楊彪伝



楊彪は字を文先という。若くから家の学問を伝えられた。
初め、孝廉に挙げられ、州が茂才に推薦した。公府に召されたが、悉く
応じなかった。
熹平年間に、旧伝に広く通じている事から公車で召され、議郎に任命された。
(※華[山喬]の書に曰く。馬日[石單]・盧植・蔡<巛邑>らと東観で著作
(歴史の編集)を行った。)
職を移って侍中・京兆尹となった。
光和年間、黄門令の王甫は門生に郡境で官の財物七千余万銭を横領させた。
(※華[山喬]の書に曰く。王甫は門生の王翹に利益を独占させた。その事
は霊帝紀に見える。)
楊彪はその悪事を暴いて司隷(校尉)に告げた。司隷校尉の陽球はこれを
受けて上奏を行い、王甫を誅殺した。天下にこれを喜ばぬ者は無かった。
やがて中央に召還されて侍中・五官中郎将となり、潁川・南陽の太守に
職を移り、また侍中に任命された。
さらに永楽少府・太僕・衛尉と三度職を移った。
中平六年(189)に董卓に代わって司空となり、その冬に黄[王宛]に
代わって司徒となった。
翌年、関東で(袁紹らが)兵を挙げた。董卓は懼れ、遷都によって難を
避けようとした。
そこで、董卓は大いに公卿を集めて会議を開いて言った。「高祖は関中
(長安)に都を置かれた。十一世の後、光武帝は洛陽に都を置かれた。
今またさらに十(一)世を経ている。石包の讖(予言書)を考えると、
都を長安に遷して、天・人の意に応えるのが良いと思われる。」
百官には敢えて発言する者が無かったが、楊彪は「都を遷して制度を改める
のは天下の大事です。故に盤庚が五度目の遷都を行うと、民は皆これを
恨んだのです。(※盤庚は殷の王の名である。亳に遷都を行い、殷の人間
は皆これを恨んだ。湯王は亳に都を遷し、仲丁は囂に都を遷し、河亶甲は
相に都を置き、祖乙は耿に都を置いた。盤庚の遷都と併せて五度である。)
昔、関中は王莽の変に遭い、宮殿は焼け、庶民は塗炭の苦しみを味わい、
百人に一人も生き延びる事ができませんでした。そこで、光武帝は天命を
受け、改めて洛邑に都を置かれました。今、天下に虞(憂い)も無く、
人民は安楽に暮しております。(※書に曰く。『四方に虞無し。』)
明公(董卓)は聖主(献帝)をお立てになり、漢室を光輝かせられました。
しかし、故無くして宗廟・園陵を棄てたなら、恐らく人民は驚き動揺して
必ずや糜沸の乱(粥が煮え立つような乱)が起こりましょう。石包室讖は
妖邪の書です。どうして信用する事ができましょうか。」と反対した。
董卓は言った。「関中は肥沃な地じゃ。故に秦は六国を併呑できたので
ある。かつ隴右は材木の産地で運搬は甚だ簡単であり、また社陵の南山
の下には武帝が作った瓦を焼く竃が数千もある。力を併せてこれを手入れ
すれば、一朝にして使用する事ができよう。民百姓の事などは何を議論する
必要があろう。前を塞ぐ者がおれば、大軍で以てこれを蹴散らすだけじゃ。
何が起ころうと心は変えぬ。」
楊彪は「天下を乱すのは至って簡単ですが、天下を安んじるのは非常に
困難です。明公、これをお考え下さい。」と答えた。
董卓は顔色を変えて言った。「公は国家の計を止め立て致すのか。」
太尉の黄[王宛]が口添えして言った。「これは国家の大事です。楊公の
言った事を考えずにいられましょうか。」董卓は答えなかった。
司空の荀爽は董卓の決意が固いのを見て、楊彪らが殺される事を恐れて
やんわりと言った。「相国閣下、どうしてのんびりしていられましょう。
山東で反乱が起これば、これを一日で抑える事はできません。ですから
遷都して対処致しましょう。これぞ秦・漢の勢いを得た方策です。」
董卓は少し心を和らげた。
荀爽は密かに楊彪らに言った。「諸君、頑なに争って止め立てしては
駄目だ。禍は必ずその身に降りかかって来るぞ。だから私は敢えてそう
しなかったのだ。」
議会が終わると、董卓は司隷校尉の宣播に命じて上奏を行わせ、災害を
理由に黄[王宛]・楊彪らを免官させた。
(楊彪は)宮殿に参上して謝罪を行った。そこで改めて光禄大夫に任命
され、十余日して大鴻臚に職を移った。
関中に入ると、少府・太常に転任したが、病により免官された。
また京兆尹・光禄勲となり、再び光禄大夫となった。
初平三年(192)の秋、淳于嘉に代わって司空となったが、地震によって
免官され、また太常に任命された。
興平元年(194)、朱儁に代わって太尉・録尚書事となった。
李[イ寉]・郭の乱が起こると、楊彪は忠節を尽くして献帝を守った。
うち続く困難の中、害を免れた者はほとんど無かった。その話は董卓の伝
に見える。
帝の車駕が洛陽に帰ると、また尚書令を務めた。
建安元年(196)、東方の許への遷都に従った。
時に天子は新たに都を遷した事により、大いに公卿を会した。
<六兄>州刺史の曹操は昇殿した際、楊彪の顔が不服そうなのを見て恐れ
を抱き、楊彪を(暗殺しようと)謀ったが、楊彪はまだ宴会が始まらない
うちに病にかこつけて厠に行き、脱出して家に帰った。
楊彪は病により職を退いた。
その頃、袁術が帝位を僭称して反乱を起こしていた。曹操は楊彪が袁術
と婚姻を結んでいた事(袁術の姉妹を娶っていたと思われる)に託け、
(思いのままに)任免を行おうとして、上奏により誣告を行い、楊彪を
逮捕して獄に下し、大逆罪によって弾劾した。
将作大匠の孔融はこれを聞いて朝服も着けずに家を出て、曹操に会って
言った。「楊公は四世に渡って清徳を知られ、海内に仰ぎ見られている方
です。周書にも『父子兄弟は互いにその罪が及ばない。』とあります。
ましてや袁氏の罪が楊公に及ぶはずがございません。易に『積善の家に
は余慶がある。』とありますが、徒に人を欺く物に過ぎない事になり
ましょうな。」(※献帝春秋に曰く。曹操が楊彪を刑罰に掛けようとする
と、孔融は曹操に会って言った。『刑の濫用は貴方にとって賢明な事とは
申せません。楊彪殿が罪に問われ、非常に多くの者が懼れを抱いており
ます。』易の文言に曰く。『積善の家には必ず余慶あり。』)
曹操は「これは国家の意志なのだ。」と答えた。
孔融は「仮に成王が邵公を殺したとしたら、周公は知らなかったと言える
でしょうか。今、天下の纓[糸委][才晉]紳(士大夫)が明公を仰いでいる
所以は、公が聡明で仁智を備え、漢朝を補佐され、正を奉じて邪を捨て去り、
雍煕(安らぎと楽しみ)をもたらされたからでございます。今、正当な
理由も無く無実の人間を殺せば、海内はこれを見聞きして誰が解体(心が
離れる事)せずにいるでしょうか。(※左伝に曰く。季文子は晋の韓穿に
言った。『四方の諸侯は誰が解体せずにいるでしょうか。』成・八)私
孔融は魯国の男子です。明日には払衣(世の中から隠れる事)して辞去し、
二度と参内致しますまい。(※もし無実の楊彪を殺したなら、孔融は魯国
の一男子となり、二度と入朝しないという意味である。)」と言った。
曹操はやむを得ず、遂に楊彪を取り調べた上で釈放した。
四年(199)、また太常に任命され、十年(205)に免官された。
十一年(206)、恩沢(恩恵)によって侯に封じられた者は皆封地を
奪われる事となった。(※楊彪の父の楊賜は霊帝の師傅であった事により
臨晋侯に封じられていた。)
楊彪は漢朝がまさに終わろうとしているのを見て、足が曲って伸ばせない
からと言って、遂に二度と参内しなかった。
十年が経った後、子の楊脩が曹操の為に殺された。
曹操は楊彪に会って尋ねた。「公よ、どうしてそんなに痩せてしまった
のか。」楊彪は答えた。「自分に金日[石單]の先見の明が無かったのを
恥じたからでございます。老牛が子牛を舐めて愛おしむようなもので
ございました。(※前書に曰く。金日[石單]には子が二人いて、武帝に
愛されて寵童となった。その後、二人はやんちゃ盛りとなり、謹みを忘れ、
宮殿から下りて宮人たちと戯れた。金日[石單]はこれを見て驚き懼れ、
その淫乱な行いを憎んだ。そして遂に二人を殺してしまった。)」
曹操はこの言葉を聞いて、顔つきを改め身を正した。
楊脩は字を徳祖という。学問を好み、優れた才があった。
丞相の曹操の主簿となり、曹氏に仕えた。(※典略に曰く。楊脩は建安
年間に孝廉に挙げられ、郎中に任命された。丞相(曹操)は要請して倉曹
属の主簿とした。当時、軍事と国政には多くの事務があったが、楊脩は
内外の事全てを理解しており、(曹操の)心に適っていた。魏の太子以下、
揃って楊脩と誼を結ぼうとした。)
曹操は自ら漢中を平定して、さらに劉備を討とうとしたが、前進する事が
できず、漢中を守ろうとした。
功を立てる事は難しく、護軍以下は進軍するのかしないのか、何に従えば
良いのか分らずにいた。
曹操はそこで外に出て指示を下したが、ただ「鷄肋」(鶏の肋骨)と言った
だけであった。
属官たちは誰も理解できなかったが、楊脩だけは「鷄肋は食べる所は無い
が、棄てるには惜しい物だ。公は帰還と決められたはずだ。」と言った。
そこでそれを外の者に知らせ、緊張を緩めさせた。曹操はその後、果たして
軍を帰還させた。
楊脩の頭の回転の早さを示すこの類の話は多くあった。
また都の外に出た時、曹操が外部の事柄を質問するだろうと予想して
予め答えを書き、宿舎の番人の少年に、「もし提出命令が出たならば、
この順番の通りに提出するように。」と命じたところ、果たして命令が
届いた。
このような事が三度もあったが、曹操はそのあまりの迅速さを怪しみ、
これを調べさせて事情を知り、楊脩を疎んじるようになった。
また、楊脩が袁術の甥である事から後患を慮り、遂にある事を理由にこれ
を殺した。(※続漢書に曰く。楊脩が臨[輜(左シ)]侯の曹植と酒に
酔って司馬門から出て、[焉おおざと]陵侯の曹章を誹謗したと報告する
者がいた。太祖はこれを聞いて大いに怒り、遂に楊脩を捕えて殺した。
時に楊脩は年四十五であった。)
楊脩が著した賦・頌・碑・讃・詩・哀辞・書は合わせて十五篇あった。
魏の文帝は禅譲を受けるに及んで、楊彪を太尉としようとして、まず
使者を遣わしてその旨を告げさせた。
楊彪は「私楊彪は漢の三公を歴任しながら、世が傾き乱れる事態となり、
何も役に立つ事ができませんでした。耄年(七十才)を越え、また病に
罹っております。どうして維新の朝廷をお助けできるでしょうか。」
と言って、遂に就任を固辞した。
そこで、光禄大夫を授け、几杖(机と杖)・衣袍(上着)を賜り、朝会
で引見を行い、楊彪に布の単衣・鹿皮の冠を着けて杖をついて入朝させ、
賓客の礼を以て遇した。(※続漢書に曰く。魏の文帝は詔を下して言った。
「先王が几杖の下賜の制度を作ったのは、老人をもてなす礼としてである。
太尉の楊彪は祖以来代々名声と功績を知られている。そこで公に延年の杖を
賜う。招かれた日にはこの杖をついて入朝せよ。」)
楊彪は年八十四で、黄初六年(225)に家で死去した。
楊震より楊彪に至るまで四世に渡って太尉を務め、徳業はそれぞれに受け
継がれた。袁氏とともに東京の名族であった。(※華[山喬]の書に曰く。
東京の楊氏・袁氏は累代の宰相を出した漢の名族である。しかし、袁氏は
車馬・衣服が極めて贅沢であり、よく家風を守り、世に尊ばれた事では
楊氏に及ばない。)

論に曰く。孔子は「危うきを支えず、倒れたのを助けないならば、どうして
宰相など用いようか。」と言った。(※論語の言葉である。)
思うに本当に負荷の寄(宰相の任)は中身の無い人間が冒してはならない。
崇高な(宰相の)位は心配事が多く、責任は重い物である。
光熹・延康の間に楊震は上相となり、正直を極めて権力者・佞臣に臨み、
公道を先にして自分の身や名声を後にした。
王臣の節を抱き、任務を行う要を心得ていたというべきである。(※易に
曰く。王臣は自分の身に関わりない事で行き悩むものである。)
代を重ねて徳を積み、その後を踏襲して宰相となった。
積善の家には必ず余慶ありという事は本当であった。
先の世の韋賢・平当もこれと比べれば取るに足りないものである。(※韋賢
・平当は父子で位を継いで丞相となった。)
賛に曰く。楊氏は徳を重ねて代々国家の柱であった。
楊震は四知を畏れ、楊秉は三惑を去り、楊賜もまた(直言を)畏れず、
楊彪は真心に背く事が無かった。
楊脩は才子であったが、その真心に従う道を変えてしまったのである。
(※劉[分攵]は楊氏には二つの氏族があったと考えている。赤泉の楊氏
は木偏である。子雲の自叙伝に「その氏を受け継いだ。」とあるが、
こちらは手偏である。楊脩の書によれば、楊(揚)脩は字を子雲といった。
楊震の一族の名に似ている。また、楊氏は文士を出していない。このよう
に(混同されるのも)また尤もである。今、書中において華陰の族は木偏
・手偏が互いに半々で、未だ従うべき所を知らない。後世の学者はこれを
解き明かせ。)