年代 | 前305〜前30 |
建国者 | プトレマイオス1世・ソテル |
領域 | エジプト・スーダン・リビア・南シリア・パレスティナ・トルコ南岸・エーゲ海諸島・キプロス |
首都 | アレクサンドリア |
主要都市 | メンフィス・テーベ・ナウクラティス・ペルシオン・プトレマイス・ベレニケ・アルシノエ・コプトス |
民族 | マケドニア人・エジプト人・ギリシア人・ヌビア人・ヘブライ人 |
周辺国家・民族 | セレウコス朝・アンティゴノス朝・ペルガモン王国・エーゲ海諸国・カルタゴ・メロエ王国・ナバテア王国・共和政ローマ |
言語 | ギリシア語・エジプト語 |
文字 | ギリシア文字・神聖文字 |
宗教 | エジプト神信仰・ギリシア神信仰・セラピス神信仰 |
貨幣 | 金貨・銀貨・銅貨 |
産物 | 小麦・ガラス工芸・パピルス・亜麻布・アフリカ産象牙・宝飾品 |
滅亡 | 前30年、ローマのオクタウィアヌスに併合され滅亡 |
アレクサンドロス大王配下の武将プトレマイオスが建国した王国。前323年、プトレマ イオスはバビロンの軍会でエジプト総督の地位を獲得した。プトレマイオスは摂政ペルディ ッカスがマケドニアに移送中の大王の遺体を奪い取り、アレクサンドリアに埋葬した。ペル ディッカスはプトレマイオス征討の為にエジプトに進軍したが、部下のセレウコスらに暗殺 された。 フィリッポス2世時代からの将軍アンティゴノスがペルディッカス派のエウメネスを滅ぼ して広大な領土を手に入れると、プトレマイオスはアンティゴノスに逐われたセレウコスを 味方に付け、カッサンドロス・リュシマコスと対アンティゴノス同盟を結成した。 前312年、プトレマイオス・セレウコス連合軍はガザでアンティゴノスの子デメトリオ スを破ったが、前306年にはサラミスでデメトリオスに敗れてプトレマイオスはキプロス を失った。 前305年、マケドニアを支配していたカッサンドロスが王を称すと、プトレマイオスも 対抗して王を称した。プトレマイオス朝エジプトの成立である。プトレマイオス朝の王は代 々エジプトの王号であるファラオを名乗った。 前301年、イプソスの戦いでアンティゴノスが戦死すると、プトレマイオスはエーゲ海 の覇権を獲得した。その後、リュシマコス・セレウコスと共に対デメトリオス同盟を結成、 リュシマコスに娘のアルシノエを嫁がせ、子のプトレマイオスの妻にリュシマコスの娘のア ルシノエを迎えた。プトレマイオス自身はカッサンドロスの妹のエウリュディケを娶ってい たが、エウリュディケの侍女ベレニケを寵愛し、ベレニケの生んだプトレマイオスを後継ぎ とした。エウリュディケとエウリュディケの生んだプトレマイオス・ケラウノス、メレアグ ロス、リュサンドラはエジプトを去った。 プトレマイオスは首都アレクサンドリアにムセイオン・大図書館を建設し、学問の発展に 努め、ファロス大灯台を建設してアレクサンドリアを地中海貿易の拠点とするなど、内政に も力を注ぎ、国家の基礎を築いた。 プトレマイオス1世が死ぬと、子のプトレマイオス2世が後を継いだ。異母兄ケラウノス は後継者から外され、リュシマコスを頼っていたが、リュシマコスを倒したセレウコスを暗 殺してマケドニア王となった。ケラウノスはリュシマコスの妃となっていた異母妹アルシノ エを妻としたが、アルシノエはケラウノス暗殺を図り、失敗するとエジプトに逃亡した。ケ ラウノスはガリア人に敗れて戦死し、後を継いだ弟メレアグロスも追放され、マケドニアは カッサンドロス家の支配に復した。プトレマイオス2世は帰国した姉のアルシノエ2世を妃 とした。リュシマコスの娘アルシノエ1世は後継ぎのプトレマイオスを生んだが、妃の地位 を奪われ追放された。 前274年、プトレマイオス2世はセレウコス朝に攻め込み、アンティオコス1世からフ ェニキアと小アジア沿岸の都市を奪った。このセレウコス朝との戦争(シリア戦争)は六度 に及んだ。 前261年、アンティオコス1世の後を継いだアンティオコス2世はマケドニアのアンテ ィゴノス2世と結んでプトレマイオス朝と開戦し、プトレマイオス朝はコス島の戦いでアン ティゴノス2世に敗れてエーゲ海・小アジアの領土を失った。プトレマイオス2世はバクト リア・パルティアの独立で危機に陥ったアンティオコス2世と休戦協定を結び、娘のベレニ ケをアンティオコスに嫁がせた。 プトレマイオス2世は父同様に学問の発展に努めるとともに海外拡張にも力を注ぎ、アラ ビア半島やエチオピアへの遠征を行った。また、遠くインドのマウリヤ朝のアショーカ王の 下に使者ディオニュシオスを派遣した。 前246年、プトレマイオス2世が没し、子のプトレマイオス3世が後を継いだ。同年、 アンティオコス2世に嫁いだ妹のベレニケが離縁された前王妃のラオディケに夫もろとも殺 されると、プトレマイオスは報復の為にシリアに侵攻し、シリア・小アジアの都市をセレウ コス朝から奪い、首都アンティオキアを占領し、ラオディケを捕らえて処刑した。プトレマ イオス朝はセレウコス朝の貿易港セレウキア・ピエリアまで領土に加えた。プトレマイオス 3世は祖父・父に倣って文化の保護にも力を注ぎ、プトレマイオス朝の最盛期を現出した。 前222年、プトレマイオス3世が没し、子のプトレマイオス4世が後を継いだ。プトレ マイオス4世は権臣ソシビオスに唆され、母のベレニケ2世を殺した。前219年、セレウ コス朝のアンティオコス3世はプトレマイオス朝の混乱に乗じて侵入を開始し、フェニキア 諸都市を攻略、エジプトに向けて進軍した。前217年、ラフィアの戦いでプトレマイオス 朝はアンティオコス3世の軍を破り、征服された都市を奪い返した。 前205年、プトレマイオス4世が没し、子のプトレマイオス5世が後を継いだ。4世の 死はソシビオスによる毒殺とも言われる。ソシビオスと権臣アガトクレスは4世の妃アルシ ノエ3世を殺して事実上国の支配者となった。ソシビオスはその後アガトクレスに粛清され たようで、アガトクレスも暴政の為にペルシオン知事のトレポレモスを旗頭とする反乱軍に 殺された。トレポレモスは自ら摂政となったが、アリストメネスに地位を奪われた。 前202年、アンティオコス3世は混乱に乗じて再びプトレマイオス朝に侵攻を開始した。 プトレマイオス朝の軍はパニオンの戦いで敗北、パレスティナまでの領土を失った。アンテ ィオコスと結んだマケドニアのフィリッポス5世もエーゲ海や小アジアのプトレマイオス朝 の領土を攻略した。エジプトから穀物を輸入していたローマはプトレマイオス朝とセレウコ ス朝・マケドニアとの仲裁を行い、エジプト本土への侵攻は中止された。前195年、アン ティオコス3世の娘クレオパトラをプトレマイオス5世の妃とすることで、和平が成立した。 クレオパトラはエジプト女王クレオパトラ1世となった。 前181年、プトレマイオス5世が没し、子のプトレマイオス6世が後を継ぎ、生母のク レオパトラ1世が摂政となり、国政を執り行った。 前170年、プトレマイオス6世はセレウコス朝にコイレ・シリアの返還を求めた。翌年 、セレウコス朝のアンティオコス4世はエジプトに攻め込み、プトレマイオスを捕虜として その後見人となった。しかし、セレウコス朝に対して優位に立っていたローマはポピリウス を派遣してアンティオコスに撤退を要求した。一方、アレクサンドリア市民はプトレマイオ ス6世の弟プトレマイオス8世を擁立した。アンティオコスの撤退後、二人の王プトレマイ オス6世と8世は協定を結んで共同統治を行った。 前164年、プトレマイオス6世は8世に追放され、ローマに亡命した。翌年、ローマは 6世を助けて帰国させ、8世はキュレネの統治者となった。 前150年、プトレマイオス6世は、セレウコス朝の後継者争いに介入し、アンティオコ ス4世の子を名乗るアレクサンドロス・バラスを後継者として擁立した。アレクサンドロス は6世の娘クレオパトラ・テアを娶り、対立するデメトリオス1世を倒した。その後、アレ クサンドロスがプトレマイオス6世を暗殺しようとした為、プトレマイオスは新たにデメト リオス1世の子デメトリオス2世を支援し、更めてクレオパトラ・テアを娶わせた。 前145年、プトレマイオス6世は娘の身を心配してシリアに進軍したが、アレクサンド ロスとの交戦中に負傷して死亡した。6世の子プトレマイオス7世が後を継いだが、プトレ マイオス8世はエジプトに戻ると、兄の妻であった妹のクレオパトラ2世と結婚し、甥の7 世を殺害して自ら王を称した。8世は自分と対立する多くのアレクサンドリアの学者を追放 した。 前132年、プトレマイオス8世は兄とクレオパトラ2世の子クレオパトラ3世を妻とし た。前131年、不満を懐いていたクレオパトラ2世はクーデターにより夫を追放し、プト レマイオス8世はクレオパトラ3世と共にキプロスに亡命した。 前129年、プトレマイオス8世がエジプトに戻ると、クレオパトラ2世は娘クレオパト ラ・テアの夫デメトリオス2世と同盟を結んでエジプトに攻め込ませた。プトレマイオス8 世は商人の子とされるアレクサンドロス・ザビナスをアレクサンドロス・バラスまたはアン ティオコス7世の子としてシリアに送り込んだ。クレオパトラ2世はデメトリオスと娘を頼 ってシリアに亡命した。前125年、デメトリオス2世はアレクサンドロス・ザビナスに敗 れ、妻クレオパトラ・テアに見捨てられて殺された。翌年、クレオパトラ2世はプトレマイ オス8世と和解して帰国、プトレマイオス8世・クレオパトラ3世と三頭政治を行った。 プトレマイオス8世はクレオパトラ・テアとデメトリオス2世の子アンティオコス8世に 娘のクレオパトラ・トリュファイナを娶わせた。その後、アンティオコス8世は母クレオパ トラ・テアと対立し、母を殺害した。 前116年、プトレマイオス8世が死に、子のプトレマイオス9世が後を継いだが、実権 は摂政のクレオパトラ3世が握った。クレオパトラ3世はプトレマイオス9世の妻である娘 のクレオパトラ4世を追放し、4世はアンティオコス7世の子アンティオコス9世の妻とな った。その後、クレオパトラ4世はアンティオコス8世の妻である姉クレオパトラ・トリュ ファイナに殺され、トリュファイナもアンティオコス9世に殺された。 クレオパトラ3世はプトレマイオス9世を廃して弟の10世を立て、その後また9世を復 位させ、更に追放した。また、プトレマイオス9世の妻であった末娘のクレオパトラ・セレ ネを妹テアを殺したアンティオコス8世と再婚させた。セレネはアンティオコス8世・9世 ・10世の妻となった。プトレマイオス朝は度々セレウコス家の後継者争いに介入し、更に 縁戚関係を強化したが、この頃にはセレウコス朝は既にシリアの地方政権へと転落していた。 前101年、プトレマイオス10世は母クレオパトラ3世と対立して殺害、不仲であった 兄9世と和解してその娘ベレニケ3世を妻とした。前88年、プトレマイオス10世がアレ クサンドリア市民に殺されると、プトレマイオス9世は帰国して復位した。 前81年、プトレマイオス9世が死ぬと、10世の子プトレマイオス11世が後を継いだ。 翌年、プトレマイオス11世はローマのスッラの命令で義母のベレニケ3世と結婚したが、 間も無くベレニケを殺し、自らも反乱により殺された。王位はプトレマイオス9世の子プト レマイオス12世が継いだ。 プトレマイオス12世の王権は弱く、ローマの実力者ポンペイウス・カエサルに取り入っ て自らの後ろ楯とした。この頃にはセレウコス朝は滅亡し、ディオドコイが建設した国家は 既にプトレマイオス朝を残すのみとなっていた。 前58年、ローマにキプロスを奪われると、ローマに贈る莫大な財貨の為に重税を課され ていた市民の反乱が起こり、プトレマイオス12世は娘のクレオパトラ(後の7世)と共に ローマに亡命した。国政は12世の妻クレオパトラ6世と娘のベレニケ4世が執り行った。 プトレマイオス12世はローマに帰国の支援を要請し、前55年にポンペイウスの命を受け たガビニウスの力を借りて帰国を果たした。ガビニウスは抵抗したベレニケ4世を殺した。 プトレマイオス12世はローマ人を宰相である財務長官に任命し、エジプトはローマの完全 な影響下に置かれるようになった。 前51年、プトレマイオス12世が没し、子のプトレマイオス13世が後を継いだ。国政 は妻でもある姉のクレオパトラ7世が執り行った。カエサルとポンペイウスの争いで、クレ オパトラは父の恩人であるポンペイウスを支援した。 前48年、クレオパトラはプトレマイオス13世の側近により追放された。一方、ファル サロスの戦いで敗れたポンペイウスが亡命してくると、プトレマイオス13世の側近はこれ を殺した。クレオパトラはエジプトに進軍したカエサルの下を訪れ、その美貌と才知でカエ サルを魅了し、その支援を取り付けた。 前47年、カエサルはアレクサンドリアに攻め込んだ。この時の戦火によりアレクサンド リアの図書館は焼失した。プトレマイオス13世はナイル河畔の戦いに敗れて溺死し、クレ オパトラはエジプトの支配者に返り咲き、次弟のプトレマイオス14世と結婚した。その一 方で、クレオパトラはカエサルとの子カエサリオンを出産した。 クレオパトラはカエサルの凱旋に随行してローマに渡ったが、カエサルが暗殺されるとエ ジプトに逃げ戻った。 前41年、クレオパトラはカエサルの仇を討ったアントニウスと会見し、今度はアントニ ウスを魅了し、その強大な軍事力を後ろ盾とした。翌年にはアントニウスの子アレクサンド ロス・ヘリオスとクレオパトラ・セレネを出産した。 前37年、クレオパトラはアントニウスと結婚し、翌年には三人目の子プトレマイオス・ フィラデルフォスが生まれた。アントニウスはクレオパトラとの恋に溺れ、ローマの東方領 土を分割し、クレオパトラと自分の子の封地とした。また、オクタウィアヌスの姉オクタウ ィアを離縁した。これらの行いはローマ人の強い反感を買った。前32年、オクタウィアヌ スは元老院の支持を得てアントニウスとクレオパトラに宣戦布告した。翌前31年、アクテ ィウムの海戦でアントニウスは大敗を喫し、エジプトに逃亡した。 前30年、エジプトに上陸したオクタウィアヌスの軍はアントニウスを追い詰め、アント ニウスはクレオパトラが死んだという報告を信じて自ら命を絶った。クレオパトラはオクタ ウィアヌスに降伏した後に自殺し、ここに三百年近く続いたプトレマイオス朝は滅んだ。 クレオパトラとカエサルの子カエサリオンは殺され、アントニウスの三人の子はローマに 連行された後、オクタウィアに引き取られた。 プトレマイオス朝はエジプトの伝統を尊重し、極端なギリシア化は行わなかったが、公用 語はギリシア語であり、支配層はほとんどギリシア人であった。一方、王はエジプトの慣例 に倣ってしばしば自分の姉妹と結婚して女王とした。女王の権力は非常に強く時に王を追放 し、自ら単独で政治を行うこともあった。クレオパトラ7世はその代表である。また、宰相 の財務長官が幼君を操り専権を振るうことも多かった。 経済面では、エジプトは豊かな穀物に恵まれ、地中海・紅海貿易などにより経済的に発展 していた。宰相は財務長官で、王立銀行官、県郡村の主計官、会計監査官、徴税請負人など 、財政に関する官制が発達していた。またあらゆる商行為に対する細かな課税システムが構 築されていた。 産業面では、ガラス製品や金銀宝石細工などは特によく知られ、書写材料であるパピルス はエジプトの王の専売品でもあった。フェニキアが領土であった時はレバノン杉・染料など も主要な産品であった。 貿易面では、紅海を隔てたアラビア半島から香料・没薬・インドの産物などを輸入し、ア レクサンドリア・キプロスなどを拠点として地中海諸国との貿易が行われた。主な輸出品は 小麦・パピルス・ガラス工芸・金銀宝石細工、輸入品はオリーブ油・羊毛などであった。貿 易の発展の為に、貿易港・運河・隊商路の整備などが行われた。 行政面では、行政単位としてノモス(県)トポス(郡)コーメ(村)が置かれ、地方総督 としてノマルコス・ストラテゴスが統治を行った。領内の土地は基本的に王領地であり、贈 与により私有が認められた。土地は台帳が作られ、国家により管理されていた。プトレマイ オス朝の税は重く、重税に苦しんだエジプト人はしばしば反乱を起こした。 軍事面では、建国当初からマケドニア人の君主たちと地中海の覇権を争い、シリアのセレ ウコス朝とは六度に渡る戦争を行った。また、キプロス島を支配するプトレマイオス朝は地 中海の島々を巡ってアンティゴノス朝マケドニアとも戦争を行った。プトレマイオス5世の 時代には上エジプトでヌビア人が反乱を起こして独立王朝を建国した。また、王族の争いに よる内乱、アレクサンドリア市民の反乱、エジプト人の反乱も度々勃発した。 セレウコス朝の侵入に際し、ローマに仲介を頼んで以降、プトレマイオス朝はローマの軍 事力への依存度を高め、追放された王がローマに支援を頼むことが度々あった。その結果、 ローマの介入を招き、多額の負債を背負い、更にはキュレネ・キプロスなどの領土を次々に ローマに吸収される結果となった。 外交面では、セレウコス朝とは度々戦争を行う一方で、政略結婚も行われ、プトレマイオ ス3世はアンティオコス2世に妹ベレニケを娶わせ、プトレマイオス5世はアンティオコス 3世の娘クレオパトラを娶った。プトレマイオス6世の娘クレオパトラ・テアはアレクサン ドロス1世、デメトリオス2世、アンティオコス3世の三人の王の妻となり、セレウコス5 世、アンティオコス8世、アンティオコス9世の三人の王を生んだ。プトレマイオス8世の 娘クレオパトラ・セレネは兄のプトレマイオス9世の妻となり、後にセレウコス朝に嫁いで アンティオコス8世、アンティオコス10世の妻となり、セレウコス7世、アンティオコス 13世を生むなど複雑な姻戚関係が形成された。また、セレウコス朝の後継者争いに際し、 度々自らの息の掛かった人物を送り込んだ。セレウコス朝の弱体化にはプトレマイオス朝の 政略が大きく影響していた。一方、ローマには常に屈従外交を行いその支援を仰いだ。 エーゲ海の支配を巡ってはアンティゴノス朝と争い、ロドス・コスなどの島々と同盟関係 を築き、ギリシア本土を狙ってアテナイ・スパルタとも同盟を結んだ。 また、プトレマイオス2世は遠くインドのマウリヤ朝に使者ディオニュシオスを送り、ア ショーカ王の使者がエジプトを訪れた。 学問の面では、当代最高の学者たちがアレクサンドリアのムセイオンに集まり、アレクサ ンドリアは世界の学問の中心地となった。文献学・修辞学・地理学・数学・天文学・工学・ 医学など様々な分野で一流の学者が輝かしい成果を挙げた。アレクサンドリアの図書館には アリストテレスの蔵書を初め、膨大な数の書物が集められ、アレクサンドリアの学者たちの 研究成果もそこに加えられた。旧約聖書もギリシア語に翻訳され、図書館の蔵書となった。 宗教面では、王はギリシア神の信仰を強制することは無く、エジプトの伝統の神々の信仰 を尊重する一方、ギリシアのゼウスとエジプトのオシリス・アピスを習合したセラピス神を 生み出して宗教的融和を図った。また、古代のファラオに倣い、デンデラ、エスナ、エドフ 、コム・オムボなど積極的な神殿建設を行った。テーベの神官団は非常に強い影響力を持ち 王もその待遇を配慮しなければならなかった。 プトレマイオス朝は巧みな外交戦略と地理的な有利さもあり、ヘレニズム国家の中でも最 後まで命脈を保ったが、過酷な支配による反乱が国力を衰退させ、ローマへの依存が衰退に 拍車を掛けた。最後の女王クレオパトラはカエサルとアントニウスを抱き込んで王朝の復興 を目論んだが、カエサルの暗殺、その野心がローマの反感を買ったこと、自らの戦争経験の 不足から最終的にローマに国を奪われることとなった。