洋上博物館となった八甲田丸。
青函航路80年の歴史や船の構造等の展示は本物で迫っています。
八甲田は、本州最北の名峰で晴れた日にはデッキから、
青森の街並みの向こうに聳える八甲田を望むことが出来ました。
トン数 8,314トン | 定員 1,286名 |
積載車両 ワム48両 | 航送車 12台 |
製造所 三菱重工業神戸 | 就航年 S39年 |
(ワム・・・・屋根付き貨車)
これは機関室でディーゼルエンジンの一部分。
(見学出来ます)
8千トンの船を動かす原動力は12,800馬力
のディーゼルエンジンです。
一台1,600馬力が8台で轟音を響かせていた
機関室ですからとにかく凄いこと。
機関室は一番船底で、その上部は車両甲板。
船の安定性を考えて機関室は重心が低くなっています。
連絡船の最大の特徴は船内にレ−ルを敷き、貨車を
そのまま積み込み運航できるようにしたことです。
最後部は開き、陸とは可動橋で接続されました。
この写真では解りにくいでしょうが。
貨車の積みおろしは、接岸から出港まで1時間で
行わなければなりません。
このように大正時代に連絡船が車両渡船となってから、
貨物輸送の需要が増加、(連絡船の一番の利用は貨物)
日本経済にも影響を及ぼし国家財政を豊かにしました。
(可動橋・・・・・地上のレ−ルと船内のレ−ルを結ぶ
ためのもの。桟橋側に設けられ,関節構造となっていた。)
機関室の上が車両甲板で、船室の下になります。
写真はその中の一部分。(見学出来ます)
船内のレ−ルは出入り口は3線。
船の中で真ん中の線が二股になり4線。
船首では貨車と連結器で結ばれ、車体は何カ所も
金具で甲板に固定しました。
大正時代の生活用具を使って旅の様子を再現した
コ−ナ−です。(見学出来ます)
大正13年、車両渡船第一号翔鳳丸(3,461トン)は、
なかなか豪華だったようです。
(この頃琵琶湖、関門海峡で車両渡船は走っていた)
客室はイ、ロ、ハに分かれ立派な食堂車も有りました。
また、今では考えられないことですが牛、馬、豚なども
沢山輸送されていたのです。
戦前は、北海道に全国の半分も馬がいました。
♪♪上野発の夜行列車降りたときから・・・・・・・
名曲”津軽海峡冬景色”の歌碑です。(八甲田丸の前)
平成7年7月の除幕式には阿久悠、三木たかし,
石川さゆりが出席し、歌碑の前で式典を行いました。
この歌碑からは曲が流れるようになっています。
♪♪いつも群れ飛ぶ かもめさえ・・・・・・
この”涙の連絡船”を作詞した関沢新一は昭和40年代まで
走っていた蒸気船の長く尾をひく汽笛の響きに胸が
締め付けられる思いがしたので書いたそうです。