董卓伝



董卓は字を仲穎という。隴西臨[シ兆](りんとう)の人である。(※董卓
列伝に曰く。董卓の父の董君雅は潁川の輪氏の尉であり、董卓と弟の董旻
を生んだ。故に董卓は字を仲穎といい、董旻は叔穎というのである。
劉[分攵]は董卓と弟の董旻は潁川に生まれたとあるが、潁が正しいのでは
ないかという。)
董卓は気性は荒いが、謀り事に長じていた。若い頃、羌族の中に入り、
豪帥たちと悉く交わりを結んだ。
後に郡に帰って野に耕作を行ったが、豪帥たちが手伝いに来る事があれば、
いつもその者の為に耕牛を殺してともに宴を楽しんだので、豪帥たちは
その心遣いに感じて、帰ってから協力して家畜十余頭を集めて董卓に
贈った。
この事により、その義理堅さを以て名を知られるようになり、州の兵馬掾
となって、常に国境の近くを巡回して警備を行った。
董卓は人並み外れた腕力があり、左右両方の手で騎射を行う事ができた
ので、羌族はこれを畏れ憚った。
桓帝の末に六郡の良家の男子が羽林郎に取り立てられる事となり、董卓は
中郎将の張奐に従って軍の司馬となり、その下で反乱を起こした漢陽の羌
を撃ち破り、郎中に任命され、絹九千匹を賜った。
董卓は「功を立てたのは私だが、それは兵士がいてこそのものだ。」と
言って、賜り物を悉く部下に分かち与え、自分の手元には何も残さなかった。
徐々に昇進して、西城の戊己校尉となったが、事件に連座して免官された。
その後、并州刺史・河東太守となった。
中平元年(184)に東中郎将に任命され、節を持って盧植に代わって
下曲陽で張角を撃った。
董卓の軍は敗れ、罪に触れる事となった。
その冬、北地の先零の羌族及び枹罕の河関の群盗が反乱を起こし、遂に
ともに湟中の義従である胡人の北宮伯玉・李文侯を立てて将軍として、
護羌校尉の[シ令]徴を殺した。
伯玉らは金城の人辺章・韓遂をさらって主に軍制を担当させ、ともに金城
太守の陳懿を殺し、州郡を攻めて焼き払った。(※献帝春秋に曰く。涼州
の義従の宋建・王国らは反乱を起こした後、偽って降伏し、涼州の大人で
ある元新安県令の辺允・従事の韓約に会う事を求めた。韓約は会おうと
しなかったが、太守の陳懿は行く事を勧めた。王国らはたちまち韓約ら
数千人をさらって人質としたので、金城郡は混乱に陥った。陳懿が外に
出た際、王国らはそれに従い、護羌校尉の陣営に着くと、これを殺した
後、韓約・辺允らを釈放した。隴西(の役人)は憎悪を露わにして、韓約
・辺允の名に賊という言葉を冠した。州は韓約・辺允らを各々千戸侯の位
を与える事を条件に捕えようとした。韓約・辺允らは賞金首となり、韓約
は名を韓遂、辺允は辺章と改めた。)
翌年の春、伯玉らは数万騎を率いて三輔を襲い、園陵(御陵)に迫って
宦官の誅殺を名分に掲げた。
朝廷は董卓を中郎将に任命して、左車騎将軍の皇甫嵩の副官としてこれ
を征討させたが、皇甫嵩は功無くして免官されて帰還し、辺章・韓遂ら
は大いに勢いづいた。
朝廷は今度は司空の張温を車騎将軍として仮節を授け、執金吾の袁滂
を副将とした。(※袁宏の漢紀に曰く。袁滂は字を公煕という。純粋で
飾り気の無い無欲な性格で、生涯人の欠点を口にした事が無かった。
権力者や帝のお気に入りの勢いが盛んな時に、ある者は同調したり敵対
したりして禍を招いたが、袁滂はただ一人朝廷で中立の態度を保った
ので、愛憎がその身に及ぶ事は無かった。)
董卓は破虜将軍に任命され、盪寇将軍の周慎とともに張温の指揮下に入り、
諸郡の兵を集めて、合わせて歩騎十余万の兵で美陽(扶風郡)に駐屯して
園陵を守った。
辺章・韓遂らはまた兵を美陽に進め、張温・董卓と戦ったが、戦況は不利
であった。
十一月のある夜、流星があり、炎のような長さ十余丈程の光が辺章・韓遂
の陣営を照らした。驢馬たちは皆一斉に啼き騒ぎ、賊たちは不吉に思って
金城に帰ろうと考えた。
董卓はこれを聞いて喜び、右扶風の鮑鴻らと兵を併せて攻撃を仕掛け、
賊を大いに撃ち破り、数千級の首を斬った。
辺章・韓遂らは遂に楡中(金城郡)に敗走した。
そこで、張温は周慎を遣わして、三万の兵を率いてこれを追討させた。
張温の参軍である孫堅は周慎に説いて言った。「賊の城中には糧食があり
ません。必ずや糧食を外から運んで参りましょう。どうか私に一万の兵を
お与え下さり、その糧道を断たせて下さい。将軍が大軍で後に続かれたなら、
賊は必ずや食糧の欠乏に苦しみ、敢えて戦おうとはしないでしょう。
もし、逃げ出して羌族の中に入ったなら、力を併せてこれを討ちます。
そうすれば涼州を平定する事ができるでしょう。」(※孫堅は字を文台
という。呉郡富春の人で、孫権の父である。その事は呉志に見える。)
周慎は従わず、軍を率いて楡中の城を囲んだ。しかし、辺章と韓遂は葵園
の狭まった道に兵を伏せ、周慎の糧道を断ったので、周慎は懼れを抱いて
輜重を捨てて退却した。
時に張温は董卓に兵三万を率いて望垣(天水郡)の北に先零の羌族を討伐
させたが、羌・胡の為に包囲されて糧食を絶たれ、進退窮まってしまった。
そこで川を渡る為に、偽って魚を捕るふりをして堰を作り、密かに堰に
隠れて軍を渡河させ、賊が追って来た頃に堰を切り崩した。
水が既に深くなっていたので、賊は川を渡る事ができなかった。
その頃、官軍は全て敗退し、ただ董卓一人が軍を全うして帰還を果たし、
扶風に駐屯した。(その功により)[台おおざと]郷侯に封じられた。
三年(186)の春、朝廷は張温に使者を遣わして、節を持って長安の
守備に就かせ、太尉に任命した。三公が都の外にあるのは張温から始まった
事である。
その冬、朝廷は張温を召還して京師に帰還させた。
韓遂はその間に辺章及び北宮伯玉・李文侯を殺し、兵十余万を擁して隴西
を包囲した。
隴西太守の李相如は謀反を起こして韓遂と手を結び、涼州刺史の耿鄙を殺し、
耿鄙の司馬であった扶風の馬騰もまた反乱を起こした。(※典略に曰く。
馬騰は字を寿成という。馬援の後裔である。身の丈八尺余、身体は大きく、
目鼻立ちが立派で、頭が良く情に厚い人柄で、多くの人々に敬われた。)
また、漢陽の王国も自ら合衆将軍と号した。
それぞれが皆、韓遂と合流して、ともに王国を推して盟主とし、その軍を
全て統率させ、三輔を荒らし回った。
五年(188)、王国らは陳倉を囲んだ。そこで、朝廷は董卓を前将軍に
任命した。董卓は左将軍の皇甫嵩とともにこれを撃ち破った。
韓遂らはまた王国を廃し、今度は元信都県令の漢陽の閻忠を脅して諸軍を
統率させた。(※英雄記に曰く。王国らは兵を起こして閻忠を脅して盟主
とし、三十六の軍を統率させ、車騎将軍と号させた。)
閻忠は武力で脅された事を恥じて恨みを抱き、病を発して死んだ。
韓遂らは次第に権力や利益を争って互いに殺し合いを始め、その軍隊は
皆一斉にばらばらになった。
六年(189)、朝廷は董卓を召還して少府としたが、董卓は命に従わず、
上書して言った。「私の率いていた湟中の義従及び秦・胡の兵たちは皆
臣に、扶持米の給与が途中で絶たれたなら、妻子は飢え凍えてしまうと
言って、臣の車を引っ張って行かせようとしないのでございます。羌・
胡は性根が曲っており、犬畜生のような心しか持っておりませんので、
それを禁止する事はできず、言う通りにして心を落ち着かせてやりました。
それでも異心を抱くようなら、また上奏致します。」
朝廷はこれを抑える事ができず、強く警戒した。
霊帝が病に伏すに及んで、璽書(詔勅)を下して董卓を并州刺史に任命
し、兵を皇甫嵩に属させようとしたが、董卓はまた上書して言った。
「臣は以前、老獪な謀臣も壮士も持たぬ身にございましたが、それを天恩
を誤って加えられ、戎を支配する事十年に及びました。士卒は大小の区別
無く互いに慣れ親む事長きに渡り、臣が養い育てた恩を恋い慕って、臣の
為に命を投げ出す覚悟でおります。どうかこれを北州に率い、力を辺境に
示す事をお許し下さい。」
ここにおいて、董卓は兵を河東に留めて時局の変化を観望した。
霊帝が崩御すると、大将軍の何進と司隷校尉の袁紹は宦官を誅滅しようと
謀ったが、何太后は許さなかった。
そこで、密かに董卓を呼び寄せて、兵を率いて入朝させ、太后を脅そうと
した。
董卓は召集を受けると、直ちに上洛の途につくとともに、上書して言った。
「中常侍の張譲らは恩寵を盗んで、海内を汚し乱れさせました。臣は
『湯の沸騰を止めるには薪を取り去るのに勝るものは無い。』と聞いて
おります。(※前漢の枚乗の上書に曰く。『湯を冷まそうとしても、一人
が火を吹いたなら、百人掛かりでも無理でございます。薪を取り去って
火を止めるのに勝る物はございません。』)腫れ物を潰すのは痛みを
伴いますが、体内を蝕まれるよりはましでございます。昔、趙鞅は晋陽の
武器を取って君側の悪人を駆逐致しました。(※公羊伝に曰く。晋の趙鞅
は晋陽の兵を用いて荀寅と士吉射を駆逐した。荀寅と士吉射は何者か。
君側の悪人である。ここに君側の悪人を駆逐したのに謀反というのは何故か。
君命が無いからである。定・十三)今、臣は即座に鐘・鼓を打ち鳴らして
洛陽に向います。張譲らを捕えて、悪の汚れを清める事をお許し下さい。」
董卓が到着しないうちに、何進は宦官に倒された。
そこで、虎賁中郎将の袁術は南宮に火を放って、宦官を討とうとしたが、
中常侍の段珪らは少帝及び陳留王をさらって、夜道を小平津に逃走した。
董卓は遠方に火の手が上がったのを見て、兵を率いて急いで進み、未明に
洛陽の城西に到着し、少帝が北芒にいると聞いて奉迎に向かった。
帝は董卓が兵を率いて目の前に現れたのを見て、恐怖で泣き出した。(※
典略に曰く。帝は董卓の軍を見て泣き出した。随行していた臣たちは董卓
に「詔である。兵を退かれよ。」と言った。董卓は「公らは国の大臣で
ありながら、王室の乱れを正す事もできず、天子を都の外に彷徨わせて
おるではないか。どうして兵を退く事ができようか。」と言って、遂に
帝とともに入城した。)
董卓が話しかけても、帝は答える事ができず、陳留王と話をして、ようやく
この度の乱の事を知った。
董卓は王を聡明であると思い、また王が董太后に育てられ、自分が太后
の同族であると思っていた事から、廃立の心を抱いた。
初めに董卓が京師に入った際、人数は歩騎三千に過ぎなかった。
董卓は兵が少ない事を憂い、遠近の者が従わない事を恐れて、四・五日
おきに夜中に密かに軍を外に出して、城の近くに夜営させ、翌日の朝に
大いに旗を並べて、鼓を打ち鳴らしながら城内に戻った。
人々は西方の兵がまた来たと思い、洛陽中にこの事を知る者は無かった。
やがて、何進及び弟の何苗が率いていた軍隊は皆、董卓の下に身を寄せた。
董卓はまた、呂布に執金吾の丁原を殺させ、その軍を併せた。(※英雄記
に曰く。丁原は字を建陽という。ざっくばらんとした性格で、武勇があり、
弓の名手であった。使者の命を断る事は無く、急を告げる知らせを受け、
賊を追討する時は、即座に先頭に立った。)
董卓の兵力は大変強大になり、朝廷に圧力を掛け、司空の劉弘を詔により
辞めさせ、自らこれに代わった。(※魏志に曰く。劉弘は長く雨が降らない
事を理由に詔により免官された。漢官儀に曰く。劉弘は字を子高という。
安衆(南陽郡)の人である。)
董卓はそこで、廃立を合議しようとして、百官を大いに会した。
董卓は首を激しく奮わせて言った。「世の中で一番重要な物は天地であり、
それに次ぐのが君臣である。それが政治の行われる所以である。天子は
闇弱であり、宗廟を継いで、天下の主たるべきではない。今、伊尹・霍光
の故事に倣い、陳留王を立てようと思う。」
公卿以下、誰も敢えて答える者はいなかった。董卓はまた声を荒げて
言った。「昔、霍光が後継ぎを定めた際、田延年は剣に手を掛けた。敢えて
大議を阻む者は軍法に照らして処罰致す。」一座の者は震えおののいた。
(※前書に曰く。昭帝が崩御すると、霍光は昌邑王の劉賀を迎えて皇帝
に立てた。昌邑王は即位後二十七日の間に淫乱な所行を行い、霍光は丞相
以下を呼び集めて会議を行ったが、誰も敢えて発言する者はいなかった。
そこで、田延年(霍光の友人)は席を離れて霍光の前に進み出て、剣に手
を掛け、霍光に「群臣で後になって応じる者は、これを斬る事をお許し
下さい。」と言った。)
尚書の盧植はただ一人言った。「昔、太甲は王となった後、知徳に欠ける
行いがございました。(※太甲は湯王の孫で、太丁の子である。尚書に
曰く。太甲は王となった後、知徳に欠ける行いがあり、伊尹は桐宮に放逐
した。)また、昌邑王の罪過は千に余り、故に廃立の事が行われたので
ございます。(※昌邑王は合わせて千百二十七の悪事を告発された。)
しかし、今上陛下は年もお若くあらせられ、何の不徳の行いもござい
ません。先の例と比べる事はできません。」
董卓は大いに怒って座を立って退出した。
翌日また、董卓は群臣を崇徳殿の前殿に集め、遂に太后を脅して少帝を
廃する詔を下させて言った。「皇帝は喪にあって人子の心無く、威儀は
人君にふさわしくない。今、廃して弘農王とする。」
そして、陳留王を立てて(献)帝とした。
また、議会を開いて、何太后は永楽太后に迫って憂死させ、嫁姑の礼に
悖り、孝の道に背く物であるとして、永安宮に移して遂に弑殺した。(※
永楽太后は孝仁董皇后。霊帝の母である。左伝に曰く。嫁は姑を養う物で
ある。姑を蔑ろにして嫁を大事にするのは道に外れる事この上無い物で
ある。襄・二)
董卓は太尉に職を移って、前将軍の職務を行い、節・伝(割り符)・斧鉞
・虎賁を加えられ、[眉おおざと]侯に封じられた。
董卓はそこで、司徒の黄[王宛]・司空の楊彪とともに鉄[金質](刑具の一種)
を持って宮殿に参上して上書を行い、陳蕃・竇武及び諸々の党人を、追って
その無実を明らかにして、人望に沿うように願い出た。
ここにおいて、朝廷は陳蕃らの爵位を悉く旧に復し、子孫を抜擢して登用
した。
続いて董卓の位を進めて相国とし、入朝する際に小走りせず、殿上で剣を
帯びる事を許し、その母を封じて池陽君とし、令丞を置かせた。
この頃、洛中の貴人の親族の家は、互いに張り合って、金帛・財産を家中
に積んでいた。
董卓は兵士を放ってその屋敷に突入させ、婦女をさらって財物を奪い取り、
これを捜牢といった。(※大事にしまってある物を皆探し出して奪い取った
為である。)人は恐怖で心を狂わせ、一日中不安に苛まれた。
何太后の埋葬の為に文陵(霊帝の陵)を開いた際、董卓は副葬されていた
珍奇な財物を悉く持ち出し、公主と姦通して、(霊帝の)宮人を寝取った。
また、残虐な刑を用いて妄りに人を罰し、僅かに睨んだだけの者でも必ず
殺された。
群臣は皆、朝廷の内外において自らの身を守る事ができなかった。
董卓はかつて軍を率いて陽城(潁川郡)に赴いた事があった。
その時、人々が社の前に集まっていたが、董卓はこれを悉く斬殺させ、
自ら車に乗って婦女を載せ、斬った首を車の轅にくくりつけて凱歌を
歌いながら帰還した。
また、五銖銭を潰して、改めて小銭を鋳造し、洛陽及び長安の銅人・
鐘<虚八>(しょうきょ)・飛廉・銅馬の類を悉く取り払って鋳造に
充てた。(※鐘<虚八>は銅でこれを作る。故に賈山の上書に「石を
繋いで(型を作り)鐘<虚八>を鋳る。」とあるのである。前書の音義
に曰く。<虚八>は鹿の頭と龍の体を持つ神獣である。説文によれば、
鐘や鼓を載せる台には猛獣の飾りを付けるという。また、武帝は飛廉館
を置いた。音義によれば、飛廉は神禽(鳥)で、鹿のような頭を持ち、
杯の足のような角を生やし、蛇のような尾には豹のような模様がある。
明帝の永平五年(62)に長安から飛廉及び銅馬を迎え取り、上西門外
に置いて平楽館と名付けた。銅馬は東門京によって作られ、金馬門外に
移された物である。張[王番]の漢紀に曰く。董卓はまた太史の霊台
(物見台)及び永安侯の銅蘭楯(刀掛け)も奪い取った。)
故に貨幣の価値は下がり、物価は高騰し、穀一石が数万銭にもなった。
また、その銭は輪郭(縁取り?)も無く、文字も刻まれていなかったので、
使用には不向きであった。(※魏志に曰く。董卓が鋳造した小銭は大きさ
が五分で、文字も刻まれず、内側にも外側にも輪郭が無く、鑢で磨かれる
事も無かった。)
時の人は、秦の始皇帝が臨[シ兆]で長人(巨人)を見て銅人を鋳造したの
を思い浮かべた。(※三輔旧事に曰く。秦王は王に立って二十六年、初めて
統一して皇帝を称した時、臨[シ兆]に大人が現れた。身長は五丈、足跡は
六尺もあった。始皇帝はこれを抑えようとして、銅人を作って阿房宮の
前に立たせた。漢は長楽宮の中の大夏殿の前にこれを移した。史記に曰く。
始皇帝は天下の兵器を鋳潰して十二体の金人を作った。)
董卓は臨[シ兆]人であった。今これを壊したのは、作ると壊すの違いが
あるとは言え、その凶暴さは相通じる物があったからである。
董卓は普段から天下の人々と同じく、宦官が忠良な人物を誅殺している事
を憂えていた事で知られていた。
董卓は政権に就くと無道を行いはしたが、なおその性質を抑えて心を制
する所があり、士人を抜擢して登用した。
董卓は吏部尚書の漢陽の周[王必]、侍中の汝南の伍瓊(魏志は城門校尉と
する。)、尚書の鄭公業、長史の何[禺頁]らを任用し、処士の荀爽を司空
とし、党錮の禁でその身を汚されていた陳紀・韓融らの者たちを皆列卿と
した。(※英雄記は周[王必]を周に作る。周は字は仲遠といい、武威
の人である。伍瓊は字を徳瑜といい、汝南の人である。)
日の目を見なかった多くの者たちが顕職に就けられ、尚書の韓馥は冀州
刺史、侍中の劉岱は<六兄>州刺史、陳留の孔[イ由]は豫州刺史、潁川の
張咨は南陽太守とされたが、董卓が親愛していた者たちはともに顕職に
就けられず、ただ将校に留められた。(※英雄記に曰く。韓馥は字を文節
という。潁川の人である。呉志に曰く。劉岱は字を公山という。東莱牟平
の人である。英雄記に曰く。孔[イ由]は字を公緒という。九州春秋では
名を冑という。鄭公業は名を泰という。他の者は皆名を記している。
これは范曄の父の諱の泰を避けている為である。献帝春秋では張咨を張資
に作る。後に孫堅の為に殺された。)