- #01 Ci vediamo -
  
     
あの子が来た日は、いつものように良いお天気で、
いつものようにルイーズが先に来てお茶の用意をしていて、
いつものようにグランマはそれをテーブルについてニコニコみていて、
いつものようにあたしの出社は始業前ぎりぎりセーフで。
で、一つだけ違っていたのは、グランマの真向かいに
一人のあどけない女の子が座っていたこと。
そういえばアリア社長はその時から彼女に懐いていたわね。
彼女の膝の上で丸まってたっけ。

「おはよう、テルマ」
「おはようございます、グランマ。おはよう、ルイーズ。で、その子は?」
「もうすぐ紹介するわね」
 そしてウィンク。 グランマ、この歳になってますますウィンクにチャーミングさが
加わってるなあとのほほんと思っていたら、 ルイーズがお茶の用意を持ってやってきた。
相変わらず少し眼鏡が曇ってる。なんだかね……
お茶を並べて、そのころには眼鏡の曇りもすっかり晴れていた。
そして一同が席についたところで、グランマが口を開いた。

「今日から私たちの仲間になります、アリシアちゃん。
 アリシア、こっちがテルマ・パスクァーレ。
 でこっちがルイーズ・フィオーレよ」
「よろしくね、アリシア」
「一緒に頑張ろうね、アリシアちゃん」
そして、アリシアはアリア社長を床に下ろし、すっと立ち上がって一礼をして、
ニッコリと微笑んでこう言った。
「アリシア・フローレンスです。よろしくお願いします」

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「ここに着替えを置いておくね」
「ありがとうございます、テルマさん」

最初に会社の2階の部屋にアリシアを連れてった時のこと。
あたしが棚に着替えを置いていると、彼女はゆっくりベッドの上に乗ってゆっくりと窓を開いた。
海風がスーッと部屋の中に入ってきて、彼女の後ろ髪をふわっと撫でた。
振り返った彼女は、本当に気持ちよさそうだった。

「テルマさん、このベッド大きいですね」
「ああ、それはあたしとルイーズの置き土産みたいなものなの」

アリシアはきょとんとした顔をした。そりゃそうだよね。

「あたしとルイーズも新人時代ここに住んでたの。で、ベッドをどうしようかってことになって。
 二つ入れるのも二段にするのもこの部屋じゃ無理そうだったから、ルイーズがじゃあって言って、
 グランマがそうねって言ったんで、で、そうなったと」

ゆっくりと租借して、やっと納得いったと言うタイミングで彼女はまたニッコリ微笑んだ。
そして彼女はそのままベッドの上で大の字になった。

「先輩たちとお日様のにおいがします」

こっちが恥ずかしくなるようことを言うので、思わず照れてしまったが、少し経つとやっぱり
初日で緊張していたのだろう。心地よい海風に誘われて小さな寝息が聞こえてきた。
まあ、いいか。 頑張れ、未来のプリマちゃん。

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マイペースな子。それが彼女、アリシアの印象。
のんびり度合いはルイーズのほうが上だけど、ニコニコ度合いはどっちもどっちみたいだ。
だから打ち解けも早かったみたいで、来て次の日にはもう朝のキッチンで並んで談笑してた。
で、その次の日からはアリシアが一人でお茶の用意をしてた。
味はまだルイーズのほうが上だったけど、手際はあっという間にルイーズ2世。
ん〜、なかなかやるわね後輩ちゃん。

「ありがとうございます」

ニッコリ微笑むアリシア。
グランマやルイーズはそんなアリシアを見てニッコリ。
なんかこうあたしまでニッコリしたくなる雰囲気。
というか、気づけばあたしも顔が緩んでた。
朝の楽しい一時。笑顔が咲き誇ってた。

アリシアの操船練習はあたしが主に見てた。
悔しいけれどあたしは少し男勝りな感じでちょっと声が大きかったから、
その点でおっとりルイーズにお客さんを取られることが時々あった。
まあ、あたしだって一応しとやかさくらいは持っていたからね。
全体的に見ればそんなに大差なくお客の数はどっこいどっこいだった。
でもお客さんがあたしたちを選ぶ際には、それはちょっと複雑な両天秤だった。

グランマがいないのなら。

そりゃグランマには勝てないわよ。あたしだってお客なら一番にグランマに予約いれるもの。
だからお客さんが仕方なくあたしたちを両天秤にかけて、
どっこいどっこいの判断をするのは無理ないと思う。
でもやっぱりどっか悔しいのよね。

「ん〜、しょうがないわよ、テルマ」

そうよね。 おっと横道ね。
アリシアはいつもニコニコして舟を漕いでた。
どうしても身体的にひょろっとしてたから、舟もひょろっと流れちゃうときもあったけど、
そんな時の彼女はぜんぜん焦らなかった。
スピードがそんなに出てないというところも手伝って、蛇行しつつも徐々にまっすぐに。
彼女は決して焦らない。丁寧に丁寧にゴンドラを操船していく。
始めて操舵を見た時から、アリシアには焦らないでやって行こうって言ってあったし、
それになんと言ってもまだ彼女は幼い年頃だ。まだまだ先は長い。
十分時間はあるのだから、ということであたしもルイーズも、
たぶんグランマもそうだったと思うけど、一つ一つを丁寧に教えていった。
オールの漕ぎ方返し方。
アリシアはニコニコしながらそれを一つ一つマイペースに噛み締めて、飲み込んでいった。
ちょっと危ないかなと思うときも、こちらもそう焦って指示することはなかった。
その辺は、ルイーズが見てた影響もあったかしら。

あたしとルイーズでは操船にちょっと違うところがある。例えばこんなところ。

「ゴンドラ……とーりまーす」

真ん中で継ぎ目を入れないのがあたし、間を置くのがルイーズ。
別に決まりはないからどっちでもいいんだけど、あたしは勢いですっと言ってた。
これはもう見習いの時からずっと一緒。ルイーズが間を置くのもずっと一緒。
昔二人で練習してたときはそれが妙に気になって。

「ねえ、それじゃあゴンドラが流されてぶつかっちゃわない?」
「ん〜、それはコントロールで何とかなると思う」

事実、通りに出る前は速度を緩めて、その発声のタイミングにぴったりに操船してた。
ルイーズの味のある、穏やかだけど細やかな操舵。
それは風を切る心地よさを売り物にするあたしとは対極にあるような気がしてたけど、
どちらもコントロールが命なことに変わりはない。
アリシアはそんなあたしたちを見て、自分に合った方を選んだってわけ。
やっぱりなかなかやるわね、後輩ちゃん。

「ありがとうございます」

なぜかいつも同船しているアリア社長も、ご機嫌だった。
そんな感じだったから、彼女が悔しがるとか泣くとかいうところをあたしは見たことが無かった。
練習から帰ってきて自主練に行くのを見て、 ああ今日は納得いく操舵が出来なかったんだなと思ってたら、

「ん〜、それは違うと思う」
「どうしてよ、あんなに熱心に同じことを繰り返してるじゃない」
「ん〜、そうなんだけど、そうねえ、出て行く時や帰ってきた時の彼女の表情を見れば、わかるんじゃないかなあ」

で、アリシアが帰ってくるときにじっと見つめてたら彼女ちょっと怯えた。でもまた照れ笑いを浮かべて

「ただいま戻りましたあ」

ん〜、あたしには満足いく操舵が出来るようになったからとしか思えない表情なんだけどなあ。

「アリシアとテルマってよく似てるわよ」

ルイーズのこの一言がもっとも難解な言葉だったっけ。何が一緒なんだ?

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1年半、アリシアの練習を見て、もう良い頃だなって思って、グランマに相談したら、
そうねって言ってくれたので、その日は彼女にちょっと遠くの丘までのルートを通らせた。
最初に来た時から1年半。アリシアは体つきもしっかりしてきた。
それにいつからか他社の友達ができたらしく、あたしたちが面倒見れない日でも一緒に練習を重ねてたようで、
操船技術の上達のほどは目を見張るほどだった。
同期の子と練習するのは刺激があって良いと思う。あたしなんてその典型的な例だと思う。
あたしはとにかく勝気で、ルイーズに先を越されたくなかったから、ペアの時は必死でグランマのテクニックを練習した。
そんなあたしの小さな野心なんて、グランマには簡単に見抜かれてたと思う。先にシングルにしてくれた。
その時はそんなことちっとも考えなくて、とにかく先にシングルになれた事を一人舞い上がってはしゃいでた。
ルイーズは自分のことのように喜んでくれたっけ。その時ルイーズはどんな気持ちだったのかな。

「ん〜、嬉しかったよ。だって大好きなテルマがシングルになれたんだもん」

訊くだけバカだったと知るのは、もう少し後になってからのことで。
グランマには絶対勝てないと思ったけど、ペアになってからいつしか、
ルイーズにもなんだか勝てないなって思うようになった。
だからプリマになる時にはルイーズのことを思った。
やっぱりちょっと先を越されるのは嫌だったから、ついというなんというか、
あたしが先にプリマになれたんだけど。
ただもうその時にはルイーズのことよくわかってたから、
あたしがプリマになる前から、なったその日にそのことをなかなか言い出せないだろうって思ってた。
ずっと迷ってた。
ルイーズは絶対に祝福してくれる。その笑顔が心からのものだってこともわかる。
でもそうすると彼女がプリマになるまでの間、あたしは彼女のこと応援できるかな。
二人で部屋にいるときもいつもどおり接することができるかな。
あたしはそういうとこホントに不器用だから、絶対態度に出ちゃうってことは明らかだったし。
で、無い知恵絞って考えて、プリマになったその日に部屋を出ようって思った。
そうすれば少しでもルイーズのことを考えなくてすむし、
あたしの変な態度でルイーズを困らせることはないだろうって思った。
でも、そうじゃなかった。
あたしが一人で練習してる時、グランマについてもらって練習してる時ふと、
ここでルイーズならこうして、とか考えてる自分がいた。
ああ、なんだかなって思った。そしたらそんなあたしにグランマはこう言ってくれた。

「テルマ、悩むことはないのよ。素直に言えば良いの。そうすることがあなたらしさだから」

肩の荷がすっと降りた。
そしてプリマになった日、あたしは真っ先にルイーズに知らせた。

「ルイーズ!」
「ん……うわあ、うわあ、うわあ!」

その夜はずーっと二人でベッドの中でいろんなことを話してた。
そしてそろそろあたしもひとり立ちしなくちゃなと思って、
新しい部屋を決めたよってルイーズやグランマに報告しようと思ったら、

「テルマ、私、プリマになれたよ」

満面の笑顔だったから、あたしも抱きついた。

「おめでとう、ルイーズ!」

そんな懐かしい記憶を、丘までの道のりの間に思い出してた。
アリシアの漕ぎ方がルイーズにどこか似てたからかな。
たおやかに、でも凛としている。
そんな操舵をアリシアはする。
まだペアなのにその片鱗には時々ぞくっとしてた。
なんだろう、この感じ。
どんどん心の中でもやもやした感情が湧き上がって来た。
なんだか嫌な感じがしたのでその事はもう頭から無くして、今はアリシアを見守ってやろう、そう思った。

「お疲れさん。じゃあ、丘に上がってこのルイーズのお弁当でも食べようか」
「はい」

芝生に上がって腰を下ろす。そして持ってきた籠からお弁当と水筒を取り出して。

「あ、そうそう。このお弁当はね、実は食べるのに条件があるの」
「条件、ですか?」
「そう。アリシア、手、出して」

言われるままに差し出された手。あたしはその左手から手袋をすっとはずした。
アリシアはちょっとびっくりしてた。

「このお弁当はね、シングル以上じゃないと食べられないの。おめでとうアリシア。今日からあなたはシングルよ」

その瞬間、アリシアの顔に笑顔がパーっと咲いた。

「あ、ありがとうございますっ!」
「うんうん。ほら、アリシア、見てごらん」

あたしが指差した方を見て、またアリシアは笑顔を咲かせた。
遠くに広がるとても素敵な風景。 あたしもここに来るのは2度目だけど、1度見たら絶対に忘れられない景色。

「アリシア、この丘はね」

そして夕日が顔を覗かせるまで、ずーっとその景色を見てた。やっぱりここは良い場所だな。
だけど、その時も心は少しうずいてた。

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アリシアがシングルになって2ヶ月がたった。
あたしは自分がどうもおかしい、ということに気づいた。
アリシアが漕いでる時に以前ほど口出しをしなくなった。
ぼおっとして外を適当に見流していた。
アリシアのテクニックはもう特にあれこれいうこともなかったし、
とりあえずあとは体力と体つきだけじゃないかとか思ってたけど、
この年頃はぐぐっと成長する時だからそれも何の心配も無かった。
何もなかったんだけど、なんだかいらいらしていた。

「テルマさん」
「ん?」

無愛想な声だ。

「テルマさんの髪って素敵ですよね」

唐突な子だ。

「ん、そう?」

確かに、あたしの髪は長い。特に結わくでもなくそのままにしてるけど、
取りあえず潮風にやられないように手入れだけはしてるつもりだった。
これは昔ルイーズにさんざんやられて身についたものだった。

「ほらあ、やっぱり風になびく髪がテルマの素敵さを引き立ててるのよ」
「だったらルイーズも伸ばせば良いじゃない」
「ん〜、1社に同じような人間は二人いらないでしょう」

そういってルイーズは自分のショートボブな髪を撫でた。
ルイーズもそういうこと考えるんだ、なんてぼんやり思ったっけ。
でも本当はルイーズのそういうところがあたしたち二人をこの会社で生かしてるんだなって思うようになってからは、
感心してこの髪を大切に思ってきた。

「そうね、これはあたしの生命線っていうのかな。一応あたしもオンナだよって証拠。あはは」

髪の毛を無造作に手にとって、見てみる。ちょっと最近は手入れが不足してるかな。
そういえばアリシアの髪も長いし綺麗だよね。顔立ちもすっきりしてるからなあ。

「だって、テルマさんに憧れてますから」

唐突な子だ。

「ん、まあ、そういわれると悪い気しないよね」
「いつまでもそのままでいてくださいね」
「ん、今のところ切るつもりは無いし、そうするよ」
そしてまたゴンドラが進んでいく音だけが響くようになった。

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ガツッ!
それからしばらくして、あたしはお客さんを乗せたゴンドラを他のゴンドラにぶつけるという大失態を演じた。
なんだか最近頭の中がこんがらがってて、ちゃんとナビゲートしてるつもりだったのにどっかがおかしくなってたみたい。

「申し訳ありません。大丈夫でしたか?」
「ええ、大丈夫です」

お客さんたちは特に文句を言わなかったけど、あたしは自分がしたことに動揺して、そのあとを持ち堪えるのに必死だった。
せっかく若い二人が楽しみに乗ってくれたのに……

「本日は大変申し訳ありませんでした」

ゴンドラを会社に戻して、遊覧を終えたあたしはもう一度お客さんたちに謝った。

「そんな、もういいですよ、テルマさん」
「ええ、そうですよ。私たちとっても楽しかったですから」
「でも、こちらの不手際ですので」
「それではお二人にお茶を一緒してもらうのはどう?」

上から声がした。グランマだ。

「あ、あなたはグランドマザーさん!」

若い女性のほうが目を輝かせた。

「ええ。テルマ、ほら、早くお二人に上がってもらってお茶でも飲みましょうよ」
「は、はい」

ばたばたと上がっていってお茶の用意をするあたし。

「どうしたんでしょう、あたし」
「そうねえ」

その夜、お客さんが帰り、ルイーズは気配を察してもう家に帰ってた。アリシアも疲れて寝ていた。
暗い夜のテラスで、あたしはグランマにここのところの経過を説明した。

「会社に申し訳ないことをしてしまいました」
「ほんとね。大事なウンディーネが一人傷ついちゃったものね」
「あ、あたしのことなんかより社の……」
「ねえ、テルマ。最近どこか気に入った景色ってあった?」

グランマはニコニコしてあたしに訊いてきた。景色……だめだ、ちっとも思い出せない。
というより、最近そんなことぜんぜん思いもしてない。

「あなたが焦る必要はないのよ。道はその人の数だけあるわ。あなたはあなたでいればいいの。
 この世に、テルマ・パスクァーレは二人いないのよ。だから、あなたがいなくなることは本当に社にとって大変な事なのよ」
「グランマ……」
「テルマ、あなたは私の大切な娘よ。いつまでもあなたらしくいてね」

あたしは大声を上げて泣いた。こんな事、今までなかったと思う。
グランマはずっとあたしの頭を胸に抱いて髪を撫でてくれてた。
潮騒の音が響いていた。その日の夜風は、いつまでも私の記憶に残っている。

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しばらくアリシアの練習はルイーズと、アリシアのいつの間にか増えてたお友達の子たち、
晃ちゃんやアテナちゃんに任せて、あたしはお客さんとのふれあいを楽しんだ。
お客さんに地図にない場所へ連れてって感動してもらった。
そんなときはいつも心が躍った。
まだあそこにも行きたい、ここにも連れて行きたい。
少しずつそんなことを思いながら、風を切って進んでいく。
ありがとう、言われるたびに心が安らかになった。
そしてもっと多くの人に、この素晴らしい町の素晴らしさを知ってもらいたかった。
そんなことを思っていたら、ふと昔の事を思い出した。
初めてあたしがゴンドラに乗った日のこと。
パパとママとあたしでゴンドラに乗って、遠くネオ・ヴェネツィアまでの旅行に行った。
ウンディーネさんはとても綺麗で、最初は流れていく景色に目を奪われていたけれど、
そのうち景色と平行して素敵なウンディーネさんと会話するようになった。

「おねえちゃん、お舟早いね」
「ありがとう、お嬢ちゃん」
「こら、テルマ。ウンディーネさんの邪魔をしちゃいけないよ」
「いえ、お客様、私のほうは全く構いませんよ。ねえ、テルマちゃん。あそこに見えるお山があるでしょう?」
「うんうん」
「あれはね」

あれがあたしの原体験だった。

「いつかあたしが、パパとママをお舟に乗せて、いろんなところに連れてってあげる!」

そうだ。

その日の遊覧を終えて、会社に戻ると一番にグランマに相談した。

「素晴らしいわね、テルマ」

グランマは満面の笑顔で答えてくれた。
あたし、決めた!
その夜、久々にルイーズの家にお邪魔した。ルイーズはいつもどおり笑顔で迎えてくれて、
二人で久々に夜を明かして話し合った。天窓から見える星が綺麗で、
まるで初めて二人でアリアカンパニィの2階で寝たあの日みたいねって二人同じことを考えてて、
思わず吹き出した。
ああ、楽しい、そして素敵な時間だったなあ。

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それから数日はグランマがアリシアの面倒を見た。今までも出来る限りはグランマも面倒を見てたけど、
やっぱりアリアカンパニィの看板ウンディーネはグランマだったし、お客さんもグランマを目当てに沢山やってきてたから、
なかなか時間は取れなかった。だからここ数日は、表立ってはグランマは用事ですと看板を出して、
あたしとルイーズがめいっぱいお客様を接待した。

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「アリシア、ちょっと後ろを向いて」
「え?」

ある日の朝、いつもどおり練習に出かけようとするアリシアを引き止めた。
テラスに外を向かせて座らせて、あたしはアリシアの髪を手に取り、ゆっくりと編みこんでいった。

「ねえ、アリシア。今日はあたしを乗せてどっか良い場所に連れてってよ」
「え? でもどこへ行けばいいんですか?」
「どこでもいいの。あなたのお気に入りなところとか、この時期見ごろなところとか。
 どこでもいいわ。あなたの行きたいところへ連れてって欲しいの」

はい、終わり、と手を離した。

「うわあ」

アリシアは手で触って、前に持ってきてじっくりと眺めた。

「女の子はさ、髪型を変えると気分も変わるんだよね」

ほら、とあたしは自分の髪を見せた。アリシアと同じ、大きな編みこみの髪型。

「え、あれ、いつの間に?」

そしてあたしと自分の大きな編みこみで纏められた綺麗な長髪を見て、
アリシアはニッコリと微笑み、私はうんと頷いた。
綺麗よ、アリシア。あの日のウンディーネさんみたい。
それからあたしとアリシアは、どこへ行くともなく、
ゆっくりとゴンドラが波を切り分けて進んでいく感覚や、
頬を通り抜けていく風や、
潮騒の音や匂いや、
木々や花々、
人のあふれる町並み、
当たり前にある景色をぐるっと回って進んでいった。

「テルマさん、その歌……」
「ああ、バルカローレ。あんたの友達ほどじゃないけど、一応ウンディーネの嗜みね」
「もっと聞かせてください」
「ん〜、改まって言われると照れちゃうわね」

そしてあたしは歌った。どこまでも続く海の果てまで届くように祈りを込めて。

「よし、じゃあそろそろ帰ろうか」
「はいっ」

舟は、アリシアの操舵で軽やかに海原を進んでいった。
帰ってくると、テーブルにはご馳走が並べられていた。
そしてルイーズとグランマがニコニコしながら出迎えてくれた。

「うわあ、おいしそうですねえ」
「でしょう? だって今日はお祝いの日ですもの」
「お祝い? いったい何の日ですか?」
「アリシア、手を出して」
「はい」

状況が飲み込めていないアリシアは、そっと両手を差し出した。
あたしはその手を取ると、グランマを見た。
グランマはうんうんと頷いてこっちへ来た。そして、あたしはアリシアの手をグランマへ渡した。

「アリシア、よくやったわね。あなたは今日からこのアリアカンパニィの新しい看板プリマよ」

すっとその手からグローブがはずされた。白い艶やかな両手が現れた。

「え、え?」

アリシアは驚いて両手とグランマやあたしを交互に見ていた。

「さあ、食べましょう。今夜はお祝いよ」

グランマの一声で楽しい夕餉が始まった。
そのときのことは今でもついこないだのことのように覚えている。

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翌日の朝。
いつものように良いお天気で、
いつものようにルイーズが先に来てお茶の用意をしていて、
いつものようにグランマはそれをテーブルについてニコニコみていて、
いつものようにあたしの出社は始業前ぎりぎりセーフで。
そんなあたしを、いつものようにアリシアもニッコリ微笑んで迎えてくれた。

「おはようございます、テルマさん」
「ん、おはよう、アリシア」

そしてみんなでテーブルを囲んでお茶を飲む。アリア社長は私のひざの上で、じっとあたしの顔を見てた。

「今日はね、みんなに素敵な報告があるの。
 テルマがね、このアリアカンパニィを卒業して、生まれ故郷で新しい生活をスタートするの」
「え!」

ルイーズはニッコリと微笑んで、アリシアは驚いて、アリア社長はぷいにゅうって泣いてた。
そう、あたしはあの日の約束を果たすために生まれた町に帰るのだ。

会社の桟橋からの、最後の出勤。

「じゃあ、テルマ、気をつけてね」

グランマが微笑んで送ってくれた。

「またね、テルマ」

ルイーズが微笑んで送ってくれた。

「テルマさん」

アリシアが心配そうにしてる。

「アリシア、笑顔笑顔。ウンディーネは笑顔が一番重要だよ」
「は、はい」

そしてゆっくりとアリシアも笑顔を作った。

「いってらっしゃいませ、テルマさん」
「うん、行って来るね」

そしてあたしはゴンドラを漕ぎ出した。潮騒に乗って、何かすすり泣きのような音が聞こえてきた。
後は任せたよ、アリシア。 あたしはアリシアが泣くところを最後まで見なかった。

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風の頼りにいろんなことを聞いた。
グランマが田舎へ引っ越したこと、
ルイーズが結婚して、今は独立して旦那と子供と一緒にゴンドラを漕いでいること、
そしてアリシアが水の3大妖精といわれていること。
あたしは、生まれた町に帰って、ウンディーネの卵たちを育ててる。
グランマほどじゃないけれど立派な会社も作って、今は3人の見習いちゃんを面倒見てる。
遠いあの日の、あたしとルイーズのように仲良し3人組だ。
いつかグランマにも会いに行こうと思うけど、今はとにかくこの田舎町でもウンディーネを普及させられるよう、
小さな努力をしていこうと思ってる。
今日はコニーデの練習を見てやる日だ。
田舎だから結構練習時間は取れるかと思いきや、遠くまでの足が増えたとご老人やら若者やら、
結構需要があってあたしもなかなか手一杯だ。
でも、ちゃんと自分の娘たちには手をかける。
さあ、行こうか。

「声はもうちょっと大きくだよ、コニーデ」
「はい。ゴンドラとーりまーす!」

(fin.)

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