大学生(2)
五月も終わりに近くなった日。国文学概論の授業の最後で
「えー、再来週試験をやります。といっても、今までの授業をちゃんと聞いて
れば簡単に答えられるような問題です。今まで出席取らなかったから、出席代
わりだと思ってください。一応掲示板にも試験通知は張り出しておきます」
教室には最前列組しかいないから、試験だからと言って誰も騒がない…と思
ったら。
「再来週?」
「どうしよう、明日にもノート借りにくるんじゃないかな」
「テストは学期末しかないと思ってたから、何もしてないわよ」
「明日と明後日はクラブは休んで、みんなで手分けしてまとめましょうよ」
「今から合唱部室で始めましょう」
みんなドタバタと教室を出ていく。私が茫然と見てると
「坂井さん、あなたも来なさいっ」
みんなについて行ったから、生徒手帳チェックもなく高校の校舎に入ってし
まった。他の生徒とすれ違う時、ちょっと緊張してしまう。みんなから離れな
いように歩かなきゃ。合唱部以外の人は断りに各部に行った。みんなが揃うの
を待って、神崎さんが始める。
「六週分あるわね。一人一週でちょうどいいわ。一週目は川村さん。二週目は
坂井さん」
「あっ、はい」
「三週目は島田さん、四週目は遠藤さん、五週目は西浦さん、六週目は私。明
日の放課後までにまとめて、一度みんなでチェックしましょう。相手はあの大
学生達なんだから、分かりやすく書くこと。いいわね」
みんなノートを読みはじめた。私もやらなきゃ。でも、分かりやすく書くっ
て、どんな具合に書けばいいんだろう。神崎さんが書いてるのを覗き込む。川
村さんも覗き込んでる。元のノートよりも、言葉の説明や注意書きが詳しくな
っている。でもどこをどう詳しくしたらいいのかよく分からないなぁ。やるだ
けやってみよう。
翌日の授業、いつも通り島田さんが隣にきた。
「ねぇ、国文学概論のノート出来た?私、ちょっと自信ないの…」
「私もそんなに自信はないけど…読んでみる?」
「じゃあ私のも読んで」
先生が来るまでお互いのノートを読んでみる。…こんな書き方もあるんだ。
これ参考にして、少し書き直した方がいいかな?
「結構分かりやすいわよ、坂井さん。私の少し書き直した方がいいかな?」
「そう?分かりやすいと思ったけど」
今日の授業が終わった後、川村さんと一緒に高校の建物に入る。合唱部室に
着くまで、周りの視線がとても気になる。川村さんに手を引いてもらってるか
らいいようなものの、一人だったら叱られるんだろうな。
合唱部室にはもうみんな集まっていた。
「さあみんな出して。回し読みしましょう」
私はまず神崎さんのノートを見る。綺麗な字で、丁寧に説明してある。これ
だったら授業に全然出てなくても分かりそうな気がする。みんな読みながら、
書いた本人に色々意見を言っている。私も西浦さんから「ここ、分かりにくい
と思うんだけど」って言われた。みんなそれぞれ訂正をした後、神崎さんが集
めて、
「じゃあ明日までにコピー作ってくるわ」
そして次の日。いつも通り島田さんが隣にきた。
「はい、これ国文学概論のノートのコピー。誰かにノート貸してって言われた
ら、これを貸せばいいわ。自分のノート貸したりしたら、無事には戻ってこな
いから」
きれいに製本されたコピー。これ貸しちゃうの、なんだかもったいないよう
な気もする。
次の時間は国文学概論を受講してるのが私だけ。さっそく辻さんと石井さん
が借りにきた。
「坂井さん、再来週に国文学概論の試験があるそうね」
「はい、そうですけれど」
「私、全然授業に出てなくてね、ちょっとノートを貸して欲しいんだけど」
「いいですけど…出来るだけ早く返してくださいね」
「わかってるわ」
妙になれなれしくて、馬鹿にしてるような口振り。私を高校生だと思ってる
んだろうな。毎週出席した上に一晩かけて書き直したノートを、なんであんな
やつらに貸さなきゃいけないんだろう…。
放課後、行くところもないからゆっくり歩いていたら、島田さんがおいでお
いでしてる。島田さんと一緒に合唱部室へ。昨日までは忙しいから気付かなか
ったけど、この部屋も明治時代に建てられた建物なのよね。この部屋毎日使え
るなんてうらやましいなぁ。
「あのノート、もう誰かに貸した?」
「うん、受け取った次の時間に」
「早いわね。ところでさ、LLの授業、高校で受けてみない?」
「えっ…そんな事していいの?」
「高校の先生達はいいって言ってたし、山科教授もそっちの方がいいだろうっ
て言ってたし。あなた真面目だから、特別扱いですって。よかったね」
「うん」
次の日の昼休み、山科教授のところへ、島田さんと一緒に行く。
「君は真面目だからね。君みたいな学生はうちの大学始まって以来だよ。今の
LLの授業、確かに君にはちょっとやさし過ぎるだろうし、まっ、高校の方で
しっかり勉強してきてくれたまえ。でも時間割りがうまく取れるかな?それだ
けが心配なんだが」
そういいながら、書類を書いている。書類を書き終わると、封筒に入れて封
をして
「じゃあこれ、推薦書。これを高校の教務主任に渡すように」
と、島田さんに渡した。
「すぐに教務主任の先生に渡しておきます」
山科教授の部屋を出ると、
「じゃあ、放課後に高校に来てね、守衛室の辺りで待ってるから」
と言って、島田さんは高校の方に戻っていった。
午後の授業で、三人も国文学概論のノート貸してって言ってきた。「今、辻
さんと石井さんに貸してる」って言ったけど、これでしばらく帰ってこないか
も知れない。
放課後、島田さんと一緒に高校の職員室に行った。
「あなたが坂井さんね。山科教授の推薦書は読んだわ。どのクラスの授業に出
るか決めるのにもう少し時間がかかるし、高校敷地に入る時の証明書をどうす
るかとか出席の付け方や大学との成績の連絡をどうするかとか、初めての事だ
からまだ決まってないの。とりあえず今日の所はこれに出席出来る曜日と時間
を書いておいてね。それと、まだ決まってないんだけれど、後期から教養選択
科目の代わりに高校の授業も選べるように出来るかもしれないから、その辺り
は英文学科の主任教授や島田さんと相談して決めてね。あと、大学の学生が高
校の授業を受ける際の注意事項はまだ全部決まってないから、高校の生徒が大
学の授業を受ける際の注意事項を渡しておくわね。多分共通する所が多いと思
うから」
「証明書って、写真がいるんじゃないですか?生徒手帳から考えると」と島田
さんが質問。
「生徒手帳と全く同じ形式にするか決めてないからなんとも言えないんだけど。
でも全く別の物は面倒よねぇ」
「私達制服で写ってるんですけど、生徒手帳の写真」
「それはどっちでもいいんじゃないかしら」
次の週の国文学概論。試験前とあって、いつもよりも人が多いみたい、ちょ
っと騒がしい。島田さんが、いつも通り私の隣に来た。
「高校の授業の出席の話、大体決まったみたい。LLの授業は、大学でのLL
の授業と同じ時間になったわよ。私と同じクラス」
「よかった、一緒のクラスで」
「証明書は、やっぱり写真がいるみたい。放課後に撮りましょ。明日にはもら
えるんじゃないかな」
先生がやってきた。授業はいつも通り。試験の話が全然なかったから、期待
してた人はなんだか不満そう。授業が終わって先生がさっさと教室から出てい
くと、後ろに座ってた人達が最前列組の所にやってきて質問攻めに。私も島田
さんと組になって質問に答えていった。
質問攻めが終わった後。
「遅くなっちゃったけど、写真を撮りましょう。インスタント証明写真で済ま
せましょ。ちょっと暑いけど、これ着てね」
セーラー服、みんな着てないけど一応こういう制服があったのね。大学生に
なってこんなの着るとは思わなかった。でも島田さんもこれ着て写真撮ったん
だよね。夏の薄着の上からセーラー服を着て、写真を撮った。
翌日の昼休みに、島田さんと一緒に高校の職員室へ。写真を渡して、証明書
を作ってもらう。やっぱり高校の生徒手帳と同じ形式みたい。学年の所に「単
位交換聴講」、組の所に「(大)英文」。
「ちょうど中間試験が終わったばかりでキリがいいから、今週から高校の方の
授業に出てちょうだいね。出席もちゃんと取りますから。それと、大学の学生
が高校の授業を受ける際の注意事項が決まりましたから、渡しておきます」
職員室を出ると、島田さんが
「あなたもこの建物に一人で入れるのね、おめでとう」
「ありがとう、うれしいわ」
「それでね、ついでだから、合唱部にも入らない?サークルにはまだ入ってな
いんでしょ?」
「いいの?」
「部長さんに確認しといたわ。今日の放課後から来てね」
「うん」
放課後になると、すぐに高校へ。守衛さんに生徒手帳を見せて古い建物の中
に入る。今日手帳をもらったばかりだから、他の生徒に何か言われそうな気が
してちょっとだけ緊張する。合唱部室に入ると、島田さんや神崎さん、他に十
人ほど。
「みんなに紹介するわ、今日から聴講生になった坂井裕美さん。恵野女子大の
学生だけど、高校の聴講生としてちゃんと認められた人だから、恵野女子高校
の生徒同様に仲良くしてね」
「よろしくお願いします」
「はい、これは今練習してる曲の楽譜ね。しばらくは中学のみんなと一緒に発
声の練習をしててね」
楽譜の中身をぱらぱらっと見る…全部英語の曲。ここの合唱部ってそういう
クラブだったんだ…。島田さんとは別の集まりの方に連れてこられて、そちら
で練習をする。恵野女子高校の生徒って結構大人びて見えるけど、さずかに中
学ともなると、私とは全然違うわよね。私一人だけ大人が混じってるって感じ。
練習が終わるともう六時。島田さん達と一緒に高校の門を出る。今まで放課
後は何もせずに下宿に帰ってたけど、今日からは毎日この憧れの建物で合唱の
練習が出来て、こうやって島田さんや神崎さんと一緒に帰れるんだ。
今日はLLの授業。1コマ目の授業を終えて、急いで高校の建物に向かう。
LLの教室は、機械が置いてあるせいか内装が他の教室と全然違って、新し
い建物のよう。ちょっと残念。もう前の座席は他の生徒に取られてしまってて、
前の方には座れない。さすが恵野女子ね。真ん中辺りに島田さんが座ってる。
「おはよう、島田さん」
「あっ坂井さん、いよいよ今日からね」
「あなたが噂の坂井さんね」
「こんな事特別に認めてもらえるなんて、あなた本当にすごいわね」
周りをちょっと見回すと…
「あら、浜田さんもいる」
「うん、中学の人は結構いるわよ」
「他のクラスだけど、中一で高一のLLクラスって人がいるんだよね。西田さ
んだっけ?」
「西田さんと坂井さんは恵野の有名人だよ」
先生が入ってきた。出席をとりはじめる。でもなかなか私の番にならない。
一番最後なのかな?
「…浜田さん」「はい」「坂井さん」「はい」
やっぱり最後だった。
授業が始まる。聞き取りの練習なんだけど…大学のより全然難しい。という
より大学のは片手間に出来る程度。大学のLLはちゃんと出席をとるからみん
な出てるんだけど、その分レベルを落としてたのね。
授業が終わると、島田さんが
「ねえ、高校の方の食堂にこない?」
島田さん達についていくと、大学の食堂よりも広くてきれいな食堂。山の上
にあるから眺めもいいし、大学の食堂ほど騒がしくもないし、いい雰囲気。週
一回しか使えないのがくやしいくらい。
国文学概論の試験。教室の中は人でいっぱい。確か最初の週はこのくらいい
たような気もするけど随分前の事だし、先々週の十倍くらいいるんじゃないか
な?
試験問題は、本当にちゃんと出席してたら簡単に書けるような問題だった。
最前列組はみんな時間を持て余してる様子。後ろの人達はどうなんだろう。
試験が終わると、後ろの方に座ってた人達は「あんなのわかるわけないわよ」
「なによあれ」と不平不満を言いながら教室から出ていった。ほとんどみんな
出て行った後、神崎さんが
「ノート、戻ってきた?」
「いいえ」「戻ってません」「私は戻ってきました」
「…六冊中、遠藤さんの一冊だけなの?」
「私のだって、大学四年の従姉を持つ中二の人に返してもらったんですから」
「いったいどういう経路で戻ってきたのかしら。それにしても随分な痛み方ね。
確かに何度か雨は降ったけど。みんなには後でまた製本したのを渡すわ」
次の週の金曜日の合唱部の練習。まだ中学生と一緒にやっているけど、段々
慣れてきた。高校も中学も全国大会の地方予選が近いんだって。私はさすがに
出られないけど、みんなと一緒に熱心に練習してる。
練習が終わったあと、島田さんと一緒に坂を下りながら
「明日、うちのクラスの十人くらいで映画見に行く事になってるんだけど、坂
井さんもくる?」
「うん、いく」
土曜日に誰かと出掛けるなんて、横浜に来て初めて。うれしいな。合唱部の
練習が入って忙しくなったけど、仲良しも増えたし、最近とっても楽しいの。
一ヵ月前あんなにつまんなかったなんて、信じられない。
試験から二週間経った国文学概論の授業。「試験結果は後日掲示します」っ
て試験の時に言ってたから先週も人はそんなに多くなかったけど、今週は最前
列組しか来ていない。いつものように授業が進んで、いつもより少し早く終わ
った。そして、教室を見回して
「出席をとる訳じゃないけど、いつもの顔触れだから名前聞いておこうかな」
「神崎です」六人が名前を言っていく。
「島田です」「高一の島田さんね」
「川村です」「中三だっけ?うん」
「坂井です」「あっ、君ね、英文の坂井さんって」
先生はしばらく名簿らしきものを眺めた後、
「面白いもの見せてあげるから、私の部屋においで」
六人は教授室へ。
「試験の点数、君達はほとんど満点だったよ。まっ、当然だろうけどね。で、
君達が貸出用ノート作ったんだよね」
「はい、この六人で作りました」
「今回は割と出来が良かったんだよ。君達のおかげだね」
そういいながら、封筒から答案を取り出した。
「平均が六十点くらいかな?そういうつもりで見てね」
答案を六人に適当に分けて渡してくれた。八十点の答案もあれば、ほとんど
零点のも。辻さんが五十点、石井さんが四十五点。
「こんなところ間違えてる…」
「君達のノートは、きっと恵野の中学の同級生や後輩にも分かるように丁寧に
書いてくれたんだと思うよ。だけど、彼女達はそのノートさえ読めないのか、
読み通すだけの忍耐力がないのか」
みんな答案を眺めながら、がっかりというかうんざりというか、そんな顔し
てる。
「彼女達は近年稀に見る評判の悪い学年だけど、それでも君達のおかげでその
点だったんだ。まっその答案を見て、これからの参考にしてくれ」
…私もその評判悪い学年の一人なんだよね、高校生と一緒にノート作ったり
はしてるんだけど。
お昼休み、島田さんと一緒に御飯を食べていると、辻さんや石井さんや、五
人くらい私達の所にやってきた。
「国文学概論の試験の時どうもありがと」
「…ノートはまだ返してもらってないんですけど…」
「あら、ちゃんと坂井さんのノートだって言って次の人に貸したんだけど、ど
うなったのかしら」
「出来はどうだった?」島田さん、知っているのにわざわざ聞く。
「あのノート、私達にはちょっと難しかったのよね。私達、あなたたちと違っ
て頭悪いのよ」
「遠慮せずに質問にくれば良かったのに。質問にきた人、結構いたのよ」
「え、えぇ、そうすれば良かったかしら…」
「分からない所があったら、どんどん質問にきてね」
辻さん、引きつった笑いでどこかに行ってしまった。
六月の終わりになると、そろそろ前期の期末試験が始まるということで、少
しずつノートのまとめを始める事に。各授業の始まりか終わりに分担を決める。
三週間はあるけど、科目数が多いので大変。二週間くらい前になると試験告示
が出て、ノートを借る人が出てくる。
試験前の週の国文学概論の授業、ふと見ると珍しい事に辻さんが来ている。
授業が終わると、数人が最前列組の所に質問に来る。辻さんは島田さんの所に。
私も質問を受けてる間にちらちらと島田さんの方を見ると、優しい声で教えて
いる島田さんと、それでも分からない様子の堅い表情の辻さん。みんな随分時
間をかけて教えている。その中でも島田さんと辻さんは、最後までやっていた。
六時近くになってようやく終わったみたい。
「分かった?」
「はい、なんとか」
「試験がんばってね。ところで、辻さんって、高一の辻遙さんの従姉でしたっ
け?」
「えっ、えぇ」
「去年は同じクラスだったんだけど、今年は別れちゃったのよね。お会いした
時はよろしくね」
「えぇ…」
試験が終わった後、試験結果を教えてもらったけど、どの先生も「意外とい
い」とおっしゃってた。辻さんも、島田さんから教えてもらったお蔭か随分い
い点だったみたい。そのせいか、辻さんの私達に対する態度も随分良くなった。
私達も、ちょっぴり嬉しい。
夏休みになると、合唱部の練習だけになった。敬老の日に慰問活動で歌う事
になっているらしくて、それには私も参加出来る事に。だから制服を作らない
といけなくなっちゃった。
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