=============== あ、もう朝だ。何時だろ。えっと…まだ6時前?こんな時間に起きちゃったんだ。 昨日は大変だったから、早く寝ちゃったんだ。そう、昨日は心理学のレポート問題を やって。分かってしまえば教科書の丸写しに過ぎなかったんだけど、そこに たどり着くまで教科書を最初から最後まで3回読んじゃった。それを急いで書き写して、 大学まで行って、先生の部屋の前まで提出に行って。もう日が暮れる頃だったけど、 なんとか間に合った。ドアの前にぶら下げられた封筒に入れるだけだったから、 本当の締め切りは今朝なのかもしれないけど。だから帰ってきたらすぐ寝ちゃったんだ。 それでこんな時間に起きちゃった。 とりあえず朝ご飯食べよう。昨日の晩は何を食べたっけ?カップ麺食べて、すぐに 寝たんだっけ?じゃあ朝ご飯をちょっと多めにしよう。卵焼きとウィンナーと。 いただきます。むぐむぐむぐむぐ。ごくごく。とりあえず心理学のレポートは提出した んだけど、本当に良かったのかな?私がやっちゃって。本当はここに住んでる沢田広人 って人があの大学の学生で、だからその人が本当はやるべきレポートなんだよね。 ………だけど、もう3日以上、私がここに住んでいる。誰も帰ってこない。 だから私がレポートを書いた。私が学生証を持って大学の建物に入って提出した。 ………それなら私が沢田広人なの?一昨日もアルバイトしたし。一昨日は保土ヶ谷まで 行ったのに、結局何もしないで八王子まで帰ってきた。私はこの部屋に帰ってきた。 私の帰る所はここしかなかった。だから私は。 そんなはずない。私は熊代麻奈、関内女学院高校一年三組。そうなんだから。 だから私は、本当は。……そうだ。今日は9月1日だ。2学期の始業式だ。 本当は今日学校に行くはずなんだ。でも制服もないしカバンもないし生徒手帳もない。 だけど。学校まで行けば、先生や同級生がいるから、きっと分かってもらえるはず。 ちゃんとみんなと直接会って話をすれば、絶対に分かってもらえる。 だけど。一昨日はお母さんもりっちゃんも、私に似ている私じゃない人と一緒だった。 私の目の前を通り過ぎていった。毎日会っていたお母さんでさえ、夏休みに何度か 会っていたりっちゃんでさえ、私に似ている私じゃない人が私であるかのように。 だったら、夏休みで一ヶ月以上会ってない人達はどう思うだろう。そういえば、 携帯電話をかけた時に「電話で呼び出されて登校した」って言っていた。一昨日も 学校帰りだったのかもしれない。制服を着ていたし。だったら先生も、私に似ている 私じゃない人に会っている。他の同級生もそうかもしれない。だったらどうしよう? 行こう。まず行ってみよう。校門まで行けば、クラスの誰かに会えるはず。 一人だけでも気付いてくれればいいんだもの。制服はここにないけど、欠席するわけ にはいかない。それ以上に、私に似ている私じゃない人に登校させるわけにもいかない。 だけど、制服がないし、どれを着ていけばいいんだろう。みんなの前に男物を着たく ないけど、昨日出かける時に、たった一組だけの女物の服を着ていっちゃった。 昨日結構汗かいたし。昨日はお風呂入らずに寝ちゃったから、お風呂入った方がいい かな?ああでも、横浜まで1時間くらいかかるから、もうあまり時間がない。 顔を洗って、歯磨きをして。どれを着よう。といってもここにあるのは男物だけだし よく分からない。それに私の服じゃないから、なんとなく着づらい。だけど他にないし。 あまりに似合わない服だと恥ずかしいけど、似合いすぎてて違和感がないとそれも 恥ずかしい。もうよく分からないし時間もないし、適当に、これとこれを着て。 このカバン持って、もう出よう。 やっぱりこの時間帯は人が多い。駅は人でいっぱい。横浜線は八王子からだから 座れたけど。でも快速じゃないんだ。関内に着くのが8時過ぎになっちゃうかも。 もっと早く出るんだった。私に似ている私じゃない人が先に登校しているかも しれない。先生や同級生が、制服を着てない私と、制服を着ている私に似ている 私じゃない人とを見比べたら。不安になってくる。でもとにかく行かないと。 電車が出発して、最初の駅に止まる。関内女学院の制服を着た人が乗り込んできて、 私の斜め前に立った。私の知っている人だったら声をかけようかと思ったけど、 違う学年で全く知らない人だった。だけど、こんな所から通っている人がいるんだ。 とりあえずこの電車で始業時刻に間に合う、という事は分かった。次の駅でも 同じ高校の制服の人が何人か乗り込んできた。やっぱり知らない人。かなり混雑して きたから、もう近くにいる人の事しか分からない。だけど、制服を着て登校して いる人がすぐそばにいるのに、私は制服じゃない。なんだか学校をサボっているような 気分になって、ちょっと居心地悪い。別に学校に行かないわけじゃなくて、制服を 着てないだけなんだけど、それもやっぱり居心地悪い。しかも男物の服を着ている。 代わりに私の制服は、私に似ている私じゃない人が着ているのかな。そう考えただけで なんだかくやしい気持ちになってきた。男の人かもしれないのに。私の制服を着て 登校しているかも。でもまだ少し早いか。まだ家かな。私に似ている私じゃない人が、 私の家で私の制服を着て、朝ご飯を食べ終わった頃。お母さんと一緒に。どうして。 私は全然知らない男の人の服を着て電車に乗っている。なぜなんだろう。とにかく 早く学校に行って先生に会って、こんなの終わりにしたい。 ようやく東神奈川駅に着いて、乗り換える。京浜東北線はすごく混んでるけど、どうせ あと3駅、関内駅に着いたら走って学校まで行きたいもの。周りには同じ高校の人達が 何人もいる。だけど知ってる人はまだいない。早く知ってる人に会いたい。 関内駅に着いてドアが開く。ホームに降りると、同じ高校の制服を着た人がたくさん。 この中に知っている人がいるはず、と一瞬探してみるけど、人が多過ぎて探しにくい。 こんな所で探すよりも学校に行った方がいい。急いで階段を駆け下りる。 改札を通り抜けようとすると、自動改札が突然閉じる。しまった、残額が少なかった。 清算機の列に並ぶ。乗る前に入金しておけばよかったかな。でも今更考えても仕方ない。 とにかく急いで改札を出なきゃ。カバンからお財布を出して千円札を取り出す。 前にいるのはたった二人だけど、ものすごく長く感じる。ようやく順番が回ってきた。 カードを差し込んで、千円札を差し込んで。機械がものすごく遅いように感じる。 よし、これでいい。すぐ横の自動改札機を通り抜ける。学校まで走りたいけど、 まだ人が多くて走れない。ちょっと焦りながらゆっくり歩く。この通りをまっすぐ 通って、この角を曲がって。周りは同じ制服を着ている人がほとんどになった。 自分だけ制服じゃないから、ちょっと目立っているような、浮いているような、 そんな気持ちになる。学校に向かっているのに私だけ制服じゃない、自分だけのけ者に されたような。もし知ってる人が私を見たらどう思うだろう。みんな制服を着て 登校している中を、私だけが男物の服を着て歩いている、そんな姿を見られたら。 そう考えたら恥ずかしくなって、横の小道に入りたくなってきた。 ……違う、知ってる人に見つかって欲しいの。そのために私はここまで来たんだから。 みんなが制服を着ている中、私だけが知らない男の人の服を着ている姿をみんなに 見られるのは恥ずかしいけど、でも誰か知っている人に見つけて欲しいの。 通りを歩いているのは、私以外みんな同じ制服になった。正門までもう少し。 同じ高校の生徒しかいない。制服じゃないのは私だけ。周りにいるみんなに見られて いるような、そんな気がする。私だけ男物の私服。本当は見られたくないけど、 見つけて欲しい。誰か知っている人がいれば。周りを見回す。校門の前に立っている 先生が見えた。でもあの先生は良く知らない先生だし。他に誰か。あ、あそこに。 私は少しだけ駆け足になって、少し歩いている人に近づいた。隣の席のけいちゃんだ。 よかった。けいちゃんの肩に手を伸ばした。ここでなんて言えばいいんだろう? 2学期の始業式なんだし別に特別な事はないよね。軽く肩を叩いた。 「あの、け、けいちゃん?お、おはよう」 けいちゃんが立ち止まって振り返った。 「…………どちら様ですか?」 冷静な声でそういう答えが返ってきた。 「え、あの」 「わたしの名前、けいちゃんじゃないですけど。人違いですか?」 えっと。私にはけいちゃんにしか見えないけど、名前が違うって言うのなら、 人違いかもしれない。 「あの、伊藤恵さんじゃ…」 「違います」 「すみま…」 私が謝り終わる前に、その人は校門の方に走り出した。人間違いしちゃった。 どうしよう。でもとにかく今は知っている人を探さないと。そう思って校門の方を 向いたら、校門から先生が歩いてくる。校門まですぐそこだから、あっという間に 先生は私の目の前に立った。クラス担任の川崎先生だった。良かった。この先生なら 全て解決する。問題ない。だから。 「どちら様でしょうか?この高校の生徒に何か御用でしょうか?」 先生はいつもと全然違う口調でそう言った。この口調は、クラスの生徒に話す口調でも 他のクラスの生徒に話す口調でも、先生同士で話す口調でも、親と話す口調でも、 商店街の人と話す口調でも、無かった。全然知らない人に対して、ちょっとだけ 威圧するような話し方。そう、不審者と話すような口調だ。 「何か御用でしたら、まず私がお伺いしますが、」 私が熊代麻奈だと分かってない。じゃあ私をなんだと思っているんだろう? 男物の服を着て、安そうなカバンを持って、女子高の校門のすぐ前で。カバンの中には 『沢田広人』の学生証がある。もし先生が、私を大学生くらいの男だと思っている のなら。不審者のような。じゃなくてそのまま不審者だ。私は不審者の男なんだ。 ここはまだ一応学校の敷地の外だけど、この高校の生徒以外がわざわざ来るような 場所でもない。そんな所をうろついている不審者の男なんだ、私は。 「どのようなご用件でしょうか?」 私は不審者の男だと思われている。川崎先生に。どうしよう。でも私が熊代麻奈だって 分かってもらえればいい、それが一番の目的なんだから。それが一番大事な用件。 だからそれを。 「おはようございます」 「おはようございます、川崎先生」 後ろから二人分の声がした。先生は私の頭越しにそれに応えた。 「おはよう、鴨井、熊代」 驚いて私は声がした方を見た。私に似ているけど私じゃない人が歩いてた。 そしてりっちゃんはその人の左手を抱きついていた。そう、りっちゃんはいつも私に 抱きつく。いつも私に。だけど今は私に、ではなくて、私に似ている私じゃない人に 抱きついている。いつも私に抱きつくように。そこに、さっき声をかけたけいちゃんに 似た人が駆け寄って、私に似た私じゃない人の右手に抱きついた。 「おはよう、麻奈ちゃん、りっちゃん」 「どうしたの?けいちゃん」 「あのさー、あの人がさー、いきなり…」 あの人やっぱり、けいちゃんだった。私に嘘を言ったんだ。私が不審者に見えたから? 「えーと、生徒へのご用件なら昼間でに伝えておきますが」 先生も、けいちゃんも、私を不審者扱いする。熊代麻奈だと気付いてくれない。 それどころか、私に似ている私じゃない人が、先生、りっちゃん、けいちゃん公認で 堂々と校門の中に入っていく。りっちゃんとけいちゃんに抱きつかれながら。 ここで「私が熊代麻奈です」なんて言ったら。あっちを偽者だと思ってくれるんだ ろうか?不審者の男に見えてしまう私を熊代麻奈だって認めてくれるんだろうか? 先生の厳しい顔を見ると、自信が急に小さくなっていった。 「あの、人違い、でした。あまりに良く似ていたので。でも違いました。すみません」 「え、あ、そうですか。それでは」 生徒の流れと反対の方を向いて歩き出す。流れと逆に歩くから、少し歩きにくい。 登校中の生徒の顔が見える。やっぱりみんな私の方を見ているんだろうな。 なんて思ってるのだろう?「変な男の人が女子高の前をうろついてる」なのかな? 私って変な男の人なんだ。もしかして私って、変質者の男、って事になるのかな? もし先生に「身分証明書を見せろ」って言われてカバンを開けさせられたら、 私はどうしたって変質者の男になっちゃうんだよね。ここにいる女子高生はみんな 私をそういう目で見ているんだ。私ってそうなんだ。川崎先生に不審者として 覚えられちゃったから、もうここには来れないのかな。そういう事になるよね。 とぼとぼ歩きながら、駅に戻った。改札を通って中に入る。人の数は降りた時よりも 減ったみたい。それでもまだ制服を着た生徒が次々と改札を通り抜けていく。 ……そういえば、今朝いきなり思い立ってここまで来たから、トイレに行ってない。 アパートまで1時間以上かかるから、帰り着くまで我慢出来ないかもしれない。 登っていた階段の途中にトイレがあった。ここで用を足していこうかな? でもまだ人が多い時間帯だから、トイレに出入りする人の数も多い。女子トイレの 入口には、制服を着た生徒も時々出入りしていた。もし私が女子トイレに入ったら、 どうなるだろう?しばらく考えたけど、嫌になってやめた。私が女子トイレに 入りさえしなければ、なん関係もない、全く意味のない話だもの。だから私は 男子トイレに入った。