≪ 連絡船.etc., ≫



シンボルマ−ク

シンボルマ−クは昭和52年に70周年を記念して作られ、
「いるか」と「救命ブイ」をモチ−フにしました。
ブイの中は船の名前を表したものが描かれています。
(殆どの船に付けられた)



順調に運航されていた連絡船も太平洋戦争ではアメリカ軍の 標的となり瞬時にして壊滅状態となった。

終戦後、連絡船の再建が急がれ昭和22年11月に「洞爺丸」が完成。
(この洞爺丸は国鉄が誇る最優秀船でした)
洞爺丸は昭和29年8月に両陛下が北海道を訪れた際の お召し船でした。
しかし、その年の9月26日には台風15号のため沈没。
1,155名もの命が失われたのです。
海難事故としてはイギリスの豪華客船「タイタニック号」に次ぐ 大事故でした。

海難審判ではなぜ出航したのか?
責任は国鉄なのか?気象台なのか?を 2年間審判され、最終的には国鉄の責任となったのです。

碇は船の生命線。(写真が碇)
洞爺丸事故のときこの碇が海底をかまず、船が転覆、沈没したのです。




そもそも連絡船は青森から北海道へ向かう 移民船でした。

ですから北海道には青森出身者が多いのです。 (私の祖父と祖母達三人も青森から北海道へ渡りました)

明治6年(1873年)1月、北海道開拓使によって 開設された連絡船は、209トンの小さな蒸気船で 10日に1日の運航でした。

明治43年3月に国鉄が管理するようになってからは、 人と物が多量に流れて人口も増えました。




津軽海峡をはさんで北海道松前地方と青森は古来深い係わりをもっていたのです。
松前地方は明治のはじめには、青森県だったのです)
以来、その交流は殆ど連絡船によってなされてきました。(尤も船しかなかったのですから) 青森、函館間は113キロ。
(蝦夷が北海道と変わったのは明治2年、そして函館は箱舘でした。)

80年間に建造されたのは56隻。
冒頭(表紙)の比羅夫丸はスコットランドで建造のタ−ビン船。
(沈没した洞爺丸までは全てタ−ビン船)
その頃の所用時間は4時間。ただしちゃんとした岸壁が無かったので沖に泊まって、はしけで本船と 岸を行き来していたのです。(このはしけの乗り降りには所用時間以外に随分掛かったようです) 最終的には3時間50分。7隻の貨客船と6隻の貨物船で運航されていました。

現在日本に残っているのは3隻。
津軽丸と松前丸は北朝鮮へ売却。
他は解らない。

函館の摩周丸内の展示は戦災、洞爺丸等の大きな事故を実に詳しく写真と文で説明されていて どんなに凄かったか良く解りました。

海によって分かれた国土を一つに繋いできた連絡船も、トンネルが出来て海峡線開通のその日に 80年の幕が下ろされたのです。



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