和泉式部の歌の評価  

      

        『拾遺和歌集』の歌


    性空上人のもとに詠みて遣はしける

  くらきよりくらき道にぞ入りぬべき遥かに照らせ山の端の月

 和泉式部の歌が、はじめて勅撰集に採られたのは『拾遺和歌集』である。

 『拾遺和歌集』は第三の勅撰集で二十巻。この集は、一条朝の産物であるが、花山院の親撰という特異な経過を

辿って成立した。天皇が専門歌人に下命して編纂するという従来の勅撰集のあり方を一変させたものである。

この『勅撰集』は『万葉集』も含め、当代までの1351首を収載。柿本人麻呂、紀貫之の作品が圧倒的に多く、とも

に百首をこえている。和泉式部の歌は、次の勅撰集『後拾遺和歌集』に67首ばかりも採られているのと比べれば、

この「冥きより」の歌一首と淋しいものである。

 後拾遺集の時代の代表的な歌人で、当時の新しい歌風形成に大きな役割を果たした源俊頼の歌論書の『俊頼

髄脳』には、よく知られた和泉式部と赤染衛門の優劣論が見えている。

   四条大納言に、子の中納言の「式部と赤染といづれまされるぞ。」と尋ね申されければ、「一口にいふべき歌よ

   みにあらず。式部は、ひまこそなけれあしの八重ぶきと、詠めるものなり。いとやんごとなき歌よみなり」とあり

   ければ、中納言は、あやしげに思ひて、「式部が歌をば、はるかに照らせ山の端の月と申す歌をこそ、よき歌

   とは、世の人申すめれ」と申されければ、「それぞ、人のえ知らぬ事をいふよ。くらきよりくらき道にぞ、といへ

   る句は、法華経の文にはあらずや。されば、いかに思ひよりけむとも覚えず。末の、はるかに照らせといへる

   句は本ひかされて、やすく詠まれにけむ。こやとも人をといひて、ひまこそなけれといへる詞は、凡夫の思ひ

   よるべきにあらず。いみじき事なり」とぞ申されける。

 息子定頼の質問に対して公任は、「一口に優劣をいえるような歌人ではない。式部は<隙こそなけれ葦の八重

ぶき>というような歌を詠んだ人である。とてもすぐれた歌詠みだと答えたという。口では和泉を「いとやんごとなき

歌詠みなり」と言って、赤染よりも優位においているように見えるが、しかしそれは、両者は一口では優劣のつけら

ない歌人だという前提にたっている。そのあとの定頼の言葉からは、定頼自身は和泉の方に共感しながら、権威者

の父の判断を伺っているという風である。公任の方も、定頼らの若い世代が和泉の歌にひかれているのを知ってい

るのだけれども、一口に優劣はつけられないと言い、どちらかと言えば、赤染の伝統的な詠風を支持しているように

伺える。しかも、和泉を「いとやんごとなき歌詠み」とは言っているが、その理由にあげている代表歌は、定頼が考

えていた「冥きより」の歌などとは性格の違う次の歌なのである。

    わりなく恨むる人に

   津の国のこやとも人をいふべきに隙こそなけれ葦の八重葺    ( 正集 699 )

 これは、和泉式部が、逢ってくれないと怨みごとを言う男にやった断りの歌で、「冥きより」の歌の深刻な内容とは

全く違う。言葉づかいの巧みさによって成立した、いわば歌としての形の整った歌である。公任がこの歌を持ち出し

て、和泉を「いとやんごとなき歌詠み」と言ったのは、古今集的な伝統の上にたった歌詠みとしての技術の面で評

価したことになるが、彼女の本領ともいうべき新しい傾向の和歌の側面を無視した評価と言うことが出来る。公任は

赤染のことには触れていないが、赤染は当然文句のない第一人者であり、和泉の歌にも赤染に劣らないものがあ

ると言っているのである。

 こうしたことからもわかるように、『拾遺集』の時期には、まだ和泉式部の歌は必ずしも高い評価を得ていたわけで

はなかった。むしろ赤染衛門の方が代表的な歌人と考えられていて、歌の巧みさは注目されていたけれども、この

時代を代表する第一の歌人とまでは認められていなかった事が伺える。

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