西域伝



武帝の時、西域は内属し、三十六国があった。漢はその為に使者・校尉
を置いてこれを統治させた。(※前書に曰く。李広利が大宛を征討して
以来、渠犁(きょり)に屯田し、使者を置いて営田(人を集めて農業に
従事させる事)を監督させ、外国への使者として用いた。)
宣帝は改めて都護とした。(※宣帝の時、鄭吉は侍郎の職に在って渠犁
に屯田し、兵を発して車師を攻め、(朝廷は)衛司馬に職を移し、
[善おおざと]善以西の南道を守らせた。その後、匈奴の日逐王が鄭吉に
投降し、漢は鄭吉が前に車師を破り、後に日逐王を投降させた事から、
遂に併せて車師以西の北道を守らせ、都護と号した。都護の設置は鄭吉
より始まったのである。)
元帝はまた戊己二校尉を置き、車師の前王の領土に屯田させた。(※
漢官儀に曰く。戊己は中央にあり、四方を鎮め安んじ、また水路を
開いて種を播き、厭勝(呪いをして相手を打ち負かす事)を行う。故
に戊己と称す。 車師には前王・後王の国がある。)
哀・平の間、自ら互いに分割して五十五国となった。
王莽が帝位を奪うと、侯王を降格し、これにより西域は恨んで反乱を
起こし、遂に中国と断絶し、ともにまた匈奴に従属した。(※前書に
曰く。王莽は即位すると、匈奴単于の印璽を改めて章とし、和親は遂に
断絶し、西域もまた瓦解した。)
匈奴の税の取り立ては重く厳しく、諸国はその命令に堪えられず、建武
年間に皆使者を遣わして内属を求め、都護を置く事を願った。
光武帝は天下が平定されたばかりで、まだ国外の事に手が回らず、結局
これを許さなかった。
匈奴が衰え弱ると、莎車王賢は諸国を討ち滅ぼし、賢の死後は遂にまた
互いに攻撃し合った。
小宛・精絶・戎廬・且末はゼン善に併合された。渠勒・皮山は于<門眞>
に統治され、皆その地を有した。郁立・単桓・孤胡・烏貪<此言>離
(うたんしり)は車師に滅ぼされた。後にそれらの国々はともに復興
された。(孤胡は原本は孤湖に作る。)
永平年間、北虜(北匈奴)が諸国を脅し、ともに河西の郡県を寇略し、
城門は昼間も閉ざされた。
十六年(73)、明帝は将帥に命じ、北方に匈奴を征討させ、伊吾盧の
地を取り、宜禾都尉を置いて屯田させ、遂に西域と通じ、于<門眞>の
諸国は皆、子を遣わして入侍させた。
西域は国交が途絶えてから、六十五年後にまた通じた。
翌年、初めて都護・戊己校尉を置いた。
明帝が崩御すると、焉耆・亀茲が都護の陳睦を攻め殺して悉くその兵を
滅ぼし、匈奴・車師は戊己校尉を包囲した。(集解は恵棟の説を引き、
袁宏の漢紀は陳睦を陳穆に作るとする。)
建初元年(76)の春、酒泉太守の段彭が大いに車師を交河城に破った。
章帝は中国が夷狄に力を注いで疲弊する事を望まず、戊己校尉を迎えに
やり帰還させ、また都護を派遣しなかった。
二年(77)、また伊吾の屯田を止め、匈奴はこれにより兵を遣わして
伊吾の地を守らせた。
時に軍司馬の班超は于<門眞>に留まり、諸国を安んじ和らげた。
和帝の永元元年(89)に至り、大将軍の竇憲が大いに匈奴を破った。
二年(90)、竇憲はこれを機に副校尉の閻槃を遣わし、二千余騎を
率いて伊吾を急襲させ、これを破った。(集解は恵棟の説を引き、和帝
紀は閻槃を閻磐、竇憲伝は閻盤に作るとする。通鑑は閻磐に作り、
閻<龍石>に作る本もある。)
三年(91)、班超は遂に西域を平定し、そこで班超を都護とし、亀茲
に拠らせた。
また戊己校尉を置き、兵五百人を統率させ、車師前部の高昌壁(塁壁の
名)に拠らせ、また戊部候を置き、車師後部の候城(物見櫓)に拠らせ、
(それらは)互いに離れる事五百里であった。
六年(94)、班超はまた焉耆を撃ち破り、ここにおいて五十余国は悉く
人質を入朝させ内属した。
条支・安息の諸国、海辺に至るまで四万里の地方が、皆通訳を重ねて貢物
を献じた。
九年(97)、班超は掾の甘英を遣わし、(甘英は)西海の果てに臨んで
帰還した。(※続漢書は甘英を甘菟に作る。)皆前世に人が行き着いた事
の無く、山経の詳らかにせぬ所であり、余す所無くその風土を明らかにし、
その珍奇な事柄を伝えた。
ここにおいて、遠国の蒙奇・兜勒(とうろく)はともに来朝して帰服し、
使者を遣わして貢物を献じた。