楊賜伝



楊賜は字を伯献という。(太尉楊公の碑及び文烈楊公の碑はそれぞれ字を
伯猷とし、袁宏の漢紀は字を子猷としている。謝承の後漢書は字を伯欽と
している。)
若くから家の学問を伝え、志篤く博聞であった。平素は隠居して慎ましく
暮らし、門人たちに学問を教授し、州郡が礼を以て招いても応じなかった。
後に大将軍の梁冀の幕府に召されたが、梁冀に気に入られなかった。
やがて陳倉の県令に任命されたが、病によって赴任しなかった。
また、公車が遣わされても参上せず、三公の命を断り続けた。
その後、司空の高第(成績優秀な官吏候補)に挙げられ、二度職を移って
侍中・越騎校尉となった。
建寧の初に霊帝は学問を学ぼうとして、太傅・三公に詔を下して、尚書の
桓君(桓栄)の章句に通じ、かねてより天下にその名を知られている者を
選ばせた。三公が楊賜を推薦したので、楊賜は華光殿で帝に講義を行う事
となった。(※華光殿は洛陽の宮殿の名である。崇光殿の北にあった。)
やがて少府・光録勲に職を移った。
熹平元年(172)、御座の前に青蛇が現れ、帝はその事について楊賜に
質問した。楊賜は封事(意見書)を奉って言った。「臣は、和気は瑞祥を
もたらし、乖気(かいき=和気の反。)は災いをもたらし、善を喜ぶ徴と
しては五福が現れ、悪を咎める徴としては六極が現れると聞いております。
(※五福とは一に長寿、二に富、三に安寧、四に徳を修め、五に命を全う
する事である。六極とは一に短命、二に病、三に憂い、四に貧窮、五に
苦しみ、六に敗亡である。)瑞祥は妄りに来る物ではなく、災いは原因
無く起こる物ではございません。王たる者が心に思う所があれば、それを
顔に出すことが無くても、五星は推移し、陰陽はその現れ方に変化を生じ
ます。このように観るならば、天(の変化)が人に符合しないはずがござ
いません。書にも、『天が人を治めるには、いつも君主の力による。』と
ございます。これはその明かな徴でございましょう。また、皇極(政治の
根本または帝王の位)が成り立たない時には龍蛇の害があると申します。
(※洪範五行伝の言葉である。皇は大、極は中を意味する。また龍蛇は
陰に類する。)詩にも『小蛇や大蛇は女子による禍の徴である。』とござ
います。(※詩の小雅の言葉である。蛇は穴を掘って住む、陰に類する物
であるから、女子による禍の徴なのである。)故に春秋においても、二匹
の蛇が鄭の門に争った後、昭公は女の為に身を滅ぼしたのでございます。
(※洪範五行伝に曰く。初め、鄭の詞は宰相の蔡仲を脅して、兄の
昭公から位を奪って鄭の君主となった。後に(腹心の)雍糺(ようきゅう)
が殺されて詞は出奔した。鄭人は再び昭公を立てた。その後、鄭都の
南門で内蛇と外蛇(城の内外を指す)が争い、内蛇は死んでしまった。
傅瑕は鄭に仕えていたが、詞と通じようとした。内蛇の死はまさに昭公
が殺され、詞が位を奪う徴だったのである。昭公が広く恩恵を施して
人々を懐け、賢者を用いて有徳の士を敬い、群臣を厳しく監督して悪人の
企みに気を付けたなら、内に変は生ぜず、外に陰謀が行われる事も無かった
はずである。昭公がそれに気づかず、二子とともに傅瑕の裏切りにより
殺され、詞が鄭に入ったのはその徴が現実となったのである。(実際は
傅瑕に殺されたのは昭公の弟の子儀である。)詩に云う。『小蛇や大蛇は
女子による禍の徴である。鄭の昭公は女の為に身を滅ぼすところであった。
(昭公が詞の母方の雍氏の謀反で国を逐われた事を指すか。)』)康王
はある朝遅くに起き、関雎(かんしょ)はそれに亡国の兆しを見て詩を
作りました。(※前書に曰く。佩玉(貴人が腰に結んだ玉)が遅くに
鳴った事を関雎は嘆く。音義に曰く。后夫人は雄鶏が鳴けば、君主の
佩玉を外すのである。康王の后はそうしなかったので、詩人はこれを
嘆き傷んだのである。この事は魯詩に見えたが、今では失われている。)
女が天子に目通りするようになれば、讒言を行う人間が栄え、それらの
人間が栄えれば、苞苴(賄賂)がやり取りされるようになります。殷の
湯王は自らこれを戒め、旱魃を終わらせました。(※説苑に曰く。湯王
は自ら紂(殷末の王とは別)を伐って後、大旱魃が起こった。七年後には
洛川も枯れてしまった。そこで、三足の鼎を運ばせ、山川に祈って言った。
『私の政治が間違っているからでしょうか。人を苦しめているからで
しょうか。苞苴が行われているからでしょうか。讒言を行う者が栄えて
いるからでしょうか。後宮に人が多過ぎるからでしょうか。女が王の前に
出るからでしょうか。どうしてこれ程まで雨を降らさないのでしょうか。』
まだ言葉が終わらないうちに大雨が降ってきた。)陛下には夫婦の道に
従って宮室の内外の区別を付けられ、帝乙(湯王)の掟に従って元吉の
福をお受けになり、皇甫(夫人の取り巻き)の権力を抑えて艶妻(妻妾)
への愛を慎まれたならば、蛇による変事も消え、瑞祥がたちまち起こり
ましょう。(※易の泰の卦の六五に曰く。帝乙は天意に沿って妹を家に
帰し、元吉(大いなる福)を受けた。艶妻は周の幽王の后の褒似の事で
ある。皇甫の卿士とは后の取り巻きの事で、その寵により位に就いて
いる者である。詩に云う。『皇甫の卿士と艶妻の勢いはまさに盛んで
ある。』)殷の太戊・宋の景公の例を見ても、その事は甚だ明かでござ
います。(※殷王の太戊の時に朝廷の庭に桑・穀がともに生じた。太戊
が徳を修めると桑・穀は枯れた。宋の景公の時に[螢(下火)]惑(火星)
が心(なかご星)を守った。景公が徳を修めると星は心から退いた。この
話はともに史記に見える。)」
二年(173)、唐珍に代わって司空となったが、天災によって免官され、
また光禄大夫に任命された。秩禄は中二千石であった。