粛宗孝章皇帝は諱を[火旦](たつ)という。顕宗(明帝)の第五子である。 (※謚法に曰く。温克(寛大で忍耐強い事)令儀(立派な威儀)を章と いう。伏侯の古今注に曰く。[火旦]の字は顕かという意味である。)母は 賈貴人である。 永平三年(60)、皇太子に立てられた。若くしてェ容で儒術を好み、顕宗 はその才能を認めて重んじた。 十八年(75)八月壬子に皇帝の位に即いた。年十九であった。 皇后を尊んで皇太后と号した。 壬戌に孝明皇帝を顕節陵に埋葬した。(※帝王紀に曰く。顕節陵は三百歩 四方、高さ八丈である。その地は元の富寿亭で、西北に洛陽を去る事三十七 里である。) 冬十月丁未に天下に大赦を行った。民に爵位を各々二級、父の後を継ぐ者 及び孝悌・力田には各々三級、逃散して戸籍の無い者及び流民の定住を 望む者には各々一級、爵位が公乗を越える者は子もしくは同腹の兄弟に 伝える事を許し、寡夫・寡婦・孤児・身寄りの無い老人・重病人・貧困 で自ら生活できない者には粟各々三斛を賜った。 (帝は)詔を下して言った。「朕は幼少の身で王侯の上に依り、万機(天子 の政治)を統べ治め、その中庸を失する事を懼れ、兢兢業業(危ぶみ恐れる 様)とし、為す所を知らずにいる。深く守文の主を思うに、必ず師傅の官を 立てる物である。詩にも『誤らず忘れず、旧章に従い拠る。』というでは ないか。(※詩の大雅の言葉である。鄭玄の注に曰く。成王の令徳は誤らず 忘れず、皆旧典の文章を従い用いた。(旧典は)周公の礼法の事である。) 行太尉事の節郷侯の趙熹は三代に渡って位に在り、国家の元老であり、司空 の牟融は職を掌る事六年、骨折り勤めて怠り無かった。(※趙熹は光武帝の 時に太尉となり、明帝の時に太尉の事務を代行し、故に三代に渡って位に 在るというのである。)そこで、趙熹を太傅、牟融を太尉とし、ともに録尚書 事とする。(※武帝は初めて張子孺に尚書の事務を総攬させた。録尚書事は これより始まる。)『三事大夫は朝晩敢えてせず。』という。これは小雅の 傷む所である。(※詩の雨無正の文である。三事は三公である。鄭玄の注に 曰く。幽王は外に在り、三公及び諸侯の随行した者は皆既に君臣の礼を 礼をとらず、敢えて朝晩王の機嫌を伺う事をしなかった。)『予違わば汝 助けよ。汝面従する事無かれ。』という。(※尚書の益稷の文である。) これは股肱(補佐の臣)の正義である。群后(諸侯)・百僚は努めてその職 を思い、各々忠誠を尽くし、以て不逮(及ばぬ点)を助けよ。四方に戒告し、 朕の意に適うようにせよ。」 十一月戊戌に蜀郡太守の第五倫を司空とした。 征西将軍の耿秉に詔を下し、酒泉に駐屯させた。(※前書の音義に曰く。 城下に泉があり、その水の味は酒のようであり、それにより酒泉と名付 けた。) 酒泉太守の段彭を遣わし、戊己校尉の耿恭を救援させた。 甲辰晦日に日食が起こった。そこで、正殿を避け、兵を休め、五日の間政治 を執らなかった。有司に詔を下し、各々封事(意見書)を奉らせた。 十二月癸巳に有司が上奏して言った。「孝明皇帝は聖徳淳茂(厚く盛んな事) で、骨折り努めて日は傾き、身は浣衣(洗った着物)を身に着け、食事に 珍味を添える事もございませんでした。恩沢は四方に至り、遠方の人間も 王化を慕い、[イ焦]僥・[イ・]耳(たんじ)は塞門を叩いて自ら至りました。 (※[イ焦]僥・[イ・]耳の解は明帝紀に見える。)遠方を伐って勝ち、西域 に道を開き、威霊は広く世を被い、不服を思う者はおりませんでした。庶民 を以て憂いとし、天下を以て楽しみとされませんでした。三雍(礼を講ずる 所。明堂・辟雍・霊台)の教えを備え、自ら養老の礼を行われました。登歌 (堂上に登り歌う歌)を作り、予楽(音楽の名。前漢の大楽。)を正し、 広く六芸を極めて昼夜にお休みになりませんでした。(※周礼に保氏(周の 官。王の悪を諫め、国子の教育を掌る。)は六芸を教え、一を礼、二を楽、 三を射、四を馭、五を書、六を数という。前書の芸文志は礼・楽・春秋・ 易・詩・書を六芸とする。)聡明で淵塞(徳深く充実している事)なる事は、 明らかに図讖(予言書)に現れておりました。(※河図に曰く。図は代より 出で、九天は開明し、受け用いて嗣ぎ興り、十代にして光る。また括地象に 曰く。十代の礼楽は文雅並び出る。 明帝の事をいう。)至徳の感化する所 は神明に通じ、功烈は四海を光り輝かせ、仁風は千年にも行き渡る物でござ いましたが、深く謙譲を持し、自らを不徳と称され、寝廟(霊廟)を建てる 事も無く、地を掃いて祭らせ、日祀の法を除き、送終(埋葬・服喪)の礼を 省き、遂に位牌を光烈皇后(光武帝の陰皇后)の更衣(別殿)の別室に納め させられました。(※春秋外伝に曰く。日に祭り、月に祀り、時(四季) に享(まつ)る。祖禰(祖父の廟)は日に祭り、高曾(高・曾祖父)は月に 祀り、三[示兆](先祖の廟)は四季に享る。(刊誤は、古より二[示兆]は あるが三[示兆]は無く、明らかに三の字は誤りであるとする。) 今、 ここに日祀の法を除き、時月の祭に従ったのである。)天下はこれを聞き、 悲しみ傷まぬ者はおりませんでした。陛下は至孝烝烝(盛んな様)とし、 聖徳を奉じて従われました。臣らは、更衣は中門の外に在り、所を違えて おり、廟を尊んで顕宗とし、その四時と[示帝][示合](ていこう=王者が 祖先の霊を合祭する大祭)は光武の堂に行い、間祀(四時の正祭の間に 行う祭り)は悉く更衣に戻し、ともに武徳の舞を進め、孝文皇帝が高廟 を[示合]祭(先祖・親族を太祖の廟に合わせて祭る事)した故事の通りに するのが宜しいかと愚考致します。(※続漢書にく。五年に再び殷祭を 行い、三年に一度[示合]、五年に一度[示帝]を行う。父を昭として南に 向け、子を穆として北に向ける。[示帝]は夏四月、[示合]は冬十月に行う。 [示帝]は明らかにする事をいい、昭穆・尊卑の義を明らかにする。[示合] は合わせる事をいう。冬十月に五穀が成る。故に骨肉を合わせて祖廟に 飲食し、これを殷祭という。四時の正祭の他、五月に嘗麦・三伏(夏至の 後の三つの庚の日)と立秋の嘗粢・盛酎、十月の嘗稲などがあり、これを 間祀といい、各々更衣の殿で行う。(刊誤は、漢の制度では立秋に嘗粢を 行い、八月に飲酎を行うのであり、盛の字は誤りであり、八月の飲酎と すべきであるとする。)更衣は正処ではない。園内に寝、便殿がある。 寝は陵上の正殿である。便殿は寝の側の別殿であり、これが更衣である。 前書に曰く。高廟に武徳・文始・五行の舞を奏した。)」 (帝は)詔を下し、「良し。」と言った。 この歳、牛疫(牛の疫病)が発生した。京師及び三州が大旱魃に見舞われ、 詔を下し、<亠兌>・豫・徐州の田租・芻稿(馬草)を徴収せず、現在ある 穀物を貧民に施した。