早起き(1) んー、今は何時だ。あれ、もう7時半?あれ、どうして目覚ましが鳴ってないんだ? っていうか、どうして誰も起こしてくれないんだ?学校に遅れちゃう。 いや、今日は土曜日か。だから目覚ましも鳴らないし、誰も起こしに来ないんだ。 そうか、それならもう少し…… じゃなかった。土曜日の7時半なら、もう起きなきゃ。少しでも朝ご飯を食べなきゃ。 いくらテレビの前に座っているだけと言っても、朝ご飯抜きはきつい。 朝ご飯抜きでテレビの前に座って、画面においしそうな料理が出てきた時は辛かった。 そういうのがなくても、おなかが空いてたらテレビを集中して見れないし。 どうにか布団から体を起こした。それから誰もいない台所に行く。 土曜日の朝でも、お父さんとお母さんは朝早く出かけてしまう。 妹も、中学生になってからは部活の朝練で土曜日も朝早くでかけてしまう。 だから家の中には誰もいない。それはそれで好都合なのだが、朝ご飯の準備は面倒だ。 パンだけじゃすぐにおなか空くけど、卵焼きを作るのもちょっと面倒だし。 かといって、冷蔵庫出したての冷たいハムだけじゃ食べた気がしないし。 結局卵焼きを作って食べていたら、すぐに8時になってしまう。 あわてて朝ご飯を食べて、歯を磨いて、そしてテレビの前に座る。ソファからじゃ少し 遠いから、じゅうたんに正座して座る。 そして8時ちょうど、レインボーエンジェルの主題歌が始まった。 「空にかかる虹を渡りあなたのもとへー」 小さな女の子向けのアニメ番組のオープニング。可愛い元気な女の子2人が空を飛び、 その後ろを少し大人びた女子2人とちいさな女の子1人が追いかける。先週と同じ オープニングを見たら、なんだかドキドキしてきた。今週もこれから30分間、 シズク様のりりしいお顔を見られる、そう思っただけで嬉しくてドキドキする。 と同時に、中学3年生男子の僕が、小さな女の子向けのアニメを見てドキドキしている ことを、誰かに知られやしないかとドキドキする。この家の中には僕しかいないのに、 ドキドキする。 別に「魔法のコンパクトを開いて不思議な力を使うのが楽しそう」とか、 「素敵な衣装に変身できるのがうらやましい」とか、そういう理由でこのアニメを 見てる訳じゃない。「元気な女子の友達グループの毎日が楽しそう」とか、 そういうのでもない。うん。 ただ、この手のアニメで定番といえる優等生の生徒会長が、かっこよくて素敵で、 早起きしてでも見たくなってしまうのだ。それだけだ。 特に今年の「レインボーエンジェル」のシズク様は、背が高くて美人でお上品で かっこよくて、本当に素晴らしい。見ているだけでドキドキする。 そんな事を考えていたら、オープニングが終わった。初っ端から朝食の場面だ。 ちゃんと朝ご飯を食べててよかった。そしてシズク様の朝食の場面だ。 「ねえねえ、お姉ちゃん。今日の放課後ね」 「ごめんなさい、リン。今日は文化祭の準備で忙しいの」 「文化祭?去年もやってた、あのお祭りみたいの?」 「そうよ。その準備で遅くなるけど、文化祭の日にはリンを連れて行ってあげるから」 あー、うちの中学校の生徒会長がこんな美人で上品でりりしい人だったら、どんなに いいだろう。全校集会や文化祭の開会式が楽しみになるのに。うちの中学校は ごく普通の公立中学校で、今の生徒会長は男子だし、副会長は女子だけど、いつも ムスっとしている太った女子だ。 学校の場面になった。シズク様が各クラスの書類を決裁している。 「1年2組はお化け屋敷でしたね。暗幕20枚使用を許可します。2年3組の展示では 発泡スチロールを使うんですね。ゴミはちゃんと分別して、決まった場所に出して ください」 こんな生徒会長に書類提出に行くのなら、僕が喜んでいくのに。 話は進んで、文化祭当日になった。 「クミさーん、ミミさーん」 「あ、リンちゃん、来てくれたんだ」 「お姉ちゃんはどこ?」 「生徒会長はいそがしいのだよ」 この「リン」という子がシズク様の妹だ。シズク様は「リン」と呼びかけている。 実は、僕の名前は「倫孝」で、読みは「のりたか」だけど、最初の一文字だけなら 「リン」だ。過去にそんなあだ名を付けられた事があるわけではないが、 それでもシズク様が「リン」と呼びかける時、自分が呼ばれているような気がする。 いや、むしろ他の誰からも「リン」と呼ばれた事がないから、シズク様だけが 僕の事を「リン」と呼んでくれているような気がする。うん。 ただ、この「リン」という子が小学6年生で、みんながリンに話しかける内容が 子供っぽ過ぎるのがちょっと困る。シズク様以外は「リンちゃん」だし。 「リン、私はまだ生徒会の仕事があるから一緒に文化祭を見て回れないけど、 クミちゃん達と一緒に見て回りなさい。みんなとはぐれないように気を付けてね」 僕がシズク様にこんな子供扱いされていると思うと恥ずかしい……のだけれど、 「リン」と呼びかけてくれるんだから、やっぱり嬉しい。シズク様が話しかけて くれてるんだから、恥ずかしがったらダメだ、もっと喜ばないと。 そもそもシズク様が中学2年生だから、「リン」と呼んでもらえるのはそれより 年下で、僕が「リン」と呼んでもらえるとしたら、シズク様の弟か妹なわけで。 シズク様が中学生の姉で、僕が小学生の弟で。それならごく普通だ。 つまりシズク様が僕の姉で。シズク様のような姉がいれば。そういう想像をちょっと しただけで嬉しくなってドキドキしてきた。シズク様が姉だなんて最高じゃないか。 でもシズク様は中学2年生で、僕は小学生で。中学3年生の僕が小学生の弟で、 中学2年生のシズク様が姉、そう考えたら、今度は恥ずかしくてドキドキしてきた。 でもだからって、シズク様が妹というのは変だ。シズク様はやっぱり姉という感じ だから、僕が小学生の弟というのは変えられない。 ……そうだ、僕が小学生の時のお話なんだ。それなら問題ない。うん。 でも現実には、今更姉が出来るなんてありえないよな。高校生になれば、その高校の 生徒会長が美人とかありうるだろうけど、美人な姉はさすがに今更無理だ。 仮に、義理でもなんでもいいから今更姉が出来たとしても、高校生か二十歳くらいか。 二十歳くらいの美人の姉というのも、それはそれでありかも知れないけど、 シズク様とはまた違うような。 妹はいるのだけれど、シズク様の同級生のエリカさんに似ていて、体育会系女子だ。 口のきき方もちょっと生意気というか、乱暴というか。シズク様とは違い過ぎる。 ……でも、もし、妹の恵理子が、シズク様みたいな背が高くて美人でお上品な 優等生の生徒会長になったら? 小学生の時からバスケをやってる恵理子は既に僕の身長を追い越したし、 懸巣川女学院に入学するくらいだから、普通の基準でいえば優等生だ。 小学校の時はバスケ部の部長をやってたけど、今からシズク様のような優等生 タイプになれば、生徒会長になってもおかしくない。懸巣川女学院には もっと優等生がいるだろうから無理かもしれないが、もし公立中学校に通って いたら、生徒会長も十分にありうる。 そう考えてみると、恵理子がシズク様のようになることもありえなくもない。 ……それって嬉しいことなんだろうか?もしそうなったら?僕の事を「リン」って 呼んでもらえるのかな? ……さすがにそれは無理か。いくら懸巣川女学院だからといっても、あの恵理子が そんなすぐに美人でお上品になれるわけがない。そもそも妹なんだから、僕の事を 「リン」だなんて呼んでくれるはずが。 あ、悪役登場だ。 「リンちゃん、あぶない!」 エリカさんに「リンちゃん」と呼ばれてドキとした。恵理子に「リンちゃん」と 呼ばれたような気がした。妹から「リン」とか「リンちゃん」とか、言われる方が 恥ずかしい。妹が僕の事を「リン」なんて呼んでくれるはずがない。 仮に呼んでくれるとしても、バカにしたような言い方だろう。背の低くて、そんなに 成績が良くない僕を見下すような言い方。なんだか想像できてしまう。 「リン!大丈夫?私たちの後ろにいなさい。私のリンにケガさせたわね。許さないわ」 こんな事は言ってもらえそうにない。さすがにそんな期待をする方が無理だ。 ついつい変な事を考えちゃった。そういう事を考えても無駄だ、今はテレビに集中。 というわけで30分の番組が終わった。次回はお買い物か。ファッション関係っぽい から多分ミミさん回だ。でもみんなで行くみたいだから、シズク様の出番もそれなりに あるだろう。今回は中学校の文化祭の話の割に、中学生4人よりもリンが目立っていた けど、その分シズク様の出番も多くて、「リン」と呼んでもらえる回数も多かった。 とっても満足。満足過ぎて、つい余計な事を考えてしまったけど。 「お兄ちゃん、朝からこんなアニメ見てるんだー。へえ」 いきなり後ろから声が聞こえてびっくりした。後ろを振り返ると恵理子がいた。 「あれ?今日は部活じゃ…」 「体育館が工事中で、全然使えないわけじゃないけど土曜日に工事が多いから、 しばらくは日曜日に練習することになったの。って昨日言わなかったっけ?」 「聞いてない聞いてない」 「そう?寝る前にお母さんに言ったんだっけ?まあいいや。そんなことより、 あんなアニメを見てたんだ。あれって小さな女の子向けのアニメだよね?」 いきなりそんな事を聞かれても、どう答えていいのか全く思いつかない。 あれが小さな女の子向けのアニメじゃないって言うのは無理がある。 「えっと、うん、そうかな?で、でも、あれは、たまたま。うん、たまたま」 よくある言い訳をあわてて口にしてみた。 「たまたま?たまたまチャンネルを合わせて?」 「うん」 「20分以上正座をしてテレビに張り付いてたの?」 いったいいつから僕の後ろにいたんだ?よく見ると、恵理子の前のテーブルには お皿がある。もしかして朝食を食べながら、レインボーエンジェルに熱中している 僕をずっと見てたのか。『たまたま』なんて言い訳が逆に白々しく思えてきた。 「えっと、その…」 「たまたまでも、熱中して見ていたんだよね?」 「う、うん…」 「どこが面白いと思ったの?魔法少女姿に変身するシーンが好きとか」 「そんなんじゃない…」 「ステッキを振って魔法を使うシーン?」 「違う……あれはステッキじゃなくて、魔法の文房具…」 「へえ。ずいぶん詳しいんだー」 しまった。ついうっかりそんな事を言っちゃった。 「その魔法の文房具で悪者をやっつけるシーンとか?」 えーと、それなら、男の子向けのアニメでも良くあるシーンだから、それなら。 「そういう子供っぽいシーンが好きなの?」 答える前に子供っぽいといわれて、言いづらくなってしまった。 「ち、ちがう…」 「それじゃあ、どこをそんなに熱中して見ていたの?魔法少女が魔法の文房具を使う アニメのどこを」 アニメのいろんな場面を思い起こすけど、どれも子供っぽいシーンばかりだ。 でもシズク様のりりしいお顔は魅力的なわけで。恥ずかしいけど、素直にそれを 言った方がいいような気がしてきた。 「えっと、登場人物の描き方が素晴らしいっていうか、きれいというか」 このくらいの言い方なら。 「ああ、確かに絵はアニメにしてはきれいだったわね。割と大人っぽくて」 これで少しは納得したようだ。とりあえずほっとした。 恵理子はなぜか嬉しそう顔をしながらテーブルを離れて、僕の前にあぐらをかいて 座った。正座の僕の前にあぐらをかいて座る恵理子。それでも恵理子が僕を 少し見下ろしている。その事に気づいてドキっとする。 「それでお兄ちゃん、どの子が好きなの?4人くらい登場人物がいたよね?」 「えっと、5人いるけど…」 「そうだったっけ?……ああ、あのリンちゃんとかいう、小さな子も含めれば5人ね。 もしかして、あの小さな子が好きなの?」 そんな事を言われてあわてる。 「ち、違う。そうじゃなくって。生徒会長。生徒会長の」 「ああ、一番背が高いあの子ね」 「そうそう」 「あれは大人っぽくて、子供向けアニメって感じはしないかも」 「う、うん」 5人の中で一番大人っぽいんだから、そういう点でも無難なはず。 「名前、なんて言ったっけ?」 「シズク様」 「ああ、そうだった。シズク……ん?アニメの登場人物に『様』を付けるの?」 しまった、どうしよう。こんな話題を人と話すのは初めて、しかもいきなりで 気が動転していたから、頭の中でいつも思っている事をそのまま口に出して 言ってしまった。 「まあ結構かっこいいし、ああいう顔のアイドルなら『様』を付けるのもありかも」 恵理子がそういう言い訳を言ってくれてほっとした。でも恵理子はかなりあきれた ような顔をしているけど。そんな目で見下ろされるのはつらい。 「でもあの生徒会長、かなり背が高いよね?お兄ちゃんよりも絶対に高いよね? それに中学生にしては胸も大きくて大人っぽいし。ああいうのが好みなの?」 「そうだけど…」 とりあえずそう言ってみたけど、目の前にいる恵理子は僕よりも背が高い。 しかも、ほぼ真正面、ちょっとだけ上にある顔を見ると、意外と大人っぽいというか、 小学生の時とは違ってむっちりもっちりというか。僕の同級生の3年生女子と あまり変わらないような。そしてこうして間近で見ると、今まで思っていた以上に エリカさんと似ている。今まで小学校の頃の恵理子の顔が頭の中にあったから 気が付かなかったけど、背丈だけでなく顔も似てるかも。体育会系女子によくある 顔かもしれないけど、そう思うと余計にそっくりに見えてくる。そんな恵理子の顔を 見てドキドキして、下に目をそらしたら、Tシャツの胸の部分が少し盛り上がっている ように見えて、またドキっとする。縦だけでなく横も似ているかも。体育会系女子 だから、そういう部分まで似てるのか。恵理子が今日突然むちむち女子中学生になった ような、アニメの中のエリカさんが目の前に現れたような、そんな変な感覚になって 直視できなくなり、誰も座っていないソファーの方を向く。 「お兄ちゃんよりもずっと背が高くて大人っぽい女子がいいわけ?」 同じことを二度聞かれたけど、目の前の恵理子を見たら、答えづらくなってしまった。 でも僕が大好きなのは、エリカさんじゃなくてシズク様なんだから。 「えっと……うん…」 そう答えたけど、こんな事を恵理子に答えるなんて、やっぱり恥ずかしい。 しかも小学生女子の恵理子じゃなく、同級生と変わらないくらいに大人っぽい恵理子 に問い詰められて答えるだなんて。 「へえ。わたしー、お兄ちゃんより背が高いしー、ちびっこのお兄ちゃんよりも 大人っぽいと思うんだけど、私を魅力的だと思ったりしてるの?どうどう?」 ついさっき恵理子の顔と胸を見て思った事をそのまま声にだされてしまって、 すごく恥ずかしい。 「その、えっと……シズク様は生徒会長で優等生で、上品な美人だから…」 「確かにそうだね。私は違う?」 「ち、ちがうよ」 「はは。そうだね。もう一人、背の高い子がいたよね?バレー部部員とかいうの」 「…エリカさん…のこと?」 「そうそう、あっちの方が私に近いかな?」 そういう所は自覚しているのか。ちょっとほっとした。何にほっとしたのか自分でも 良く分からないけど。 「そういえば名前も似ているし」 そういわれればそうだ。恵理子はなんだか嬉しそうな顔をしている。 「お兄ちゃんは、あのちっちゃな子にちょっと似てるよね。背が小さくてかわいいし」 背が小さい事だけかよ。中学1年生の妹に、背が小さくて小学生の女の子に似ている といわれてショック。その妹は背が高くて大人っぽいし。 「あの子、妙に生徒会長にべたべたしてたけど……妹とか?」 「そう」 「あ、もしかして、あのリンちゃんという子みたいに、生徒会長にべたべたしたい とか思ってるの?」 「べ、別にそんなこと…」 本当は思ってるんだけど、さすがにそれは言えない。それ以前に、そんな質問をされる ことが恥ずかしい。 「ん?お兄ちゃんの名前って、音読みすれば『リンコ』だよね」 恵理子がちょっと考えた後に、嫌な笑みを浮かべた。ものすごく嫌な感じ。小学校の 低学年以来感じた事がないような、すごく嫌な感じ。 「お兄ちゃんの名前、『リンコ』って読めるよね?」 「お願いだから…それはやめて…」 そんなあだ名を中学3年生にもなって、しかも妹に付けられるなんて最悪。 「いいじゃないの。大好きなシズク様の妹とほぼ同じ名前なんだよ?」 それを恵理子に言われるのが嫌なんだって。 「やっぱ『リンコ』は変か。『リンちゃん』ならいいよね?全く同じだよ」 「やめてって…」 「いいじゃない。大好きなアニメの登場人物に甘える妹と同じなんだよ?大好き なんでしょ?シズク様」 「そうだけど……恵理子にそう言われるのは……いくらなんでも…」 子供っぽい恵理子じゃなくて、微妙に大人っぽくて同級生女子と同じくらいに見える 恵理子に言われると、自分が本当に恵理子よりも年下になったような、子供っぽく なったような気がして、すごくミジメになる。 「えー?じゃあどうだったら、私が『リンちゃん』って呼んでいいの?」 「え、それは……恵理子が上品な生徒会長になるのなら…」 さっきテレビを見ている最中に考えた適当な事を、口に出した。恵理子が本当に シズク様みたいになるのなら、呼び捨てでもいいのに。エリカさんだけじゃ足りない。 「えー、それは難しいなあ」 さすがにそうだろう。 「でも私が上品な生徒会長になったら……お兄ちゃんは私の妹になってもらわないと」 え?もしかしたら恵理子が本当に生徒会長になって、僕が本当に恵理子の妹にさせられ ちゃう。急にそんな気がしてきた。さっきはシズク様の妹になれると思ってあんな事を 口にしたけど、恵理子の妹になると考えたら、すごく恥ずかしくなってきた。いくら 恵理子がエリカさんみたいに大人っぽく見えるからって、僕が恵理子の妹だなんて。 恵理子よりチビの僕が、本当の小学生にさせられちゃう。 「あ、あの、それはなし。それはなしにして。お願いだから、恵理子」 「えー?私が生徒会長になるのに、お兄ちゃんは何もしないんだー」 「そんなんじゃなくって…」 もう訳が分からなくなってきた。 「妹にならなくていいから、『リンちゃん』くらい呼ばせてよ。ね、リンちゃん」 「そんな…」 「お父さんお母さんにも『リンちゃん』って呼んでもらうように頼むからー」 「頼まなくていい。お願いだから、お父さんお母さんにそんなこと言わないで」 「私だけならいいでしょ?」 「だからお父さんお母さんの前では言わないでって」 「いない時ならいいでしょ?」 「う、うん…」 押し切られてしまった。 「ありがとう。リンちゃん。でもお兄ちゃん…リンちゃんは私の事を呼び捨てに するのか。それもちょっと変だね」 「僕にまで変な事を言わせないでよ」 「さっき、アニメのキャラに『さん』付けてたよね?『エリカさん』って。それと 『シズク様』だったか」 「うん…」 「じゃあ私には『様』をつけて」 「いやだ、そんなの」 いくらなんでも、それはひどすぎる。 「じゃあ『エリカさん』と言ってるんだから、それと同じにしてよ」 「……恵理子さん?」 妹の名前に『さん』を付けてみたけど、なんだかすごく変な感じ。同級生の女子でも 苗字に『さん』付けなのに、自分の妹に向かって名前に『さん』付けだなんて。 恵理子が急に、すごく親しい同級生の女子か少し遠い親戚のように思えてきた。 遠い親戚でも、年下なら『ちゃん』を付けるところだ。妹を親戚のお姉さん扱いした ような気がして、泣きたいくらいに恥ずかしい。 「あの、お父さんお母さんの前では言わなくっていいんだよね?」 「それでいいから、リンちゃん」 「うん、わかった。恵理子」 「…今はお父さんお母さんいないから」 やっぱり言わせるんだ。 「…恵理子さん」 「よし。上出来。あ、お皿を片付けないと」 恵理子はテーブルの上のお皿を取って、台所に行ってしまった。 どうしよう。テレビを見ている間に想像したことが半分くらい本当になってしまった。 恵理子が僕のことを『リンちゃん』と呼ぶと、やっぱり僕をバカにしたような感じ だった。恵理子が生徒会長になる事はさすがになさそうだけど、それはつまり、 シズク様のような姉が出来るわけじゃないということで、その分だけ損した気分。 いっそのこと『本当に美人でお上品な生徒会長になって』と言って、恵理子に約束を させればよかった。それはそれで、本当に言ったらやっぱり恥ずかしいだろうけど。 そんな重たい気分で自分の部屋に戻った。 しばらくふて寝していると。 「リンちゃん、ここにいるんでしょ?」 恵理子が僕の部屋のドアを開けた。 「なに?恵理子」 「お父さんお母さんはいないよ」 なんか面倒くさい。 「…恵理子さん」 「リンちゃんって、今まで私の部屋に勝手に入って勝手にマンガを読んでたでしょ? ちびガールとか」 げ、気付かれないように入ったつもりだったのに、気付かれていたのか。 いや、出まかせかも知れない。とりあえず何か言わないと。 「そんなこと……なんで思ったのかな?恵理子……さん」 「だって、はさまっていた髪の毛が、どう見てもリンちゃんのだったから」 証拠があるのか。いろんな事がまとめて恥ずかしい。 誰かが帰ってくる心配とか、本の位置を元に戻しておかないと気づかれるとか、 そういう心配はしていたけど、髪の毛が落ちたかどうかなんて全然気にした事が なかった。 「ちびガールのどこを読んでるのかと思ってたけど、あのアニメと同じマンガが連載 されてたんだね」 「う、うん…」 「つまり、ちびガールを読みたいんだよね?」 「うん…」 確かにそうなんだけど、それをわざわざ答えさせられるなんて。 「じゃあ読み終わった分、ここに置いておくね」 「え?」 どういうことだ? 「私の読みたいマンガは単行本で出ればすぐに買うから、古いのは捨てちゃってた んだよね。でもリンちゃんが読みたいのなら、あげるよ」 「え?あ、うん」 「……お父さんお母さんはいないよ」 えっと、これはどういう意味だ?恵理子さんって呼べって意味だろうけど、今は。あ。 「えっと……ありがとう、恵理子さん」 「よし。だからもう私の部屋にこっそり入る必要はないから」 そんな事を言われると余計に恥ずかしい。 「私が読み返したくなったら、私がリンちゃんの部屋に勝手に入って読むから」 「そんな…」 「じゃあね」 恵理子が部屋から出て行った。机の上に分厚いちびガールが6冊積まれていた。 なんかすごくたくさん恥ずかしい事があるような気がする。恵理子の部屋に勝手に 入ってちびガールを読んでいたことを、実はとっくに恵理子にばれていたとか。 僕の部屋の机の上に今、分厚い少女漫画雑誌が積み上げられているとか。 お母さんが帰ってくる前にこの分厚い雑誌をどこに隠すか考えなきゃいけないとか。 でも隠したら隠したで恵理子に何か言われそうで恥ずかしいとか。でも机の上に 置いておく方がずっと恥ずかしいとか。 でも、ちびガールをゆっくり読めるようになったのは、やっぱり嬉しい。 もうこっそり恵理子の部屋に入って、時間を気にしながらあわてて読んで、 元の位置に正確に戻す必要はないんだから。それを考えると恵理子に感謝しないと いけない。妹から少女漫画雑誌をもらうというのは、小さい子扱いの一種のように 思えて恥ずかしいけど、それでも読みたいものをくれたんだから、やっぱり感謝 しないと。 そんな事を考えてドキドキしながら、一番上のちびガールを手に取り、膝の上で 広げる。 「この本、おもしろいよ。リンちゃん」 「じゃあ読んでみます。エリカさん」 図書館で本を選んでいる場面だけど、恵理子からマンガ雑誌をもらった僕のように 思えてくる。エリカさん、意外とリンちゃんの事が好きでかわいがってるんだよな。 恵理子は、僕に少女漫画雑誌をあげて面白がっているのか、それとも僕を可愛がって 喜んでいるのか。どっちなんだろう?僕がちびガールをこっそり読んでたのはかなり 前から気付いてたみたいだけど、なんで今頃急に、僕にあげると言い出したんだろう。 やっぱり僕が小さな女の子向けアニメを見ていると知って、からかって面白がって いるんだろう。恵理子よりチビな僕を子供扱いして面白がってるんだろう。 背丈も見ているアニメも小学生みたいだから、小学生みたいに『リンちゃん』と 呼んで……可愛がってるのかな… 晩ご飯の時は、妙に楽しそうな恵理子が余計な事を話し出すんじゃないかと冷や冷や しながら、そしてやっぱり恵理子がエリカさんに似ている事を気にしながら、 晩ご飯を食べた。結局変な事は言わなかったけど、それだけで疲れた。 次の日の朝は、日曜日だしゆっくり眠れるはず、なんだけど、部活のために早起き した恵理子がお母さんに何か変な事を言ってないかと、目が覚めた瞬間から不安に なってくる。かといって、気になるから早起きして見に行くというのも面倒というか 不審がられそうというか。 恵理子が出かけた後に起きだして、朝ご飯を食べる。お父さんは散歩に出かけている けど、テレビはつけっぱなしだ。カードゲームを元にしたアニメをやっている。 登場人物は男の子の方が多いけど、たまにお姉さんが出て来る。それを見て昨日の 恵理子との会話を思い出してドキドキする。すぐそこにお母さんがいるのに。 恥ずかしくなってきて、テレビを消した。 家の中にお父さんお母さんがいると思うと、自分の部屋の中でもちびガールはちょっと 開きづらい。レインボーエンジェルが表紙の号を一番上にして、いつでも隠せるように 別の本を横に置いて、表紙だけ眺めていると。 「おーい」 あ、誰か来る。あわてて横の本を上に置く。 「リンちゃんいるんでしょ?いたいた」 なんだ、恵理子か。でもあんな大声で『リンちゃん』というなんて。 「そんな大きな声で言わないでよ。お父さんお母さんが」 「私が帰ってきたら、買い物に行ってくるって出かけちゃった。二人とも」 そう言いながら、制服姿のリンが部屋に入ってきた。制服姿だと、余計に大人っぽく 見えるというか。僕が通う公立中学校の女子制服と違って、懸巣川女学院はそれだけで ちょっとお上品に見えて、恵理子が本当にお上品な美人になるかも知れないと思えて、 ちょっと不安な気持ちになる。懸巣川女学院の生徒は全部同じ制服だから、それだけで 生徒会長にはなれないけど。 「あんな大声だとご近所に聞こえちゃうよ。なに?恵理子」 「だからお父さんお母さんは出かけてるって」 「…恵理子さん」 「帰り道に、これを買ってきてあげたの。ほら」 レインボーエンジェルが表紙の雑誌だ。 「リンちゃんが欲しがるかなって思って」 確かに欲しかったものだけど……ちびぐみという、小さな女の子向け、というより 幼稚園児向けじゃないかと思える雑誌だ。 「リンちゃん、こういうのは自分で買えないかなって思って」 そりゃ買えないよ。他の小さな子向けの雑誌と並んで、他の雑誌とは明らかに違う 雰囲気の雑誌だ。ちびガールもキラキラお星さまがたくさん描かれていて、 恥ずかしくてレジに持っていくことが出来ないのに、表紙の女の子達の絵がさらに キラキラしてて、ピンクが多くて、その上にキラキラ光る付録の写真が載ってて、 付録でちょっと膨らんでて、しかもすごく簡単な言葉も全部ひらがなで書いてある。 こんなの自分で買えないよ。 「……これって、どこで買ってきた?」 きっと懸巣川女学院まで通学する途中の大きな駅の前とかで買ったんだろうな。 まだ中学1年の恵理子がそんなところに寄り道で行けるなんて。そんなところでも 恵理子の方がちょっと大人に思えてきて、自分が子供に思えて、ミジメだ。 「駅前の本屋さん」 駅前の本屋さんって、僕の中学校までの通学路の途中にある本屋さんじゃないか。 あそこで買ったのか。あの本屋の入口の棚に置いてあったちびぐみなんだ。 ご近所の小学生や幼稚園児が読んでいるちびぐみと一緒に並んでいたんだ。 そんなものを恵理子に買ってきてもらったんだ。そう思ったら、さっき思っていた よりもずっと恥ずかしくてミジメな気分になる。 「はい、リンちゃん」 恵理子からちびぐみを受け取った。 表紙のレインボーエンジェルのエリカさんと、僕にちびぐみを手渡す恵理子の顔が 同時に目に入った。エリカさんの変身後の服の襟の形と、恵理子の制服の襟の形が ちょっと似ている。色は全然違うけど、それだけで恵理子がエリカさんにすごく 似ているような気がした。恵理子がシズク様と同じ中学校に通っているような 気がした。シズク様と仲良く微笑む同級生のエリカさんと、それに似ている恵理子。 エリカさんにちびぐみをもらったような気分だ。シズク様じゃないけど、 その仲良しの人がこんなに近くにいる、そう思えば、そんなに悪くないかも。 ちょっとだけ、そう思えた。 「ありがとう…ございます…エリ、恵理子さん」 なんで『ございます』なんて付けたんだろう?エリカさんに言おうとしたのかな? まあいいや。 「うれしい?」 「うん」 ちょっとだけリンちゃんになった気持ちでうなづいた。 「あ、そうだ。これ、いくらだった?」 「いいよ。店先で見かけて、あわてて買っただけだから。どうせ今、800円とか 持ってないでしょ?」 「う、うん…」 なんか余計に子供扱いされたような気がした。 「じゃあその本を楽しんでね、リンちゃん」 次の朝、登校途中に本屋さんの前を通る。恵理子がちびぐみを買った本屋だ。 まだ開店前だけど、ガラスの向こうにある棚に、昨日恵理子に買ってもらった ちびぐみが置いてある。あの中の一つを僕は買ってもらって、僕が持ってるんだ。 そう思ったら、店の前に立っているだけで恥ずかしくなって、すぐにその場を 走り去った。