マケドニア王国

Macedonian Kingdom

フィリッポス2世        アレクサンドロス3世        フィリッポス5世


マケドニア王家系図

歴代マケドニア王

年代 前808頃〜前168
建国者 カラノスあるいはペルディッカス1世
領域 ギリシア・マケドニア・トルコ・ブルガリア・セルビア・アルバニア
首都 アイガイ・ペラ
主要都市 フィリッポイ・アンフィポリス・ラリッサ・ペリントス・アブデラ・アンティゴネイア・カッサンドレイア・テッサロニカ
民族 ドーリア系マケドニア人・イオニア人
周辺民族 ギリシア人諸国家・アケメネス朝・トラキア人・共和政ローマ・ペルガモン王国
言語 マケドニア方言・コイネ
文字 ギリシア文字
宗教 ギリシア神信仰・ヘラクレス信仰・アモン神信仰
貨幣 金貨・銀貨・銅貨
産物 木材
滅亡 168年、ピュドナの戦いでローマに敗れて滅亡

		 ギリシア北東に位置するドーリア人の王国。伝説では、ヘラクレスの子孫カラノスが初代
		王とされ、ヘロドトスは前7世紀のペルディッカス1世を初代王とする。マケドニアが歴史
		の表舞台に現れるのは前5世紀のアレクサンドロス1世の時代からである。アレクサンドロ
		ス1世はペルシア戦争でペルシア側についた。その後もペロポネソス戦争など、ギリシア諸
		国の戦争に乗じてマケドニアは勢力を拡大した。前4世紀のフィリッポス2世はマケドニア
		式ファランクスと呼ばれる長槍部隊を武器に、前338年にカイロネイアの戦いで当時の強
		国テーバイを倒してコリントス同盟の盟主となった。
		 前336年、フィリッポス2世が部下に暗殺されると、子のアレクサンドロス3世(大王
		)が即位した。大王は父の死後に起こった外敵の侵入やギリシア諸都市の反乱に素早く対処
		し、父の宿願であるペルシア征服を目指して東方に進軍した。
		 前333年、イッソスの戦いで圧倒的な兵力差を物ともせず、ペルシアのダレイオス3世
		の軍を破ると、シリア・パレスティナ・エジプトを征服。エジプトでは後のプトレマイオス
		朝の都アレクサンドリアを建設した。アレクサンドリアという名の都市は征服先の各地に建
		設された。
		 前331年、ガウガメラの戦いで再びダレイオスを破り、ダレイオスは軍を棄てて東方に
		逃走した。大王はその後を追い、バビロンを占領、ペルシアの王都ペルセポリスを焼き払い
		、ギリシア人の積年の恨みに報いた。
		 ダレイオスは逃走中にバクトリア総督ベッソスに殺され、ベッソスはペルシア王を僭称し
		た。大王はこれを撃つべく軍を進めたが、ベッソスは部下の裏切りにより大王に引き渡され
		処刑された。ここに栄光を誇ったアケメネス朝ペルシアは滅んだ。
		 大王は更にバクトリア・ソグディアナを征服、西北インドではポロスらインド諸侯を破り
		、アケメネス朝の旧領をほぼ全て手中にし、ギリシアからインドに及ぶ大帝国が築かれた。
		 前325年、北インドに軍を進めようとした大王に対し、度重なる戦争に疲れた兵士たち
		が進軍を拒否した為、大王は仕方なく帰還を決断した。バビロンへの帰還途中に大王はスサ
		で集団結婚式を挙げ、ギリシア人とペルシア人の融合を図った。
		 前323年、大王は33歳の若さでバビロンで熱病に罹り急死した。一説には重臣アンテ
		ィパトロスの子カッサンドロスによる毒殺と言う。
		 大王の死後、バビロンの軍会で大王の兄アリダイオスが王に立てられ、フィリッポス3世
		となり、ペルディッカスが摂政となった。大王の遺腹の子アレクサンドロス4世も共治王と
		された。これに対し、ペルディッカス派と反ペルディッカス派の抗争が勃発、後継者(ディ
		アドコイ)戦争に発展した。
		 ペルディッカスが暗殺されると、後継者たちはトリパラディソスの軍会を開き、属州の再
		分割を行い、宿将アンティパトロスが摂政に就任した。アンティパトロスの死後、後を継い
		で摂政となったポリュペルコンは、カッサンドロス、アンティゴノスらと対立し、新たな抗
		争が展開された。
		 大王の母オリュンピアスはポリュペルコンと結んでマケドニアに侵入、フィリッポス3世
		を捕らえて処刑した。カッサンドロスは勢力を盛り返してマケドニアを回復し、オリュンピ
		アスを捕らえて殺害した。アレクサンドロス4世もカッサンドロスに軟禁され、前311年
		に母ロクサネとともに殺害された。前309年にポリュペルコンにより大王の遺児ヘラクレ
		スが殺されると、大王の血筋は断絶した。
		 前305年、カッサンドロスはマケドニア王を名乗り、カッサンドロス朝マケドニアが成
		立した。アンティゴノス・セレウコス・プトレマイオスら勝ち残ったディアドコイたちもそ
		れぞれ王を名乗った。
		 カッサンドロスの死後、その子供たちは王位を巡って争い、前294年にアンティゴノス
		の子デメトリオス1世が混乱に乗じてマケドニアを奪い、アンティゴノス朝マケドニアが成
		立した。その後、マケドニア王位はエペイロス王ピュッロス、トラキア王リュシマコス、エ
		ジプト王プトレマイオスの子ケラウノス、デメトリオスの子アンティゴノス2世らの手を転
		々とし、最終的にアンティゴノス2世がマケドニアの支配を確立した。
		 ただ、大王が征服した東方領のほとんどはセレウコス朝の支配に入り、アンティゴノス朝
		はマケドニアの旧領を支配するのみであった。その後、アンティゴノス朝はギリシアの支配
		を巡り、アイトリア同盟・アカイア同盟と抗争を繰り広げた。
		 前3世紀の末、イタリア半島を統一して勢力を拡大していたローマとの抗争が勃発。フィ
		リッポス5世はカルタゴやセレウコス朝と結んでローマと戦ったが、ローマの強大な軍事力
		の前に敗北、親ローマ路線に転向した。マケドニア最後の王ペルセウスは、ローマに対抗姿
		勢を示し、ローマの攻撃を招いた。前168年にピュドナの戦いでペルセウスはローマの捕
		虜となり、アンティゴノス朝は滅亡した。前146年に対ローマ反乱が鎮圧されると、マケ
		ドニアはローマの属州となった。