と同じ 小学5年生だなんて。中学校では学年全体でも小さい方から何番目くらいの僕が、 ここでは僕が大きい方だ。背が高い同級生をうらやましく思った事もあるけど、 だからと言って小学5年生の中に放り込まれて一番背が高くても、あまり 嬉しくない。むしろ、本当は中学生の僕が目立ってるんじゃないかと不安になる。 文香より小さいけど。周りを見ていると、小学生ばかりの列の中に中学生が 一人だけ並んでいるんだと自覚させられるので、下を向いた。『全国小学生』と 書かれた布が見えて、またドキっとするけど、さっきあわてて着替えた ユニフォームをじっくり見ると、意外とかっこいいように思えた。中学校の 陸上部が着ているのと似たような感じだけど、ちょっと紫がかった明るい青 なのが、なんだかいい。もちろん、体育の授業で使う体操服とは全然違う。 短パンはすごく短いけど、陸上のユニフォームってこんなのだったかな? ユニフォームだから文香たちと同じで、番号も補欠用の大きな番号みたいで、 文香たちの下級生なんだって思って恥ずかしいけど、僕は今、小学5年生として 本当の小学5年生の中に囲まれているんだから、6年生と同じユニフォームって くらいは大した事じゃないんだ。うん。それにこのユニフォームは僕のための ユニフォームだから。あ、文香に買ってもらった小学校の体操服も僕のための 物だった。 開会式は、県陸上なんとか協会会長とか偉い人達が話して、選手宣誓して。 そんな感じで終わった。選手宣誓をした人は、隣の小学校の人みたいだった。 県大会の選手宣誓を小学生がやるなんて。あ、これは小学生大会だった。 「この後グラウンド整備を行います。選手は控え場所に移動してください。 最初の競技に出場する人は、出場者控え場所に集合してください」 アナウンスで言われた通りに、文香たちと一緒に控え場所という所に移動した。 「私たち、これからリレーの予選だから、ユウちゃんはここで待っててね」 文香がそう言った。 「あ、はい。分かりました」 あ、文香に敬語を使っちゃった。でも他の6年生には最初から敬語を使ってたし、 最近は文香にも知らないうちに敬語を使ってしまっている。かも知れない。 だって文香も、とても熱心に教えてくれるから、本当に上級生のように思えてきて。 だから仕方ないかな。恥ずかしいんだけど、そう思ってしまった。でも、家で文香に 敬語を使ったりしてないかな。それが心配。そんな事を思いながら、離れていく 文香たちの背中を眺めた。 「ねえ、あなた、5年生?」 突然隣から話しかけられた。 「え?あ、はい、そうです」 なんで僕が5年生という事になっていると分かったんだろう。あ、文香に敬語を 使ったからか。 「私も5年生。舞吹小学校の5年生」 隣に座っていた女子が楽しそうに話しかけてくる。 「結構遠い所から来てるんですね」 「遠かったよー。あなたは?」 「日雀…小学校…です」 小学校、というのがちょっと恥ずかしかったけど、でも今は中学生だなんて言えない。 「あ、割と近いんだ」 「電車で30分くらい」 「電車で来れるんだ。いいなー。さっきの人、お姉さん?」 さっきの人、というのは、文香の事だろうな。 「あ、はい」 「やっぱりそうなんだ。そっくりだったから」 「そ、そんなに似てますか?」 「似てるよー」 隣の女子が、とても楽しそうに話しかけてくる。とても楽しそうに話す人で、 こうして話しているのは嫌じゃない。今まで練習では上級生しかいなかったから、 陸上をやってる同級生が出来たみたいな気持ちにもなった。でも本当は、 僕は中学生男子なんだけど。それがなんかちょっと、恥ずかしいっていうか、 残念というか。 「いいなー。私は一人っ子だから、お姉さんがいたらなー、ってよく思うんだ」 その時、アナウンスがあった。 「間もなく最初の種目、女子400mリレー予選が始まります」 「あ、お姉さんが出るんでしょ?」 スタート地点に目を凝らした。 「はい……あ、最初の組で…出るみたい」 遠くから小さな声で『ようい』と聞こえて、少し後にドンと音がした。 「あなたと同じユニフォームの人だよね?」 「はい」 「先頭だよ、すごいよ。次はあなたのお姉さんだよね?」 「はい」 「ほらー、大きな声で応援しなよ」 「え?」 「ほら、お姉さんを応援しなきゃ」 そう言われて、一瞬とまどったけど、100mを走るなんて十秒ちょっとしか かからない。もう文香はバトンを受け取って走っている。考えている暇はない。 「お、お姉ちゃん、がんばれ!」 思った以上に大きな声を出してしまった。言ってしまってからすごく恥ずかしく なったけど、周りもすごくうるさいから、文香には聞こえてないはず。 だから恥ずかしがなくても。でも文香の事を、こんなに大きな声で『お姉ちゃん』 と呼んでしまった。 「1位でゴールだ。すごいなー」 予選だけど1位でゴールした文香たちを見て、本当にすごいと思った。 「上級生がいるといいよね。うらやましい」 「え?上級生はいないんですか?」 「私一人だけ。舞吹小学校は、私一人だけ。だから上級生がいるのがうらやましくて」 「でも、日雀のクラブも、2つの小学校で、よ、五人ですから」 自分も小学生に入れないといけない。五人と言った後、ちょっと恥ずかしくなる。 「そうなんだ。でも、うちの方では隣の小学校も遠いから」 「大変ですね…」 そんな話をしていたら、リレーの予選が終わって、文香たちが戻って来た。 「あれ、ユウちゃん、隣の子と仲良くなったの?」 文香が僕を見て、そう言った。 「え、えっと、その、は…」 「同じ5年生なので、仲良くなりましたー」 僕が恥ずかしくて返事を出来ずにいたら、隣の子が元気に返事をした。 「同じ学年の子と仲良くなったんだ。良かったね」 小学5年生の女子と仲良くしている所を文香に見られるなんて、ものすごく 恥ずかしいけど、でも小学生大会に参加しているんだから、文香の前でも 小学5年生らしくしてなきゃいけない。だからこの子と仲良くするのは、 いい事なんだ。そう自分に言い聞かせた。 「あなたはどの競技に出場するの?私は100mだけど」 やっぱり普通に100mに出場するんだ。一人だから当然か。補欠だけの僕は ちょっと答えにくい。 「えっと、あの、ぼ…わ、わたしは、補欠だけ、なんです」 「補欠だけ?」 「あ、あの、お姉ちゃんに、補欠がいないと困るって言われて、無理やり参加 させられたっていうか」 「今まで陸上をやった事ないの?授業以外で」 「えっと、2週間前からあわてて練習しました。バトンを落としたり、途中で つまづいたりしないくらいに」 一生懸命言い訳をする。 「じゃあ2週間で県大会?」 「はい…」 なんだかすごく申し訳ない気持ちになる。きっとこの子はすごく練習した んだろうな。そんな子と比べたら僕なんて…。 「お姉ちゃんが困ってるから、陸上をやった事ないのに、急いで練習したの?」 「え、ええ、まあ…」 「お姉ちゃん思いなんだね」 なんだか良く分からないけど、ほめられた。 「でも、ついでに100mにも出ればよかったのに」 「えと、上級生からは、そう言われたんですけど、締め切りを過ぎてるって 先生に言われて」 「そうか。残念。一緒に走りたかったな」 そんな事を言われて、胸が締め付けられた。こんなに仲良く話してくれた人に こんな事を言われて、本当に一緒に走りたいと思った。でも僕は中学生だから、 そういう訳にもいかないし。 「5年生100m予選、出場者控え場所に集まってください」 隣の女子が立ち上がった。 「じゃあ行ってくるね」 「がんばってきてください。応援してます」 「はーい」 リレー決勝は午後になってすぐにあるそうで、文香と同じ小学校の倉井さんが 100mにも出るから、少し早めのお弁当を食べていたら、隣に座っていた女子が 5年生100m予選で1位になってびっくり。一緒に走った中で1位ではなくて、 5年生女子全体で1位。僕のここ何日かのタイムと比べて1秒以上早い。 「頑張ってきたよー」 隣の女子が戻って来た。 「あ、あの、すごいじゃないですか。全部の中で1位って」 「でも、練習でのタイムよりもちょっと悪かったから。決勝はもっと頑張らないと」 この子もすごいし、文香たちも決勝進出だし。近くにいる人がみんなすごくて、 補欠のためだけに来たとはいえ、すごく肩身が狭い。本当は中学生なのに。 倉井さんの100mも決勝進出で、僕なんかがここにいていいのか、と思って しまう。でも隣の女子から『お姉ちゃんが困ってる時に急いで練習した』という 言葉を思い出して、少しは役に立ってるんだ、そう思う事にした。 お昼が近くなって、文香たちのリレー決勝も近づいてきた。 「じゃあウォーミングアップしてこようか。ユウちゃん、少し走るよ」 「え?はい」 倉井さんに言われて、急いで立ち上がった。でも、もうリレー決勝だけだから、 僕は何もしなくていいはず。でも6年生のみんなが走るし、立ち上がっちゃったし、 一緒に走ってこようかな。 「いってらっしゃーい」 隣の女子にそう言われた。 「いってきまーす」 文香たちとしばらく一緒に走っていたら 「友好レース、男子、女子、出場者控え場所に集まってください」 とアナウンスがあった。友好レースってなんだろう? 「ユウちゃん、出番だよ」 背の高い6年生にそう言われた。 「え?出番?」 訳が分からなかった。 「友好レースだよ」 「友好レースって…」 「リレーの補欠の人が走るの。普通の100mだけど」 なんだか分からない。 「えっと、あの、補欠だから、もう出なくていいのかと」 「ユウちゃんみたいな補欠の人は、一生懸命練習しても、出番がないでしょ? そういう人のためのレースなの」 「え、えっと、でも…」 「ユウちゃんも一生懸命練習したでしょ?少しは速くなったでしょ?」 「その…」 確かに一生懸命練習したし、こんな立派な所で走りたいな、とも思ったけど。 「タイムなんて関係ないから、走ってきなよ。最下位でもいいじゃない」 どっちかというと、まだ最下位の方がマシなような。 「もし1位になっても公式記録には残らないけど、でも走った時の気持ちは残るよ」 公式記録には残らない……でもこんなにたくさんの人の目の前で走るなんて。 「えっと、あ、あの」 文香に尋ねなきゃ。そう思って文香の方を見たけど、文香は今横を向いている。 どう呼びかけよう。こんな時に文香の事を呼び捨てなんかには出来ないし… 「お、お姉ちゃん」 思い切って言ってみた。 「なに?ユウちゃん」 文香がこっちを向いた。どう尋ねればいいのか分からない。でも。 「あの、友好レースっていうのがあるらしくて、知らなかったんだけど、出て、 いい、のかな?」 「頑張ってらっしゃい」 文香がほほえんで答えた。その言葉に押されて、出場者控え場所に向かった。 出場者控え場所に行くと、男子と女子が分かれて集まっていた。しばらく両方を 見比べた後、女子が集まっている方に、ドキドキしながら近づいた。 周りには女子しかいない。男子がすごく遠くにいて、大人みたいに胸の大きい 女子がすぐ隣に立っている。目の前の女子は髪を三つ編みにしている。 斜め前に立っている、少し髪の長い女子が、僕の方を見ている。僕を見て、少し 首をかしげた。何を思ってるんだろう。ドキドキする。でもすぐに係員に声を かけられて、そっちの方を向いた。その係員はすぐに僕に声をかけてきた。 大人の人が僕の前に立って、僕をじっと見ている。本当は中学生男子だって ばれないだろうか。 「えーと、96番。有谷、ユウ?」 「は、はい」 ドキドキしながら答える。 「日雀小学校ね。第2組の第2レーンだから、2の数字の2番目に並んで」 「はい…」 ドキドキしながら係員の前を離れて、言われた場所に並ぶ。目の前に立っている のは、かなり髪の短い女子。後ろ姿しか見えないけど、でも女子だと分かる。 なんでだろう。右隣には僕よりも背が高くて、けっこうがっしりした体の女子が 立っていた。いかつい顔かも。文香が言ってた通り、これなら僕が小学生の女子に 見えるかも。でも、いかつい顔でも女子と分かる。なぜだろう? 左隣にはすごく小さな女子がいた。斜め前の二人は普通の小学生って感じの女子で、 自分が小学生の女子の列に並んでいる事を改めて実感する。僕は小学生女子として 扱われて、小学生女子の100m走に出るんだ。 「では友好レース女子第1組、スタートラインについてください」 僕の前にいる女子が少し進んで、スタートラインに並ぶ。そしてスタートの合図。 目の前の女子が前に飛び出す。なんかかっこいいな。こんな立派なコースを 僕も走りたい。あ、今から走るんだ。小学生の女子に混じって。 前を走っている女子はすぐにゴールにたどり着いた。補欠と言っても、やっぱり 僕よりも早いんだろうな。じゃあ1位になる心配なんかしないで走ろうかな。 「友好レース女子第2組、スタートラインについてください」 そう言われて、横に並んでいる女子と一緒にスタートラインにつく。 今、たくさんの人に見られてるんだろうな。僕が小学生の女子の中に混じって スタートラインにいる所を。僕が中学生男子とは分からないかも知れないけど、 でもそれを見られているのは事実で。でも、今まで文香たちに色々教えてもらって、 ちょっとだけ足が速くなったんだから、今までで一番いいタイムが出せればいいな。 控え場所で隣に座っていた女子は、僕よりもずっと速かったんだから、気にせずに 走ろう。 「位置について、用意」…バン! 走ってる最中はあまり何も考えられないけど、でも小学生の女子の中で、 小学生の女子の一人として走っている姿をみんなに見られている、そういう 気持ちでいっぱいだった。恥ずかしいけど、小学生大会とはいえ県大会で 走れてちょっと嬉しい。僕よりも前を走っている人がいるから、気にせずに 精一杯走ればいい。あと少しだから。と思ったら、僕の前を走っていた人が 少しつまづいた。あれ?と思った時には、ゴールのテープを切っていた。 「はい、あなた、こっちにきて」 あれ、どうして僕は呼ばれてるんだろう。『こっちにきて』って。もしかして 中学生男子だとばれて、怒られるのかな。 「96番、有谷さん。タイムが出るまで少し待ってね」 タイムが出るまでって。掲示板を見たら、表示されていた記録が一旦消えて、 新しい記録が表示された。僕の名前が上から3番目にあった。昨日の練習で 測ったタイムより、0.2秒だけ速かった。 「あなたは3位です。表彰式があるので、表彰者控えで待っててください」 「はい…」 そう言われて、『表彰者控え』と書かれた紙が貼ってある場所まで歩いて、 椅子に座った。僕よりも先に2人が座っていた。一人は僕の斜め前にいた女子。 もう一人は、多分僕よりも一番遠い場所に立っていた女子。僕が3人目。 つまり、僕は第2組で1位になって、全体で3位って事なんだ。 「あなた、何年生?」 隣の女子が僕に尋ねてきた。 「5年生…です…」 5年生って事になっているからそう答えたけど、3位になって、本当は中学2年生 の男子の僕が『小学5年生です』と答えるなんて、恥ずかしいし罪悪感もあるし。 「へえ、5年生で3位なんてすごい。将来有望だね」 そういう事を言われるとさらに胸が痛む。 「あ、あの、前にいた人が転んだから…」 「でも、転ばずに速く走ったから、3位になれたのよ」 「はい…ありがとうございます…」 今さっきスタートラインで見かけたばかりの小学6年生に、こんな事を言われる なんて。ほめてもらっているのに、すごく恥ずかしい。 「表彰式を始めます」 隣の二人の一緒に立ち上がって、係員の後について外に出た。外に出ると、 表彰台があった。係員に促されて、表彰台の3位の所に立った。 校長先生くらいの年齢の人が現れて、1位の人の前に立って、隣に用意されていた 表彰状を手に持った。 「表彰状。金井美香。全国小学生選手権陸上大会県予選、友好レース女子第一位。 あなたは素晴らしい成績をおさめたのでここに表彰する」 1位の人に表彰状が手渡されると、周りで拍手が起こった。周りの人がこっちを 見ている。今は1位の人を見てるんだろうけど。でも。 「表彰状。石森奈々。全国小学生選手権陸上大会県予選、友好レース女子第二位。 あなたは素晴らしい成績をおさめたのでここに表彰する」 また拍手が起きた。そして、みんなの視線が僕の方に集まる。 「表彰状。有谷優。全国小学生選手権陸上大会県予選、友好レース女子第三位。 あなたは素晴らしい成績をおさめたのでここに表彰する」 表彰状が僕の前に差し出された。受け取っていいのか、一瞬だけ戸惑ったけど、 でもここで受け取りを拒否するわけにもいかない。表彰状を受け取って、 隣にいる6年生の真似をして頭を下げた。周りで拍手が起きた。みんな僕を 見ている。僕の手には『小学生大会』『女子3位』と書かれた表彰状。それを 手にして表彰台の3番目の所に立っている僕の姿をみんなに見られている。 1位で目立ち過ぎるのは嫌だ、なんて思っていたけど、1位と2位に6年生 とはいえ小学生が立っていると、それはそれでみじめに思える。 恥ずかしいけど、でも逃げようがない。しばらくしたら、係員から降りるように 促されてほっとする。 表彰状を手にして、文香たちが待っている控え場所に向かう。時々立ち止まって、 手に持っている表彰状を広げて中を見る。今まで僕は表彰状なんてもらったかな? 小学2年生の時に図画コンクールで、学校内の2位をもらったような記憶がある。 でも学校外でこんな表彰状をもらうなんて初めてだ。そう思うとちょっと 嬉しいかも。たった2週間練習しただけの僕が、こんな立派な会場で走らせて もらえたのも、嬉しいかも。表彰状には『小学生』『女子』と書いてある。 それを見ると少し胸が苦しいけど、でも、僕は小学5年生の女子の一人として 走ったんだから。僕が小学5年生の女子として女子の列にならんだから、 ここで走らせてもらえたんだし、友好レースだけど、3位だけど、前の人が 転んだうえでの3位だけど、この表彰状をもらえたんだし。それが全然嬉しく ないというわけではない。僕は嬉しいんだろうか、嬉しくないんだろうか。 うん。本当は中学生男子の僕が小学5年生の女子にさせれた結果であっても、 やっぱり少しだけ、嬉しい。でも恥ずかしい。 そんな事を考えながら歩いて、控え場所に着いた。 「ユウちゃんやったね」 「やっぱり出て良かったでしょ?」 「すごーい」 隣の女子もすごく喜んでくれている。 「あ、あの、友好レースで、3位だから。あなたは5年生の100mで1位、 なんですよね?わ、私よりも1秒以上速いし」 「でもー、お姉さんに無理やり参加させられて、2週間だけ練習して、それで 友好レースで3位なんてすごいよ。無理やりつれて来てくれたお姉さん達に 感謝しなきゃね」 「そ、そうですよね…」 小学5年生に言われた事だけど、そうだって思った。だからそれに従って。 「あ、あの、お姉ちゃん」 「ユウちゃん、おめでとう」 「お、お姉ちゃんたちが、色々教えてくれたおかげで、こんな立派な表彰状を もらえました。あ、ありがとうございました」 小学6年生、特に妹に向かってこんな事をいうなんて思わなかった。 小学生大会の表彰状という、恥ずかしさと混じった微妙な嬉しさなんだけど、 やっぱり真剣に教えてくれた文香たちにお礼を言わなきゃいけないんだ。 だって僕は文香たちの下級生なんだから。 結局、うちのクラブはリレーが2位、僕が友好レース3位。かなりいい成績だった。 文香たちは『もう一歩で全国大会だったのに!』と悔しがっているけど。 僕の隣に座っていた舞吹小学校の女子は、決勝でも5年生女子1位で全国大会。 文香たちも、あの子も、どっちもすごい。友好レースでも3位が取れて、 恥ずかしい思いをせずに済んだのかな。中学生男子が小学生女子と一緒に走って 3位になって、少し喜んでいる自分が、恥ずかしいけど。 でも家に帰って表彰状を見ると、中学2年生男子の気持ちが少し戻ってきて、 僕の名前の前に『小学生』『女子』と書かれているのが恥ずかしくなってきた。 すぐそこにあるタンスの中には、中学校の男子制服が入っているのに。 文香は 「表彰状を飾りなさいよ!」 とうるさいけど、それをやるとお母さんに見られちゃうから絶対にやらない。 夜、お布団の中で、今日使ったユニフォームや、文香にもらったお下がりの 小学校の体操服、買ってもらった僕用のお下がりの体操服、そういうのは もう使わないのかな、そう考えるとちょっと寂しくなってきた。 だからといって、中学校に小学校の体操服を持っていくわけにはいかないし。 あ、体操服の女子用短パンは、中学の男子の物と似てるし、お母さんも 勘違いするくらいだから、中学校に持っていっていいかも。文香にもらった ウィンドブレーカーは、結局違いが分からないから、今度着て行ってみよう。 文香のお下がりなのに、ウィンドブレーカーを着て行くのが楽しみに思えてきた。 だって文香は、僕にいろんな事を教えて、いろんな事を体験させてくれた お姉ちゃんだから。恥ずかしくて言えないけど、大好きなお姉ちゃんだから。 だから、もらった服を着て行きたい。でもそんな事をしたら、中学校でも 小学生の女子みたいな気持ちになるかも。だけどそれは、僕は小学生の大会に 出場して、小学生女子として、小学生女子の中に混じって走ったから。うん。 翌日。連休だからお休み。陸上の練習ももう終わり。何もない。 昨日は頑張り過ぎて、ちょっと眠くてぼけーっとしていると、 文香が何やら手に持ってやってきた。 「あれ?お姉ちゃん、なに?」 「家の中でもお姉ちゃんって呼んでくれるの?じゃあ私は、家でも『ユウちゃん』 と呼んでいい?」 自分が言った事に気付いて目が覚める。 「い、いまのは寝ぼけてただけ。それで何しにきたの」 「ほら、新聞」 文香が広げたのは新聞のスポーツ欄。上の方にはプロ野球やサッカーが大きく載り、 横の方にはゴルフが載ってて、真ん中あたりには剣道の大会が載っていて。 「だから、なに?」 「ここ」 一番下の段を見たら『全国小学生陸上大会県予選』と書いてある。 そこから100m、400mリレー、走り幅跳びなど書いてあって、最後に 『友好レース』があり、タイムは書いてないけど、『3位有谷優』と書いてあった。 記録に残らないって話じゃなかったっけ?新聞にしっかり書いてある。 もしこれに中学校の同級生が気付いたらどうしよう。学校名は書いてないから、 全然よその地域だとおもうだろうけど、でも県内のみんながこれを見ているような 気がしてきた。