パルティア帝国

Parthian Empire

アルサケス        ミトラダテス1世        ミトラダテス2世


パルティア王家系図

歴代パルティア王

年代 前250頃〜後228
建国者 アルサケス
領域 イラン・イラク・シリア・トルコ・アルメニア・トルクメニスタン・アフガニスタン・アラブ諸国
首都 ニサ・ヘカトンピュロス・クテシフォン
主要都市 バビロン・セレウキア・エクバタナ・ラガイ・メルヴ・ドゥラユーロポス・パルミラ
民族 イラン系パルニ族・ペルシア系諸族・ギリシア人・サカ族・アラブ人
周辺民族 ローマ・クシャン朝・サルマタイ・アラン族・サカ族
言語 ギリシア語・パフラヴィ語・パルティア語・アラム語
文字 ギリシア文字・アラム文字・パルティア文字・ハトラ文字
宗教 ミトラ教・ゾロアスター教・ユダヤ教・キリスト教・仏教
貨幣 銀貨・銅貨 テトラ・ドラクマ銀貨・ドラクマ銀貨・オボル銅貨 ギリシア文字(後期はアラム文字)を使用
産物 絨毯・織物・カルマニアのガラスと陶器・マルギアナの鉄・ペルシア湾の真珠・ニサの馬・ヒルカニアの葡萄
滅亡 228年、ササン朝のアルダシール1世に敗れて滅亡

		 前3世紀にアルサケス1世が建国したイラン系遊牧民の王朝。前250年頃、セレウコ
		ス朝シリアのパルティア総督アンドラゴラスは、バクトリアを建国したディオドトスと同
		盟を結んでセレウコス朝から独立した。パルニ族のアルサケス・ティリダテスの兄弟は反
		乱を起こしてアンドラゴラスを殺した。アルサケスは王を名乗り、パルティア王国を建国
		、都をニサに定めた。
		 アルサケスが戦死すると、ティリダテスが後を継ぎ、バクトリアと同盟を結んでセレウ
		コス朝の軍を退けた。ティリダテスは都をニサからヘカトンピュロスに移した。
		 前171年に即位したミトラダテス1世は、四方に領土を拡大、バクトリアからヘラー
		トを奪い、メディアを征服、セレウコス朝からメソポタミアを奪い、ティグリス川東岸に
		新都クテシフォンを築いた。
		 ミトラダテス1世の子フラーテス2世は、セレウコス朝のデメトリオス2世を捕らえ、
		アンティオコス7世を討ち取るなど、セレウコス朝に大きな打撃を与えた。前130年代
		、サカ族(おそらく月氏に逐われた塞族)が東方領土に侵入を開始した。フラーテス2世
		はこれを征討したが、敗れて戦死し、後を継いだアルタバノス2世もトハラ族に敗れて戦
		死した。この頃、ティグリス河口ではアラブ人のヒスパシオネスが自立してカラケネ王国
		を建国、メソポタミア総督のヒメロスも独立してバビロン王を名乗った。
		 アルタバノスの子ミトラダテス2世は、サカ族と和平を結んで、カラケネ王国を服属さ
		せ、メソポタミアの支配を回復した。更にアルメニアを服属させ、諸王の王を名乗った。
		 この時代に張騫の報告により西域の事情を知った漢の武帝の使者が到来した。ミトラダ
		テスは武将に騎兵二万人を率いて東の国境まで使者を出迎えさせ、漢に答礼の使者を遣わ
		し、駝鳥の卵や眩人(奇術師)などを贈った。
		 ミトラダテスの晩年に弟オロデス1世が自立、兄を殺して王位を奪った。この頃よりパ
		ルティアは混乱状態となり、各地で諸侯が独立、アルメニアに北メソポタミアを奪われた。
		 その後、サカ族の支持を受けたシナトルケスがパルティア王となり、シナトルケスの子
		フラーテス3世はアルメニアと対ローマ同盟を結んだ。ローマは前63年にセレウコス朝
		を滅ぼしてシリア属州とし、パルティアの前に立ちはだかる巨大な壁となった。
		 フラーテス3世の子ミトラダテス3世とオロデス2世は父を殺し、ミトラダテス3世が
		王となった。オロデス2世は兄ミトラダテス3世を追放し、ローマ領となったシリアに侵
		攻した。前53年、パルティアの将軍スーレーンはカルラエでローマのシリア総督クラッ
		ススを討ち取り、ローマに大きな打撃を与えた。オロデス2世はその後もシリア・パレス
		ティナの支配を巡り、ローマと熾烈な抗争を繰り広げたが、自らも子のフラーテス4世に
		殺された。
		 フラーテス4世はローマのアントニウスを破って強勢を示したが、ローマと通じた簒奪
		者ティリダテス2世の侵攻に苦しみ、アウグストゥスに使者を送ってローマと和平を結ん
		だ。アウグストゥスはフラーテス4世の王子を人質としてローマに送らせ、東方との通商
		を認めさせ、女奴隷ムーサをフラーテス4世に贈った。ムーサは子のフラーテスを生んで
		妃となり、子を王位に就ける為にフラーテス4世を殺害した。
		 その後、パルティアは王位を巡る抗争が相継ぎ、王の血統さえはっきりしなくなる。メ
		ディア王家出身のヴォロガセス1世はパルティア王となると、アルメニアを巡ってローマ
		と抗争し、皇帝ネロにアルメニアの支配を認めさせた。ヴォロガセスの後を継いだパコル
		ス2世は漢に使者を送り、漢からは西域都護班超の部下甘英がパルティアを訪れた。
		 パコルス2世の弟オスロエスはアルメニア王位を巡り、ローマ皇帝トラヤヌスと対立し
		た。トラヤヌスはパルティアに侵攻、首都クテシフォンを占領し、アルメニア・メソポタ
		ミアをローマの属州に加えた。
		 トラヤヌスの死後、後を継いだハドリアヌスは征服地を放棄したが、その後もパルティ
		アとローマの抗争は続き、マルクス・アウレリウス、セプティミウス・セウェルス、カラ
		カラらのローマ皇帝はパルティア遠征を行った。
		 3世紀に入ると、各地で反乱が勃発し、ペルシス地方の有力者アルダシールは諸勢力と
		通じてパルティアを圧迫した。最後のパルティア王アルタバノス5世はホルミズドの戦い
		でアルダシールの捕虜となり、パルティアは六世紀に及ぶ歴史に幕を閉じた。アルサケス
		家の血を引くアルメニア王家はパルティアの滅亡後も長く命脈を保った。
		 パルティアは重装・軽装騎兵を主体とする機動力を活かした散開戦術と、騎乗射撃(パ
		ルティアンショット)により強勢を誇り、しばしばローマ軍を苦しめた。
		 政治機構は基本的にアケメネス朝時代のものが踏襲されたが、従属王国の国王の力が強
		く、帝国が弱体化するとしばしば自立した。パルティアには七大氏族という有力貴族がお
		り、その中で最も力のあったスーレーン家は王の即位の際に頭に王冠を置く権限を有して
		いた。
		 パルティアは漢とローマの間に在り、シルクロード貿易に従事する商人たちからの通行
		税で大きな収益を上げ、パルミラやドゥラ・ユーロポスなどは貿易の中継都市として栄え
		た。
		 文化的にはペルシア文化とヘレニズムの融合が行われたが、パルティア人は質朴な気質
		であった為、独自の文化はあまり発展しなかった。宗教的にはミトラ神がパルティアの守
		護神とされ、ゾロアスター教の諸神も崇拝された。一部の地域では仏教、ユダヤ教、キリ
		スト教なども信仰された。アルシャク朝アルメニアは301年に王がキリスト教に帰依し
		た。