楊震伝



楊震は字を伯起という。弘農華陰の人である。八世の祖楊喜は高祖の時に
功を立てて赤泉侯に封じられた。(※史記に曰く。楊喜は項羽を追って
討ち取った功によって侯に封じられた。(太尉楊震の碑では楊熹に作る)
高祖父の楊敞は昭帝の時に丞相となり、安平侯に封じられた。父の楊宝は
欧陽尚書を習い、哀帝・平帝の世に隠居してそれを教授した。(※続斉諧記
に曰く。楊宝は九歳の時に華陰山の北に行った際、一羽の黄雀が梟に襲われて
木の下に落ち、螻(けら)や蟻の為に苦しんでいるのを見て、これを手に
取って持ち帰り、布の箱の中に入れて介抱した。(餌には)黄花(菊)だけ
を与えた。黄雀は百余日で羽根が生えそろって飛び去っていった。その夜、
黄色の衣を着た童子が尋ねて来て、楊宝に向かって再拝して言った。「私は
西王母の使いでございます。貴方はお優しくも困っているところを救って
下さり、本当に親切にお世話をして下さいました。」そこで、白環四つを
楊宝に渡し、「貴方の子孫が清らかな心を持つならば、位は三公に昇り、
まさにこの環のようになるでしょう。」と言った。)
居摂二年(AD7)、<龍共>勝・<襲共>舎・蒋[言羽]とともに(王莽
から)徴されたが、楊宝は応じずに逃げ出して所在をくらました。(※
<襲共>勝は字を君賓、<襲共>舎は字を君倩、蒋[言羽]は字を元卿という。
ともに高い節義によって名を知られたと前書に見える。)
光武帝はその節義を尊んで、建武年間に公車を遣わして特に召しだそうと
したが、老齢と病気の為に参上せず、家で没した。
楊震は若くから学問を好み、太常の桓郁から欧陽尚書を教授され、経書に
明るく、広範な書物に目を通し、内容を窮め尽くさない物は無かった。
この為、儒者たちはともに語って「関西の孔子といえば楊伯起だ。」と
言った。
常に湖県(京兆郡)の間を転々として、数十年の間、州郡が丁重に招いて
も出仕しなかった。(※続漢書に曰く。楊震は学問を教授する事二十余年。
州が度々出仕を請うたが、病と称して官に就かなかった。若くに父を亡く
して、家は貧しかったが、母と二人暮らしで、土地を借りて作物を育て、
母の世話をして養った。かつて弟子たちの中に藍を植えるのを助ける者が
あったが、楊震はすぐさま苗を取り返して、その後の手伝いを拒んだ。
郷里の人々は楊震を孝子であると称賛した。)
人々は晩暮(老人)扱いしたが、楊震の学問への志はますます篤かった。
その後、冠雀(こうのとり)が三匹の[魚亶]魚(鰻の事か?)を銜えて講堂
の前に集まって来た事があった。都講(塾頭)が魚を手に取って、進み出て
言った。「蛇・[魚亶]は卿・大夫の服の模様でございます。三という数は
三公を表わします。先生がこれより三公に昇られるという徴でしょう。」
楊震は年五十で州郡に仕え始めた。
大将軍のケ隲は楊震の賢才を聞き、召し寄せて茂才に推薦した。四度職を
移って荊州刺史・東莱太守となった。
楊震は東莱郡に向かう途中に昌邑を通った際、以前荊州で茂才に挙げた
県令の王蜜と会見した。夜が更けた頃、王蜜は金十斤を手にして、楊震に
贈ろうとした。楊震が「私は貴方を知っているが、貴方が私(の性格)を
知らないとはどういう事か。」と言うと、王蜜は「今は夜中です。この事を
知る者はおりません。」と答えた。楊震は「天が知っている。神が知って
いる。私が知っている。貴方が知っている。どうして知る者がいないなど
と言えようか。」と言った。王蜜は恥じて部屋を出ていった。
後に[シ豕]郡太守に転任したが、公正潔白で私的に人と会ったりしなかった。
その子孫はいつも粗末な食事を取り、車に乗らずに足で歩いた。そこで、
旧知の長者たちは生業に就かせようとしたが、楊震は首を縦に振らず、
「後世に清廉潔白な官吏の子孫と称されるには、こんな事をしては、子孫
に申し訳が立たないではないか。」と言った。
元初四年(117)、召還されて入朝して太僕となり、太常に職を移った。
これ以前、博士に挙げられる者は、中身の伴わない事が多かった。そこで、
楊震は名士の陳留の楊倫らを明経に推薦し、公然と学業を伝え、儒者たち
はこれを称賛した。(※楊倫は字を仲桓という。(儒林伝では字を仲理と
いう。東昏の人である。)謝承の書に曰く。楊震は楊倫ら五人を推薦した。
五人はそれぞれその流派に従って博士に任命された。)
永寧元年(120)、劉トに代わって司徒となった。
翌年、ケ太后が崩御して、(安帝の)お気に入りの臣下たちが好き勝手に
振舞い始めた。
安帝の乳母の王聖は、帝を保育した功績があったので、恩を笠に着て勝手
放題であった。
王聖の娘の伯栄は宮殿や後宮に出入りし、賄賂のやり取りをした。
楊震は上疏して言った。「臣は、政治は賢人を得てその要とし、裁きは汚れ
を遠ざけるのが務めであると聞いております。(※墨子に曰く。賢者を尊ぶ
のは政治の根本である。左伝に曰く。国を治める者は農夫が雑草を取り除く
ようにする。)このようにして唐・虞(堯・舜)の世には、才徳優れた人物
が官に在り、四人の凶悪な臣下(共工・驩兜・三苗・鯀)は追放され、天下
は皆心服して泰平の世が訪れました。(※尚書に曰く。四人(の奸臣)は罪
に落され、天下は皆服従した。)しかし今、九徳を備えた人物はおらず、低い
身分であるのに陛下の恩寵を受けている者たちが宮廷に満ちております。
(※尚書の皐[瑤(左系)]謨に曰く。行うべき物には九つの徳がある。
寛大でありながら謹厳であり、柔和でありながら締まりがあり、真面目で
慎み深く、明敏でありながら慎ましく、物腰柔らかでありながら毅然とし、
率直な心を持ちながら情け深く、大きな志を持ちながら清廉であり、剛毅
でありながら思慮深く、力が強くとも道理を弁えている事をいう。また
曰く。九徳を全て修め、才徳を備えた人物が官に在る。)阿母の王聖は
微賤の出でございます。それが千載一遇の幸運に遭い、尊い御身を養育し
奉り、推燥居湿(乾きを察して喉を潤す)の働きがあったと申しましても、
昨今の報償はその労苦に報いるには過分でございましょう。それなのに
遠慮する心も無く、(その欲望は)際限がございません。(※孝経の援神契
に曰く。母は子に対して懇ろに育て、乾きを察して喉を潤し、空腹な思いを
させず、満腹させる。左伝に曰く。縉雲氏(炎帝の子孫)には不肖の子(饕餮
=とうてつ)がおり、(財物を)山積して際限を知らなかった。文・十八)
彼らは外の者と結託して天下を擾乱し、清朝を損ない辱め、日月(天子)
を塵にまみれさせております。書は雌鶏が雄鶏のように鳴くのは不吉で
あると警告し、詩は哲婦(賢しらな女)は国を滅ぼすと諫めております。
(※尚書に曰く。古人の言葉がある。雌鶏は時を作らない。雌鶏が時を
作る時は、ただ家が滅びる時だけである。詩の大雅に曰く。哲夫(賢人)
は城を為し、哲婦は城を傾ける。)昔、鄭の厳公は母の望みに従い、また
驕慢な弟の情の赴くままに好き勝手な事を行わせ、亡国寸前の状態に
至った後、初めてこれを討ちました。春秋はこれを過ちを教えなかった為
であると批判しております。(※厳公とは荘公の事である。明帝の諱を
避けて改めたのである。左伝は鄭の荘公が同母弟の段を殺したのに、鄭伯
が過ちを教えなかった事を批判している。)女子・小人は、近づければ
喜び、遠ざければ恨むという、実に扱いにくいものでございます。(※
論語に曰く。女子と小人は扱いにくいものである。近づければ不遜な態度
をとり、遠ざければ恨むのである。)易にも『女子は敢えて事を遂行せず、
内に在って食事の世話をする。』と申します。(※家人の卦の六二の爻の
言葉である。)その言わんとするところは、婦人は政事に参与させては
ならないという事でございます。速やかに阿母を宮殿から出して外の屋敷
に住まわせられ、伯栄を遠ざけて往来させぬようにお計らいになり、恩と
徳を盛んにされ、上下の者をともを喜ばせるのが宜しいかと存じます。
陛下が婉変の私(お気に入りの者)を遠ざけられ、忍び難きを忍ばれ、
政事に御心をお留めになり、封爵の乱発を戒め慎まれ、献上品をお減らし
になり、徴発を少なくされ、鶴鳴(在野の賢人)の嘆きを無くし、小明
(朝廷の不徳)を悔やむ声を無くさせ、大東(厳しい搾取)を行わず、
人労(労役)を止めて下々を恨ませず、往古の立派な行跡に倣われ、徳
を賢主に比べられたなら、誰がこれを喜ばずにいられましょうか。」
(※詩の国風の侯人篇の序に曰く。曹の共公は君子を遠ざけて小人を
近づけた。その詩に曰く。『婉(若い)なるか。変(美しい)なるか。
若い娘はそれに飢えている。詩の小雅の序に曰く。鶴が鳴くのは宣王を
教え諭しているのである。鄭玄の注によれば、鶴は周の宣王に未だ主に
仕えていない賢人を求めるように教えたという。その詩に曰く。『鶴は
九皐(奥深い沢)に鳴き、その声は野に聞こえる。』その意味は身を
隠しても声が聞こえる、つまり賢者は隠棲していてもその名声は皆知って
いるという事である。詩の小雅の序に曰く。(君主が)小明であれば
大夫は乱れた朝廷に仕えるのを悔やむ。小明とは周の幽王が日に日に
暗君となり、政治を腐敗させ、乱を招いた事をいう。詩の小雅の序に
曰く。大東とは乱を指す。その詩に曰く。『小東・大東によって杼柚
(織物)も無くなってしまった。』鄭玄の注に曰く。大小の物が全て
東に持ち去られた事を指し、搾取の厳しい事をいう。詩の小雅の序に
曰く。人労は脂、(の政治)を指す。)
上奏が行われると、帝は阿母(王聖)らにこれを見せた。帝のお気に入り
の者たちは皆、心に怒りを覚えた。
お気に入りの中でも伯栄の驕慢と放恣は最も甚だしいものであった。
元朝陽侯の劉護(※泗水王劉歙の曾孫)の従兄の劉[王鬼]と通じて、遂に
その妻となり、劉護の爵位を相続させ、侍中に取り立てさせた。
楊震はこれを深く心に病み、また朝廷に参内して上疏して言った。「臣は、
高祖は群臣と『功臣でなければ、爵位を与えない。』とお約束になられたと
聞いております。故に国家の制度において、父が死んだ時には子が後を継ぎ、
兄が死んだ時は弟が後継ぐ事で、爵位が奪われるのを防いで参りました。
(※公羊伝に曰く。劉子と単子が王子猛を王城に入らせたというがどこの
城か。西周である。その際に何と言ったか。王位を奪えと言ったのである。
冬十月に王子猛は死んだ。その年を越えない君ではあったが、崩じたと
書かないのはどうしてか。不予当(認められない)だからである。不予当
とは父が死んだ時に子が後を継ぎ、兄が死んだ時に弟が後継ぎとなる時の
言葉である。昭・二十二)伏して詔書を拝見致しますに、元の朝陽侯の
劉護殿の再従兄の劉[王鬼]殿は劉護殿の爵位を継いで侯となられました。
しかし、劉護殿の同腹の弟の劉威殿は今尚健在でございます。臣は、天子
は封侯の権限を持って功ある者を封じ、諸侯は封爵の権限を持って有徳の
者に爵位を与えると聞いております。今、劉[王鬼]殿がこれといった功績
もございませんのに、ただ阿母の娘の夫であるというだけで、僅かの間に
既に侍中の位に就き、侯に封じられておりますのは、旧制を顧みぬ、経義
に合わない処遇でございます。道行く者はこれを吹聴し、人々は不安を
感じましょう。陛下には昔の手本を御覧になり、帝の道に従われるのが
宜しいかと存じます。」
書は上奏されたが、帝は省みなかった。
延光二年(123)、劉トに代わって太尉となった。
帝の舅である大鴻臚の耿宝は中常侍の李閏の兄(の登用)を楊震に薦めた
が、楊震は用いようとしなかった。そこで、耿宝は自ら出向いて、楊震に
会って言った。
「李常侍は国家に重きを為す方です。私は公(楊震)にその兄をお召しに
なって頂こうとしましたが、それはただ上意をお伝えしただけです。」
楊震は「朝廷が三公に人を召させようとするならば、尚書の起草した勅書が
あってしかるべきです。」と答え、遂に拒んで許さなかった。耿宝は大いに
恨んで帰って行った。
皇后の兄である執金吾の閻顕もまた特に親しくしている者を楊震に薦めた
が、楊震はこれも従わなかった。
司空の劉授はこれを聞いて、すぐさまこの二人(李閏の兄と閻顕の縁者)を
召し出した。二人は十日のうちに抜擢された。これによって楊震はますます
恨みを買った。
その頃、詔によって使者が遣わされ、盛大に阿母の為の屋敷が整えられた。
また、中常侍の樊豊及び侍中の周広・謝渾らはともに扇動を加熱させ、朝廷
を傾け揺るがせていた。
そこで、楊震はまた上疏して言った。「臣は、古人は九年耕作を行えば、
必ず三年分の蓄えがあったと聞いております。故に堯の時代には洪水に
遭っても、人は野菜ばかり食べて栄養不良の顔色をする事がございません
でした。臣が伏して考えますに、今災害の発生はますます甚だしく、民は
蓄えもなく、十分に暮していく事ができずにおります。重ねて螟・蝗の害
や、羌族の略奪、三辺(匈奴・南越・朝鮮)の擾乱に見舞われており、軍役
は今に至っても止まず、武器・軍糧の補給もかなわない状態でございます。
大司農の金蔵も蓄えが乏しくなり、もはや社稷は安寧ではございません。
伏して詔を拝見致しますに、阿母の為に津城門内(※洛陽の南の四門の
最西の門)に邸宅を起工され、二つの建物を一つに繋げ、数里に渡って
市街に軒を連ね、巧技の限りを尽くした彫刻や装飾施されるとございます。
しかしながら、今は盛夏であり、土の気が盛んでございます。それなのに、
山を削って石を採る為の大匠・左校・別部・将作などの部署が合わせて数十
もございます。(※続漢志に曰く。将作大匠は秩二千石、左校令は秩六百石
である。)それらが互いに工事を急がせるようになりい、その出費は巨億
に達しております。また、周広・謝渾の兄弟は皇室の肺腑枝葉(一門・
末葉)でもございませんのに、陛下の近くに侍る奸佞な人間に寄生し、樊豊
・王永らと権力を共にして州郡と結託し、大臣を傾き動しております。
宰司(役人)はその意向を汲んで辟召を行い、海内の貪欲で心の汚い人物
を招き寄せ、その賄賂を受け取り、賄賂により禁錮された者・世が棄てた
人間がまた重く用いられております。白黒が混ざり合い、清濁が源を同じく
すれば、天下は騒ぎ立て、財貨は皆お上の物となってしまうと朝廷を謗る
ようになりましょう。臣は師から、人はお上の徴集により財が無くなれば
これを恨み、働き手がいなくなれば背くものであると聞きました。恨みに
より背いた人間を再び使役する事はできず、故に『民が不足すれば、君主
は何によって十分に暮す事ができようか。』と申すのでございます。
(※論語の魯の哀公に対する有若の言葉。)陛下にはこれをお考え下さい
ますように。」
樊豊・謝渾らは楊震が何度も強く諫言を行っているのを見ても、それに
従わず、顧みる所がなかった。
そして、遂に詔書を偽り、大司農の銭穀・将作大匠の司る人夫・木材を
徴発して家屋敷・庭園・池・高殿を築いた。その為の労役・出費は計り
知れない程であった。
楊震は地震が起こった事により、また上疏して言った。「臣は朝廷の御恩
を蒙って三公の職におりますが、政治による教化を行い、陰陽を調和させる
事ができず、去年の十二月四日に京師で地震が起こりました。臣は師から、
地は陰の精であり、安静に陽を受けるべき物であると聞いております。
しかるに今、地が揺れ動くのは、陰の道が盛んである事を示しております。
その日は戊辰でありましたが、地・戌・辰の三つは皆土を表す物であり、
中宮(皇后?)の位を示します。これは宦官や近臣たちが権力を握って
物事を行い、盛んである事を示しております。臣が伏して考えますに、
陛下は辺境が未だ安寧でございませんのに、御自ら不徳の行いをなされた
ので、宮殿の塀・屋根などが傾き倒れ、支柱のみとなってしまったので
ございましょう。(新たな建物の)建造をお取りやめになり、遠近全ての
者に、政治による教化の清流と商邑の繁栄を知らしめられますように。
(※詩の商頌に曰く。商邑は繁栄し、四方の中心となっている。)陛下が
親近されているお気に入りの臣たちは、未だ断金の心を尊ばず(※上の者
と心を一つにしないという事)、驕慢の心を溢れさせて法を犯し、多くの
人夫を集めて盛んに家屋敷を設け、陛下の威福を笠に着ております。(※
易繋辞に曰く。二人が心を同じくすれば、その鋭さは金をも断つのである。)
これは道で声高に語られ、多くの者が見聞きしている事でございます。地震
は城郭の近くで起こっておりますが、おそらくはこれらの為に起こったので
ございましょう。また、冬に雪が積もらず、春節を過ぎても雨が降らず、
百官は心を焦がしておりますのに、宮殿の増改築は未だ終わりません。これ
は真に旱魃があ起きる徴でございます。書(書経)に『君主の行いが誤って
いる時は、太陽もそれに従い、臣下は賞罰を行えず、美食を楽しむ事も
できない。』と申します。(※尚書の洪範の言葉である。君のみが賞罰を
行い、美食を楽しむという意味である。)ただ、陛下におかれましては、
乾剛(君主の大権)の徳を奮われ、驕奢な臣下をお捨てになり、災いを招く
口を塞がれ、皇天の戒めを奉じられ、永く皇帝の威福を下の者に移す事を
無くされますように。」
楊震が前後に上疏した内容は非常に厳しい物であったので、帝はもはや
心穏やかでなかった。樊豊らはこれを横目で睨み、憤り恨んだが、楊震が
名儒である事から、皆敢えて害を加えずにいた。
それから間もなく、河間の趙騰という男が宮殿に参上し、得失を指摘して
意見を述べたところ、安帝は怒りを発して、遂にこれを捕えて獄に下して
鞭打たせ、お上を欺く不心得者であると決めつけた。
楊震はまた、これを救おうと上疏して言った。「臣は、堯舜の世では宮殿
の外に諫言を知らせる鼓が置かれ、不満を書き記す木が立てられたと聞いて
おります。(※帝王紀に曰く。堯は諫言を行う為の鼓を置き、舜は不満を
書き記す木を立てたという。)殷周の賢王は小人が恨み罵った場合には、
却って自ら礼を尽くしたと申します。(※尚書に曰く。殷の中宗・高宗・
祖甲及び我が周の文王の四人は賢人の道を行った。またある者は告げた。
『小人が恨み罵っても、君は一層礼を尽くす。』)これは発言を聴く明に
達し、不諱(遠慮無い諫言)の道を開いて、広く下々の意見を取り上げる
事で、民情に精通したのでございます。この度、趙騰が激訐謗語(強い
言葉で誹謗する)の罪に問われましたが、これは刀を手にして法を犯した
物とは異なります。どうか趙騰の罪を許して命を全うさせ、芻堯(身分の
卑しい者)・輿人(庶民)の発言をお誘いになられますように。(※
詩に曰く。芻堯にも物を尋ねる。左伝に曰く。輿人の謀り事を聴く。)」
帝は省みず、趙騰の屍は市中にさらされる事となった。
三年(124)の春、帝は東方の岱宗(泰山)に巡狩を行った。
樊豊らは帝の乗輿が都の外に出たのをいい事に、競って邸宅を豪華にした。
楊震の掾の高舒は、将作大匠の令史を呼び出してこれを取り調べ、樊豊ら
が偽造していた詔書を手に入れた。そこで、上奏文を作り、帝の帰還を
待って上奏しようとした。
樊豊らはこれを聞いて怖れおののき、太史令の星が逆行したとの言葉に
託け、遂に楊震は趙騰の死後、(諫言が容れられなかった事を)深く
恨んでおり、また元ケ氏の下役であった事から、かねてより恨みを抱いて
いると、口を揃えて讒言しようとした。帝の車駕が帰還した際、太学で便時
を待った。(※太学で吉時を待ち、その後で門に入るのである。前書に曰く。
便時を待って上林の延寿門に入る。)
その夜、(帝は)使者を遣わして、命により楊震の太尉の印綬を接収させた。
これにより、楊震は門を閉ざして賓客の訪問を絶った。樊豊らはまたこれ
を憎み、大将軍の耿宝に、楊震は大臣として罪に服さず、恨みを抱いて
いると上奏するように願った。そこで詔が下され、楊震は本郡に帰された。
楊震は洛陽を出て城西の夕陽亭(元本・通鑑は几陽亭・袁宏の紀は洛陽
沈亭に作る。)に至り、悲嘆に暮れてその息子や門人たちに言った。
「死は士たる者の常である。私は御恩を蒙って高官に就いた。奸臣の狡猾
さを憎んだが、これを誅する事ができず、天子のお気に入りの悪女が国を
乱しているのを憎んだが、禁じる事ができなかった。何の面目があって
また天子に見える事ができようか。私が死んだら雑木で棺を作り、棺を
覆うに足るだけの布を被せよ。墓の側に身を寄せたり、祭祠を建てたり
してはならない。」そして、酖酒を飲んで死んだ。時に年七十余であった。
弘農太守の移良は樊豊らの意を受け、陝県に役人を遣わして楊震の葬儀を
停止させ、棺を道端に放置させた。(※風俗通に曰く。斉の公子雍は移に
知行を受け、その後氏とした。謝承の書に曰く。楊震は死に臨んで息子たち
に牛車に粗末な筵を敷いて棺を載せて帰るようにと言った。)
また、楊震の息子たちを罪に落とし、郵(文書を発着する役所)に代わって
報告を行った。道行く人々はこの為に涙を流した。
それから一年余りして順帝が即位すると、樊豊・周広らは誅殺された。
楊震の門生の虞放・陳翼は宮殿に参上して、改めて楊震の事を訴えた。
朝廷の人々は皆、その忠節を称した。帝は詔を下し、楊震の二子を郎に
取り立て、銭百万を贈り、礼を以て楊震を華陰の潼亭に改葬させた。
(※墓は潼関の西にあった。)遠近の者は皆、その墓に詣でた。
改葬に先立つ事十余日、体高一丈余程の大きな鳥が楊震の霊前に集まって
来て、天を仰いで悲しげに鳴き、涙をこぼして地を濡らし、葬儀が終わると
飛び去って行った。郡はそれを報告した。(※続漢書に曰く。大鳥が飛んで
きて潼亭の樹に止まり、地に下りて静かに棺の前に進み、真っ直ぐに立って
頭を下げ、涙を流した。人々はともに撫でたり、抱いたりしたが、全く驚き
慌てる様子もなかった。謝承の書に曰く。その鳥は体の色が五色で、体高は
一丈余程、両翼の長さは二丈三尺であり、その名を知る者はいなかった。)
当時、頻りに天災が起こっており、帝は楊震が無実の罪に落された事を気に
掛け、詔を下して言った。「元の太尉楊震は正直な人物であり、時の政治を
正そうとした。しかし、青蠅が潔白な人物を汚し、ますます垣根にたかった。
(※詩に言う。『うるさい青蠅が垣根に止まっていても、心にゆとりのある
君子は讒言を信じる事はない。』青蠅は白きを汚して黒くし、黒きを汚して
白くする。奸佞な人間が善悪を乱す譬えである。)今、上天はその威を振り
下ろして、災害を度々起こしている。これを卜筮によって占わせたが、楊震
(の冤罪)が原因であると考えられる。それは朕の不徳のせいであり、天は
その誤りを明らかにしようとしているのだ。山は崩れ、棟木は折れてしまった。
これは危うい事である。(※礼記に曰く。孔子は臨終の前に歌って言った。
『泰山は崩れるか。棟木は折れるか。』)今、太守丞に中牢(供え物)を
整えてその魂を祀らせる。霊があるならば、心を開いてそれを受けよ。」
そこで、人々は、その墓所に鳥の石像を立てた。
楊震が讒言を蒙った時、部下の高舒もまた罪に問われたが、死罪は許された。
楊震の事績が論じられるようになると、高舒は侍御史に任命され、その後
荊州刺史となった。

楊震には五人の息子がいた。長子の楊牧は冨波相となった。(※冨波県は
汝南郡に属す。)
楊牧の孫の楊奇は霊帝の時に侍中となった。(魏志に引く献帝起居注では
楊gに作る。)
帝はかつて親しげに楊奇に尋ねて言った。「朕は桓帝と比べてどうかな。」
楊奇は「陛下が桓帝とお比べになりますのは、虞舜が徳を唐堯と比べるよう
なものでございます。」と答えた。帝はつまらなそうに「卿は剛直じゃな。
さすがに楊震の子孫じゃ。卿が死んだ後には必ずまた大鳥がやって来る
だろう。」と言った。
やがて外に出て汝南太守となった。
帝が崩御した後、また入朝して侍中・衛尉となり、献帝の西遷に従い、
よく勤めて功績があった。李[イ寉]が帝を脅して自分の陣営に身を置かせ
ようとした際、楊奇は黄門侍郎の鍾[瑤(左無)系](しょうよう)と、
李[イ寉]の部将の宋曄・楊昴を誘って李[イ寉]に背かせた。李[イ寉]は
これによって力を削がれて勢力を弱め、帝は東へ向かう事ができた。
(※魏志に曰く。鍾ヨウは黄門侍郎であった。李[イ寉]が天子を脅した
際、鍾ヨウは尚書郎の韓斌とともに策を謀った。天子が長安を脱出できた
のには鍾ヨウの力があった。)
後に許に都が遷った際、追って楊奇の子の楊亮を封じて成亭侯とした。
(※唐代、楊亮の旧宅は<門受>郷県の西南にあった。)
楊震の年少の子は楊奉といった。楊奉の子の楊敷は志篤く博識で、人々は
家名を世に顕わす事ができるだろうと話し合った。楊敷は早世したが、
子の楊衆がまたその学業を伝えた。謁者僕射として献帝に従って長安に
入り、次第に昇進して御史中丞となった。
帝が東に帰ろうとした際、夜中に急いで黄河を渡り、諸官に属する者を
率いて徒歩で帝に従い、大陽(河東郡)に至り、侍中に任命された。
建安二年(197)、前功によって<十十務>亭侯に封じられた。(※
郡国志に曰く。<十十務>郷は桃林県(弘農郡)にある。)
楊震の中子は楊秉という。