曹世叔妻伝



扶風の曹世叔(曹寿)の妻は同郡の班彪の娘で、名を昭、字を恵班、一名を
姫という。(集解は沈欽韓の説を引き、陸亀蒙の小名録は班昭は字を恵姫と
いうとし、文選の李善注に引く范曄後漢書は恵姫に作るとし、班一名の三字
は余計であるとする。)
博学で優れた才能があった。
曹世叔は早くに死んだが、節義を備えた折り目正しい人物であった。
兄の班固は漢書を著したが、その八表及び天文志は未だ作り終えずに死んだ。
和帝は班昭に詔を下し、東観の臧書閣に入り、後を継いで完成させた。
帝は度々召し寄せて宮殿に入れ、皇后・諸貴人をこれに師事させ、(班昭は)
大家と呼ばれた。
珍しい物が献上される度に、(帝は)大家に詔を下して賦・頌を作らせた。
ケ太后が臨朝するに及んで、政治に参与した。
宮中に出入りした功労により特に子の曹成を関内侯に封じ、官は斉国相に
至った。
時に漢書は世に出たばかりで、未だよく理解できない者が多かった。
同郡の馬融は閣下に伏し(班昭に頭を下げ)、班昭から読み方を伝授された。
その後、また馬融の兄の馬続に詔を下し、班昭の後を継いでこれ(漢書)を
完成させた。(※馬融の兄の馬続の事は馬援伝に見える。)
永初年間、太后の兄の大将軍のケ隲は母の喪により上書して辞職を願い出た
が、太后は許したくないと思い、班昭に意見を求めた。
班昭はそこで上疏して言った。「伏して考えますに、皇太后陛下は身は
麗しい盛徳を備え、唐虞(堯舜)の如き政治を盛んにされ、四門を開いて
四方の声を聞き、狂夫の妄言にまで耳を傾け、芻蕘(賤しい身分の者)の
意見までお聞き入れになっておられます。(※前書に曰く。狂夫の言葉も
明主はこれを採択する。詩に曰く。『先人は芻蕘にも謀るという。』)
妾昭は愚かで老骨の身でありながら、盛明の時代に巡り合わせ、敢えて
肝胆を披露し、万分の一の力とならずにはいられません。妾は、謙讓の
気風は徳としてこれより大きな物は無く、故に典墳(古典)は褒め称え、
神祇(天地の神)は福を下すと聞いております。(※易の謙の卦に曰く。
謙遜は尊く輝かしい。また曰く。鬼神は満てる者に災いし、謙る者に幸い
する。左伝に曰く。謙讓は徳の基である。文・元)昔、伯夷・叔斉が国を
去ると、天下はその高潔さに感服し、太伯が[分おおざと](ひん)を去る
と、孔子は三譲(論語泰伯篇)と称えました。(※孟子に曰く。伯夷の
気風を聞けば、貪欲な人間でも廉潔となり、気の弱い人間でも志を立てる。
 周の太王が病気になると、太伯は呉に薬草を採りに行く事に託け、弟
の季歴に位を譲ろうとした。時に太王は周の地におり、ここにヒンと
するのは、おそらくその本いた地を言ったのであろう。)(謙譲の心は)
令徳を光り輝かせ、後世に名を揚げる物でございます。論語に『よく
礼儀と謙譲を以て国を治めれば、政治を行うのに何の問題があろう。』
と申します。(※論語の孔子の言葉である。里仁篇)これに基づいて
述べるならば、推譲(他人を推して自ら譲る事)の誠は深遠な境地で
あると申せましょう。今、四舅は深く忠孝を守り、身を引いて自ら退こう
と致しましたが、(陛下は)辺境がまだ静まらない事から、拒んでお許し
になりませんでした。(※四舅はケ隲・ケ[小里]・ケ弘・ケ<門昌>で
ある。)もし、後に僅かな過ちがあった場合、実に推譲の誉れが二度と
得られなくなる事を恐れます。ご下問が及んだ事により、敢えて死を
冒して愚見を述べさせて頂きました。妾の言葉が采るに足らない事は
存じておりますが、虫けらの如き小さな赤心を示すばかりでございます。」
太后はこれに従い、辞職を許した。
ここにおいて、ケ隲らは各々郷里の屋敷に帰った。

(班昭は)女誡七篇を作り、内訓(女性の教育)に有用であった。

その文章に曰く。
私は愚昧で明敏な質ではありませんでしたが、それでも先君(班彪)の余寵
(教育の一端)を蒙り、母師の教育を受けました。(※母は傅母(乳母)、
師は女師(女の師保)である。左伝に曰く。宋の伯姫が死んだ。姆(乳母)
を待って(火にまかれた)からである。襄・三十)
年十四で曹氏に嫁ぎ、今は四十余年が過ぎました。常に戦々兢々として、
家を追い出される屈辱を受けて父母の恥を増し、内外に迷惑を及ぼす事を
懼れていました。朝晩心を砕き、苦労を口にせず、ようやく今になって、
(屈辱を)免れる術を知ったに過ぎません。私は愚かで頑な性質で、教育も
不十分であった為、常に子穀が清朝に辱めを受ける事を恐れていました。
(※三輔決録に曰く。斉国相の子穀は頗る当時の習俗に従った。注に曰く。
曹成は曹寿の子である。司徒掾が孝廉に挙げ、長垣県長となった。母は太后
の師であり、召されて中散大夫に任命された。 子穀は曹成の字である。)
分不相応に聖恩を加えられ、妄りに金紫を賜ったのは、実に私の望む所で
はありませんでした。(※漢官儀に曰く。二千石は金印紫綬を佩びる。)男
ならば自分の事は自分で決める事ができ、私はこれ以上は心配しません。
ただ娘たちが人に嫁ぐに当たり、訓戒が行き届かず、婦人の礼を知らず、
他家に嫁いで恥をかき、一族の恥辱となる事が心配です。私は今長らく病を
患い、いつまで生きられるか分からないのに、お前たちがこのような有様
では、気苦労が絶えません。先頃、女誡七章を作りました。娘たちよ。各々
一通を写しなさい。これが汝らの役に立ち、身の助けとなるように。さあ、
お行きなさい。(原文は去矣)しっかり努めるのですよ。

卑弱第一
古は女子を生んで三日、これを床下に寝かせ、瓦[土專]を弄ばせ、斎告
(潔斎して先祖に報告する事)した。(※詩の小雅に曰く。女子を生めば、
地に寝かせ、これに瓦を弄ばせる。毛萇の注に曰く。瓦は糸巻きである。
箋に曰く。これを地に寝かせるのはこれを卑しんでの事である。糸巻きを
弄ばせるのは、機織りを習わせる為である。)
これを床下に寝かせたのは、その卑弱(か弱い事)で人に遜る事が務めで
ある事を明らかにした物である。
これに瓦[土專]を弄ばせたのは、その労働に慣れ仕事を守る事が務めである
事を明らかにした物である。
先君に斎告したのは、まさに祭祀を継ぐ事を務めとすべき事を明らかにした
物である。
この三つはおそらく女人の常道であり、礼法に定められた教えである。
人に遜り恭しくし、人を先にして己を後にし、善い事をしても名を知られず、
悪名が立っても言い訳せず、恥を忍んで泥を被り、常に懼れ畏まった様子
でいる事、これを卑弱で人に遜るという。
遅く寝て早くに起き、朝夜を厭わず、家庭内の仕事に努め、難易を問わず、
仕事は必ず成し遂げ、仕上がりはきちんとしている事、これを仕事を守る
という。
容儀を正し操を守って夫に仕え、静かに自らの分を守り、ふざけて笑う事
を好まず、酒食を清めて祖宗に供える事、これを祭祀を継ぐという。(※
左伝に曰く。粢を清めて豊かに盛る。桓・六)
この三つを備えながら、良い評判が立たず、退けられて恥をかいた者は
いない。
また、この三つを欠けば、どのような評判も立たず、遠からず退けられて
恥をかくであろう。

夫婦第二
夫婦の道は陰陽に並び、神明に通じ達し、実に天地の大義であり、人倫の
要である。これにより礼は男女の交わりを貴び、詩は関雎(夫婦和合)の
義を明らかにした。(※礼記に曰く。婚礼はまさに二姓の好みを通じ、
上は宗廟に仕え、下は後世に後を継がせる物である。故に君子はこれを
重んじたのである。 詩に曰く。関雎は賢女を得て君子に娶せる事を
楽しむ。)
これにより述べるならば、(夫婦の道は)重んじなくてはならないと
言えよう。
夫が賢明でなければ、妻を御する事はできず、婦が賢明でなければ、夫に
仕える事はできない。
夫が妻を御せなければ、威儀が失われ、婦が夫に仕えなければ、義理が
廃れる。
この二事を比べるとその作用は同じである。
今の君子を察するに、ただ妻を御さなくてはならない、威儀を整えなくて
はならないという事を知るばかりである。
故にその男子に教えるのに、書伝(典籍)を調べるばかりで、夫とは仕え
なくてはならぬ物であり、礼義を欠いてはならない事を知らないのである。
ただ男子にだけ教え、女子に教えなければ、また色々な事で道理に暗く
なるのである。
礼に、八歳で初めてこれに書を教え、十五で学問に至るとある。(※礼記
に曰く。八歳で小学に入る。)
ただ女子だけがこれに従う必要が無いと言えようか。

敬慎第三
陰陽は性質を異にし、男女は行いを異にする。陽は剛を徳とし、陰は柔を
用とする。男は強を貴とし、女は弱を美とする。
故に田舎の諺に「男を生むなら狼の如く、なお弱くはないかと恐れ、女を
生むなら鼠の如く、なお気が荒くはないかと恐れる。」と言う。
然からば、身を修めるには敬に及ぶ物は無く、気の強さを抑えるには順に
及ぶ物は無い。故に敬順の道は婦人の大礼であるというのである。
敬は他でもなく、持久の事である。順は他でもなく、寛裕の事である。
持久とは足るを知る事、寛裕は下の者に遜る事である。
夫婦の交わりは終生離れない物である。
閨房の事に慣れ親しむと、遂に狎れを生じる。狎れが生じれば、言葉が分
を越える。言葉が分を越えれば、必ず放恣が生じる。放恣が生じれば、夫
を侮る心が生じる。これは足る事を知らないからである。
物事には曲直があり、言葉には是非がある。正しい事は争わずにはいられず、
間違った事は訴えずにはいられない。争いや訴えが起これば、憤怒の心が
生じる。これは下に遜る事を尊ばないからである。
夫を侮り節度が無い時は叱責され、憤怒が止まぬ時は鞭で殴打される。
そもそも夫婦たる者は義を以て親しみ、恩を以て睦み合う物である。
鞭打ちが行われたら、そこに何の義があろう。叱責が行われたら、そこに
何の恩があろう。
恩義がともに廃れれば、夫婦はばらばらになってしまうのである。

婦行第四
女には四つの行いがある。一は婦徳、二は婦言、三は婦容、四は婦功で
ある。(※四行は礼記に見える。)
婦徳とは必ずしも才知が特別優れているという事ではなく、婦言とは
必ずしも弁舌が巧みな事ではなく、婦容とは必ずしも顔が美しい事では
なく、婦功とは必ずしも人より手先が器用な事ではない。
清らかで静か、操正しくしとやかで、節を守り容儀を正し、己の行いに
恥を知り、挙措は礼に適っている事、これを婦徳という。
言葉を選んで説き、悪い言葉を口にせず、言うべき時に初めて発言し、
人に厭がられない事、これを婦言という。
汚れを洗い落とし、身なりを清潔にし、定期的に沐浴し、体を汚れた
ままにしない事、これを婦容という。
機織りに専心し、ふざけ笑う事を好まず、酒食を清め、賓客に進める事、
これを婦功という。
この四つは女人の大徳であり、欠くべからざる物である。
これを行う事は甚だ容易く、ただそれを心掛けるだけである。
古人に「仁はどうして遠い物だろうか。私が仁を望めば、仁はここに
至る。」という言葉があある。これと同じである。(※論語述而篇の
孔子の言葉である。)

専心第五
礼に、夫が再度妻を娶る道は記されているが、妻が再度夫に嫁ぐという文
は無い。(※儀礼に曰く。父が生きている時は、母の為の服喪をどうして
一年とするのか。最も尊い者が生きている時は、敢えて服喪を伸ばさない
のである。父は必ず三年の喪に服して後に(後妻を)娶る。子の志を達する
為である。)
故に夫は天であると言うのである。(※儀礼に曰く。夫は妻の天である。
婦人が二夫に仕えないのは、天を二つに割る事はできないという事と
同じである。)天から逃げる事はできず、夫から離れる事はできないから
である。
行いが神祇の心に違えば、天はこれを罰し、行いが礼儀に違えば夫はこれ
を大切にしなくなる。
故に女憲に「一人(の夫)の心を得る事、これを永畢(一生添い遂げる)
という。一人(の夫)の心を失う事、これを永訖(一生独り身で終える)
という。」と言うのである。
これにより述べるならば、夫の心を得なくてはならないのである。
必要なのは、媚びへつらい適当に親しむという事ではない。本より夫に
心を専らにし、容儀を正す事が第一である。
礼儀を守り潔白であり、道端の声を聴かず、横目で物を見る事無く、外に
出ては艶やか過ぎず、家の中でも身なりに気を遣い、他人と群集まる事
無く、家の前を見張る事が無い。これを心を専らにして容儀を正すという。
もし、挙措が軽薄で、落ち着き無く周りを眺めたり聞き耳を立て、家の中
では髪を乱して身なりを整えず、外に出ては艶めかしく媚を売り、言葉は
道に外れ、見るべきでない物を見る。これを心を専らにして容儀を正す事
ができないという。

曲従第六
一人の心を得る事、これを永畢といい、一人の心を失う事、これを永訖と
いう。これは人に志を定めてこれに心を専らにさせようとした物である。
舅姑の心はどうして失って良かろうか。
物には恩を以て自ら離れる事があり、また義を以て自ら破る事もある。
夫が愛していると言っても、舅姑が駄目だと言う場合があるが、これは
所謂義を以て自ら破る者である。
然からば、舅姑の心を得るにはどうすれば良いのか。本より意を曲げて
従う以上の道は無い。
姑が間違いだと言っても実は正しい場合、当然その命に従うべきであり、
姑が正しいと言っても実は間違っている場合も、なおその命に従うべき
である。是非について逆らい、曲直を争ってはならない。
これが所謂意を曲げて従うという事である。
故に女憲に「妻が影や木霊のように従順であるならば、どうして褒めず
にいられようか。」というのである。

和叔妹第七
妻が夫の心を得るには、舅姑が自分を愛してくれる事が必要である。
舅姑が自分を愛してくれるには、義妹が自分を褒めてくれる事が必要で
ある。
これにより述べるならば、自分の毀誉褒貶は、偏に義妹に懸かっており、
義妹の心を失ってはならないのである
(世間の妻は)皆、義妹の心を失ってはならない事を知らず、これと
和して親しむ事ができないが、何と道理に暗い事だろうか。
聖人でもない限り、過ちを犯さぬ者は少ない。
故に顔子はよく改める事を尊び、仲尼はその二度と同じ過ちを犯さぬ事
を嘉したが、これは婦人においては尚更必要な事である。(※論語雍也
篇に曰く。孔子は「顔回は同じ過ちを二度繰り返さない。」と言った。
易繋辞下に曰く。顔氏の子はほとんど聖人の域に達している。自分に不善
があればそれに気付かぬ事は無く、気付けば二度とそれを繰り返さない。)
賢女の行いがあり、聡明な性質を備えていても、なおこれを体得するのは
難しい。
これ故に家人が和合すれば譏りは止み、夫の家族と妻の心が離れれば譏り
が生まれる。これは必然の事である。
易に「二人が心を同じくすれば、その鋭さは金を断つ。同心の言葉は蘭
のように香しい。」というが、この事をいうのである。(※易の繋辞上
の言葉である。金は堅い物である。もし、二人が心を同じくすれば、その
鋭さは金をも断ち、二人が心を同じくすれば、その美しい友情は蘭のよう
であるという事である。古人は通常、気を臭と言った。)
兄嫁と義妹は同じ年頃であるが、名分は(兄嫁が)尊く、恩は薄くても
義として親族である。
もし、しとやかで謙虚かつ従順な妻ならば、よく義に従い情誼を篤くし、
恩を厚くして後ろ盾とし、美点を顕彰して過ちを隠してもらえる。
そうなれば、舅姑は慈しみ、夫は褒め称え、評判は隣村にまで届き、誉れ
は父母にまで及ぶ。
もし、愚かな妻ならば、兄嫁であるから自分が上だと考え、義妹に対して
夫の寵愛を笠に着て驕慢に振る舞う。
驕慢に振る舞ったなら、どうして仲睦まじくする事ができよう。恩義が
両者の間に無ければ、何の誉れが得られよう。
これにより美点は隠され過ちは広められ、姑は怒り夫は不機嫌になり、
誹謗は内外に流れ、恥辱はその身に集まり、進んでは父母の恥となり、
退いては夫の迷惑となる。
これは栄辱と名誉・不名誉の基である。慎しまなくて良いだろうか。
義妹の心を得るには、本より謙虚で従順な事を第一とする。
謙譲は徳の根本、従順は妻の行うべき所である。(※謙譲は徳の根本と
は易の繋辞下の言葉である。)
この二つを備えれば十分に義妹と和合できる。詩に「あちらにいて憎ま
れる事が無ければ、こちらにいても嫌われる事はない。」と云う。(※
韓詩の周頌の言葉である。)
それはこの事をいうのである。

馬融はこれに感心し、妻女にこれを習わせた。
班昭の義妹の曹豊生もまた才知があり、書を著してこれを論駁したが、
その言葉には見るべき物があった。
班昭は年七十余で死んだ。皇太后は素服(白い喪服)を身に着けて哀悼
し、使者に葬儀を監督させた。
班昭が著した賦・頌・銘・誄・問・注・哀辞・書・論・上疏・遺令は
合わせて十六篇であった。
子の妻の丁氏がこれを撰集し、また大家讃を作った。