曹節伝



曹節は字を漢豊という。南陽新野の人である。
先祖は魏郡に住んでおり、代々役人または二千石(太守)であった。
順帝の初に西園の騎兵から小黄門となった。
桓帝の時に中常侍・奉車都尉に昇進した。
建寧元年(168)に節を持って、中黄門の虎賁・羽林千人を率いて北に
霊帝を迎え、車に陪乗して宮殿に入った。
帝が即位するに及んで策詔を定めた功績により、六百戸の長安郷侯に封じ
られた。
時に竇太后が臨朝していた。太后の父の大将軍の竇武は太傅の陳蕃と宦官
を誅殺する事を謀った。
曹節は長楽五官史の朱[王禹]・従官史の共普・張亮・中黄門の王尊・長楽
謁者の騰是ら十七人とともに詔を偽って、長楽食監の王甫を黄門令とし、
兵を率いて竇武・陳蕃らを誅殺させた。
その事は既に陳蕃・竇武の伝に詳しい。
曹節は長楽衛尉に職を移り、育陽侯に封じられ、食邑を加増され、三千戸
とされた。王甫は中常侍に昇進した。黄門令の職はそのままであった。
朱[王禹]は千五百戸の都郷侯に封じられ、共普・張亮ら五人は各々三百戸
の食邑を与えられ、残りの十一人は皆関内侯とされ、年に租二千斛を俸禄
として与えられた。
これより先、朱[王禹]らは密かに明堂(祭殿)の中で皇天に祈って言った。
「竇氏は無道でございます。皇天よ、どうか皇帝がこれを誅する事を助け、
必ずや事を成さしめ、天下を安んじさせて下さい。」
竇武らを誅殺した後、(帝は)詔を下して太官に賽具を支給させ、朱[王禹]
に銭五千万を賜った。(※賽は先祖の福に返礼する事である。)その他の者
は各々差のある銭が下賜された。朱[王禹]は後に改めて華容侯に封じられた。
二年(169)に曹節が病に苦しむと、帝は詔を下して曹節を車騎将軍と
した。
しばらくして病が癒えると、曹節は印綬を返上して職を退き、また中常侍
となり、特進の位を授けられ、秩禄は中二千石となった。
やがて大長秋に昇進した。
熹平元年(172)に竇太后が崩御すると、何者かが朱雀門に「天下は大い
に乱れている。曹節・王甫は太后を幽閉して殺し、中常侍の侯覧は多くの
党人を殺した。公卿は皆禄盗人で、忠言を吐く者もいない。」と書き付けた。
帝は司隷校尉の劉猛に詔を下し、犯人を追捕させ、十日を期限とした。
劉猛はその批判の言葉が当を得ている事から急いで逮捕しようとはせず、
一月以上経ってもその書き付けをした者の名を挙げる事ができなかった。
劉猛は罪に問われ、諫議大夫に左遷された。そこで、御史中丞の段[ヒ火頁]
(だんけい)を劉猛と交替させた。四度追捕を行ったところ、太学の学生で
獄に繋がれた者は千余人に及んだ。
曹節らは劉猛を恨んで止まず、段ケイに他の事に託けて劉猛を弾劾させ、
左校で労役に服させる事としたが、多くの朝臣が弁護したので、刑を免じて
また公車でこれを召し寄せた。
曹節は遂に王甫らと、桓帝の弟の渤海王の劉[小里]が謀反を企んだと誣告
して、これを誅殺させるまでに至った。
功によって侯に封じられた者は十二人、王甫は冠軍侯に封じられ、曹節も
また食邑四千六百戸を加増され、前と併せて七千六百戸となった。
その父兄子弟は皆、公卿・列校・牧守・令長となり天下に広く満ちた。
曹節の弟の曹破石は越騎校尉となった。越騎営の五百の妻は美貌の持ち主
であった。(※韋昭の弁釈名に曰く。五百の字は元々伍(伯)で、伍は当、
伯は道である。これに当道(要路)の案内をさせ、道中の障害物を除去
させるのである。)曹破石がしつこくこれを求めたので、五百は敢えて
その意に背けなかった。妻は自分の頑なに行く事を承知せず、遂に自殺
した。その横暴さと無道ぶりは多くがこのような物であった。
光和二年(179)、司隷校尉の陽球が王甫及び子の長楽少府の王萌・
沛国相の王吉を誅殺するように上奏を行い、王甫らは皆獄中で死んだ。
時に頻りに災害・異変があった。郎中の梁人の審忠は朱[王禹]らの罪悪が
天を怒らせているのだと考え、上書して言った。「臣は、国を治めるには
賢人を得て安泰を得、賢人を失えば危険に晒されると聞いております。
故に舜には五人の賢臣(※禹・稷・契・咎陶・伯益)がいて天下は治まり、
湯王が伊尹を登用すると、不仁の者は遠ざかりました。(※論語の文で
ある。)陛下が即位された当初、まだ万機(天子の職務)を行う事が
お出来にならないので、太后様(※桓思皇后)は陛下の養育にお心を
注いで仮に摂政となられ、元中常侍の蘇康・管覇は即座に誅殺されました。
(※竇皇后伝に蘇康・管覇を誅殺したとある。(実際は無い。))太傅
の陳蕃と大将軍の竇武はその仲間を取り調べて朝廷を清めんとしておりました。
朱[王禹]は悪事が発覚して禍がその身に及ぶ事を知り、遂に逆謀を企てて
王室を乱し、宮中を踏み荒らして璽綬を奪い取り、陛下を脅迫して群臣を
集め、骨肉の母子の恩を引き裂き、遂に陳蕃・竇武及び尹勲を誅殺致しました。
そして、ともに県・郷を割いて自分たちで互いに封賞を行いました。その
父子兄弟は尊貴な身分となって繁栄を誇り、親交のある者は州郡の役人と
なり、ある者は九卿に昇り、ある者は三公の位に就きましたが、禄が重く
高い地位にある事の責任を考えず、家門の繁栄を求め、財貨を多く蓄え、
屋敷を立派にして、村や町に軒を連ねております。また、御水で密かに
魚を釣り、車馬・服玩(日常の器物)は皇室に擬しております。(※宮殿
の庭に引いた水を御水という。)並み居る公卿・役人は口を閉ざして声を
飲み込み、敢えて発言する者も無く、州郡の牧守は勢いのある者の意に従い、
人材の招聘・推薦は賢を棄てて愚を選んでおります。蝗の発生や、夷ども
の害はこの為に起きているのでございます。天の心は怒りに満ち、十余年
もそれを蓄積させて参りました。故に近年頻りに上には日食が起こり、
下には地震が起こり、人主を戒めて悟らせ、無道な者たちを誅滅させよう
としているのでございます。昔、高宗は雉[句隹]の変によって中興の功を
遂げる事ができました。(※殷の高宗が祭りを行っている時に雉が現れ、
鼎の耳に止まって鳴いた。高宗は徳を修めたので、殷は中興したと尚書に
見える。)近くは神祇(天と地の神)が陛下を教え悟らせ、激しい怒りを
発させました。故に王甫父子は即座に首を斬られました。道行く男女に善
を称えぬ者とて無く、父母の仇を晴らしたかの様でございました。しかし、
真に不思議なのは、陛下がまた賊臣の輩をお許しになり、悉くに滅ぼされ
なかった事でございます。(※曹節らを引き続き任用した事をいう。)昔、
秦は趙高を信用してその国を危うくし、呉は刑人を使って身は禍に遭い
ました。(※左伝に曰く。呉は越を伐って捕虜を得、<門昏>(宦者また
は足切りの刑に処せられた者)として舟を管理させた。呉子餘祭が舟を
見に行った際、刑人は刀でこれを殺した。襄・二十九)また、虞公は宝を
抱いて馬を曳き、魯の昭公は乾侯の下に逐われ、ともに宮之奇・子家駒を
用いなかった為に滅亡の屈辱に遭いました。(※公羊伝に曰く。晋の大夫
の荀息は屈産乗(名馬)と垂棘の璧を請い、虞に道を借りて[爪寸虎]
(かく)を伐とうとした。宮之奇が諫めたが、虞公は聞かなかった。後に
晋は虞を滅ぼすと、虞公は宝を抱き、馬を曳いてやって来た。荀息はこれ
を見て、『私の謀り事はどうでしたかな。』と言った。僖・二 また曰く。
魯の昭公は季氏を殺そうとして子家駒に告げて言った。『季氏は無道を
行い、公室の真似をして久しい。私はこれを殺したいのだが、どうで
あろうか。』子家駒は『諸侯は天子の真似をし、大夫は諸侯の真似をして
久しゅうございます。我が君だけが多くの屈辱を受けているのではござい
ません。』と諫めたが、昭公はその言葉に従わず、遂に季氏を除こうと
した。昭公は乾侯の下に亡命する羽目になり、遂に死んだ。昭・二十五)
今、不忍の恩(深い温情)によって族滅の罪をお許しになりましても、
邪悪な企みが一度行われたなら、後悔されてもどうして及びましょうか。
臣は郎となって十五年、皆自分の耳目で見聞きして参りましたが、朱[王禹]
の行った事は皇天が決して許さぬ物でございます。願わくば、陛下には
僅かの間お耳をお傾け頂き、臣の表により事を省みられ、醜悪な者ども
を一掃して、天の怒りにお答えになりますように。朱[王禹]ともども
お調べ頂いて、臣の言葉通りでない物がございましたなら、どうか臣を
釜煎りとして誅殺の上、妻子を揃って徒刑として、妄言の道を絶たれます
ように。」
章(上奏文)はそのままとされ、返答は無かった。
曹節は遂に尚書令の職務を行うようになった。
四年(181)、曹節は死に、車騎将軍を追贈された。
その後、朱[王禹]もまた病で死んだが、皆養子に封国を伝えた。
審忠は字を公誠という。宦官が誅殺された後に公府に召された。