サカ・パフラヴァ

Saka / Pahlava Kingdom

マウエス貨幣        アゼス1世貨幣        ゴンドファルネス


サカ・パフラヴァ系図

歴代サカ・パフラヴァ王

年代
建国者 インド・スキタイ朝:マウエス
インド・パルティア朝:ゴンドファルネス
領域 イラン東部・アフガニスタン・パキスタン・北インド・西インド
首都 タキシラ(インド・スキタイ朝)
アレクサンドロポリス・タキシラ(インド・パルティア朝)
ウッジャイン(西クシャトラパ)
主要都市 サーガラ・マトゥラー・シガル・プロフタシア・カブール・バリュガザ
民族 サカ人・パルティア人・ギリシア人・インド人
周辺民族 大月氏・パルティア・インド・グリーク朝・カーンヴァ朝・サータヴァーハナ朝
言語 サカ語・ギリシア語・パルティア語・サンスクリット語・プラークリット語
文字 ギリシア文字・ブラーフミー文字・カロシュティ文字
宗教 ゾロアスター教・ギリシア神信仰・仏教・ヒンドゥー教・ジャイナ教
貨幣 金貨・銀貨・銅貨
産物 インドの綿・インドの香料・インドの宝石・カシミールの毛織物
滅亡 インド・スキタイ:1世紀にクシャン朝により滅亡
インド・パルティア:2世紀にクシャン朝により滅亡
西クシャトラパ:5世紀にグプタ朝により滅亡

		 サカはイラン系の遊牧民族で、ギリシア人にはスキタイと呼ばれ、ペルシア人にはサカイ
		と呼ばれていた。アケメネス朝のキュロス大王を討ち取ったカスピ海東方のマッサゲタイ、
		南ウラルのサウロマタイ・サルマタイなどもスキタイの一種とされる。スキタイは独自の文
		化を持ち、馬具や鎧・刀剣、動物文様に代表される優れた黄金細工などを残した。
		 アケメネス朝の時代、西方のスキタイはダレイオス1世の征討を受けた。一方、シル川(
		ヤクサルテス川)の北に居住した東方のサカはアケメネス朝の支配下に入り、ペルシア戦争
		にも従軍した。アレクサンドロス大王の東征の際にもダレイオス3世の軍にはサカ人の部隊
		があった。アレクサンドロスがソグディアナを征服した際には、サカ人(マッサゲタイ)は
		ソグディアナの豪族スピタメネスと結んでマケドニア軍を度々撃ち破った。
		 アレクサンドロスの死後、ソグディアナに至るまでの地を支配したセレウコスはスピタメ
		ネスの娘アパマを娶っており、サカとは一定の友好関係が結ばれたようである。前3世紀の
		半ばにはバクトリア王国がセレウコス朝から独立し、バクトリア・ソグディアナの地を支配
		した。
		 前160年頃、匈奴に王を殺された月氏が天山山脈北方に移動し、サカ(塞)の地を奪っ
		た。サカは玉突き式に西南に移動し、シル川を越えてバクトリア王国の領内に侵入した。ス
		トラボンはそれらの民族の名をアシオイ、パシアノイ、トカロイ、サカラウロイとしている。
		 前140年頃、月氏は烏孫に駆逐されてサカと同じくシル川を越えて南下した。ストラボ
		ンの挙げた四つの民族の中に月氏も含まれているとする説もある。月氏の分派である康居は
		ソグディアナに定住した。
		 サカと月氏はソグディアナの地をバクトリア王国から奪い、月氏はアム川(オクソス川)
		の北に王庭を置いた。サカはここから数派に分かれたようで、アフガニスタンから東イラン
		の地に至った一派、ヒンドゥークシュ山脈を越えて北パキスタンに至った一派などが存在し
		た。あるいはパミール高原を経てタリム盆地に入り、さらにカラコルム峠を越えて北パキス
		タンに至った可能性もある。漢書は「塞王南越縣度」と、塞王が大月氏に逐われて南に縣度
		を越えたとする。縣度はヒンドゥークシュ山脈あるいはカラコルム山脈を指す。また、漢書
		は「塞種分散、往往為數國」とサカが分散して数国を建国したことを記している。パミール
		高原(葱嶺)周辺には休循・捐毒というサカの小国家が建国された。
		 西に進んだサカは前128年、パルティア王フラーテス2世を破って戦死させた。前12
		3年にはトハラ族がフラーテスの後を継いだアルタバノス2世を破って戦死させた。サカは
		アフガニスタン西部のドランギアナ地方を征服して定住した。その地はサカスタナと呼ばれ
		、サカ族による王国が建設された。その勢力は東方のアラコシアにも及んだ。漢書に見える
		烏弋山離国がこれに相当する。烏弋山離はアラコシアの首都アレクサンドロポリスの音を充
		てたようである。後漢時代には名を排持あるいは排特と改めていたとされるが、排特はパル
		タヴァ(パルティア)の音を当てたものとも考えられる。1世紀に著されたパルティア駅亭
		記はサカスタナのシガルをサカの王城のある都市としている。
		 東に進んだサカは前90年頃に族長マウエス(モガ大王)がパンジャブ地方を征服し、タ
		キシラを首都とした。インド・スキタイ朝の成立である。マウエスの貨幣はカシミール・パ
		ンジャブ・西北パキスタンに分布しており、それらの地方を支配していたと推測される。マ
		ウエスの貨幣には諸王の王の称号が刻されている。
		 マウエスにやや遅れ、パルティア系の名を持つ族長ヴォノネスがアラコシアを支配した。
		ヴォノネスはマウエスとは別系統とされるが、同じインド・スキタイ朝の王とされる。ヴォ
		ノネスは兄弟を副王として共同で貨幣を発行した。ヴォノネスの兄弟スパラホレス、スパリ
		リセスに共通する"SPAR"はスキタイ・マッサゲタイの王族の名に見られる。
		 前60年頃、ヴォノネスの一族とされるアゼス1世が王となった。アゼスは大王(メガロ
		ス)を名乗った強力な王であった。
		 ヴォノネス以後、インド・スキタイ朝はガンダーラを征服し、北インドにも進出し、マト
		ゥラーに総督府を置いて支配した。前57年、マーラヴァの王ヴィクラマディティヤがサカ
		族に勝利してウッジャインを奪ったが、この年がインドのヴィクラマ紀元となった。サカ族
		のアゼス紀元もこの年と考えられていたが、前45年頃とする説が有力になっているようで
		ある。
		 インド・スキタイ朝はヒンドゥークシュ山脈以南・東パンジャブを支配するギリシア人の
		諸王と抗争した。漢書に見える罽賓国はガンダーラあるいはカシミールに比定され、インド
		・スキタイあるいはインド・グリークの支配を受けた。漢書によると、罽賓王烏頭労は度々
		漢の使者を殺した為、関都尉の文忠は罽賓王を殺し、容屈王の子陰末赴を立てた。陰末赴は
		また漢の使者趙徳を殺した為、漢との通交が断絶したという。烏頭労はヴォノネスの兄弟ス
		パリリセス、陰末赴はインド・グリーク朝のヘルマイオスとする説がある。
		 前70年頃にはバクトリアからヒンドゥークシュ山脈を越えて大月氏の勢力が進出し、イ
		ンド・スキタイ朝及びインド・グリーク朝を圧迫した。
		 インド・グリーク朝の最後の王ストラトン2世は後10年頃にインド・スキタイのマトゥ
		ラーの大クシャトラパ(総督)のラジュヴラによって滅ぼされた。
		 一方、西方のサカは前90年頃にパルティアのミトラダテス2世にメルヴ・ヘラートなど
		の拠点を奪われ、その後はパルティアの有力氏族スーレーン家の支配下に入った。後1世紀
		初頭に著されたパルティア駅亭記はサカスタナ・アラコシアのサカの王国をパルティアの属
		領として記している。後20年頃、スーレーン家の出身とされるゴンドファルネスはパルテ
		ィアから独立した。インド・パルティア朝の成立である。その主力がサカであったことから
		サカ・パフラヴァとも呼ばれる(パフラヴァはインドにおけるパルティアの呼称)。当時、
		パルティアは王位を巡る争いにローマが介入するなど、混乱状態にあり、独立には有利であ
		った。
		 東方に進出したゴンドファルネスはガンダーラを征服し、インド・スキタイ朝を征服した。
		インド・スキタイの最後の王アゼス2世と共同で貨幣を発行していた総督アスパヴァルマン
		が、後にゴンドファルネスと共同で貨幣を発行していることから、支配勢力の交代があった
		ことを知ることができる。マトゥラーを支配していたサカ系の大クシャトラパはインド・パ
		ルティアに従属した。1世紀にウッジャインを都として成立した西クシャトラパもサカ系と
		されるが、こちらはインド・パルティアの勢力下には入らなかったようである。
		 パンジャブを征服したゴンドファルネスはタキシラを首都に定めた。エリュトゥラー海案
		内記によると、インド・パルティア朝はインダス川河口の地を領有し、港湾都市バルバリコ
		ンは貿易港としてローマにもその名を知られた。内陸にはスキュティアの都ミンナガルがあ
		ったと記されている。
		 ゴンドファルネスの死後、甥のアブダガゼスが後を継ぎ、その後にゴンドファルネスの弟
		と思われるガドが後を継いだ。その後、別系統のササやパコレスなどのペルシア・パルティ
		ア系の名を持つ王が後を継いだ。
		 1世紀の中頃には大月氏の有力諸侯の五翕侯の一つである貴霜翕侯のクジュラ・カドフィ
		セス(丘就卻)が他の四翕侯を滅ぼし、国号を貴霜(クシャン)とした。クジュラ・カドフ
		ィセスはインド・パルティア朝からカブール(高附)を奪い、罽賓国(インド・スキタイ朝
		の残存勢力か)を滅ぼした。クジュラの子ヴィマ・タクトゥは北インドを征服し、インドに
		おけるインド・パルティアの支配地も失われた。後100年頃の王パコレスはサカスタナか
		らアラコシアまでを支配するのみとなった。インド・パルティア朝は最終的にサカスタナを
		除く全ての領土をクシャン朝に奪われた。
		 サカの系統である西クシャトラパはクシャン朝に従属したが、2世紀初頭のナハパーナ王
		の時にクシャン朝から独立した。ナハパーナは南インドのサータヴァーハナ朝と抗争して敗
		れ、別系統の王とされるカスタナが後を継いだ。カスタナはクシャン朝に再び従属したよう
		である。2世紀半ばのルドラダーマン王はサータヴァーハナ朝を破って勢力を広げた。西ク
		シャトラパは5世紀の初めにグプタ朝に滅ぼされるまでその命脈を保った。西クシャトラパ
		は後78年を元年とするサカ紀元を用いていた。
		 サカは都市に定住することの無かった遊牧民族であり、バクトリア、インド・グリークの
		都市を征服した後はその制度・文化を導入した。顕著な例はギリシア文字を用いた貨幣の発
		行である。
		 サカの信仰に関して、西方のスキタイは竈の女神などを主神として信仰していたが、マッ
		サゲタイなどは日の神・聖火・馬を信仰していたとされる。また、サカの名は鹿(サカー)
		をトーテムとしていたことに由来するとされる。聖火信仰に関して、タキシラのジャンディ
		アールの拝火神殿はサカにより建てられたとも言われる。
		 インド・スキタイの貨幣にはバクトリア、インド・グリークの伝統を受け継ぎ、ゼウス・
		アテナ・ニケなど、ギリシアの神々が刻されており、ギリシアの諸神が王権を守護する者と
		して受容されていたようである。インド・パルティアの時代にタキシラを訪れた新ピタゴラ
		ス派の哲学者アポロニオスは、タキシラの統治者フラオテスとギリシア語で問答を行ってお
		り、支配者階級の間にギリシア文化が愛好されていた形跡も見える。
		 一方、被支配者である民衆にはマウリヤ朝時代からの仏教を信奉する者が多かった。タキ
		シラは特に仏教の一大中心地であった。雑阿含経などの仏典には釈迦(サカ)・鉢羅婆(パ
		フラヴァ)などの王が仏塔や寺院を破壊し、仏教徒を殺したことが記されている。しかし、
		時代と共に仏教を受容する支配者も現れ、マトゥラーの大クシャトラパのラジュヴラはスト
		ゥーパ(仏塔)を建立している。タリム盆地のホータンはサカ族の支配を受け、ホータン・
		サカ語と呼ばれるサカ系の言語が話されていたが、ホータンでは仏教が厚く信仰されていた。
		また、北インド・西インドの支配地域ではヒンドゥー教・ジャイナ教なども信仰されていた。
		 キリスト教の外典であるトマス行伝では、インドに派遣されたとされるイエス・キリスト
		の弟子トマスがインドの王グンダファルをキリスト教に入信させたとされているが、このグ
		ンダファルはインド・パルティアのゴンドファルネス王のことと考えられている。
		 経済面に関して、インド・スキタイ朝における商業活動が盛んであったことは大量に発行
		された貨幣からも知ることができる。首都タキシラは交通の要衝であり、インド・パルティ
		ア・バクトリア・カシミール・中国などの商品がここを通って各方面に運ばれたと推測され
		る。エリュトゥラー海案内記には、インド・パルティアの勢力下にあったインダス河口の貿
		易港バルバリコン、西クシャトラパの勢力下にあった貿易港バリュガザでは、遠くローマと
		の交易が行われていたことが記されている。
		 漢書によると、インド・スキタイの国と思われる罽賓国は各種の目宿・檀・竹・漆などの
		植物、虎魄・璧流離などの宝石を産し、毛織物や刺繍を特産としていた。また、インド・パ
		ルティアの国と思われる烏弋山離国は、宮殿・市街・貨幣・兵器などは罽賓と同じであった
		という。
		 軍事面に関して、遊牧民族であるサカは騎兵を中心とした戦闘を得意としていた。マケド
		ニアの軍隊を苦しめたその機動力を生かした戦術は、ソグディアナ・バクトリアを支配して
		いたギリシア人を駆逐し、さらにパルティアの王を討ち取る程の強盛さを示した。それを誇
		るようにインド・スキタイの貨幣には騎乗する王の像が刻されている。しかし、1世紀にク
		シャン朝が台頭すると、インド・スキタイとインド・パルティアは徐々に領土を奪われ、そ
		の支配下に入った。
		 サカの征服地において、従来のサカ文化を示すような遺物は少なく、碑文などの文字資料
		も限られている。王の名も貨幣などによって知られるのみであり、西洋や中国の断片的な資
		料との照合などによりその実像を僅かに窺い知ることができる。