セレウコス朝シリア

Seleucid Empire

セレウコス1世        アンティオコス1世        アンティオコス3世


セレウコス朝系図

歴代シリア王

年代 前312〜前63
建国者 セレウコス1世ニカトル
領域 トルコ・シリア・パレスティナ・イラク・イラン・アフガニスタン・パキスタン・中央アジア
首都 セレウキア・アンティオキア
主要都市 ラオディケア・アパメイア・セレウキアピエリア・ダマスカス・サルディス・バビロン
民族 マケドニア人・イオニア人・ペルシア人・アラブ人・ヘブライ人・パルティア人・ソグディアナ人
周辺国家・民族 アンティゴノス朝・プトレマイオス朝・共和政ローマ・ペルガモン王国・パルティア・バクトリア・スキタイ
言語 ギリシア語・アラム語・ペルシア語
文字 ギリシア文字・アラム文字
宗教 ギリシア神信仰
貨幣 金貨・銀貨・銅貨
産物 ガラス工芸・フェニキア染料・レバノン杉
滅亡 前63年、ローマのポンペイウスに併合され滅亡

		 アレクサンドロス大王配下の武将セレウコスが建国した王国。大王の死後、セレウコスは
		実力者のペルディッカスを殺害、前321年のトリパラディソスの軍会でバビロニア総督と
		なった。その後、ディアドコイの中で最有力となったアンティゴノスにバビロニアを逐われ
		てエジプトに亡命したが、前312年のガザの戦いでアンティゴノスの子デメトリオスを破
		り、バビロニアを奪還した。この年がセレウコス暦元年とされる。翌311年にはアンティ
		ゴノスを破り、ユーフラテス川以東の広大な領土を獲得した。
		 前305年、セレウコスは王を称し、ティグリス河畔のセレウキアに首都を定めた。前3
		04年頃、インドに兵を進めたが、マウリヤ朝のチャンドラグプタに敗れて西北インドを割
		譲した。
		 前301年、セレウコスは小アジアのイプソスで宿敵アンティゴノスを敗死させ、シリア
		・メソポタミアを獲得すると、シリアに後に首都となるアンティオキアを含む4つの都市を
		建設した。その後、西方のマケドニアを狙い、デメトリオス、トラキア王リュシマコスらと
		抗争を繰り広げた。前281年、コルペディオンでリュシマコスを破り、マケドニアを手中
		にする直前、セレウコスはプトレマイオスの子ケラウノスに暗殺された。
		 後を継いだアンティオコス1世はマケドニア侵攻を断念し、領土の保守に専念した。前2
		74年、プトレマイオス朝がシリアに侵攻、フェニキアと小アジア沿岸の都市を奪われ、ペ
		ルガモン王国が離反した。
		 アンティオコス1世の死後、アンティオコス2世が後を継いだが、バクトリア総督ディオ
		ドトス、パルティア総督アンドラゴラスが独立し、東方領土の半分近くが失われた。アンド
		ラゴラスはアルサケス・ティリダテスの兄弟に殺され、アルサケスはパルティアを建国した。
		危機を感じたアンティオコスはプトレマイオス朝と講和してプトレマイオス2世の娘ベレニ
		ケを妻としたが、前王妃のラオディケに暗殺された。
		 アンティオコス2世の後を継いだセレウコス2世はプトレマイオス朝の侵攻を受け、アナ
		トリアでは弟のアンティオコス・ヒエラクスが独立した。セレウコスはパルティアに侵攻し
		て領土の回復を図ったが、アンティオコス・ヒエラクスがシリアに侵入した為に帰還を余儀
		なくされた。
		 セレウコス2世の死後、後を継いだセレウコス3世はペルガモン遠征中に暗殺され、弟の
		アンティオコス3世(大王)が後を継いだ。アンティオコスはメディア総督・ペルシス総督
		の反乱を鎮圧、プトレマイオス朝に侵攻、アルメニアを臣従させ、王国の勢力を拡大した。
		前209年にはパルティアの首都ヘカトンピュロスを占領、バクトリア王エウティディモス
		を臣従させ、西北インドにまで侵攻した。
		 帰還したアンティオコスはプトレマイオス朝からエルサレムを奪い、前196年にはトラ
		キアに侵攻した。ギリシア諸国はこれに対抗する為にローマに救援を要請した。アンティオ
		コスはカルタゴから亡命してきたハンニバルを迎え入れてローマと開戦したが、前191年
		のテルモピュライの戦い、前190年のマグネシアの戦いでローマに敗れ、タウロス山脈以
		西の領土を割譲し、ローマに人質を送るという屈辱的な講和条約を結んだ。アンティオコス
		は賠償金の支払いの為にスサの神殿で徴発を行い市民に暗殺された。
		 アンティオコス3世の子セレウコス4世はローマに対抗する為にアンティゴノス朝の王ペ
		ルセウスに娘を娶せた。セレウコス4世が暗殺されると、弟のアンティオコス4世が後を継
		いだ。アンティオコスはエジプトに侵攻し、プトレマイオス6世の後見人となったが、セレ
		ウコス朝の強大化を懼れたローマはこれに介入してエジプトからの撤退を要求した。前16
		7年にはユダヤでハスモン家の反乱が勃発した。
		 アンティオコス4世の死後、子のアンティオコス5世が後を継いだが、ローマの人質とな
		っていたセレウコス4世の子デメトリオス1世がローマを脱出して帰国、アンティオコス5
		世を殺害して王位を奪った。その後、デメトリオスもアンティオコス4世の子を自称するア
		レクサンドロス1世に殺害された。デメトリオス1世の子デメトリオス2世はプトレマイオ
		ス6世に支援され、アレクサンドロスからシリアを奪回した。この頃、東方で勢力を拡大し
		ていたパルティアが侵入し、前141年にセレウコス朝からメソポタミアを奪った。前13
		9年、デメトリオスはパルティアのミトラダテス1世に敗れて捕虜となった。本国ではデメ
		トリオスの弟アンティオコス7世が後を継いだ。アンティオコスはパルティアからメソポタ
		ミアを奪還したが、前129年にパルティアのフラーテス2世に急襲され戦死した。これ以
		後、セレウコス朝は北部シリアの地方政権へと転落した。
		 アンティオコスの死後、パルティアを脱出したデメトリオス2世が後を継いだが、アレク
		サンドロス1世の子アレクサンドロス2世に殺害された。以後血みどろの内紛が続き、デメ
		トリオス2世の子アンティオコス8世とアンティオコス7世の子アンティオコス9世の二派
		に分裂、前95年には4人の王が出現する状態となり、セレウコス朝は急速に弱体化した。
		 前83年にアルメニア王ティグラネス2世がシリアに侵攻、アンティオコス9世の子アン
		ティオコス10世を破ってシリアの支配者となった。前69年、ローマのポンペイウスがテ
		ィグラネスからシリアを奪い、アンティオコス10世の子アンティオコス13世を王位に即
		け、後にアンティオコスを追放してフィリッポス2世を擁立した。前63年、ローマのガビ
		ニウスがフィリッポス2世を殺害、セレウコス朝は250年に及ぶ歴史を閉じ、シリアはロ
		ーマの属州となった。
		 セレウコス朝は領土のヘレニズム化に力を注ぎ、各地にヘレニズム都市を建設した。ヘレ
		ニズム都市は城壁に囲まれたギリシア的構造を持ち、アクロポリス・ギュムナシオン・大浴
		場・劇場・ギリシア神神殿などが建設され、主にギリシア人が居住した。領土には地方ごと
		に総督(サトラップ・ストラテゴス)が置かれたが、小アジア・メソポタミアなどでは土着
		の諸侯が総督または王に任命された。サトラペイア(州)の下にはエパルキア・ヒュパルキ
		アという行政区分が設けられた。セレウコス朝はアレクサンドロス大王の融合路線を受け継
		ぎ、原住民の宗教や生活を尊重したが、支配階層はほとんどギリシア人であった。
		 外交面では、セレウコス1世の時代にマウリヤ朝のチャンドラグプタと同盟を結んで、領
		土を割譲する代わりに戦象を獲得、娘ベレニケをチャンドラグプタの妻とし、メガステネス
		を使者として派遣するなど友好関係にあった。パルティア・ローマが台頭すると、政略結婚
		によりマケドニア・エジプト・バクトリアなどのヘレニズム国家と同盟を結んで対抗した。
		 経済面では、スサ、セレウキア、ドゥラ・エウロポスは貿易の中継都市として、首都アン
		ティオキアは商業の中心、ラオディケアは貿易港として繁栄した。最盛期にはセレウキア(
		ティグリス河畔)は人口60万、アンティオキアは人口50万を数えた。
		 文化面では、ギリシア式の建築・彫刻・モザイク画などの文化の東方への伝播に大きな役
		割を果たした。首都アンティオキアには王立図書館が建設され、ギリシアから学者が招来さ
		れ、キリキア地方は多くのストア派の哲学者を輩出したが、学問の発展はアテナイやアレク
		サンドリアには及ばなかった。