(この論文は、ことい もえさんのHP「ポケモン・しゃべりたがり」に掲載されていたものを、本人のご許可を得て転載しました)

コードと自我〜モンスターボール雑考

はじめに

 ある物語を考え、読み解こうとする時に、もっとも手っ取り早い手段の一つは、その物語の中に登場する「もの」について、色々と考察してみることである。「もの」と一口に言っても様々だが……登場人物の性格や、物語世界そのもののしくみ、社会構造、そして話の中に出てくるアイテムや固有の生物など、ある物語を「その物語らしく」作り上げているしくみすべて。それが、「この物語は何を語ろうとしているのか」を知る為の、最大の手がかりとなる。
 まあこれは、今更言うまでもない当たり前のことで……例えば「ポケモン」という物語が、何を語ろうとしているのかを知りたいのなら、私たちが最初にすべきことは、ポケモンの世界に出てくるあらゆるものについて考えることなのだ。それがどんなもので、何を意味しているのか。物語の中で、どんな役割を果たしているのか……そこから自ずと、ポケモンという物語のテーマや意味合いについて、拾い上げることができる筈である。
 もっとも「考える」やり方も、色々だ。大きく分けると、「設定型読み取り」と「文学的読み取り」の二種類の方法があると、私は思っている。「設定型」はその言葉の通り、物語中のあるものについて、具体的なしくみを想像したり、その物語の枠の中で、どういう役目を負っているのかを、徹底的に明らかにすることである。
 「文学的読み取り」は似ているようで違い、こちらは物語中のものを通して、作者が伝えたい「テーマ」や「感情」「意見」は何なのか、ということを想像するやり方である。
 やたらめったら「分析」することが流行した『新世紀エヴァンゲリオン』を例に取るなら……「使徒とは何か」という質問に対して、「人間と極限まで似た遺伝子パターンを持ち合わせた生物。人間とは別種の進化の可能性をたどったもの」という回答をすることが「設定型」。一方、「拒否しても必ず『侵略』して来る、拒んでも拒みきれない、だが互いに分かり合うことの出来ない『他者』の象徴であり、使徒とエヴァの戦いは、自我と他者の相克を意味する」と答えることが、「文学的読み取り」である。何となく、私の言わんとすることがおわかり頂けるだろうか。
 前置きが大変長くなって申し訳ないが……今回のテーマは、モンスターボールである。言わずと知れた、ポケモンを捕獲し格納しておく為の、ソフトボール大のあの容器のことである。ゲームのシステムの基本でもあり、あの世界の象徴的存在ともなっている、この「モンスターボール」について、「設定型」「文学的」両方の面から、私なりに考えて行きたいと思っている。けっこう空想的な要素も含んでいるので、あまり肩肘張らずに読んでいただきたい(……の割に、前置きが重いがー)。

設定型読み取りによる考察

 実は「モンスターボール」のしくみについては、現在まで全く解明はされていない。いったいどういう仕組みで動くのか。素材は何で出来ているのか。ボールの中にポケモンを「格納」しておくことができるのは、誰でもが知っているが、では中に入れられたポケモンは、いったいどんな状態になっているのか……すべては謎のままである。
 もちろん、こんなことはある意味、聞くだけ野暮な話である。「何だか訳はわかんないけど、ポケモンをゲットできるボールなんだよ。ゲットできるんだから、別にしくみとかは、どーでもいいじゃん!」と、サトシにも言われそうな気がする。謎は謎のまま放っておいてもらった方が楽しい。逆に公式設定とかで「あれはこれこれ、こういう仕組みです」と解明されてしまったら、かなりのファンはがっかりすることと思う。……なんか、アラも出て来そうだし(笑)
 だがまあ、いちファンとしては、やっぱり気になるのである。モンスターボール。何故ポケモンは、あの中にぽかりと収まってしまうのだろう?
 現在明らかになっている、モンスターボールの基本的な仕組みを、ちょっと整理してみよう。なお、ここで挙げるボールの設定は、ゲームで確定され、アニメの方で発展的に引き継がれた要素に準じる。

1.ポケモンを収納できる。
2.中に入ったポケモンは、入れられた時点での状態(ゲームでならステータス、アニメならその時の体調・怪我の状態など)が、そのまま保持される。
3.野生のポケモンは、トレーナーのポケモンに確保された時点から、そのトレーナーのポケモンとなる。
4.ボールそのものの大きさを、2段階に切り替えられる。
5.ボールに入れた状態のポケモンは、通信回線を使って「転送」できる。

 それから最後に、これははっきりはしていないが、ゲーム・アニメでの描写を見ると確実だと思われる事象で、
6.質量保存の法則が適用されない。400キロのカビゴンの入ったモンスターボールと、ガス状のゴースが入ったボールとで、特に重さが違うという様子がない。

 こうまとめると、何とも不思議なシステムである。特に2・3・5番は、非常に「常識的でない」話である。
 大概の人が漠然と抱いている、「ボールの中のポケモン」の状態というのはたぶん、ボールのサイズぐらいに小さくなったポケモンがこう、膝でも抱えて(「膝」の存在しないポケモンも多いが)丸まっている……そういう絵柄であろう。実際、アニメ#27「スリーパーとポケモンがえり!?」のラストには、ボールの中(とおぼしき)のコダックが、お得意の首傾げポーズをとっているカットが出てくる。
 だが……実際、何メートルもの巨体のポケモン・イワークも、ほんの数十センチにしかならないディグダも、揃って同じぐらいの大きさになるというのも、何となく妙な話に思えて仕方がない。しかもモンスターボールは、通常の「ソフトボール大」から更に縮小して、「ピンポン玉大」にまで縮まる。とすると、中のポケモンまで、そのたびに一緒に「延びたり縮んだり」してるのだろうか。
 それに、単に「小さくなった」だけでは、2番目の法則に不都合が生じる気がする。体格が(何らかの魔法のような力で)小さくなったとしても、怪我の状態・空腹の度合い・その他もろもろのステータスが、ボールに入った瞬間のまま、保存されているというのは不思議すぎる。

 ここまででは私にとっても、どうにも解明のしようがない話でしかなかったのだが……ここで取り出したるは、アニメ系ポケモンファン必携の書『小説版・ポケットモンスター/首藤剛志著』である。この小説には、クリーチャーズ設定と思われる「ポケモン世界の基本設定」が多数登場している。その中に、モンスターボールについて考える手がかりが、実は含まれていたのである。
 「四章のふろく(P.173〜)」という段落に、こんな記述がある。ここは本来、ポケモンの「転送」システムについて説明している部分なのだが、中に「初めてのポケモン転送は、子供のイタズラという偶然から生じた」というエピソードが紹介され、そのまとめとして、こんな文章が続く。

 モンスターボール自体に、ファックスで伝送できるような要素はありませんでした。
 とすれば、中に入っているポケモンに力があった。
 自分の体とモンスターボールを通信できるような電気の信号に変える能力があったと考えるよりありません。
   (中略)
 ポケモンは、モンスターボールのような小さなものの中で眠っているとき、自分の体と、自分の入っている容器を電気の信号に変える能力を発揮するのです。

 ……身体を「電気信号」に変容させることのできる生物、ポケモン。
 実はこれが、モンスターボールにまつわるすべての謎の「解法」ではないかと、私は思うのだ。

ゲットの法則……コードの「書き換え」

 『小説版ポケットモンスター』では、話が「ポケモンの通信転送」のところで語られていることもあって、「ポケモンが身体を電気信号に変換できる」と言う能力は、「伝送システム」の説明にしか使われていない。だがこれは、さらっとは流せない話である。ポケモンに、自分の肉体を「電気の信号」……ある種のデータに「置き換える」能力があるのだとしたら、モンスターボールを巡る謎は、すべて説明がついてしまうのである。
 モンスターボールに格納されているポケモンは、自分の身体・状態その他もろもろに関する情報すべてを、電気信号に変換しているのではないか。別に「伝送」に送られる時でなくても、である。これなら、質量保存の法則が成り立っていない説明がつくし、ボールに収めた瞬間のステータスが維持されるのも当然だ。転送ももちろん簡単。
 おそらくはポケモンのこの能力は、「冬眠」機能の進化したものではないかと思われる。生物は冬眠する時には、身体の機能(新陳代謝など)が非常にゆるやかなものになるが、ポケモンの場合これがより進んで、「体機能を凍結・維持する」システムとして、電子信号のデータに、自らの身体を変換させてしまうのである。元々は厳寒期、巣穴の内部等でひっそりと変換・再生していたのだろうが、モンスターボールと出会って状況は一変した。
 モンスターボールは、ポケモンの「電子データ化」を促進・安定保持する機能があるのではないだろうか。また、「ゲットの前にはバトル」というのも、説明はつく。戦いによって体力を消耗し、危機的状況に陥った時、ポケモンはそれ以上の肉体や体力の消耗を止める為に、電気信号変換によって、疑似冬眠状態に入るのである。電気信号と化したポケモンに、自然治癒力などはないから(代謝が止まっているから)、「治る」ことはないのだが、少なくとも敵の手から逃れ、危機を回避することはできる。危機が去った後に肉体を復活させ、逃げるなり、傷を癒すなりすればよいのである。……何だか結構、合理的なシステムのような気がする。

 そして、私の考える「モンスターボールの役割」は、単にポケモンの電気信号変換化を助けるだけのものではない。
 前段で挙げた「疑問3」……ゲットした瞬間から、そのポケモンがトレーナーと、ある種の関係を結ぶというあのシステムにも、モンスターボールの機能が関わっているのではないかと思うのである。ボールに収められたポケモンは、それ以前のポケモンの生態情報を忠実に信号化しているように見えて、実は幾分の「細工」を施されるのではないか。
 つまり、電気信号と化したポケモンの「情報」の中に、「このポケモンは、このトレーナーにゲットされました」という「情報」が一行、書き加えられているのではないかと思うのである。これだと(特にゲーム版において顕著な)、「ゲットした瞬間から言うことを聞く」ポケモンの法則が、ストレートに説明される。というか、「瞬間から」という部分は、こんな現象が存在でもしていない限り、ほとんどあり得ない話だと思うのだ。犬だって、最低3日は飼ってやらないと、恩を覚えてくれないのである。まして火を吹き光線を発し空を翔る、人間よりもどう考えても「強い」生物たちが、あっさり言うことを聞くようになるか?……とてもそうとは、私には思えない。

文学的読み取り……アニメ版におけるボールの意味

 しかし、アニメ版の方では実は、この「瞬間から」ぶりというのは、ほとんど表現されていない。それをストレートに表現してしまったら、おそらくアニメーションという「物語媒体」では、ポケモンという生物が非常にシステマチックなものに見えてしまうからだ。
 代わりにアニメ版では、ポケモンとトレーナーとの結びつきを「信頼」という言葉でしばしば説明する。だがそれでも、それが相当危うい概念であることは、「ミュウツーの逆襲」論で、既に述べた通りである。
 ゲーム版は勿論、比較的システムを(尊重しつつも)無視しているアニメ版でさえ、「ポケモンはトレーナーの道具ではないか」という危惧から、離れることはできない。世間でもしばしば言われる通り、ポケモンバトルはトレーナーである人間は、ほとんど傷つかない戦いである。バトルにかり出されるポケモンたちは、トレーナーの様々なエゴに振り回され、戦いを強いられているのかも知れない。「ゲット」ということそのものも、実は自由気ままに生きているポケモンを捕獲・拘束する、人間の「身勝手さ」の現れなのかも知れない……等々。
 そしてそれを「でも、ポケモンとトレーナーの間には信頼関係が在るんだ、ポケモンは好きでトレーナーに従い、戦っているんだ」と「断言」してしまうことの危うさも、私は「#30・ディグダがいっぱい!」の考察で書いた。ポケモンの気持ちはポケモンにしか分からない。人間が勝手にそれを推測すること自体、ポケモンに対する人間のエゴイズムである。
 そしてモンスターボールの存在が、実はその「道具性」を際だたせている。「格納する」という行為……それは、手の中に入れたポケモンを、自分の好きに操れる、ということを意味する。アニメでも頻繁に登場する「戻れ!」とポケモンをボールに引き戻すシーン。バトルから退却させるタイミングを計るのも、トレーナーの判断力が云々……という講釈はさておき、そこにポケモン自身の「意志」が介在していないのは、明らかなのだ。ボールから出すこと・しまうこと。その二点をトレーナーがコントロールしている限り、ポケモンに「自由に生きる」可能性はない。ボールに格納されてしまった時点で、ポケモンは自分の生命の生殺与奪の権利を、トレーナーに委ねてしまっているのだ。
 これを「信頼」のひとことで説明することは難しい。元々が「ゲームを遊ぶ為のシステム」でしかないものを、そのままアニメという物語媒体に持ち込んでしまうと、やはりそれは不自然さを呼ぶのである。モンスターボールのシステムそのものについては、アニメはほとんどアレンジを加えていない(というか、ポケモン世界の根本的なシステム故に、勝手に手を加えることができなかったのだろう)が、それ故にあの「ボール」は何処か、ポケモンが人間に「支配」される構造を、決定づけてしまうように思われる。

 ところが、である。ここからがおもしろいのだが……アニメの主人公・サトシの一番のパートナーであるポケモン・ピカチュウは、「モンスターボールに入ることを自ら拒否した」ポケモンなのである。
 つまりサトシのピカチュウは、話のはじめから、サトシの「道具」として「支配」されることを拒否したのである。それも自らの意志で。ここにアニメのポケモンの物語の、根本的なおもしろさがある。ピカチュウがサトシについて行くのも、バトルの場に飛び出して行くのも、それはすべて、ピカチュウ自身の意志によるものなのである。トレーナーに命じられたからではない。
 そしてその構造があるからこそ、ピカチュウとサトシの信頼関係というのは、他のトレーナーとポケモンの関係と、どこか一線を画しているのである。鎖でつなぎ止めた相手に対して「おれたち友達だよな」と言うのはおかしなことで、ボールに縛られているポケモンと人間の間の「信頼」には、不自然で自己欺瞞的な匂いが伴う。ところがピカチュウは、その気になればいつでも、サトシの元から去ることすらできる。
 しかしピカチュウはそうしない。サトシの肩に飛び乗って、共に笑い、共に泣く。
 それでこそ信頼が築けるのである。信頼という言葉に説得力が出るのである。相手が自由な一個の「人格」でなければ、対等な信頼関係など成立しない。サトシとピカチュウの信頼関係の特異性は、他のトレーナーとポケモンの関係と違って、両者が「対等」であるということにある。縛り付けるのではなく、共に歩みうる仲間だということ、それを表現する為には、モンスターボールというシステムは取り払われなければならなかったのである。

自己と他者の物語

 勿論ポケモンという生物が「人間並みに」知能・感情が発達しているとは、考えにくい。ボールの呪縛といい、支配構造といい、ある意味では「人間」が「人間以外の生物」に向けるやり方としては、さほど特異なものではない。人間と同様、それ以外の生物についても、「束縛イコール即、不自由」と考えるのは、ある意味、人間のエゴの裏返しなのかも知れない。つまり、人間が勝手に生物に人間的なものを感じ(擬人化)、勝手にその(存在するのかどうかも分からない)「意志」を汲み取ろうとしている可能性がある、ということだ。
 家畜とは、その遺伝子の安定的な保持の為に、自然を裏切って人間にすり寄った結果、生まれたものである。簡単に言えば、安全なベッドと確実な餌の為に、自分の自由を売った生き物である。そしてそれに対して「本質的自由」の所在を問うのは無意味なことだ。生物にとって、本質的な自由とは何なのか……それを人間が勝手にあれこれ推量すること自体、エゴである。
 だからボールに「ゲット」されたポケモンが、すべて自由を奪われた不幸なポケモンと考えることは早計に過ぎる。或いは彼らは、不安定な自然界にいる時よりも幸せなのかも知れないし、その心情を推量することはヒトの不遜だ。
 ただし……このアニメでは、サトシやカスミのポケモンたちの中でも、より「人間に近い」ような、一個の人格を発揮している者ほど、ボールの「支配構造」から遠いように表現されている。トレーナーの意に沿わないポケモンたち……勝手にボールから飛び出すコダック、一筋縄ではボールに戻らないリザードン。冬山のエピソードでは、サトシの危機を前に、ポケモンたちが自らの意志でボールを飛び出してきた。それを見るに、ポケモンのアニメが描こうとしている「ポケモンと人間の関係」の前には、ボールによる「支配」が今一つ、そぐわないことは明らかだ。むしろボールの存在によって単純に規定されてしまう、「人間の道具に堕したポケモン」の姿への反論、のようなものが、アニメ独自の「ボールなきゲット」に現れているような気がするのである。
 しかもリザードンに至っては、ヒトカゲ時代にはおとなしく、サトシの言うことに忠実に従っていたのにも関わらず、進化した途端に言うことを聞かなくなった、というのが、意味深いのである。以前、「全話レビュー」の#80「マサラタウン!あらたなるたびだち」で、ピジョンの進化に際して私は、「ポケモンの進化とは、成長と自立を意味する」と書いた。つまり、進化したポケモンは「大人」であり、自立した一個の人格である、というニュアンスが、このアニメにはあると思われる。
 リザードンの進化も同様で、進化成長した結果、サトシの意に諾々と従っているだけの存在ではなくなった。親の意に素直に従うだけの子供のような存在から、自らの意志で行動する為の「自我」が確立し始めた為、ボールの構造に反抗することを覚えたのである。現時点でのリザードンの態度はまさに「反抗期」的で、無軌道に暴れているだけなのだが……これがもう一回り成長して、真の大人になったその時、サトシとも成熟した信頼関係を築けるのではないだろうか。

 成長によって変わっていく関係……一個の自我と、自我との「信頼」の物語。またその変化がトレーナーへの「反抗」というかたちでまず現れた辺りから考えても、このアニメにおけるポケモンと人間の関係というのは、結局「自己と他者」の相克と信頼の物語なのだろうと私は思う。
 つまり、支配下におかれたものには、主人への反抗というのは許されない(というか、根本的に「あってはならない」ことだ)。だが対等な関係にある「他者」は、必ずしも「自己」にとって都合のいい行動ばかりしてくれる訳がない。むしろ意に添わない行動が目に付くことがほとんどだろう。そうして対立し、葛藤し……その末に、ようやく信頼が生まれていくのであろう。
 ピカチュウとサトシも、最初はそりが合わないことも多かった。だが今や、ベストパートナーと言える相手にまで、その関係性は成長した。リザードンやコダックとの間に、本当の信頼が生じるのはいつか。また現在は「子供」の段階に止まっているゼニガメやフシギダネが、サトシにとっての本当の「他者」になりうる日はいつか……ポケモンのドラマはまだまだ、ひそやかに眠っているのである。

終わりに

 今回はいつもにも増して、思うがままに、好き勝手に書きました。前半は結構、この論文シリーズではやっていないタイプの内容だと思うんですが、「ポケ論はこうあるべき」なんて枠に囚われるつもりはないし、かねがね考えていたことだったので、今回形にしてみました。こういう妄想学(←私の造語。元々現実世界に存在しないものに対して、あたかもそれが存在するように扱い、考察研究する態度。『小説版ポケットモンスター』なんかは、全編このノリで書かれている気がする……)的な考察って、やってみると楽しいですよ。「何であの世界にはロクな交通機関がないんだ」とか「ジムリーダーの収入源は」とか、誰か考えて見ません?←他力本願。
 ただーし。私はあんまし……という全然、科学に弱ーい人間なんで、「モンスターボール電子信号説」にも、きっと理論的な穴がたくさんあることでしょう。すみません(←いきなり謝るか)。とりあえずこの論を端緒に、詳しい方々にも少し、理論的補強をしていただけたら楽しいな、なんて思います。……それを聞いて、私がちゃんと理解できるかどうかが、実はとっってもアヤシイんですけど!←死。


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