野球部
今日は高校の入学式。俺もとうとう高校生だ。
この下田学園高校、そんなに頭いい奴の集まる学校じゃない。
でもスポーツの方は割と強いんだ。俺が入ろうと思っている野球部は、
毎年少なくとも準決勝まで進み、
何年かに1度くらいは甲子園に出るくらいの学校で、卒業生にプロもいるんだ。
この「割と強い」ってのがミソ。常連校みたいに凄いやつが何十人も入部して、
レギュラー争いが熾烈なところじゃない。俺でも3年にはレギュラーになれて、
ローカル放送で中継される試合には出れるだろう、って魂胆。
もちろん運が良ければ俺が活躍して甲子園へ…って訳だ。
オリエンテーション、クラブ紹介などの行事が続く。
でも俺はもう野球部って決めてるんだ。
その日の放課後から入部の受付が始まるので、
授業が終わると走って野球部室に行った。
「すいませーん、入部したいですけど」
入った部室には、なんと女子生徒が座ってた。この高校、男子高のはずなんだけど
…よその高校の人だろうな、この制服、どこの高校だったっけ?
とにかく女子マネージャーがいるなんて嬉しい誤算。
「今日は受付だけよ、ここに必要事項を書いてちょうだい。
身長、体重は今日のところはだいたいでいいわ。
今日のクラブ紹介で言ってたと思うけど、明日は体操服に着替えて、
放課後ここに来てね」
名前、学年、組、身長、体重、小中学校の時の経験、希望ボジション、
といった事を記入して、今日のところはおしまい。
次の日の放課後、部室には1年生が15人集まった。
中学の時の同級生の藤川もいた。
「木村、お前もきたか」
「当たり前だ」
「しかし、女子マネージャーが6人もいるなんてびっくりだ」
「全部で40人くらいいるだろうから、このくらい必要なのかな?」
学年組章からしてみんな3年と2年らしい。
「これに1年生が加わるんだろ?…まっ、多い方がいいや。」
「でもどこの学校かな?毎日わざわざやって来るのかな?」
「見た事ある制服なんだけど、どこだったかな…まっ、
うちは運が良ければ甲子園にいける高校だからな」
女子マネージャーの一人が部屋を見渡した。
「15人か…ちょっと少ないわね。このうち何人続けてくれるのかしら。
三年生が辞めた後、練習試合が出来ないなんてことにならなきゃいいけど」
「ところで、監督はどちらにおられるんでしょ?」
「監督はお歳で、あんまり来ないのよ」
…大丈夫かなぁ。でも去年も決勝まで進んでたんだし、
監督なしでもやっていけるチームなのかな?
さっそくグラウンドで練習。軽くランニングの後、キャッチボール、
遠投、バッティングなど。練習というよりは、
基本動作で1年生の能力確認をするつもりらしい。
二年、三年が玉拾いなどをしつつ、こちらを見ている。
俺の才能を見せつけてやるとするか。横の方では女子マネージャーが、
昨日書いた用紙を持ち、こちらを見て小声で話しながら何か記入している。
次の日部室に行くと、同じクラスの佐藤がいた。
「お前も入部するの?」
とても野球なんかやれそうにない、貧弱な体つきの奴なんだが…。
「入部というかなんというか、マネージャーやらないかって誘われたんだ」
「マネージャーって、女子マネージャーがあんなにいるのに」
「みんなよその学校だろ?ベンチ入り出来ない事もあるらしいから、
そういう時のためらしいんだけど」
今日からは普通の練習。1年生はまず走らされる。これはしょうがないな。
走りながらグラウンドで練習している2年3年を見てると、
時々女子マネージャーが寄ってきて何か話している。
レギュラーになるとあんな風にマネージャーから寄ってくるのか。
こりゃがんばらないと。
走り終わったあと、女子マネージャーから練習のスケジュールを聞き、実行。
土曜日、さっそく練習試合をやることになった。
しかも1年、2年は全員出れるらしい。ついに活躍の場がやってきたぞ。
佐藤と1年生の女子を含むマネージャーも両側についた。
佐藤は先輩マネージャーにスコア記入を習っているらしい。
他の1年生と一緒に、そばに座り話を聞きながらうなずいている。
記入する時はまさに手取りで教えてもらっている。
くそっ、野球もやらないで女子マネとべったり一緒にいられるのか、盲点だったな。
でもあの先輩、佐藤に似てるな。そういえばあの人も佐藤だったな、姉弟なのかな?
だから誘われたのか。佐藤の奴、ずいぶんこわばった顔してるけど、
スコアラーってそんなに難しいかな?
1年、2年で半分ずつの混合チームに分けて、プレイボール。
1年生が均等に出れるように、それに投手希望者も少し外野に回すなど、
時々選手交代の指示を女子マネージャーが出していた。
8回表、とうとう俺様の登板だ。三者連続三振だ
……ツーランを浴びてしまった。
月曜日、教室に入ると佐藤がいたので声をかけた。
「おい、2年のマネージャーの佐藤さんって、もしかしたらお前の姉さんか?
すんげーそっくりだったし」
「え?…ん……う……う…ん、ま…あ…」
「やっぱりそうか。そんなこと恥ずかしがる必要ねーじゃねぇか。
クラブまで姉ちゃんと一緒じゃ、やりにくいだろうけどな。
じゃあどこの高校かも知ってるんだな?」
「う……う…ん」
「どこだよ、言えよ」
「……白嶺」
「ほー、メモしとこ」
白嶺っと……ん?白嶺って、
確か東大合格者も出すようなすんごい女子高だったような気がするけど、
気のせいかな?確かに練習試合の時の選手交代の手際良さを見てたら、
頭良さそうな感じはしたけど…
練習が終わって、真っ暗になるちょっと前くらい。
「練習きつくて疲れたよー。
監督はあんなきついメニューを女子マネージャーに読ませるだけかよ、
まったくよぉ」
「その女子マネージャー、佐藤が言うには白嶺だってさ」
「へっ?なんでまたそんな秀才女子高がうちらみたいなとこのマネージャーを…。
それに制服が違うと思うんだが。」
「そうか?でもマネージャーの佐藤さんが姉さんだって言ってたし…
今から確認しに行けるかな?」
「こんな遅いとみんな帰ってると思うんだが…
バスでそんなに遠くない所だから寄ってみよう」
バスに乗って「白嶺学園前」で降りる。
「三年生が補習で残ってたみたいだ…ほら違うだろ?」
「違うと言ってもなんか雰囲気似た制服だなぁ…」
「同じ冬服だろう?学年で違うのか…でも片田さんや富岡さんも三年だし。
そういや三年生でマネージャーやってて大丈夫なのかな。
こんな補習があるのに。」
そこに、隣の建物から見慣れた制服が現れた。小学生みたいに小さな子だ。
その建物を見ると…
「…白嶺学園女子中学校…」
「…まあ、高校生は忙しいんだろう。
女子マネージャーの仕事なら中学生にも出来るんだろう。
今までの所何も困ってないし。でもみんな年下だったんだ。」
「それはそうだが…」
なんか違うような気がする…
翌日、トイレで佐藤と会ったので、聞いてみた。
「マネージャーの佐藤って、お前の妹だったんだ」
「…知ってるなら聞くなよ」
むっとした顔になった。
「妹と一緒じゃやりにくいよな…そういや、練習試合の時…」
「んなこといちいち言うなよ」
「去年からやってたんなら、確かに先輩だし…」
「言わされる身にもなってみろ」
「はぁ?言わされるのか?先輩って」
「他の女子マネージャーが周りにいるんだぜ」
確かにこの貧弱な佐藤が、女子中学生とはいえ十人に囲まれれば…
「知ってて入ったのか?」
「知ってた訳ないだろ」
「やっぱ辞めるつもりか?」
「今更辞められるかよ、和美とは家で毎日顔合わせるんだ。
辞めても辞めなくても一緒だよ」
「そりゃまあ…」
放課後の練習は、今日も女子マネージャーがメニューを伝える。
確かによく見ると、特に1年なんてガキっぽい。でも2年3年は、
まるで高校生みたいな話し方や態度。だから気がつかなかったのか。
なんかすごく生意気に見えてきた。
「では、まず外周3周」
「1年生、最近走り方がだらけてるわよ。
2、3年生みたいに気合入れて走りなさいよ」
「ほらほら藤川くん、もっとしゃんと走りなさいっ」
走りながら藤川が
「あの中坊、なんちゅう口の聞き方してやがる」
「まったくだ」
でも2、3年生は黙々と走っている。
「おい、無駄口たたかんで走ろ」
とすごんでいく先輩もいる。
走りおわって靴のひもを結び直す時にグラウンドの横を見ると、
1年生マネージャー達が2年生の話を聞いている。
中1の女子に混じって佐藤もいる。話が終わると、
佐藤と1年生達は礼をしていた。佐藤の妹が話を終え、佐藤達が礼をした後、
佐藤は妹に一人だけ呼び止められてた。何か強く注意をされてるようだ。
何度も「はい」とうなずき、話が終わると深く礼をして、
くやしそうな顔をしながらグラウンドの方に歩いた。
キャッチポールを始めると、女子マネージャーがやってきて、
こちらを見ながら何かメモをしている。
先輩マネージャーに小声で言われた1年生マネージャーが、藤川に注意した。
「藤川くん、いつもそんな投げ方してるの?
うちのきつい練習でそんな投げ方してたら、肩傷めるわよ」
藤川はむっとした顔をしながら練習を続けた。
中1の女子からこんな事言われればむっとするだろう
…ただ、確かに藤川は中3の時に肩を傷めていた。
練習が一通り終わった後、
女子マネージャーの高島さん、岩根さん、川原さんが俺に声をかけてきた。
「木村くん、こっちおいで」
まるで年下に話すような喋り方。
昨日までだったら気にもならなかっただろうけど、なんか腹が立つな。
「木村くん、確か投手希望だったわね」
「もちろん」
「内野手なんて興味ない?」
「えー、小学校の時から投手だったから…」
なんで中学生のマネージャーがこんな事聞くんだろう…
「あなたの動き見てると、内野手が合ってそうな気がしたんだけど。
今まで言われた事ない?」
「中学の時に監督に言われたことが…
でもその時には俺以上の投手がいなかったし…」
「…でもここにはいくらでもいるわ」
こいつらにこんな事まで言われるなんて…でも確かに、
練習試合見ててそれは感じた…
「無理にとは言わないけど、あなたも早くレギュラーになりたいだろうし、
出来れば甲子園行きたいでしょ?一晩考えてみてね」
そういうと、三人は校舎に入っていった。
部室に入ると、3年の池田先輩が着替えていた。
「おいお前、高島さん達に声掛けられてたな、いいなぁ」
「ええ、でも野手転向しないかって話ですよ。
なんで女子マネージャー、しかも中学生からあんな事いわれなきゃなんないんです。
監督ならまだ分かるけど…って、監督の顔もまだ見てないけど」
「お前、中学生ってのは知ってるのに、肝心の事はまだ気付いてないのか?
うちの野球部の監督は彼女達なんだぜ」
「はぁ?」
「彼女達は白嶺学園中学校野球監督部の部員なんだよ。
練習のスケジュール、誰が立ててると思ってたんだ?」
「監督の指示を読み上げてるだけだと…」
「表向きの監督なんて、
草野球経験がちょっとだけある近所のよぼよぼじいさんだよ。
それに、練習試合の選手交代は誰が決めてたと思ってたんだ?」
「それは…」
「彼女達は土日に学校に来て、
一日中プロや高校野球の、練習風景のビデオまで見て研究してるそうだ。
甘くみない方がいいな。で、お前は野手転向を勧められたんだな?
受けた方がいいぜ。望みのない奴にそんな事言わないって、あの人達は」
「でも…」
「三年の永野、知ってるな」
「ええ、1年から二番手三番手として対外試合で登板してたそうで…」
「彼は入部してすぐの頃、もう高校生になって来てないけど
酒井さんって人から投手転向を薦められて、今じゃエースだ。
この高校から久し振りにプロ入りしそうだし。
お前もそうなりたくはないのか?」
「…そりゃまあ、一年からレギュラー入りが出来れば…ましてプロ…」
「なら受けろ」
「え…ええ…」
次の日の練習で、走りながらグラウンドで練習している永野先輩を見てたら、
マネージャーの高島が時々駆け寄っていた。いちゃついてる訳じゃない。
永野先輩が細かく指示を受けてるように見えた。話が終わると、
永野先輩は高島さんに脱帽で頭を下げていた。高島さんって中三なんじゃ…
練習が終わった後、高島さんと岩根さんと川原さんが俺を呼んだ。
「どう?考えてくれた?」
「え…ええ」
「内野手をやる気になってくれた?」
「え…ええ…やろうと…」
「決断してくれてありがとう、君ならすぐにレギュラーになれるよ」
くそっ、なんで女子中学生にあんな生意気な口の聞き方された上に、
コンバートまでさせられるんだ。腹を立てながら部室に戻ると、
永野先輩がいた。
「おい、お前さっき高島さん達と話てただろ」
「はい…」
「お前態度が悪いぞ、あの人達はお前の先輩でコーチだぞ」
「そんな、女子中学生でしょう…」
「関係あるか、俺は酒井さんと高島さんのお陰でここまでこれたんだ。
その高島さんにあんな態度取るとは、俺がゆるさんぞ。」
「ちょっと…」
「岩根さんと川原さんがお前の指導をしてくれる事になると思うが、
特に1年生の川原さんは三年間お前を育ててくれるんだぞ。
その人にあんな態度では、お前の将来の不安だな」
「そんな…」
「あの人達には、俺たち3年生に対する以上の礼儀を持って接するんだ。
今日みたいな態度なら俺が許さんからな。分かったか」
「はぁ…」
次の日から、練習中に岩根さんと川原さんが時々声をかけるようになった。
でも俺は、永野先輩から殴られるのを承知で、態度を改めなかった。
川原さんなんて自分より3つも年下、1カ月前まで小学生だったのだ。
それでも、3年の入れ知恵があるとはいえ、彼女達の指摘は的確だった。
心では嫌だ嫌だと思いつつ、体が彼女たちの言うことを聞いていた。そのうち、
自然と彼女達に頭を下げるようになっていた。
腹の中ではむかつきながら、いつの間にか帽子を脱ぐようになっていた。
6月中旬、晴れたらやるという約束の、県内最強の寺西工業との練習試合。
運良く晴れたので、試合開始決定。初めて表向きの監督というのを見た。
「それでは今日の先発メンバー、ピッチャー永野」
佐藤の妹が読み上げていく。
「ショート木村」
…おれ?練習試合とはいえ藤西工業との試合、どこで聞いたのか、
新聞記者も見に来ている。そんな試合に俺が…。
先輩達を見回してみると、落胆している人もいる。だけど何も言わない。
どちらかというと、しょうがないな、って顔だ。
表向きの監督というのは、まったく野球を知らない人ではないらしい。
それでも、三年の女子マネージャー二人が隣に座って、時々何か話しかけている。
それで考え事をしながら、選手交代などをしている。
女子マネージャーから選手への指示はほとんどない。
確かに、他校の女子マネージャーがベンチに入れない公式戦だったら、
細かい指示なんてできないもんな。
試合は、延長11回までやって、4−3で負けた。
「木村くん、なかなか動きは良かったわよ。あとは打撃ね。
あなたに限ったことじゃないけど、もう1点取れてれば勝てたのよ。
あなたなら練習すれば伸びるはずよ。明日から特訓ね。」
試合後、川原さんが言った。
「…はい…お願いします」思わずこう言った。自分でも驚いた。
中1のマネージャーの中では一番小さく幼い顔で、
制服を着てなかったら小学生に思えるような川原さんに、
身を固くしてこんな言葉を言った自分が腹立たしく思えた。
練習試合からの帰り道、藤川が
「お前、あのガキどもによく頭下げられるな」
「……しょうがねぇよ、永野先輩に殴られるし」
「そりゃ、お前はレギュラーになれるから頭の下げ甲斐もあるだろうけどよ」
「おめぇ、まるで俺がこび売ってるから先発メンバー入れたみたいに…」
「そりゃお前がうまいのは認めるよ、先輩達だって認めてるよ。でも…」
…でも俺がうまくなったのは、野手転向の勧めを受けて、
彼女達の助言全てを受け入れてるから…。
「俺、やめよっかな…」
数日後の放課後の練習の後、トイレでふんばってから部室に戻ろうとすると、
部室近くの教室で女子マネージャー達が何やら話し合っていた。
佐藤もいたが、妹の隣で固くなって座って話を聞いてるだけだった。
「木村くんの打撃特訓は順調に進んでるようね」
「木村くんが打てるようになると、甲子園の可能性も高くなるからね」
「次は藤川くんね」
「彼、なんか辞めかねない雰囲気なんですけど…」
1年の大島さんが申し訳なさそうな声で言っている。
「それは困るわ。藤川くんは今すぐレギュラーという訳じゃないけど、
来年再来年にレギュラーになってもらわないと。
素質がない子が辞めると言い出すのと、訳が違うわ」
「今年は永野くんと木村くんという逸材が二人もいるから随分いいけど、
永野くんは今年の夏まで。来年再来年そのくらいの生徒が入ってくるとは限らないわ。
プロみたいによそからトレードする訳にはいかないのよ。
あなた達が育てないと。」
「はい…」
「でも私達が何か言っても効果があるか…」
「そうねぇ、そういう時は…」
高島さんが急に立ち上がり、廊下で盗み聞きしていた俺の所にやってきた。
「今の話聞いてたんでしょ?」
「はぁ…」
「藤川くんは中学の時からの同級生なんでしょ?3年になったら、
一緒に甲子園でプレーしたいなぁー、なんて思わない?」
「もちろん、出来ることなら…」
「もちろん再来年甲子園に行けるとは限らないわ、今年より可能性が低いと思う。
あなただけなら今年甲子園のグラウンドに立てるかもしれない。
でもやっぱり親友と一緒にプレーしたいと思うでしょ?」
「そりゃもう…」
「そのためには彼にうまくなってもらわないと困るわよねぇ」
「そうですねぇ…」
「でも辞めれたら、夢も何もないわよねぇ」
「はぁ…」
「何したらいいか分かる?」
「そりゃまあ…」
「じゃ、よろしくね」
高島さんは席に戻って、会議を再開した。
翌朝、登校時に校門で藤川と会った。
「おはよ。お前、退部届ってどう書けばいいか、知ってる?知る訳ないか…」
「お前、本当に辞めるつもりか…」
「もうやだよ、あんなとこ」
嫌だという理由も気持ちも分かってるから、言いたくないんだが、やっぱり…
「頼む、辞めないでくれ」
「…そんな事言われたって」
「あの人達は、お前が来年再来年、レギュラーになると期待してるんだ」
「そりゃあ人数と面子から考えて、来年再来年すんげー1年生が入ってこなければ、
そういう事になると思うが」
「それまでにお前の腕が上がれば、甲子園に一緒に行けるじゃないか」
「…お前ひとりで行けよ」
「一緒に行こうよ」
「…そりゃ、お前と一緒だったら行けそうな気はするんだよ、でも…」
「お前だってうまくなりたいんだろ?」
「…うん」
「だったら、ちょっとは我慢しろよ」
「…考えとく」
結局、藤川は辞めなかった。脱帽で礼はしようとしなかったが、
素直に指導を受けるようになった。
夏の高校野球の県大会のシーズンが近づいた。新聞には、
今年は寺西工業と下田学園が最有力だと書いてある。
下田学園の切り札として「ピッチャー永野・ショート木村」とも書いてある。
最近はプロ野球関係者らしき人達が、フェンス越しにこちらを見ていることが
時々ある。3年の永野先輩が目当てだろうが、時々俺の方も見ているようだ。
…もし俺が、岩根さん川原さんの野手転向の勧めを受けなかったら、
どの記事も、どの出来事もなかっただろう。
俺をここまで指導して頂いた事を、心から感謝せずにはいられない。
練習が終わる時、彼女達が終了を告げると、俺は彼女達の所に走り、
深くお辞儀をするようになった。永野先輩の気持ちがよく分かる。
だが、藤川は相変わらず礼をしなかった。そんな彼を見ていると、
俺が女子中学生による指導に今やすっかり尊敬と感謝の念を抱いているという事実を
思い出し、なんだかいたたまれにくなる。
永野先輩が俺や藤川を殴ったのはそういう理由からなんだろうか?
逆に佐藤は、以前の固い表情とはうって変わって、
嬉しそうに雑用をこなしている。2年3年だけでなく1年からも指示を受け、
気持ちのいい返事で仕事をこなしている。時々妹のもとにかけより、
指示に嬉しそうにうなずき、お辞儀をして走り去っていく姿は、
とても兄妹とは思えない。藤川から見ると、
俺も佐藤のように見えるんだろうか?
大会直前になってきて、
マネージャーのうち三年生はグラウンドにあまり来なくなった。
表向きの監督や中継に引っ張りだされるOBに必要な情報を教えるためらしい。
そんな事までやってるのか。
県大会は順調に勝ち進んだ。永野先輩の投球が打ち取り、
たまに当たりのいい球があれば俺が確実に止める。
俺は打撃面でも存分に活躍させてもらった。
準決勝も、5−1で勝った。
しかし、継投の回で代打に出た池田先輩が滑り込みで足首を捻挫してしまった。
「困ったわね、先発メンバーではないとは言っても…」
「決勝は明日よ、誰かをベンチ入りさせないと」
「そうねぇ……藤川くん、いる?」
「え?おれ?」
「出場メンバーは今夜も旅館に泊まるけど、一緒に泊まってくれる?」
「…はいっ、ありがとうございますっ」
藤川は深々と礼をした。
夜、球場近くの旅館。
「では、明日は大切な決勝戦です…はやく寝なさい。
オナニーなんかしてる体力があるなら、明日に取っておきなさい」
「えーなんでそんなことまで知ってるんだー」
「そんなこと、じゃなーい。だいたい、
昨日脱いだあんた達の下着は誰が洗ったと思ってるの?
あんた達の体の事は私達が一番よく把握してるんだから。」
彼女達は俺のそんな事まで知ってたのか
…だから俺をここまで指導する事も出来たんだろうな。当然か。
「でも1回もしちゃいかんなんて殺生な」
「体がもたん」
「んー、じゃあ1回だけ」
「あまやかしちゃダメッ」
「しょうがないわね、じゃあ回数を事前に自己申告すること」
じゃ、俺はとりあえず1回という事で…
「それじゃ、さっさと寝るのよ」
「はいっ」
消灯になった。といってもそんなすぐに眠れる訳がない。なんせ明日は決勝戦だ。
隣に寝ている佐藤が話しかけてきた。
「藤川もちゃんとお辞儀するようになったんだね」
「体が勝手に動いたんだ。それに木村ほどじゃねぇ」
「木村は永野先輩と一緒に率先してやってる感じだよね」
「そりゃあもう、
レギュラーで活躍出来て決勝までこれたのは川原さんのお陰だから」
「川原さんって、佐藤先輩の小学生の時から同級生の妹なんだよね。
だから良く知ってたんだ。
その人から同級生の木村が指導を受けて頭を下げてるの見てると…」
「それは佐藤、お前の方だって」
「佐藤先輩は川原さんより一つ上だもん」
「こんな時まで佐藤先輩って…まさか家でも言わされてるんじゃないか?」
「…うん、最近は親にも知られたから、親の前でも…」
「それはいくらなんでも恥ずかしくないのか?」
「4月5月はそりゃもう死ぬほど恥ずかしかった。
だけど、こうやって毎日一緒にマネージャーの仕事をやってると、
こんなに立派な方だったのかと思い知らされたんだよね。
みんなが先輩たちの指導でどんどんうまくなっていくのが分かるんだもん。
それに、白嶺中にも土日によく行ったけど」
「あっ、お前だけ入れてもらえたのか」
「いいだろー。土日の勉強会に参加させてもらったけど、
あんなのついていけないよ。一緒に始めた川原さん達とも差がついちゃった。
でも、僕は白嶺の生徒じゃなくて下田の生徒だもん、仕方ないよ。
みんなのお手伝いをさせて頂けるだけで十分だよ。
4月頃は、下田なんかに入らなければ良かったと思ってたけど、
今は下田の野球部で先輩の活躍ぶりを見られて良かったと思ってる。
今まで先輩の立派さを知らずに兄として威張りちらして、
先輩から軽蔑されていたと思うと、そっちこそ我慢出来ないよ。
もっと早く気付けば良かった。
最近は、親の前で兄の振りしてなきゃなんないのがすごくつらかったんだ。
尊敬する先輩を呼び捨てにしなきゃなんないんだよ?
だから先輩にお願いしたんだ、どうにかしてって」
「じゃあ、自分から…」
「自分から言えるくらいならさっさとそうしたよ。
先輩にまず事情を説明してもらって、
親がそそのかしてくれるようにしてもらったんだ。
親の前で初めて言う瞬間は、そりゃ恥ずかしかったけど、
言ってしまえば学校にいる時と同じだからね。ようやく楽になったって感じ。
あとね、二段ベッドも上下交代してもらったんだ。
ちゃんと今までのことをお詫びしてね。
その晩はとっても気持ちよく眠れたんだよ。
もう妹と兄だったことなんて忘れて、先輩と後輩の関係だけになれたんだ。
今では家でも可愛がってもらってるんだよ」
「そこまで…」
「だから、藤川みたいに先輩達に対して失礼な奴は、
殴ってやりたいくらいなんだよ」
「うんうん、それは分かる」
「木村まで…」
「まあ、明日運良く決勝のグラウンドに立てたら分かるだろうさ」
寺西工業との決勝戦。9回裏、同点。
永野先輩がフォアボールで塁に出てしまう。
「延長を考えて永野に投げさせてきたが、ここで点を取らん訳にもいくまい」
よぼよぼ監督は代走・藤川を指名した。
「藤川、ちょっとこっちきて」
佐藤が藤川を呼ぶ。
「なんだ?」
「大島さんからの伝言。『塁に出たら3塁くらい狙いなさい』」
「うっ…」
複雑な表情をしながら、1塁に向かった。そして指示通り、3盗。
「敬遠なんかしたら俺まで回っちゃうなー」
などと心配してたら、戸田先輩がきっちり三遊間に落として、
サヨナラ勝ち。
試合後は、表彰式やらインタビューやらがあって、
なかなか女子マネージャーに会えなかった。
学校に戻って簡単な祝賀会があった後、
部室に行くと女子マネージャー達が待っていた。
「おめでとう、よくがんばったわね」
「みなさんのお陰っす」
永野先輩が涙を流しながら、高島さんにお礼を言っている。
藤川も大島さんにお礼を言っている。
「ありがとうございます、決勝の舞台で活躍する事ができました」
そこに、見かけない女性が二人入ってきた。
「あっ、酒井さんと足立さんも来られてたんですか、ありがとうございますっ」
「永野くん、がんばったわね。高島さん、よくここまで育てたわ、予想外よ。
さっきスポーツ紙買って読んだら、すごいことになってるわね」
「いえいえ、酒井先輩の目が良かったんですよ」
「君が木村くんか。このレベルが同時に二人もいるなんて、すごいよ。
誰が担当?」
「私と、この川原です」
「いい素材なんたから、3年までしっかり育てるんだよ。」
「はいっ」
高校3年間、岩根さんと川原さんに指導して頂ければ、
永野先輩のようになれる。この人達を心から尊敬して、全て任せよう、
全て従おう、そう思った。
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