謝該伝



謝該は字を文儀という。南陽章陵の人である。春秋左氏伝によく通じ、
世の名儒とされ、門徒は数百から千人に上った。
建安年間、河東の人楽詳が左氏伝の疑問で解釈が滞っていた数十の事柄
を問うたが、謝該は全てこれを解き明かしてやり、謝氏釈と名付け、世
に行われた。(※魏略に曰く。楽詳は字を文載という。若くして学問を
好んだ。謝該が左氏伝に詳しいと聞き、南陽から歩いて許に赴き、謝該
に従って諸々の疑問・難解な箇所の要点を質問した。今(唐代)の左氏
楽氏問七十二事は楽詳が著した物である。(何[火卓]の校本により楽氏
の文字を補った。)杜畿は太守となると、楽詳を文学祭酒に任命した。
黄初年間に召されて博士となった。時に博士は十余人いたが、その学問
の多くは偏狭で、またその全般に通じていなかったが、ただ楽詳だけは
五業(五経)を皆教授した。中には難解な箇所を質問して理解しない者
もいたが、楽詳は怒る様子も無く、杖で地に絵を描き、譬えを引いたり、
類似の事柄を引用し、寝食を忘れる程であった。)
(朝廷に)仕えて公車司馬令となり、父母が老年である事から、病に
託けて官を去った。
郷里に帰ろうとしたが、荊州の道が断たれており、帰る事ができなかった。
少府の孔融が上書してこれを推薦して言った。「臣は、高祖が創業される
と、韓信・彭越といった武将が暴乱を征討し、陵賈・叔孫通が進んで
詩書を説き、光武帝が中興されると、呉漢・耿<合廾>が命を補佐し、
范升・衛宏が旧業を脩述し、故によく文武の官がともに用いられ、長久
の計が成ったと聞いております。(※陵賈は太中大夫となり、折々に
御前に進み出て説き、詩書を褒め称え、十二篇の書を著し、一篇を上奏
する度に、高祖は未だかつて褒め称えぬ事は無かった。叔孫通は高祖の
為に礼儀を制定した。ともに前書に見える。)陛下は聖徳欽明(聖人の
徳を備え、恭しく物事に明らかな事)にあらせられ、二祖に同符(一致
する事)され、労謙(骨折り謙る事)して厄運に遭われました。(服喪
の)三年が経過して人々は喜んでおります。(※史記に曰く。高宗
(殷王)は諒闇(服喪の期間、または服喪の為の建物)に当たり、三年
の間物を言わず、言葉を発すると人々は喜んだ。 時に霊帝が崩御した
後であり、献帝は諒闇に居たが、初めて喪服を脱いだのである。)今、
尚父は鷹揚(鷹が飛び立つように武勇を振るう事)し、方叔(宣王の賢臣)
は翰飛(高く飛ぶ事)し、王師は電鷙(稲妻のように早く撃つ事)し、
群凶は敗れて滅び、初めて弓を弓袋にしまい、鼓を伏せる時が参りました。
(※尚父は太公望の事である。今、太平の世となり、弓を弓袋にしまい、
鼓を伏せ、征伐を行う事は無くなった。故に賢人を待つのである。)
宜しく名儒を得、礼の道を統べ司らせるべきでございます。密かに
見ますに、元公車司馬令の謝該は、曾参(孔子の弟子)・史魚(衛の
忠臣)の淑性(善良な性質)を備え、卜商・言偃(ともに孔子の弟子)
の文学を兼ね、広く諸芸に通じ、古今に広く目を通し、物が来ればそれ
に応え、事が至っても惑わず、清廉潔白で立派な行いがあり、道訓を
敦くスぶ者でございます。これを遠近に求めても、同等の人間は少ない
でしょう。巨骨が呉に出、隼が陳の宮廷に至り、黄熊が寝殿に入り、
亥に二つの頭があったような事などは、知識の広い者でなければ、その
本源を知る事は無いでしょう。(※史記に曰く。呉は越を伐ち、会稽を
破壊し、一節が車を満たす程の骨を得た。呉は使者を遣わし、仲尼に
最も骨が大きい物は何かと尋ねさせた。仲尼は『禹は神々を会稽山に
集め、防風氏が遅れて来ると、これを殺して晒し者としましたが、その
骨は一つで車を満たす程でした。これが最も大きいでしょう。』と答えた。
史記に曰く。隼が陳の宮廷に降りて来て死に、[木苦](くこ)の矢がこれ
を貫いていた。その鏃は石で、矢の長さは一尺一咫(咫(し)は八寸)
であった。陳の<泯日>公(びんこう)が仲尼にこれを尋ねさせると、
仲尼は『隼は遠方から来ます。これは粛慎の矢です。昔、武王は商に
勝つと、九夷百蛮に道を通じ、各々その土地の産物を貢物として来貢
させました。そこで、粛慎は[木苦]の矢・石の鏃を貢ぎ、その長さは
一尺一咫でした。先王は大姫(長女)にこれを分け与え、虞の胡公に
嫁がせ、陳の地に封じられました。』と答えた。試しにその矢を古い
蔵に探させると、果たして見つかった。左伝に曰く。鄭の子産が晋を
訪れた。晋侯は病んでいた。韓宣子は「我が君は病気で寝込み、三ヶ月
になります。近頃、黄熊が寝殿の門に入る夢を見られました。何の霊
でしょうか。」と尋ねた。子産は『昔、堯が鯀(こん)を羽山で殺すと、
その魂は黄熊に化し、羽淵に入りました。これを夏の郊で祭り、三代
(夏・殷・周)がこれを祀りました。晋は盟主であられるのに、あるい
はこれを祀っておられないのではないでしょうか。』と答えた。韓子が
夏郊を祀ると、晋侯は病が癒えた。昭・七 左伝に曰く。晋の悼公夫人
が杞の城を作る者たちに食事を振る舞った。絳県の年寄りで子が無い者
がおり、行って食事に加わった。役人がその年を疑い、年を数えさせる
と、年寄りは『臣は小人であり、年を数える事はできません。臣が生ま
れた年は、正月は甲子が朔日、四百四十五甲子が周りました。季の甲子
は今日で三分の一でございます。』役人は走って朝廷に尋ねた。師曠は
『魯の叔仲恵伯が郤成子と承匡で会合した年だ。七十三年前である。』
と言った。史趙は『亥という字は頭が二、身が六だ。二を下ろして身の
側につけてみると、その日数になっている。』と言った。士文伯は
『それならば、二万六千六百と六旬だ。』(亥の古字の形による。)
と言った。襄・三十)また、雋不疑は北闕の前を静め、夏侯勝の常陰の
験を弁じ、その後に朝士はますます儒術を重んじました。(※前書に
曰く。昭帝の時、成方遂という男子が北闕に参上し、自ら衛太子と称した。
やって来た丞相・御史・二千石者は、誰一人敢えて発言しようとしな
かった。京兆尹の雋不疑は後から到着し、従吏を叱咤してこれを捕縛
させた。ある者は『まだ真偽の程が分からないのでは。』と言ったが、
雋不疑は『諸君はどうして衛太子を案じるのか。昔、[萠リ][耳帰]
(かいかい=衛の太子)が命に背いて出奔した際、これを拒んで国に
入れなかったが、春秋はこれを是としている。衛太子は先帝に罪を受け、
逃げてすぐに死なず、今頃来て自ら参上したとしても、これは罪人で
ある。』と言い、遂に詔獄に送った。天子と大将軍の霍光はこれを
聞いて嘉し、『公卿・大臣はまさに経術を用い、大義に明らかである
べきである。』と言った。前書に曰く。昌邑王が帝位を継いで立つと、
度々外出した。夏侯勝は乗輿の車前に面して諫め、『天が久しく曇り
ながら雨が降らないのは、臣下に上に対して陰謀を企む者があるから
でございます。陛下はどうして出かけようとなさいますのか。』と
言った。王は怒り、夏侯勝は妖言を為す者であると言い、縛って役人
に引き渡した。役人は霍光にこれを報告した。この時、霍光は張子孺
(張安世)と王を廃そうと謀っており、霍光は讓子孺が事を漏らしたと
思って責めたが、張子孺は実際は漏らしていなかった。夏侯勝を召して
問うと、夏侯勝は「(尚書の)洪範に(その言葉が)ございます。」
と答えた。霍光・張子孺はこれによりますます儒術の士を重んじた。)
今、謝該は実に卓然と前人の列に跡を等しくしております。近頃、父母
の老病により官を棄て帰ろうとしましたが、道は険しく塞がり、たどり
着く術がございませんでした。妄りに良才に抱樸(素朴さを保持して
物欲に煩わされない事)して世を逃がれ、山河を越え、荊楚に沈ませる
のは、所謂『往って反らず。』という物でございます。(※韓詩外伝に
曰く。山林の士は名の為に生き、故に行けば戻る事はできない。朝廷の
士は禄の為に生き、故に入れば出る事ができない。)後日に更めて楽を
贈って由余を釣り、像を刻んで傅説(ふえつ=殷王武丁が夢に見て、その
像を作って探し求めた賢臣。)を求めても、煩わしくはないでしょうか。
(※史記に曰く。由余はその先祖が晋人で亡命して戎の地に入り、晋の
言葉に通じていた。戎王は繆公が賢人であると聞き、由余に秦を視察
させた。秦の繆公は宮室や蓄えられた宝物を示すと、由余は『鬼にこれ
を作らせれば、神を疲れさせ、人にこれを作らせれば、また人を苦しめ
ます。』と言った。繆公は退朝するとと、内史の廖に『孤は鄰国に聖人
があると、敵国の憂いとなると聞いている。今、由余は寡人にとって害
である。どうした物だろうか。』と問うた。廖は『戎王は僻地におり、
未だ中国の音楽を聞いた事がありません。君には試みに女楽を送り、
その志を奪われ、また由余を求め、君臣の間に隙を生じさせ、留めて
帰さずに、その期限を違われますように。戎王はこれを怪しみ、必ず
由余を疑いましょう。君臣に隙が生じれば、手立てを考える余地がござ
います。』と答えた。そこで、内史の廖に女楽十六人を戎王に贈らせ、
戎王はこれを受け喜んだ。由余は度々諫めたが聞かず、繆公はまた人を
遣わし、隙を窺って由余を求めさせた。由余は遂に去って秦に降った。)
臣はその所在を尋ね求め、謝該を召して帰らせるべきであると愚考致し
ます。楚人は孫卿(荀子)が国を去るのを止め、漢朝は匡衡を平原に
追い、儒を尊び学問を貴び、賢人を失う事を惜しんだのでございます。
(※劉向の孫卿子の後序に孫卿の事を論じて曰く。卿は名を況という。
趙の人である。楚の相春申君は蘭陵県令とした。ある者が春申君に『湯は
七十里、文王は百里の地を以てしました。(天下の覇者となりました。)
孫卿は賢者であり、今これに百里の地を与えれば、楚は危くはないで
しょうか。』と言った。春申君は(孫卿を)辞めさせた。孫卿は楚を
去って趙に行った。後にある客人が春申君に『伊尹が夏を去って殷に
入ると、殷は王となって夏は亡び、管仲が魯を去って斉に入ると、魯は
弱くなり、斉は強くなりました。故に賢者のある所、君は尊く国は安らか
なのでございます。今、孫卿は天下の賢人であり、その去る国は安らか
でいられましょうか。』と言った。春申君は人を遣わして孫卿を招き、
帰って来るとまた蘭陵県令とした。前書に曰く。匡衡は平原の文学と
なり、長安県令の楊興がこれを車騎将軍の史高に推薦し、『匡衡は才知
余りあり、経学は類い希であり、ただ朝廷につてが無い為、辞令に従い
遠方におります。将軍が試みに召して幕府に置き、これを朝廷に薦めら
れるなら、必ずや国器となりましょう。』と言った。史高はその言葉を
尤もであるとし、匡衡を召して議曹史とし、帝に推薦すると、帝は郎中
とした。)」
書が上奏されると、(帝は)詔を下して(謝該を)召還し、議郎に任命
した。(謝該は)寿命により死んだ。

建武年間、鄭興・陳元が春秋左氏の学を伝えた。時に尚書令の韓[音欠]
が上疏し、左氏伝の為に博士を立てようとしたが、范升は韓[音欠]とこの
事を争い、未だ決着が付かなかった。陳元が上書して左氏伝を訴えると、
遂に魏郡の李封を左氏博士とした。後に諸儒の道理に暗く頑固な者は度々
朝廷でこれを争った。李封が死ぬと、光武帝は衆議に違う事を憚り、また
これを任命しなかった。