中央線

 山梨県の山奥にある私の村には、中央線が通っている。 駅はうちのすぐ目の前。小さな小さな駅だけど。 最近は長距離通勤が当たり前になってるようで、 少し山を下った所にある町には東京へ通勤する人達向けの住宅が 建てられるようになってきた。でもさすがにうちみたいな ド田舎に来る人はまだいないみたい。
 遠距離通勤する人の子供は大抵地元の小学校に通うけど、 中学や高校となると親みたいに東京まで通う人がいるんだって。 朝五時半には列車に乗って通学時間二時間以上、大変だよねー。 でも毎日東京かー。それはそれで楽しくて、大変でも通えてしまえそう。 東京の中学の制服って可愛いらしいし。私も小学校卒業したら、 その可愛い制服を着て毎日東京まで通ってみたいな…。 でも私には関係ない話だよね。

 卒業式前日の夕方。
「ねえ、富沢さんちの優くん、 中学は白雪学園ってとこに行くらしいけど、知ってる?」と母が尋ねた。
「へ?そんなの聞いてないよ。だいたい、白雪って女子校じゃなかったっけ?」
「あら、じゃあ別の学校かしら。でも優くんならセーラー服でも似合うかもね」
「何いってんの…」
「とにかく東京の中学校に通うだって。がんばるねー」
「へー」
 うちの小学校から私立中に進学する人なんて、何年か前に一度聞いたことがあるだけ。 引っ越し以外で誰かがよその中学に進学なんて考えもしなかった。 確かに優くんは頭いいし、お行儀いい子って感じだし、言われてみれば、 そうかって感じ。白雪は冗談にしても、東京に通うんだ。どこだろう。 なんだかうらやましいな。
 卒業式の日、結局そういう話は聞かなかった。本人か、 優くんと仲良しの男子に聞けば分かったんだろうけど、 男子にそういう事を話しかける勇気もなかったし、 そういう話題をわざわざ持ち出す時間もなかったし。

 地元の中学の入学式の日。優くんは確かにいなかった。やっぱりどこかに行ったんだ。 行ったと言っても住んでるとこはすぐそばなんだけど。
「優くんどこかよその中学行ったんだね…」
「えー、知らなかったの?…そういえばあの日、あんたは風邪で休んでたわね」
「…えーっ、あの日にそういう話題出たの?その後何も言ってなかったじゃない」
「そお?あなたが聞いてなかっただけじゃない? 東京のどこそこの制服は可愛いって話をしてたじゃない」
「それと優くんの中学とどういう関係があるのよ」
「だから優くんが通うとこの制服が可愛いって話してたのよ」
「…白雪学園なの?」
「知ってるじゃない」

 うちに帰ってごろごろしながら雑誌を眺めてたら、 白雪の制服の写真が載っていた。かわいいなー、私も着てみたいなー。 この制服を、あの優くんが着てるの?近所だから良く顔を合わせてた、 あの優くんが?絶対似合わないよ、男の子だよ …でも三月頃は髪がちょっと長いというかふさふさになって、 ちょっとかわいかったかな…とにかく、似合うがどうか一回見てみたいな。

 でも、優くんはやっぱり朝早くて夜遅いのか、全然会わなかった。 日曜日も、もともと外に出歩く人じゃなかったから、見かけなかった。 朝早くか夜遅く駅を見れば見られると思うのだけれど、 私も中学に入って部活なんて始めたから、とても出来なかった。

 部活は朝練があるので、五時半は無理にしても六時半過ぎに起きて 七時半には学校に登校。ちょっと距離があるので自転車通学。 自転車通学の場合はジャージを着るとこになっている。 そのまま朝練も出来て便利。うちの中学はずぼらなのか、 上着はともかく、下がジャージのままで授業を受けても、 ちょっと注意されるだけ。体育系クラブに入っている二三年生は、 登校から下校までずっとジャージ、という人も少なくない。 私も段々そうなってきた。

 五月も終わりに近づいて、 衣替え前なのに半袖の体操服で通学するようになっていた。 体操服だから衣替えは関係ないか。既に授業中はジャージで過ごすようになり、 最近では全校集会でもない限りスカートは重いから持っていかなくなっていた。

 五月二十九日。目が覚めると外が明るいので驚いて飛び起きた。 時計を見ると午前五時二十五分。こんな時間でもう明るいんだ。 カーテンを開けて外を見る。窓から駅のホームが見える …あの制服は、もしかして優くん?雑誌で見たのと同じかわいい制服を着て、 ひとりぼっちのホームでベンチに座って本を読んでいる。 髪の毛結構伸びたみたい……かわいいなー。あの制服を私も着たいな。 朝の柔らかな日差しと雀の鳴き声の中、 小さな駅のホームにかわいい制服を着てお行儀良く座っている。 遠くから列車の来る音がする。本を鞄にしまって、 足を揃えてすくっと立ち上がり、軽く数歩進んで、背筋をピンと伸ばし、 両手でカバンを持って立っている。列車がホームに止まり、 その中に乗り込んでいく。列車はゆっくりと東京の方へ走っていく。 窓ガラスの向こう、まるでガラスケースの中の箱庭での出来事みたい……いいな、 私もあんな風になりたい。
 そのまま眠ることが出来ずに、 目覚ましがなるまで優くんが着ていた制服を雑誌でぼーっと眺める。 いいなー、列車の中はどんななのかな、学校はどんなとこなのかな。 東京といっても広いんだよね、どの辺なのかな。渋谷かな、 郊外の方かな。あの制服で一日過ごすんだよね。いいなー。
 目覚ましが鳴ったので起きだして、御飯を食べる。 「さっき早く目が覚めて、外見たら優くんらしい人がいた。 やっぱりセーラー服着てたんだー」
「あら、今日初めて見たのかい?母さんは毎日見てるよ。 やっぱり優ちゃんだよね、毎朝笑顔で挨拶していくんだよ、 あんたと大違いだよ」
「かわいかったなー」
「うんうん」
「…いいなー」
「何が?」
「あんなかわいい制服着て、東京の学校行って…」
「そりゃあんたと出来が違うんだから」
「…でも優くん、男の子なのに…」
「ジャージで帰ってきて、そのまま御飯食べてそのまま寝ちゃって、 日曜日もごろごろしてる子に、そんな事言う権利はないわね」
「…」
 御飯食べ終わってジャージに着替え…かわいくない。 でも自転車で行くんだし、学校でまた着替えるの面倒だし…。 朝練終わった後に着替えよう。
 でもやっぱり着替えるの忘れて、午前中はジャージのまま。 今、優くんは東京であの制服着て授業受けてるんだよね。 今朝見た優くんを思い出す。なんだか優くんが隣に座ってるような気持ちになった。 世界中の人に見比べられてるような気持ちになった。 優くんはあんなにかわいいのに、なんで私こんな恰好してるんだろう。 私もあんなふうになりたいのに。優くんがなれたのに。私にはなれないのかな。
 掃除が終わった時になんとか着替えて、一応ちゃんとした制服姿になった。 この恰好で授業受けるの、何日ぶりかな。 でもそんなにかわいい制服でもないんだけどな。それでも、 優くんほどではないけど、女子中学生の恰好だよ。

 夏休みまであと数日。
「ねえねえ、これ見た?」
 彼女は雑誌を持っていた。
「それはまだ見てないけど」
「じゃあ…じゃーん」
「…優くん」
 『街の定点観測』という写真記事で、優くんらしき人が、 女の子三人と一緒に私服で写っている。他の子と同じくらいにかわいく写っている。
「いいなー優くん、こういう雑誌に載れて」
「あー私も載りたいなー」
「だめだめ、あんたなんか写してもらえないんだから」
「そういえば優くんの制服姿、見た事ないね。もうすぐ夏休みなのに」
「母さんは朝早いからたまに見るんだって」
「…私、一回見た」
「ねえねえどうだった?」
 あの時の優くんを鮮明に思い出した。
「…かわいかった」

 翌日、その雑誌を買った。夜に自分の部屋でごろごろしながら眺めた。 かわいいなぁ。日曜日会わないと思ったら、 日曜日も東京行って友達とこんなことしてたんだ。いいなー、 街を歩いてたら、雑誌の人に声かけられて、撮ってもらったんだよね、 こんな有名な雑誌に。東京だとこういう機会多いのかな。 優くん男の子なのに、いいなー。私も今から一生懸命勉強して、 高校で東京のすごいとこ合格すればいいかな?出来るかなー。 とにかく、こんなふうにかわいくなりたいな。

 夏休みに入って一週間目。夏休み中だらだら過ごさないために、 とかいう口実で、朝早く家の前の掃除をする事に。朝と言っても暑い。 Tシャツと短パン着てホウキ持って、疲れて玄関先に腰掛けてたら、 見たような顔がやってきた。
「あらお久し振り、元気?朝からお掃除、大変ね」
 …優くんだ。明るい色のパンツにノースリーブ、かわいい帽子とカバン、 背は高いのに小さく見える体、きれいな髪、お行儀の良さそうな振る舞いと話し方、 きれいだけど力強そうな姿勢、優しそうな笑顔と目、前から変わってない …そう、私には絶対真似できない事だったんだ。

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