羊続伝



羊続は字を興祖という。太山平陽の人である。
その七代の先祖まで二千石・卿校であった。祖父の羊侵(ケ隲伝は羊浸に
作る。)は安帝の時に司隷校尉となり、父の羊儒は桓帝の時に太常となった。
羊続は忠臣の子孫である事から郎中に任命された。
官を去った後、大将軍の竇武の府に召された。
竇武が倒されると、党人の獄に連座して禁錮され、十余年の間、隠居して
沈黙を守った。
党錮の禁が解かれると、また太尉の府に召された。四度職を移って廬江
太守となった。
後に揚州の黄巾賊が舒(廬江郡)を攻めて城郭を焼き払った。
羊続は県内の二十歳以上の男子を徴発して、全員に武器を持たせて陣を
固めた。年少の者には水を背負って運ばせ、火に注ぎ掛けさせた。
羊続は数万人を呼び集め、軍を併せて力戦し、大いに賊を破った。
郡一帯は平和を取り戻した。
その後、安風(廬江郡)の賊の載風らが反乱を起こした。
羊続はまたこれを撃ち破り、三千余級の首を斬り、渠帥を生け捕りにした。
その他の賊の仲間は許して平民とし、農具を与えて農業に従事させた。
中平三年(186)に江夏の兵趙慈が謀反を起こして、南陽太守の秦頡を
殺し、六県を攻め落とした。
朝廷は羊続を南陽太守に任命した。郡境に入る際、羊続はくたびれた服を
身に着け、間道から郡に入り、童子一人を従えて県・邑を見て回り、風説
を収集した後に正式に郡に入った。
羊続が県令・県長で貪欲な者、清廉な者、官吏・民衆で善良な者、狡猾な
者などの実情を全て予め知っていたので、郡内の人間は驚き竦んで、震え
上がらない者はいなかった。
羊続はただちに兵を発して、荊州刺史の王敏とともに趙慈を撃ってこれを
斬り、五千余級の首を挙げた。
南陽の諸県にいた残りの賊たちはともに羊続の下にやって来て投降した。
羊続は上奏して賊に付いていた者たちを許させた。
賊はすっかり平定された。
羊続は政令を布告して民の利害を調査したので、人々は喜んで服した。
時に力のある豪族の家は贅沢・華美を貴ぶ者が多く、羊続はこれに深く
心を痛めていた。
羊続自身は常に破れた衣服を身に着け、粗末な食事を摂り、ぼろぼろの
馬車に乗っていた。
かつて府丞が生魚を献じた事があった。羊続はこれを庭の木に吊して
おいた。後に丞がまた生魚を勧めると、羊続は前に木に吊しておいた物
を出してその申し出を断った。
後に羊続の妻が子の羊秘とともに郡の役所に訪ねて来たが、羊続は門を
閉ざして中に入れなかった。妻は自ら羊秘を連れて羊続の蔵を開けて、
中の物を取り出させたが、ただ粗末な布団と破れた短衣と塩・麦が数石
あるだけであった。
羊続は振り返って、羊秘に「儂自身が持っている物はこんな物だけだ。
お前の母に何を与えられようか。」と言って、母とともに帰らせた。
六年(189)に霊帝は羊続を太尉にしようとした。当時、三公に任命
された者は皆、東園の礼銭として千万に上る銭を納める事になっていた。
帝は中使(天子の使者)にこれを管理させ、この官を左[馬芻]と名付けた。
左[馬芻]は行く先々で礼を以て迎えられ、厚く贈り物を贈られていた。
(左[馬芻]が南陽にやって来ると、)羊続は左[馬芻]を単座に座らせ、
粗末などてらを奉り、これを示して言った。「臣が持っているのはただ
これだけでございます。」
左[馬芻]がこれを報告すると、帝は喜ばなかった。この為に三公の位に
登る事は無くなった。
代わりに召し寄せて太常とする事にしたが、まだ実行に移さないうちに
羊続は病で死んだ。
時に年四十八であった。葬儀は簡単にして香典を受け取らぬように遺言を
残した。
古い制度では二千石(太守)が死んだ時の官の香典は百万銭であったが、
府丞の焦倹は羊続の遺志に従って、一銭も受け取らなかった。
帝は詔書によってこれを褒め、太山太守に命じて、郡府の香典の銭を羊続
の家に賜った。