楊秉は字を叔節という。(御覧に引く張[王番]の漢記は楊秉の字は叔卿で あるとする。) 若くから父の学業を継ぎ、京氏易(漢の京房が伝えた易)に明るく、広く 書に通じていた。 平素は隠居して学問を教授していたが、年四十余にして司空の招きに応じ、 侍御史に任命された。 度々外に出て豫・荊・徐・<六兄>四州の刺史を務め、任城相に職を移り、 刺史・二千石(太守)となって以来、日数を数えて俸禄を受け、余分な物 は私財としなかった。元の部下たちが銭百万を集めて贈ったが、楊秉は門 を閉ざして受け取らず、清廉さを称賛された。 桓帝が即位すると、尚書に明るい事により、召されて入朝して侍講となり、 太中大夫・左中郎将に任命され、後に侍中・尚書に職を移った。 帝はある時、お忍びで河南尹の梁胤(梁冀の子)の官舎を訪ねようとした。 (※袁宏の漢紀では河南尹梁不疑の府とある。) この日は大風が吹いて木が倒れ、昼間なのに空は暗かった。 楊秉はそこで上疏して諫めて言った。「臣は、瑞祥は徳によって至り、災害 は事に応じて生まれると聞いております。伝にも、『禍福は門を選ばず、 ただそれを人の招く所に至る。』とございます。(※左伝の閔子馬の言葉 である。襄・二十三)天は物を申しませんが、災害や異変によって戒告致し ます。ですから、孔子は『迅雷風烈(激しい雷や風)の際には必ず変動が ある。』と言ったのです。詩にも、『天の威を畏れて敢えて馬を走らせ ない。』とございます。(※詩の大雅に曰く。『天の怒りを畏れて敢えて 遊楽に耽らず、天の変化を畏れて敢えて馬を走らせない。』文にやや違い がある。)王は至尊であり、その出入りの際は、常に先払いが声を掛けて 通交を止めてから行き、先に部屋を清めさせてから入るのでございます。 (※前書の音義に曰く。漢には静室令という役職があった。)祭祀または 宗廟に詣でる時以外は鑾旗(鈴と旗のついた天子の車駕)は外に出ない物 でございます。(※漢官儀に曰く。騎馬が先導するのは雲空(不明)・ 皮轅(虎皮の飾り)・鈴・旗のついた車である。)ですから詩にも、 『自ら郊を行い宮殿を去る。』(※詩の大雅の雲漢の言葉である。)と あるのでございます。易にも、『王が仮に廟に詣でれば、孝が行われ、 供え物が受け取られる。』(※萃の卦の言葉。)とございます。諸侯が 家臣の家に出向くのも、春秋はこれを戒めております。(※左伝に、斉の 荘公は家臣の崔杼の家に出向いて殺されたとある。襄・二十五)まして 先王の法服(天子の服)を着て、お忍びで遊びに出掛けられるのは、尊貴 な御身分を損ない卑しめ、身分の順序を無くす物でございます。(※法服 は天子の服であり、日・月・星座・山・龍・華虫・藻・火・粉・米・黻 (ふつ=亞に似た模様)・黼(ほ=斧の模様)の十二の模様がついていた。 左伝に曰く。高貴な者は常に高い身分にあり、卑しい者にはそれに応じた 身分がある。宣・十二)侍衛が空の宮殿を守り、璽綬が侍女の手に委ねら れてしまえば、万一変事や任章の企み(弑逆)が起きた場合、上は先帝 の御遺志に背き、下は悔やんでも及ばぬ事となります。(※前書に曰く。 代郡太守の任宣は謀反に連座して誅殺された。任宣の子の任章は公車丞 であったが、逃亡して渭城の辺りに身を隠した。任章は夜中に黒い服を 着て宮殿に忍び込んで廟堂の中に入り、郎の間に身を潜め、戟を持って 入り口に立ち、天子の来るのを待って弑逆しようとしたが、発覚して誅 に伏した。)臣は重代の御恩を蒙り、納言(尚書)の職を拝命しており ます。また、薄学でありながら侍講の役目を仰せつかり、特別な知遇を 受け、日月に照らされております。恩は重く命は軽い物であり、君臣の 義の為に士は死ぬのでございます。故に(死を怖れず、)敢えて(陛下 の身が傷つく)事を恐れ、その愚を大まかに述べさせて頂いたのでござい ます。」 帝は聞き入れなかった。楊秉は病を理由に退任を願い、外に出て右扶風 (太守)となった。 太尉(太常が正しい)の黄瓊は、楊秉が朝廷を去る事を惜しみ、楊秉は 帷幄において講義を行う者であり、外に出すべきではないと上奏した。 そこで、洛陽に留められ、光禄大夫に任命された。