左慈伝



左慈は字を元放という。廬江の人である。若くから不思議な道術があった。
かつて司空の曹操の座に在った際、曹操はくつろいだ様子で賓客たちを
振り返り、「今日の高会(盛況な酒宴)には珍味佳肴が大体揃っているが、
ただ松江の鱸(すずき)だけが足りない。(※松江は今(唐代)の蘇州の
東南にあり、源流は太湖に発する。神仙伝に曰く。松江は良い鱸を産し、
味は他所とは異なる。)」と言った。
左慈は下座から「それなら手に入ります。」と答え、銅盤を求めて水を
貯め、竹竿を手に取り、針に餌をつけて盤中に釣り糸を垂れると、一匹の
鱸を釣り上げた。
曹操は大いに手を叩いて笑い、座の一同は皆驚いた。
曹操が「一匹では座の全員に行き渡らない。もっと手に入るか。」と言う
と、左慈は更めて針に餌をつけて沈め、しばらくしてまた釣り上げた。
鱸はともに長さ三尺余りあり、とびきり活きが良かった。(校補は柳従辰の
説を引き、三尺は三寸の誤りではないかとする。松江の四腮鱸は長さは五寸
に満たず、李時珍の本草もまた長さ数寸といい、長さ三尺余はあり得ず、
銅盆に水を注いで三尺余の大魚を釣り上げるのもおかしい。)
曹操は目の前でこれを鱠にさせ、座の一同に振る舞った。
曹操がまた「魚は手に入ったが、蜀の生薑(しょうが)が無いのが残念
だ。」と言うと、左慈は「それも手に入ります。」と言った。
曹操は近くに取れる所があるのではないかと疑い、「儂は前に人を遣わし、
蜀に行き錦を買わせたが、通ったら使者に二端多く買うように告げよ。」
と言った。
しばらく語り合っていると、左慈は薑を手に入れて帰り、曹操の使者にも
会って命を伝えたと言った。後に曹操の使者が蜀から戻り、錦の増えた数
及びその日時を問い質したところ、ぴたりと一致していた。
後に曹操が近郊に出掛けた際、士大夫の従う者は百人ばかりであった。
左慈は酒一升、干し肉一斤を携え、手ずから酌をして回り、百官は皆十分
に飲み食いした。曹操はこれを怪しみ、そのからくりを尋ねさせ、酒屋を
調べて回ると、その酒・干し肉が悉く無くなっていた。
曹操は不快を懐き、宴席の席上でこれを捕らえて殺そうとしたが、左慈は
後ずさりして壁の中に入り、忽然と消え、所在が知れなかった。
市でその姿を見た者があり、またこれを捕らえようとすると、市の人間が
皆左慈と同じ姿に形を変え、誰が本物なのか分からなくなった。
後に人が陽城山の山頂で左慈に会ったと言うと、またこれを追跡させたが、
遂に走って羊の群に入った。曹操は捕らえられぬと知り、人に羊の中に
入り、「殺したりはしない。本当は貴方の術を試したかっただけだ。」と
告げさせた。すると、一匹の年老いた牡羊が両膝を曲げて人のように立ち
上がり、「どうして急に許に行くのか。」と言った。人が競ってこの牡羊
に殺到すると、数百匹の羊が皆牡羊になり、ともに膝を曲げて立ち上がり、
「どうして急に許に行くのか。」と言い、遂にどれが本物か分からなく
なった。(※魏の文帝の典論に郤倹らの事を論じて曰く。潁川の郤倹は
よく辟穀(穀断ち)を行い、伏苓(ふくりょう=薬草、松の根に寄生する
茸の類。)を食し、甘陵の甘始はよく行気(呼吸術)を行う事で知られ、
老いても若々しい顔をしており、廬江の左慈は補導の術に通じ、ともに
軍吏となった。初め、郤倹の至る所、伏苓の値は数倍に暴騰した。議郎の
安平の李覃はその辟穀を学び、伏苓を食して冷水を飲み、冷水の中で下痢
になり、ほとんど命を落とす寸前となった。後に甘始が来ると、人々は
皆、鴟視狼顧(ししろうこ 鴟視は首を上げて上を見る事、狼顧は首だけ
曲げて後ろを見る事で、ともに道家の健康法)し、吐納(口から気を吐き、
鼻から新しい気を吸う道家の健康法)の呼吸を行った。軍祭酒の弘農の董芬
はこれをやり過ぎ、気が塞がって通じず、しばらくしてやっと蘇生した。
左慈が至ると、人々はまた競ってその補導の術を学んだ。宦官の厳峻まで
もが左慈の下に赴いて教えを受けたが、宦官がその術を学んでも実に何の
意味も無かった。人々が評判を追う事は、このような状態にまでなったの
である。)