クシャン帝国

Kushan Empire

ヴィマ・カドフィセス        カニシカ大王        クシャン王像


クシャン王家系図

歴代クシャン王

年代 60頃〜250頃
建国者 貴霜翕侯クジュラ・カドフィセス
領域 パキスタン・アフガニスタン・ウズベキスタン・タジキスタン・北インド
首都 夏:カピシ 春・秋:プルシャプラ 冬:北インド
主要都市 カーブル・バクトラ・タクシラ・モドゥラ・パータリプトラ
民族 イラン系?クシャン人・ギリシア人・サカ族・パルティア人・インド諸族
周辺民族 康居・大宛・北匈奴・パルティア・サータヴァーハナ朝・インド諸王国・インドパルティア朝
言語 バクトリア語・ギリシア語・プラークリット語・ガンダーラ語
文字 ギリシア文字・カロシュティ文字
宗教 ゾロアスター教・仏教・バラモン教・ギリシア神信仰
貨幣 金貨・銀貨・銅貨 ギリシア文字とカロシュティ文字を併用
産物 バダフシャンのラピスラズリ・カシミールの毛織物・インドの象牙・瑪瑙・香料・胡椒・綿布
滅亡 250年頃、ササン朝により征服され滅亡

		 1〜3世紀に中央アジアから北インド一帯を支配した王朝。前160年頃、匈奴に逐われ
		た大月氏は中国甘粛地方から西遷、前140年頃にバクトリア地方の大夏を滅ぼした。大月
		氏には翕侯と呼ばれる五つの有力諸侯がおり、クシャン朝を建国したクジュラ・カドフィセ
		スはその一つ貴霜翕侯あった。大月氏はイラン系とされるが、貴霜翕侯が大月氏と同じ民族
		であったかは定かではない。
		 クシャン朝の祖クジュラ・カドフィセスは『後漢書』西域伝には丘就卻の名で記され、1
		世紀半ばに他の四翕侯を滅ぼし、自立して王となり、国号を貴霜(クシャン)としたが、漢
		からはその旧称である大月氏の名で呼ばれた。クジュラは更に安息(インド・パルティア朝
		)から高附(カーブル)を奪い、バクトリア・カシミール地方を征服した。クジュラの子の
		閻膏珍は北インドをインド・パルティア朝から奪い支配下に置いた。
		 2世紀に即位したカニシカ王はガンジス川流域にまで版図を広げた。カニシカは仏教を保
		護し、多くの仏塔・寺院を建設し、その命により第四回仏典結集が行われた。また、都プル
		シャプラを中心としたガンダーラ地方ではギリシア的な作風を持つ仏像が多く作られた。仏
		像が初めて作られたのは一般にクシャン朝においてのこととされる。
		 北・中インドを支配したクシャン朝は西は海路を通してローマ帝国と貿易を行い、東はシ
		ルクロードを通して中国と通交していた。ローマからは金やガラス器が、中国からは絹や漆
		などが輸入された。漢の明帝が仏像を求めて使者を遣わしたのはクシャン朝初期のことであ
		る。中国とはこの他に海路またはビルマ・ルートなどの交易路もあった。
		 クシャン朝は東西交易の要地を占め、インド・ペルシア・ギリシア・ローマ・サカ・中国
		の宗教・学問・技術・美術・工芸などの文化の交流にも大きな役割を果たした。中国に渡っ
		たクシャン人は月氏の別名月支から支姓を名乗った。漢の支婁迦讖、呉の支謙は訳経僧とし
		て名を知られた。
		 3世紀に入ると、クシャン朝はパルティアを滅ぼしたササン朝の侵入を受けた。229年
		、ヴァースデーヴァ(波調)は魏に使者を送ったが、これは魏の救援を求めたものとも考え
		られる。魏の明帝はヴァースデーヴァを親魏大月氏王として冊封した。
		 その後もササン朝の侵攻は続き、3世紀半ばにはクシャン朝はその支配下に入った。ササ
		ン朝は王子を派遣してその地を治めさせた。これをクシャノ・ササン朝という。
		 クシャン朝については極端に文字資料が少なく、漢籍の他には仏典の断片的記述や碑文な
		どが残っている程度である。
		 政治機構については、クシャトラパ(サトラップ)と呼ばれる太守を置いて地方を統治さ
		せていたことが分かっているが、官僚制度の詳細は不明である。
		 軍事的には南方のインドに勢力を伸ばしたが、北方の康居とは婚姻を結び、西方のパルテ
		ィア、東方の漢とも比較的友好を保っており、軍事よりは商業による発展を重んじたようで
		ある。