帰り道(1) 山崎智美prj. 誰かが肩を指で叩いている、ような気がした。こんな時になんだろう。 「終点ですよ」 …え? 「終点ですよ」 なに?終点? 「あ、はい、すみません、どうも」 カバンをつかんで飛び上がるように立つ。空っぽの車内を見て、さらに慌てる。 起こしてくれたおばさんの後を追って電車から降りる。ふー。びっくりした。 あやうく寝過ごすところだった……え?終点?私は新宿で降りて、夏休み前に同級生 に教えてもらったお店をちょっと見て、すぐに電車に乗って帰る、そういうつもりで、 中央線の快速に乗ったはずなのに。だのに終点って。つまり、私は寝過ごしちゃった。 ここはどこ? 恐る恐る周りを見回す。ちょっと田舎っぽい感じがするけど、奥多摩かな?柱には 「大月」と書いてある。でも大月ってどこだろう?ホームを歩き回って手がかりを 探す。「富士急行線」と書いてあるけど、それでここがどこなのかは分からない。 その先に時刻表があった。その下に停車駅案内がある。ここは大月、次は初狩、笹子、 甲斐大和、甲斐?もっと先に行って、山梨市?ここって山梨なの?それじゃ逆方向は。 「まもなく松本行が到着します」 「まもなく高尾行が到着します」 ちょっと待ってよ、もう次の電車が来るの?どっちに乗ればいいの?分からないよ。 ええと、落ち着いて、その次の電車に乗ればいいのよ。まだ電車はあるんだから。 だってまだ今は。えっと時計は、あそこにある。午後七時近く?もうそんな時刻なの? 確か五時頃に電車に乗ったから、二時間も電車で寝てたの?昨日の夜に夜更かしして 寝不足だったからかな。それなのに、滅多に東京に来れないからって、夏休みももう すぐ終わっちゃうからって、無理して新宿に寄り道しようとして、二時間も寝過ごし ちゃうなんて。 「まもなく松本行が発車します」 「まもなく高尾行が発車します」 ああ、もう無理。次にしよう。両方向に電車が出て行くのを見送る。停車駅案内を 確認する。山梨とは逆方向、高尾、八王子、新宿、こっちの方ね。でも御茶ノ水から 二時間も電車に乗ってきたという事は、保土ヶ谷駅まで帰り着くのに多分二時間は かかる。つまり午後九時を過ぎちゃう。絶対にお母さんに怒られちゃう。どうしよう。 でもそんなに遅くなるのなら、やっぱりお母さんに電話しないとダメだよね。 「次の列車は、新宿、千葉方面、特急あずさ三十号です」 特急って……特急料金が必要なんだよね。早く着くけど、お金ないしー。とりあえず うちに電話しなきゃ。えっと携帯電話はカバンの中に。 あ。 私のカバンじゃない。全然違うカバンだ。色と大きさが似ているから、今まで気付か なかった。私のカバンじゃないという事は、私の携帯電話も、お財布も、ない。 切符もカバンのポケットに入れちゃったし。どうしよう。これじゃ、おうちまで帰れ ない。もう空はこんなに暗いのに。まだ午後七時だと思ってたけど、もうすぐ本当に 真っ暗になっちゃう。なのにおうちに帰れない、そう思ったら急に悲しくなってきた。 私どうなるんだろう。途中どこだか分からない所でほっぽり出されて、そこで一晩を 過ごすのかな。私、夜の街なんて見たこと無いよ。恐いのかな。寒いかな……今は 八月だから寒くはないか。だけど蒸し暑い中、知らない暗い街で、高校生一人だけで 一晩過ごすなんて、なんだか恐い。どうしよう。だけどお母さんに電話をかける事も できない。電話もかけずに、午後九時どころか夜中の零時になっても帰らなかったら、 お母さんが怒るどころの話じゃないよ。どうしよう。十円でもあれば、お母さんに 連絡して、保土ヶ谷駅で待っててもらって、お金を受け取るなり駅員さんに話すなり 出来るのに。でも山梨から横浜までだと、十円では足りないかな。でも保土ヶ谷駅に 着いてから電話すれば。 どこの誰の物か分からないカバンを見つめる。この中に、十円くらいは入ってるんじゃ ないかな?どこの誰の物かは分からないけど、私のカバンだってどこにあるか分から ない。私が起こされた時、これしかなかったんだもの。多分このカバンの持ち主が 間違って私のカバンを持っていったんだと思う。それなら、お互い様。という事で、 ごめんなさい、勝手に開けます。 カバンの横に付いたポケットにまず手を入れたら、SUICAがあった。いくら 入ってるのか分からないけど、とりあえず切符はある。八王子駅から良く知らない駅 までの定期券になっているから、八王子辺りで駅の外に出られる、と思うけどよく 分からない。反対側のポケットに手を入れたら、携帯電話が出てきた。これが使える のなら、うちに電話をかけられる。どこの誰の物か知らない携帯電話だけど、こういう 時だもの、勝手に使わせてもらいます。お金は後で払いますから。うちの電話番号を 押して。次はどこを押せばいいのかな。ここかな。大きなボタンを押してから、 耳に当てる。ぷるぷるぷるぷる。お母さんになんて説明しよう、電車で寝過ごして とんでもない所にきちゃった、帰り着くのは九時か十時になっちゃう、そんな事を 言ったらお母さん怒るかな。そんな事を考えていたら。ガチャ、と電話を取る音が 聞こえた。 「もしもし。熊代です」 「あ、お母さん、私」 「は?あの、どちら様でしょうか?」 「私よ、麻奈」 「はあ」 「あのね、電車を乗り過ごしちゃって、二時間も寝ちゃって、今ね、大月っていう 駅にいて、だから今から帰ると」 「あの、麻奈なら、今お風呂に入ってますが」 「は?」 「どちら様でしょうか?」 「だから、麻奈だって」 「イタズラ電話なら切りますね」 「ちょっと待ってよ、お母さん、あの」 電話の遠くの方の声が聞こえる。 「…なんの電話だったんだ?」 お父さんの声だ。 「…イタズラ電話っていうか、オレオレ詐欺みたいな、女の子だからオレオレじゃ」 ガチャ。 え?何?今のは一体何? 「まもなく東京行が発車します」 そうだ。とりあえずこれに乗らないと、うちまで帰れない。 電車の座席に座って考え込む。私が今お風呂に入っていると言ってたけど、それって どういう事?今、私の家に私がいるって事なの?もしかして私、電話番号間違って、 よその家にかけちゃったのかな?でも熊代って言ったし、お母さんの声だったし、 麻奈と言ってたし。同姓同名の人の家に間違い電話するなんて、そんなことあるの? 念のために携帯電話をあちこち押して、さっきかけた電話番号を確認する。やっぱり 間違ってない、ちゃんとうちに電話している。もしかしたら、全然知らない人の 携帯電話でかけたから、イタズラ電話だと思ってお母さんが嘘を言ったのかな? 公衆電話からかけた方が良かったかな?でも、うちの電話にそんな機能がついていた っけ?それにお母さんは、いつも電話で私が名前を言う前に私だって分かるのに。 どうして今日だけ。何がなんだか全然分からない。 でもSUICAもあるし、いくらかお金があれば、今夜中には保土ヶ谷駅までいける はず。家までちゃんとたどり着ければ何の問題もないもの。このSUICAの残額が いくらなのかはまだ分からない。お金はあるのかな?目の前のカバンを見つめる。 知らない人のカバンだけど、こういう時だもの、しょうがない。思い切ってカバンを 開ける。DVDが二つ。袋に入ったままの本が何冊か。そんなのどうでもいい。 カバンをもっと広げて奥を見る。財布っぽいものがあった。良かった。いくら入って るんだろう。財布を広げる。……五百円玉一枚。うそ。これじゃ御茶ノ水からだって 家に帰れないじゃない。お札はないの?他の所を広げてみたけど、お札は入ってない。 どうしよう。SUICAにいくら入ってるか分からない。でも八王子からの定期券に なっている。もう片方の駅は知らない。ドアの上にある路線図で調べる。……たった 二駅分?このSUICAと五百円玉一枚では保土ヶ谷まで帰れないかもしれない。 どうしよう。 そうだ。私の携帯電話にかけてみよう。誰かが拾っているかもしれないし、駅か 交番に届けられているかもしれない。多分中央線のどこかだろうから、そこまでなら 多分行ける。自分の携帯電話の番号なんて何かの申込書に書くくらいで、かけた事 なんてないけど、なんとか覚えてる。うん。多分間違ってない。えい。ぷるぷるぷ ぷるぷる。とにかく誰か出て。お願い。千葉とか埼玉とか言われちゃうと困るけど、 多分このカバンの持ち主だもの、お互い困ってるわけだから。ガチャ。 「はい、麻奈です」 女性の声がした。…え?なに?いや、今はとにかく一番大事な用件を。 「えっと、その携帯電話、落し物ですよね?私が落とした…」 「いえ、私のです」 「あ、もしかして番号間違ったかもしれないですけど、お名前は…」 「熊代麻奈です」 「あの、今どこにおられるんでしょうか…」 「横浜市保土ヶ谷区月見台です。それ以上はいえません」 「それって私の住所と名前…」 「イタズラ電話ですか?やめてくださいね、そんなこと」ガチャ。 そんな。私の名前と住所を言った。私の携帯電話に名前や住所なんて書いてないはず。 カバンごと拾ったのなら、もしかしてどこかに書いてあったかも知れない。拾った人 がそういうイタズラをしているのかもしれない。とにかく今のままじゃ帰れそうに ないから、もう一度うちにかけてみよう。もう一度番号を打ち込んで、何度も何度も 見返して、間違ってない。大きなボタンを押す。ぷるぷるぷる。早くお母さん出て。 ぷるぷるぷるぷるぷるぷ、ガチャ。 「お母さん?麻奈だけど、あのね」 「またさっきの人ですか。やめてくださいよね」 携帯電話にかけた時と同じ声がした。 「…麻奈、誰だったの?」 遠くに聞こえるのは、お母さんの声だ。 「…しつこいイタズラ電話。さっき携帯にも」ガチャ。 お母さんが誰かと話してた。麻奈って呼んでた。じゃあ私の家には今、私がいるの? どういう事?私はここにいるのに。私の他に私がいるの?このまま家に帰ったら、 そこに私がいるってこと?分からない。でもとにかく家まで帰り着いて、誰だか 分からない人に会ってでも家に帰り着かなきゃ。……でも五百円玉一枚じゃ家に帰れ ない。保土ヶ谷駅に着いても外に出られない。うちに電話をかけてもさっきと同じ事 の繰り返しなら、誰も迎えに来ない。どうしよう? 「次は高尾、高尾」 もうすぐ八王子に着いちゃう。どうしよう。手元にあるSUICAを見る。八王子 から二駅の定期券になっている。だから多分、このカバンの持ち主は八王子辺りに 住んでる人のはず。このカバンの持ち主に連絡が付くかな?このカバンの持ち主が どんな人だか知らない。私のカバンは持ってないかもしれない。だけどとりあえず その人に会って、このカバンを返して、保土ヶ谷まで帰れるように助けて欲しい、 とお願いしよう。もうそれくらいしか思いつかない。このカバンの持ち主の電話番号 は……携帯電話は私の目の前にあるんだった。これにかけても意味がない。他に 手がかりはないのかな。財布の中をもう一度見てみる。本屋さんのレシート。 コンビニのレシート。ガムが1枚。何かの鍵がふたつ。スタンプカードみたいなもの が何枚か。そのうち一枚を見ると、名前だけ書いてあった。「沢田広人」。別の ポイントカードの裏を見ると、住所も書いてあった。八王子市万町。他のポイント カードも調べてみる。全部同じ名前と住所。このカバンの持ち主の住所はここのはず。 「次は八王子、八王子」 うん、とりあえずここで降りよう。路線図を見ると、横浜には八王子からの電車の 方が近そうだし。住所が書いてあるポイントカード1枚だけを取り出して、財布と 携帯電話をカバンに戻し、座席から立ち上がって、開いたドアから出た。意外と混雑 しているホームを抜けて階段を登り、自動改札機の前に立つ。いくら残っているん だろう。もしかしたら、この改札も出られないかもしれない。もしかしたら、ここで 外に出ないで保土ヶ谷に行けば、改札を出られるかもしれない。でもこれ以上考えて も仕方ない、出ちゃおう。えい。前に進む。……良かった出られた。……残り百円? それっぽっち?慌てて切符売場に行き、保土ヶ谷までの運賃を見る。七百八十円。 足りない。今持ってるだけじゃ帰れない。新横浜にも行けない。どうしよう。 もう午後八時。おなかが空いてきちゃった。なんだか余計に悲しくなってきた。 五百円玉があるけど、これ使っちゃうと、本当にどこへも行けなくなっちゃう。 どうしよう。やっぱり、このカバンの持ち主の家に行こうかな。近くに周辺案内 地図があったので、その前に立つ。万町、万町、近くだといいな。……あった。 南口からこっちにいって、この交差点を曲がって、この交差点の辺り。一キロ くらい。そんなに遠くない。よし、行こう。 駅を出て歩き始める。空を見上げると、もう真っ暗。お星様が見える。蒸し暑い。 さっきまで冷房が効いた電車の中だったけど、外に出たらなんだか体がべとべとする ような感じ。歩いているからなおさら。これで持ち主がいなかったらどうしよう。 どこか遠くに出かける途中だったとか。このカバンでそんな事はないか。さっきの 鍵が家の鍵だったら、入れなくて困ってるかな。だったら早く行ってあげた方がいい よね。私だって早くおうちに帰りたいもの。この交差点を左に曲がって。歩いてたら 余計におなかが空いてきちゃう。でも早く済ませないとおうちに帰れないしご飯も 食べられない。早く行こう。結構広い道にたくさんの街灯が立って、車もたくさん 走っているけど、それでも暗い夜の道。他に歩いている人はいない。ちょっぴり恐い かも。次の交差点が見えてきた。「万町」って書いてある。多分この辺り。番地は ここで合ってる。この道を入るのかな。子安荘、子安荘、子安荘、これだ。この アパートの十四号室。郵便受けが門に入ってすぐにあった。十四と書かれた所を見る と「沢田広人」と書かれている。ここで合ってる。ドキドキしながら狭くて暗い通路 に入る。十一、十二、十三、十四。十四と書いてある。ここのはず。 でも灯りはついてない。真っ暗。隣も灯りがついてないから本当に暗い。まだ帰って きてないのかな。それとも、帰ってきてるけど、もう寝ているとか。一応確認をして みよう。ドアを叩いてみる。 トントン。「こんばんわ。いらっしゃいますか?」 トントン。「すみません」 ドアノブを回してみる。回らない。鍵はかかっている。やっぱり鍵がなくて入れなか ったのかな。それで知り合いの家に行っちゃったとか。お隣の部屋も灯りはついて ない。これをお隣に預ける事も出来ない。それじゃあ、ここで待っていようかな。 でも、このカバンの持ち主は、明日の朝までここに帰ってこないかも知れない。明日 の朝までここで立って待っているのも、地べたに座って待っているのも、ちょっと 辛いかも。でも、SUICAと合わせても六百円しか持ってないから、うちには帰れ ない。どうしよう。……お財布に入っていた鍵って、このドアの鍵なのかな?確かめ てみよう。このドアが開けば、このカバンの持ち主の家だって事がさらにはっきり するし。暗い通路で、手探りでカバンからお財布を取り出し、落とさないように 慎重にお財布を開けて、指を入れる。二つある鍵を探り当てて、取り出す。まずは ひとつ目を鍵穴に入れてみる。ちょっと入りにくい。それでも最後まで入った。 軽く回してみる。回らない。もう少し力を入れてみる。やっぱり回らない。抜こう とするけど、引っかかって抜けない。ちょっと慌ててガチャガチャしながら引いて みたら、抜けた。次にふたつ目を鍵穴に入れる。さっきと違って簡単に入った。 回してみると、さっきとちょっと違った感触。力をさらに入れてみたら、回った。 手前にゆっくり引くと、ドアが開いた。 「ご、ごめんください…」 ドアを開けちゃったから、ついそんな事を言ってしまう。でも返事はない。真っ暗 な部屋。誰もいない様子。片手を壁についたら、何かスイッチを押してしまう。 頭の上にある、小さな電球に灯りがついた。ドアが開いたので引き抜いた鍵を握り 締めながら考える。どうしよう。今日はもう家に帰れそうにないし、外で待ってる のも嫌だし、ここに住んでる人には悪いけど、ここに上がらせてもらって、ここで 待とうかな。電灯をつけていれば、誰かがここの鍵を開けて入った事もすぐに 分かるはず。怒られるかもしれないけど、私だってこのカバンとお財布と携帯電話 を届けに来たんだし、部屋で待ってるだけだし、そこまで悪い事じゃないよね。 靴を脱いで部屋に上がり、部屋の電灯のスイッチを探す。なんとか見つけ出して、 スイッチを入れる。目の前には当然知らない部屋があった。だけど、明るい部屋を 見たらちょっぴり安心した。外で夜を過ごさずに済むんだもの。安心したら余計に おなかが空いてきちゃった。目の前にある冷蔵庫の上にカップ麺が2つあった。 どうしようかな。これ食べちゃおうかな。悪いかな。でも、お金は五百円玉だけ だし、それだってここに住んでる人のものだし、今から何か買いに行くよりは、 このカップ麺の方がまだいいかな。うん。ごめんなさい。このカップ麺を食べさせて もらいます。ヤカンに水を入れて、ガス台の上に乗せて、火をつける。カップ麺の 封を開ける。お湯が沸くのを待つ時間が長い。我慢できなくなって、麺のカケラを 口の中に入れる。……おいしいよー。ようやくお湯が沸いてきた。完全に沸騰して ないかもしれないけど、もう待っていられない。お湯をカップ麺に注ぐ。あと三分。 長いなー。待ってる間に周りを見回す。知らない人の部屋。名前からすると、多分 男の人の部屋。ポイントカードに生年月日が書いてあったかな?ここに来るまで 住所を確かめるために持っていたカードを見ると、生年月日が書いてあった。多分 大学生くらい。きっと大学生の一人住まいだよね。一人住まいって、こんな部屋 なんだ。どんな人なんだろう?ちょっと好奇心が沸いてきた。でも、勝手にあちこち 見たら悪いかな。 とりあえず、今はこれを食べちゃおう。お箸はどこ?あった。よし。ずるずるずる。 おいしいよー。ずるずるずるずる。ずるずるずる。暑いけど、汁も全部飲んじゃう。 あーおいしかったよー。食べ終わったら眠くなってきちゃった。今日は変な事ばかり だったから、疲れちゃった。もう午後九時になっちゃう。寝ちゃおうかな。もう ここの人は今日中に帰ってこないのかな。だったら明日まで待たなきゃいけない。 寝るしかないよね。お母さんに電話……は二度もしたけど、あんなだったし。また 電話しても同じかもしれない。仕方ない、寝ちゃおう。部屋の鍵は、もしかしたら ここの人が帰ってくるかもしれないから、無用心だけど、開けたままにしておこう。 灯りもつけたままにしておこう。部屋の奥にベッドがある。床に寝るわけにもいか ないから、ごめんなさい、勝手に使わせてもらいます。ふう、疲れた。 明るい。目を閉じてても明るいのが分かる。もう朝だ。目を開けて、起き上がる。 周りを見回す。明るい以外は、昨日の夜と何も変わってない。やっぱり帰ってこなか ったみたい、ここに住んでる人。でも今日は帰ってくるよね、きっと。時計を見ると 八時過ぎ。もうそんな時刻なんだ。とりあえず朝ごはんを食べようかな。ベッドから 立ち上がる。昨日は歯磨きせずに寝ちゃったから、口の中が気持ち悪い。着ている服 の感触もなんだか気持ち悪い。昨日は暑かったし、歩いたし、結構汗かいたし、その まま寝ちゃったし。お風呂入りたい、着替えたい。でも着替えなんてないし。ここの 人が帰ってきて、おうちに帰り着くまで辛抱しよう。洗うのは顔と手。歯ブラシも ないから、口はゆすぐだけ。だけど、これ以上汗はかきたくない。昼間はもっと暑く なるだろうな。クーラーがあるから、これを使わせてもらおう。 まずは朝ごはん。トースターの上に食パンがある。冷蔵庫を開けてみると、野菜やら ハムやら卵やら、色々と入っている。こんなに冷蔵庫の中に入ってるのに、何日も 帰ってこない、なんて多分ないよね。きっと今日帰ってくるよ。だけど、勝手に たくさん食べるのも気が引けちゃう。食パンとハムとインスタントコーヒーだけに しておこう。お湯を沸かしながらトースターでパンを焼く。ハムを一枚だけお皿の 上に。パンに何もつけないのも変だから、ジャムも出す。カップにインスタント コーヒーを入れて、お湯を入れて、出来上がり。それではいただきます。むぐむぐ。 日が差し込んできて暑くなってきた。クーラーを入れよう。むぐむぐ。少ないけど 朝ごはん終了。お皿とカップを洗おう。でもこれからどうしよう。ここの人、 何時に帰ってくるか分からない。暗くなる前に帰ってくるとは思うけど、それまで の間、どうしよう。外に出かけると入れ違いになってしまいそうだし。冷蔵庫の中に 色々入ってるし、カップ麺ももうひとつあるし、パンもあるし、お米も探せばある かもしれないし、とりあえずここの人が帰ってくるまで待っていよう。私、結局 ここに一晩泊まったわけだよね。勝手に外泊。お母さんに叱られるかな。だけど 二度も電話かけたのに、何も聞いてもらえずに切られちゃった。どうしよう。もう 一度かけてみようかな。携帯電話じゃなくてこっちの電話でかけてみよう。うん。 お母さん、今度こそちゃんと返事して、お願い。電話番号をゆっくり押す。間違え ないようにゆっくりと……ゆっくり押しすぎてなんだか分からなくなった。携帯電話 と違って確認出来ないし。いつもみたいに勢いで押そう。045のー、えい、えい。 ぷるぷるぷるぷる。お願い、お母さん。ぷるぷるぷるぷる。ガチャ。 「もしもし、熊代です」 お母さんだ。 「お母さん、麻奈。あのね」 ガチャ。ツーツーツーツー。 お母さん、何も言わずに切っちゃった。どうしよう。携帯電話に出てきた私じゃない 私がやっぱり家にいるのかな。それとも勝手に外泊したから怒ってるのかな。どっち にしても、やっぱり直接家に帰らないとどうにもならない。しょうがない、ここの 人が帰ってくるのを待とう。でもやる事が何もない。ここの人がいつ帰ってくるか 分からないから、寝るわけにもいかないし、お風呂に入るわけにもいかないし。 とにかく待つだけ。テレビでも見てようかな。テレビのスイッチを押す。チャンネル を変える。別に面白そうな番組もない。これで何時間か待ってなきゃいけない、 というのも辛い。本棚を見ると、数学とか物理とか英語とか、多分大学の教科書が あって、その横に漫画が二十冊くらいあって。この漫画でも読んでいようかな。 少年漫画なのかな、私良く知らないけど。……あまり見慣れない絵柄だけど、お話 は面白い。でも四巻までしかない。まだお話は終わってない。奥付を見ると先月発売 されたばかりの本だ。じゃあまだ続いてるのかな?雑誌には連載されているのかな。 ちょっと読みたいかも。あ、あそこに雑誌が何冊か積んである。あれかも。雑誌 だからちょっと分厚いけど、机の上に積み上げて。どの号まで読んだんだろう。 これかな?これはまだ読んでない。前の号は、これがさっき読んだ分。じゃあこの号 から読もう。……最新号まで読んじゃった。続きを読みたいけど、これが最新号 だからどうしようもないよね。今度の金曜日なのか。そうか。あ、もうすぐお昼だ。 まだ帰ってこない。もうお昼ごはんを食べるってことで、準備しちゃおうかな。 冷蔵庫の前に立って、周りを見る。冷蔵庫の横にお米があった。でも一膳だけ炊く のも変かな。でも、またカップ麺というのもなんだし。あ、スパゲティがある。 これにしよう。七分茹でるのか。後は卵とかハムとかあるから、適当にやっちゃえ。 まずはお鍋にお湯を入れて、ガス台に乗せて、火をつけて。沸騰するのを待つ。 ここの人、いつ帰ってくるのかなぁ。夕方まで帰ってこないのなら、晩ごはんの分 まで考えてご飯炊いた方が良かったかなぁ。でも分からない。晩ごはんも作らなきゃ いけないようだったらお米を洗おう。ここの人がいつ帰ってくるか分からないから、 何をするにしても困ってしまう。クーラーのお陰で今は汗をかいてないけど、昨日 お風呂に入ってないから、やっぱりなんとなく気持ち悪い。早くお風呂に入りたい。 でも着替えないし、今着ているのをそのまま着るのなら、あんまり変わらないかな。 沸騰してきたからスパゲティを入れる。長いスパゲティが全部お湯につかるように 押し込みながら考える。もしかしたら、ここの人は今日も帰ってこないかもしれ ない。だったらどうしよう。いつまでもここにいる訳にはいかない。夏休みも終わっ ちゃうし。ここの人は、今夜で丸一日帰ってこない事になる。もうちょっと待って みようかな。明日のお昼まで待ってみよう。それまでに帰ってこなかったら、もう。 あ、でも私、SUICAと合わせて六百円しか持ってない。それにSUICAは 定期券だから持っていくわけにはいかない。五百円しかない。これじゃ帰れない。 どうしよう。……もしかしたら、この部屋のどこかにもう数百円くらいあるかも しれない。それなら保土ヶ谷まではなんとか帰れる。うん、探してみよう。だけど、 泥棒さんみたいにあちこちひっくリ返すわけにはいかないし。とりあえずこれを 食べてから。スパゲティは出来上がり。ハムと野菜は……炒めちゃおうかな。油は、 ここにある。これとこれとこれを切って、フライパンに入れて。……よし。これで 出来上がり。お皿に盛って、机の上に持って行って。それでは、いただきます。 むぐむぐむぐ。もうこの部屋で三食も食べちゃった。ここの人はまだ帰ってこない のかな。むぐむぐむぐ。一体どこに行ってるんだろう?お財布や部屋の鍵や、大事 な物を落としたままで。むぐむぐむぐ。駅か交番に行って探してるのかな?でも 丸一日帰ってこないなんて、そんな事あるのかな。昨日からずっと灯りをつけて、 部屋の中に誰かいますよって、外から見てすぐ分かるようにしてるのに。むぐむぐ むぐ。どうなんだろう。むぐむぐむぐ。ごちそうさま。お皿とお鍋を洗って。 それじゃ。ここに住んでる人ごめんなさい、勝手に部屋の中を探させてもらいます。 もう五百円あれば十分だから。部屋をぐるっと見回す。本棚の隅に引き出しが付いた 箱があった。なんとなくあそこにありそう。まずは一番上の引き出し。保険証と 歯医者の診察券があった。封筒が一緒に入ってるけど、空っぽ。二番目の引き出し。 貯金通帳があった。開いて金額を見ると、二十万円くらい入っている。だけど、 私がこれを引き出せるわけじゃない。全然意味がない。他に契約書みたいな紙が 何枚か入っているけど、他にはない。その下の引き出しも契約書みたいなものだけ。 ここじゃないとするとどこだろう?机の上。封筒がいくつかあるけど、その中には ない。本の下ものぞいて見たけど、特にない。本棚の本やDVDの間?そんな ところに隠してあるものを探してられないよ。カバンの中。昨日ちょっと探した けど、隅々まで見たわけじゃない。一度中身を全部出してみよう。DVDが二つ。 あ、片方はさっき読んだ漫画のアニメだ。後で見よう。本屋さんの紙袋。開けて みるとアニメ雑誌と多分アニメ関係の本が二冊。他には入ってない。DVDと本 を机の上に置く。もう一度カバンを覗くと、カバンの底に封筒があった。中を見る と……一万円札が一枚。お金があることはあったけど、一万円札だけ。もし明日に なってもここの人が帰ってこなかったら、この一万円札を持って。それはちょっと 気が引ける。千円もいらないのに。どうしよう。どこかで両替してもらおうかな。 でも、ここの人が明日までに帰ってくればいいんだから。あくまで、帰ってこな かったら、の話だから。とりあえず保土ヶ谷駅まで帰るお金はある。ちょっと安心 した。それじゃあ、このアニメでも見ようかな。テレビのスイッチを入れて、 プレイヤーのスイッチを入れて。DVDの包装を破いて、中身を出して。ここに 押すと。飛び出した。ここに置けばいいのね。これを押し込んで。あ、始まった。 「ジャンジャジャ、ジャンジャジャ」 音量は、えっと、このリモコン。………っぷ。ぷふふふ。わははは。きゃははは。 あー面白かった。えーと、これが第一巻、買ってきたばかりのようだから、まだ 第二巻はないのかな。あ、このアニメ雑誌の表紙に載ってる。何か書いてある かも。えーと、ここが目次で、これだ、十八ページ目。『ただいまテレビ放映中』 だって。今やってるんだ。『木曜日深夜二十六時より』つまり午前二時?金曜日の 朝の?えー、そんな夜遅くまで起きてられないよ。んー。この絵、漫画よりも 可愛い。こっちの絵の方が好きだな。『第二巻予約特典・まっちゃんの抱き枕!』? 抱き枕って何?あ、こっちのもなんだか面白そう。ふむふむふむ。ふーん。見て みたいかなー。あ、もうひとつのDVDってこれだ。じゃあこっちも見てみよう。 包装を破いて、中身を取り出して、前のを取り出して、入れ替えて。 よし。始まった。ふむふむ。 「おはよう、今日もがんばろうね。きゃっ!」 これ、りっちゃんに似てるかも。なんだか可愛い。すぐ抱きつくところも似てる。 「おまえ、なにものだ!」 あ、なんだか話が急に。お。おやおや。え、りっちゃんそっくりの子が、いきなり、 いきなり、胸を、胸を……なに?この真っ白な線は。あ、あそこが見えないように するために。そんな、そんな。わーーー。お話は面白かったけど、りっちゃんに そっくりな子が、あんな事やあんな事を。えーそんなそんな。これもテレビで放送 してるの?雑誌をまた開く。水曜深夜だって。どうしよう。面白いお話だったから 見てみたいけど、りっちゃんそっくりの子があんなことを。わー、こんなところに りっちゃんそっくりの子がこんな姿で寝ている絵が。もうこの雑誌は閉じちゃおう。 うん。夏休みが終わって顔を合わせたら、これを思い出しそう。どうしよう。顔を 合わせなくても電話で話しただけで思い出してドキドキしてしまいそう。 あ、電話。りっちゃんに電話してみようかな。お母さんはすぐ切っちゃうから。 さっちゃんでもいい。……ダメ。友達の電話番号は携帯電話に登録しているだけで、 直接番号を押して電話したことが一度もない。だから全然覚えてない。なんとか 記憶しているのは、自分のうちと、自分の携帯電話だけ。その携帯電話を、誰だか 知らない人が持っている。あの人って一体誰なんだろう?その後にうちに電話を かけた時に出てきて、お母さんが『麻奈』って読んでたけど。一体どういうこと なんだろう?携帯電話の方にもう一度かけてみよう。そして話をして、携帯電話を 返してくれるようにお願いしよう。だって友達の電話番号が入ってるんだもの。 今度はこっちの電話でかけてみよう。心の準備をして。受話器を取って。090、 えいえいえい。えい。ぷるぷるぷるぷるぷる。今度はきちんとお話しをさせて。 ぷるぷるぷるぷる。ガチャ。 「はい、麻奈です」 「あの、熊代麻奈です」 「またあなたですか?」 「あ、あの、今はどこにいらっしゃるんですか?」 「学校からの下校中です」 「は?今は夏休み中じゃ…」 「あなたが今朝イタズラ電話をしてきた後に学校から電話があって、用があって 登校したんです。その帰りです」 「学校っていうのは、関内女学院、ですか?」 「どうしてそんな事をあなたが知ってるんですか。そうですけど」 「あの、それじゃ、さっちゃんとりっちゃんは」 「さっちゃんなら横にいますけど、りっちゃんは。…あなたが、どうしてそんな事 を知ってるんですか?あなた、ストーカーですか?」 「……どうしたの?麻奈ちゃん、なんの電話?」 遠くから聞こえるのは、さっちゃんの声だ。 「あの、さっちゃんと電話を」 「嫌です。切ります。もうかけないでください。今度かけてきたら、警察に通報 します」ガチャ。 …どういう事なんだろう?私の携帯電話を持ってる知らない人が、隣にさっちゃん がいるだなんて。昨日の事と合わせると、私の携帯電話を持ってる知らない人が、 私の家にいて、私のお母さんから『麻奈』って呼ばれて、私と同じ高校に通って、 さっちゃんとりっちゃんを知ってて、今さっちゃんのすぐ隣にいて、一緒に下校 している。もしかしたら、私と同じクラスの人が私の携帯電話を持ってるの? でも誰だろう?あの声は誰の声だろう?少なくとも『麻奈』って名前は私一人しか いない。それは確か。でも、お母さんも、さっちゃんも、『麻奈』ってあの人を 呼んでいた。どうしてだろう。全然分からない。とにかく、早く帰りたい。帰り 着けば、何が起こっているのかすぐに分かるはず。だけど、ここの人がまだ帰って こない。ここには一万円札一枚と五百円玉一枚だけしかない。一万円札を持って 帰っちゃうのはさすがに気が引ける。どこかで両替してもらって、九千円を置いて、 それで帰ろうかな。今なら、まだ明るいうちに家まで帰り着けるかもしれない。 そうしようかな。今日帰るのなら、あまり悩んでいられない。 ジリジリジリジリ。 目の前の電話機が突然鳴った。誰だろう。ここの家の人にかかってきたのかな。 それとも、さっきこの電話で私の携帯電話にかけたから、私の携帯電話を持って いる人がかけ直してきたのかな。どっちだろう。どっちなのかは、出てみないと 分からない。仕方ない。受話器を取る。私の名前とここの人の名前、どっちを 言えばいいのかな? 「あの、もしもし」 「あー、南武運輸の佐々木だけど」 「あのー、そ」 「時刻はいつも通り。変更なし。だから明日の午前九時に来てね。場所が変更。 隣の第四搬入場。すぐ隣だから分かると思うけど、前渡した地図で一応確認しと いてね。じゃあよろしく。」 「えっと」 「沢田終了、次は白木」ガチャ。 今のはなんだったんだろう。どこかに来いって電話だった。南武運輸、佐々木、 明日の午前九時、場所が変更、隣の第四搬入場。前渡した地図で確認。そんな ところ。『前渡した地図』って事は、多分どこかにあるはず。この引き出しに、 なにか書類が入ってた。引っ張り出して、めくってみる。南武運輸と書いてある 書類があった。ちょっと読んでみると、どうやらここの人が南武運輸という所で アルバイトをしているみたい。地図もあった。定期券に書いてあった駅の近く らしい。だからさっきの電話は、アルバイトの予定変更、というか、時刻は変更 しないけど場所は変更、という連絡だったんだ。「すぐ隣だから場所は分かると 思うけど」だから、わざわざ連絡とか書き置きはしなくていいと思う。だけど、 ここの人もさすがにアルバイトには来ると思う。アルバイト先に家の鍵は関係 ないもの。だったら、ここの人に会いに行って、私がカバンを持ってきました、 この部屋には入れます、そう教えてあげる方がいいんじゃないかな。その上で、 千円くらい借りて、おうちに帰ろう。そうしようかな。ここからアルバイト先まで どのくらい時間がかかるのか分からないけど、午前八時くらいに出発。うん。 そうしよう。という事は、もう一晩ここに泊まるんだ。晩ごはんと朝ごはん。 それじゃ、お米を洗っちゃおう。炊飯器はここにある。お米はこれくらい。 お水を入れて。じゃりじゃりじゃり。じゃりじゃりじゃり。たったこれだけ体を 動かしただけでも汗が出てるような感じになる。気持ち悪い。だって丸二日も お風呂に入ってないんだから。じゃりじゃりじゃり。お米洗って炊飯器に入れたら お風呂に入ろう。じゃりじゃりじゃり。このくらいでいいかな。お水はこれくらい。 炊飯器に入れて。もうスイッチ入れちゃえ。よし。じゃあお風呂に入る。お風呂場 はここだね。お湯はすぐに出るのかな?シャワーを少し出してみる。うん、お湯が 出てる。全部脱いで、すぐにシャワーを浴びる。暑い中を歩いたのに、丸二日も お風呂に入らなかったんだから、本当に気持ち悪くて気持ち悪くて。シャンプー はどこにあるの?どっちかな?えーと、これはボディソープ。こっちがシャンプー。 頭を洗う。でも少しゴシゴシしたら、全然泡が立たなくなった。二日もお風呂に 入ってなかったからかな。シャンプーをもう一回取って、手のひらの上にさっき よりもたくさん出す。ゴシゴシ。これで大丈夫、ちゃんと泡が立ってる。シャワー で洗い流す。今度は体の方。体もすごく汚れちゃってるよね。スポンジにたくさん ボディソープを出して、ちょっと強めに体をこする。ゴシゴシ。わきの下も気持ち 悪い。よく洗わないと。足の裏も、足の指の間も。ゴシゴシ。シャワーで洗い流す。 あー、気持ちいい。ようやくさっぱりした。タオルはどこ?あ、ここにあった。 体を拭いて、頭を拭いて。それじゃあ服を……しまった、着替えがない。さっき 脱いだ分は丸二日着ていた服。特に下着は、暑い中を歩いてかいた汗を吸った下着。 それをまた着るのは、さすがにちょっと。お洗濯する?明日帰るんだから、明日 までに乾かないと困る。今から洗濯して、明日の朝までに乾くかな?でも他に着る 服が全く無いんだから、そうしないと。うん。だけど、乾くまでの間、明日の朝 まで、裸でいる訳にはいかない。もしかしたら、今夜ここの人が帰ってくるかも 知れないし。とにかく何か着ないと。裸のまま部屋の真ん中に戻り、ぐるりと 部屋を見回す。押入れがあったので、戸を開く。服が入ったケースがあった。 それを引っ張り出す。裸でなきゃどれでもいい、文句いいません。でも高そうな服 を勝手に着るのも悪いし、適当なTシャツで。これでいい。ここにちょうどいい 短パンがあった。下着は……男物しかない。当たり前といえば当たり前だけど。 どうしよう。もう、下着無しでTシャツと短パンを着ちゃうとか。それも変。 いつここの人が帰ってくるか分からないのに、そんな恰好でいるなんて恥ずかし 過ぎる。でもここには男物しかないし。仕方ない。これを着る。男物のパンツと タンクトップを取り出す。しばらく眺める。男物の下着って、お父さんのを見た 事があるけど、じっくり眺めた事がない。こういう作りだったんだ。ここに穴が 開いてて。あ、眺めてたって仕方ないか。今まで着た事なんて一度もない男物の パンツを、思い切ってはいてみる。なんだか生地が分厚くて変な感じがする。 その上から短パンをはく。ブラ無しでタンクトップを着て、その上にTシャツを 着る。とりあえずこれで裸じゃない。うん。なんだかちょっと恥ずかしいけど、 裸でいるよりはマシ。うん。そう思おう。 「ピンポーン」どんどん、どんどん。 玄関から音がした。もしかしてここの人が帰ってきたの? 「お届け物でーす」 ふぅ。なんだ、郵便物か。でも、わざわざ玄関に来てチャイムを鳴らすって事は、 小包か何かよね。受け取りに出た方がいいのかな? 「お届け物でーす」 「は、はーい」 思わず返事をしちゃった。私が代わりに受け取らなきゃ。ここの人じゃないけど、 人が来た訳だから、あわてて服を着ておいて良かった。玄関に行き、ドアを開く。 「ここにサインをお願いします」 配達員さんがボールペンを突き出してきた。それを受け取る。サイン……私の名前 じゃダメだよね。ここの人は、確か沢田広人さん。書きにくい姿勢で、下手っぴな 字で、『沢田広人』と書く。 「ありがとうございました」 少し大きめの箱を受け取る。大きいけど、空っぽみたいに軽い箱。配達員さんが 玄関のドアを閉じた。なんだろう、これ。でも勝手に開ける訳にもいかないか。 机の上に置いておこう。ふう。下着も含めて男物の服を着たまま、小包を受け取っ ちゃった。なんだか変な気分。でもこれは洗濯物が乾くまでの間だけだから。 そうそう、自分の服を洗濯しなきゃ。明日着ていけない。さっき脱いだ自分の服を かき集めて、洗濯機の中に放り込む。このボタンを押すだけでいいのかな?押す。 水が出始めた。あ、洗剤を入れなきゃ。近くにあった洗剤を適当に入れる。ふぅ。 ぐるぐる回る洗濯機を眺めながら、さっきの電話のやり取りを思い出す。遠くから 聞こえたさっちゃんの声は『どうしたの?麻奈ちゃん、なんの電話?』と言ってた。 私の携帯電話を持ってる人を麻奈ちゃんと呼んでいた。もしかしたら、さっちゃん の知り合いにもう一人『麻奈』って名前の人がいるのかな?そんな事あるのかな。 もしかしたら、私からの電話だと気付いて、私の名前を呼んだとか?そうだったら いいな。でも、それなら、どうしてお母さんは電話をすぐに切っちゃったんだろう。 分からない。また携帯電話にかけてみようかな。でも『警察に通報します』なんて 言われちゃったし。どうして私が自分の携帯電話にかけて、警察に通報されなきゃ いけないの?でもあんなに堂々と言われたら、本当に通報されて、逮捕されちゃう ような気分になってくる。今日は電話しないでおこう。明日帰れるんだから、それ でお母さんに会えば。丸二日、勝手に外泊しちゃったから怒られるかもしれない けど、そんな事よりも、とにかく帰り着かなきゃ。うん。あ、ご飯が炊けたみたい。 おかずは何にしよう?なんだかおなかが空いちゃった。昨日の夜はカップ麺だけ だったし、朝も昼もそんなにたくさん食べてないし。ちょっと多めにしようかな。 お肉がある。野菜もあるし。野菜炒めでいいかな。これとこれとこれ。フライパン に油をひいて、まずお野菜を入れて。じゅわじゅわ。お肉を入れて。じゅわじゅわ。 お塩はどこ?目の前にあった。これでいいか。お皿とお茶碗。よし、出来上がり。 いただきます。むぐむぐむぐ。明日は何を持っていけばいいのかな?このカバンと お財布は、持って行って直接手渡した方がいいかな。それだけでいいか。そうそう、 アルバイト先の地図を持っていかないと、私が分からない。もぐもぐ。それで、 カバンとお財布を渡して、自分のカバンを無くして家に帰れなくなった代わりに、 これを拾ったので、勝手に家に上がらせてもらって二泊しました。そう言って、 千円だけ貸してもらって、家に帰る。うん。それが明日の予定。むぐむぐ。これで ようやく帰れる。明日帰ったら、夏休みももう残り一日。昨日のうちに帰れると 思ってたから、そんな事なにも考えてなかった。むぐむぐ。夏休みの宿題はほとんど 終わらせていると思うけど、どうだったかな?目の前で確認しないと分からない。 明日と明後日は忙しくなりそう。でもさっき、私の携帯電話を持ってる人が「学校 から電話があって、用があって登校した」と言ってた。で、隣にさっちゃんがいた。 一体なんの用事だっただろう、こんな日に。さっちゃんも呼び出された用事だから、 私が呼び出されても……もしかして私が呼び出されたの?だって、私が今朝お母さん に電話をかけた後に学校から電話があった、と言ってたもの。私のうちに学校から 電話があったんだ。それで、私の携帯電話を持った知らない人が登校したの? どういう事?全然分からない。私の家に誰がいるの?何が起こってるの? あ、洗濯機が止まっている。早く干さなきゃ。明日の朝までに乾いてくれないと 困るもの。空は…曇っている。それにもう夕方だし、明日の朝までに乾くかな。 乾いてちょうだい。お願い。食器も洗わなきゃ。残りのご飯は明日の朝の分、 これに入れて冷蔵庫に入れて。あーん、歯磨きをしたい。昨日も今朝も歯磨きして ないもの。でも歯ブラシは。ここの人が使っているこれだけ。どうしよう。これを 使うしかないのかな。もしこの家に入れなかったら、歯磨きどころかお風呂もご飯 も無し、外で寝てるはずだったんだから、これくらい我慢しなきゃダメかな。全然 知らない人が使ってる歯ブラシだけど、えーい使っちゃえ。ゴシゴシゴシ。歯磨き しないよりはマシだよ。ゴシゴシゴシ。ぐちゅぐちゅぐちゅ。がらがら。ぺっ。 ふう。今日はもうやる事ない。寝ようかな。明日は、午前八時に出かけるとして、 起きるのは七時、いや、六時半がいいかな。目覚まし時計は、ここにあった。 六時半に合わせて。もう寝よう。……そんなにすぐには眠れないけど。まだ意外と 早い時刻だし。なにかしようかな。部屋をぐるっと見回す。本棚に並んだDVD。 あのタイトルは、さっき見たアニメと同じタイトル。でもさっき見たのは第一巻の はず。買ってきたばかりの第一巻と同じタイトルというのも変。さっき見たDVD の箱を見る。タイトルの後に『2』と付いていた。つまりこれは続編。つまり、 りっちゃんそっくりの子があんな事やこんな事をするアニメが、あれだけある。 見てみたいような、やめた方がいいような。だけどお話はちょっと面白かったし。 最初の一話だけ見てみようかな。本棚からそのDVDを取り出す。箱の表側に、 りっちゃんそっくりの子がすごい恰好をしている絵がででーんと描いてある。 ドキドキ。箱を開いて、DVDを取り出して、プレイヤーに入れて。………わー、 さっきのよりもりっちゃんにそっくり。ここは普通のお話。第一話だからかな? おや、なんだか怪しい人が登場して………わーわーわー、りっちゃんが、いや、 りっちゃんそっくりの子が、こんなこんな、わーわーわー。あ、ここで第一話が 終了。じゃあ二話まで。わーわーわー。なんでこんな。わっ、りっちゃんが、 いや、りっちゃんそっくりの子が変身。この恰好もすごいけど。凛々しいといえば そうだけど、なんと言ったらいいのか。えーとえーと。すごかった。こんなのを 見たら眠れないよ。りっちゃんそっくりの子が、あんな事してこんな事して、 顔が火照ってきちゃう。ドキドキ。だってあんな事やこんな事だよ。ドキドキ しちゃって、ドキドキしちゃって。考えるだけで、考えるだけで、疲れちゃうよ、 本当に。だから。